2020年12月29日

岡崎城のなごり

つわものどもが夢の跡
徳川家康『始まりの城』を訪ねました

<岡崎城>
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復元された岡崎城の天守閣

■龍頭山の砦■りゅうとうざん
15世紀半ば、龍頭山と呼ばれる山に守護代が砦を築いたことが城の始まりと考えられています。この拠点は後に地元三河の豪族である松平氏の支配するところとなり、分家内の争いを経て、徳川家康の祖父・松平清康の城となりました。河岸段丘の先端に位置する砦は、このときに本格的な城へと改修されたようです。

<龍城神社>たつきじんじゃ
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城内に鎮座する神社です。三河国の守護代だった西郷頼嗣(よりつぐ)が砦を築いた際、龍が出現し、井戸から水を噴出させて天に昇ったという伝説が残されています。岡崎城の別名は龍城。

<井戸>
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こちらは冒頭の天守閣近くの井戸。昇龍伝説にちなんで「龍の井」と呼ばれています。

<青海掘>
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本丸北側の堀。本丸下の持仏堂曲輪との間の堀です。名の由来は築城者・西郷頼嗣の法名「青海入道」です。

<天守との高低差>
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この高低差だけでも充分攻め手には厄介です

<内堀>
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当初は現在の本丸を中心とした砦。家康の祖父により二の丸から三の丸付近まで拡張されました。


■徳川家康誕生の城■
岡崎城は徳川家康誕生の城でもあります。

<東照公産湯の井戸>
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1542年、竹千代(家康の幼名)誕生。こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したと伝わります。

<竹千代通り>
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城主の子として生を受けた竹千代ですが、この当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。家康の父・松平広忠は、駿河の今川家を頼る道を選びました。

<竹千代と家康像>
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少年時代と晩年の家康

家康は8歳から19歳まで、今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受け元信、次に元康と名乗りました。その間、父広忠は家臣の謀反により殺害され、岡崎城には今川家の家臣が城代として入りました。つまり岡崎は今川家の支配下となったわけですね。この状態は今川家当主の義元が、織田信長に討たれるまで続きます(1560年:桶狭間の戦い)。

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桶狭間の戦い後、今川家の家臣は岡崎から撤退。家康(この時点ではまだ松平元康)は岡崎城に戻ります。

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今川からの独立を果たした家康は、1566年に徳川と改名しました。


■徳川信康が城主に■
織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなりました。そこで長男の信康に岡崎城を任せ、自らは浜松へ移ります(1570年)。信康は現在では『松平信康』と表記されますが、この時点ではあくまで徳川信康です。いうまでもなく、『信』は信長より与えられた偏諱ですね。

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ただ、信康は織田信長から武田家との内通を疑われてしまいます。家康は自分の長男に切腹を命じることになりました(1579年)。城主が去った岡崎城は、重臣・石川数正が城代を務めました。


■豊臣支配下の岡崎城■
豊臣秀吉率いる大軍が関東の覇者となっていた小田原北条氏を滅ぼすと(1590年)、家康はその関東へ移るよう命じられます。既に三河・駿河・遠江に加えて甲斐・信濃にも勢力を拡大していた徳川家康。どのような思いだったのでしょう。

<家康像>
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岡崎城には、秀吉の家臣・田中吉政が入ることになりました。

<城内の説明板>
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説明板によれば『徳川家康が1590年に関東に移封するまではの岡崎城は、空堀と土塁を巧みに配置した堅固な「土造りの城」でした』とのこと。そして『田中吉政』が城主になって以降、天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます』とあります。改修は江戸時代も続くようですが、近代城郭への生まれれ変わりは豊臣秀吉支配の時に始まるようです。

<縄張り図>
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説明板の縄張り図を拡大。下方向が北です。城のすぐ南を菅生川(乙川)が流れ、小高い丘を本丸とし、二の丸・三の丸が北東に配置された梯郭式の山城(平山城)です。他にも小規模な曲輪が適所に配置され、念入りな縄張りとなっています。これは江戸期の完成形と思われますが、この基盤は豊臣支配下の時に築かれていたと思われます。

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城主となった田中吉政は、もともとの縄張りを引き継いで更に強化したわけですね

この田中吉政ですが、秀吉の甥で関白にもなった秀次の宿老として活躍しています。秀次失脚の際に多くの家臣が連座の罪に問われて処分されるなか、吉政は逆に加増されて10万石の大名となっています(当初5万7,400石)。秀吉から格別の信頼を得ていたということでしょう。

<天守閣>
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当時の天守閣は失われましたが、復元天守がその雰囲気を今に伝えてくれています。3層5階建てのこの天守閣は1959年に建てられました。中は歴史資料館になっています。

<天守台>
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石垣はむかしのものを修復して維持しているようです。

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岡崎城は田中吉政10万石の居城となり、近世城郭へと生まれ変わりました。豊臣方として、関東へ移った徳川家康を牽制する役割を担ったのでしょう

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城内の石垣もこの時代に設けられたと思われます

城のみならず、田中吉政は城下町の整備にも注力しました。東海道は城下町の真ん中を通るように変更され、街道に睨みをきかす重要拠点と位置づけられました。「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道が整備されたのもこの頃です。更に城下町を囲む堀を巡らせ、いわゆる『総構え』としました。豊臣の資金力あってのことですかね?(想像です)いずれにせよ、のちの時代にも活かされる基盤がこの時代に築かれました。


■江戸時代■
関ヶ原の戦い後の徳川政権下では、譜代大名が岡崎城の城主を務めています。時を刻む毎に神格化されていった徳川家康が誕生した場所です。家康が17年居城とした浜松城がそうであるように、特別な城であり続けました。石高と関係なく、岡崎城の城主となることは名誉なことだったでしょう。明治の廃城令により廃城となった時は、本多家が城主を務めていました。家督を継いだ本多忠敬(ただあつ)により、旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。

<本多忠勝像>ほんだ ただかつ
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本多家のご先祖様です。家康に仕え『戦国最強の武将』と呼ばれた英雄ですね。本丸跡の龍城神社には、徳川家康とともに本田忠勝も祀られています。


■岡崎公園■
以下は公園内のご紹介です。テーマパーク的な要素もありながら、確かな遺構が残る魅力的な公園となっています。

<模擬大手門>
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公園の正面玄関です。右手前は国道1号線。岡崎城はもっと広かったので大手門の位置はここではないようですが、訪問者をその気にさせる入口です。

<能楽堂>
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<徳川家康公銅像周辺>
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<松平元康騎馬像>
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こんなユニークなのもあります

<本丸の龍城神社周辺>
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<天守閣周辺>
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<天守付近の堀>
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<太鼓門跡>
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二の丸から天守近くの曲輪(持仏堂曲輪)へ通じるところにあった城門跡

<石垣と武者走り>
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向こう側は深い堀となっています

見どころは多いのですがこのへんにして、最後にちょっと外側をご紹介します

<菅生曲輪>すごうくるわ
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本丸から見て東側の比較的低い区画。現在は広場となっていますが、かつては武家屋敷が建ち並んでいました

<坂谷門跡>
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本丸から見て西側の区画(坂谷曲輪)にあった門の跡です。左手はいまでこそ川ですが、かつての外堀です


■つわものどもが夢の跡■
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江戸時代には「神君出生の城」として神聖化された岡崎城ですが、それ以前の歴史は生々しく壮絶です。それぞれの時代のつわもの達の思惑が幾重にも連なって今に至っているわけですね。

深い歴史が刻まれた岡崎城は日本100名城に選定されています。

------■ 岡崎城 ■------
別 名:龍城
築城主:西郷稠頼(守護代)
築城年:詳細不明(1455年頃)
改修者:松平清康(家康祖父)
    田中吉政・本多忠利
城 主:西郷氏・松平氏
    田中氏・本多氏・水野氏
廃城年:1873年(明治6)
現 況:岡崎公園
[愛知県岡崎市康生町]
タグ:日本100名城
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岡崎城の堀のなごり(伊賀川)

今回は堀だった川の話です。舞台は『徳川家康生誕の城』として知られる岡崎城。現在は岡崎公園として整備されています。天守閣や堀跡などを見学後、公園西側の川沿いをのんびり歩いていたら、こんな光景と出会いました。

<川沿いの石垣>
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あんなところにも石垣かぁ

<伊賀川>
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川沿いです。この川を天然の堀として利用していたのだろう

急に決めた訪問であまり予習していなかったので、最初はそう思いました。しかし設置された説明板を見て、ここがかなり重要な場所であることが分かりました。

<説明板と石垣>
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板谷曲輪?川に面した区画の入口ということか。この石垣は城門のなごりということらしい

<説明板拡大>
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えっ?川の向こう側まで繋がってたの?

△が説明板の位置です。現在の川を跨いで外側まで石垣が続き、半円形の馬出しが設けられていたようです。

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石垣はここで終わりではなく、先まで続いていたわけか

後で分かったのですが、この伊賀川は城の堀跡に付け替えられた人口の川でした。伊賀川そのものは昔からあったのですが、洪水を防ぐため明治以降に改修工事がなされ、岡崎城西側の堀を通って南下する流路に変更されたそうです。

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堤防の向こうに馬出しがあったわけか

堀の役割を果たした川ではなく、川の役割を果たすようになった堀ということですね。つまり堀のなごりです。遺構が豊富な岡崎城跡ですが、他とはちょっと味わいの異なる景色でした。

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■訪問:岡崎城板谷門跡■
(岡崎公園:伊賀川沿い)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月22日

岡崎公園(岡崎城跡)の本多平八郎忠勝像

<本多忠勝像>ほんだ ただかつ
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岡崎公園内の本多忠勝像です。通称は平八郎。徳川四天王のひとりです。鹿角兜と甲冑を身にまとい、長い槍を携えています。

本多平八郎忠勝はここ岡崎の生まれ。幼い頃から家康に仕え、幾多の戦場で巧を立て、家康にとってなくてはならない存在となりました。

<蜻蛉切>どんぼぎり
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忠勝が所持するこの槍は蜻蛉切と呼ばれています。穂先に止まったトンボが真っ二つになったという逸話がその名の由来。これを振り回す本多忠勝は、初陣から大小57回の戦に出向きながら、生涯無傷であったそうです。家康の戦いは決して楽なものばかりではありません。大敗もありました。それでいながら無傷!このあたりが『戦国最強の武将』と呼ばれる所以かもしれません。

豊臣秀吉は
日本第一、古今独歩の勇士
織田信長は
花も実も兼ね備えた武将
と褒めたたえました

<岡崎城>
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ここ岡崎城は家康生誕の地であり、当時の三河の最重要拠点です。この地に銅像が建つのですから、家康からの信頼厚い忠勝が城を任されたこともあったのでしょう?と現地では思いましたが、ちょっと違っていました。

明治維新を迎えた時、岡崎藩は本多家(本多平八郎家)が治めていました。最後の藩主となった本多忠直の死後、家督を継いだ忠敬(ただあつ)により旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。

<岡崎公園>
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本多平八郎忠勝の銅像は、本多家の先祖を称える意味でこの地に設置されたわけですね

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敵味方から賞賛された猛将です

■訪問:本多平八郎忠勝公像
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月13日

岡崎公園(岡崎城跡)の徳川家康しかみ像

本日放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(第36回「訣別」)では、上洛途上にある甲斐の武田信玄が、浜松の徳川家康に攻めかかっている様子が充分すぎるほど伝わってきました。が、家康は登場せず!戦況の報告のみ!残念です!この時の武田信玄対徳川家康の戦い(三方ヶ原の戦い)は、武田軍が約2万7千に対し徳川軍は約7千。織田信長からの援軍3千を含めても徳川方は約1万でした。数で勝る武田軍ですが、家康の居城・浜松城への城攻めは行わず、三方原の台地へおびき出してから野戦で完膚なきまでに徳川・織田の連合軍をたたきました。家康は多くの優秀な家臣を失うこととなり、本人も命からがら浜松へ逃げ帰りました。

<顰像>しかみぞう
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家康が逃げ延びた先は浜松城ですが、こちらの画像は家康生誕の地である岡崎城(岡崎公園)にて撮影したものです。有名な肖像画『徳川家康三方ヶ原戦役画像』をモチーフに造られた家康像が展示されています。

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惨敗した直後の姿です。この時31歳。家康は無謀な戦い方をして大敗した自分の姿を描かせ、その後の教訓としたとされています。家臣の犠牲を代償に生き延びた敗軍の将です。この失敗を生涯忘れず、のちに天下人と成るわけですね

『三方ヶ原の戦い』は、三河一向一揆伊賀越えと並んで徳川家康の三大危機とされています。『麒麟がくる』の主役はあくまで明智光秀ですが、これまで脇役としての家康も要所要所で上手く描かれてきました。新たに登場した武田信玄の迫力も良かったので、ちょっとだけ、ホントにちょっとで良いので、その武田に挑み、負けるとはいえ奮闘する家康及び家臣団の姿が見たかったですね。

ということで
期待して『麒麟がくる』を観ていたが、家康の出番はなかったというお話でした。こんな思いつきの投稿にお付き合い頂き、ありがとうございます。

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岡崎公園には立派な家康像もあります

■画像撮影:
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月12日

東照公産湯の井戸(岡崎城跡)

徳川家康生誕の城として知られる岡崎城跡にて、こんな光景と出会いました。

<東照公産湯の井戸>
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<説明板>
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東照公つまり徳川家康が誕生した時、こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したということですね。場所は岡崎公園の西側。伊賀川沿いの低いところにあります。

<井戸の水>
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産湯の井戸は柵で囲まれたうえに閉じられていますが、こちらの水場で井戸から汲み上げた水に触れることができます。開運スポットとしても人気です。のちに大出世して天下泰平の世を築く人物ですからね。

その当時、家康の父は岡崎城主。そして家康本人は城内で誕生した。

どうしても恵まれた環境を想像してしまいますね。ただ、当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。周辺の大きな勢力に翻弄され続け、その道のりは苦難の連続でした。

<竹千代像>
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家康の幼名は竹千代。幼少を過ごした城であることから、公園内では『竹千代』の名をよく目にします。

三河には松平家の分家が多数存在しますが、家康は安祥松平家の出。安祥城を居城としていましたが、家康の祖父の代に岡崎松平家と対立し、結果として岡崎城を手中に収め(途中は大幅に省略)、拠点を岡崎に移しました。この時点で三河をほぼ支配するに至りながらも、祖父は家臣に暗殺されてしまい、その勢力は徐々に衰えます。家康の父は受け継いだ地を守るべく、駿河の今川義元の助けを得る道を選びました。

駿河の今川家

言わずと知れた巨大な勢力ですね。この存在を抜きに若き日の家康は語れません。8歳から19歳の間、家康は今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受けて元信と名乗り、続いて元康と名乗りました。松平元康です。

<岡崎城>
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父の死後、家康の生誕地であるここ岡崎城は今川家に接収されてしまいます。その支配は、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるまで続きました。今川義元死後の混乱に乗じて、家康は岡崎城への帰還を果たし、今川家から独立します。そして元康の「元」の字も返上しました。

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家康がここ岡崎城で生を受けてから19年後のことです

■訪問:東照公産湯の井戸
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年11月30日

浜松城のなごり 家康が17年間居城とした城

つわものどもが夢の跡
今回は「出世の城」と呼ばれる浜松城です

<浜松城天守閣>
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徳川家康が17年間にわたり居城とした城です

■浜松城の前身■
この地にはもともと曳馬城(引間城)と呼ばれる城がありました。浜松城の前身といわれる小規模な山城です。築城者については諸説ありますが、遠江今川氏4代当主の貞相が15世紀ごろに築いたという説が有力です。

<曳馬城跡の石碑>ひくまじょう
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<引間城(曳馬城)説明板>
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説明には尾張の斯波氏と駿河の今川氏の名が記されています。両氏とも足利一門の名家。この地は名門同士の抗争の場となったわけですね。やがて今川氏の治めるところとなり、その城を徳川家康が攻め落とし、拡張して浜松城を築きました。引間という地名を浜松に改めたのも家康とされています。

<元城町東照宮>
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徳川家康が浜松城を築城すると、もともとあった曳馬城の区画は「古城」と呼ばれ、米蔵として利用されたようです。浜松城が廃城となったのち、東照宮が建立され今に至っています。


■徳川家康の城■
徳川家康のもともとの居城は、生誕の地でもある三河国岡崎城です。織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなったことから、長男の信康に岡崎城を任せ、武田信玄に備えるべく、本拠地を浜松に移しました。この時29歳。45歳までの17年間ここ浜松城が家康の居城でした。

戦国時代屈指の武将の17年間は、こんなブログではとてもご紹介できないので、有名な戦いだけ下記に記しておきます。

1570年:姉川の戦い
〇織田・徳川 対 浅井・朝倉
1572年: 三方ヶ原の合戦
徳川 対 ◎武田信玄(武田圧勝)
1575年:長篠の戦い
〇織田・徳川 対 武田勝頼
1584年:小牧・長久手の戦い
徳川・織田信雄 対 △羽柴秀吉
(戦は徳川勝利・交渉は羽柴勝利)

ちなみに
武田信玄が亡くなるのは1573年
織田信長が亡くなるのは1582年
です。

激動の、そして試練の時だったわけですね。特に武田信玄とまともに激突した三方ヶ原の戦いは、徳川家康の大敗として知られる戦です。命からがら浜松に逃げ帰った家康にまつわる逸話もたくさんあります。

戦い以外のドラマも沢山ありました。長男・信康が信長の娘と結婚するものの、やがて切腹。次男秀康に続き、のちに当主となる秀忠の誕生などなど。書ききれません。

<秀忠生誕の地>
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ここ浜松城はやがて二代将軍となる徳川秀忠生誕の地でもあります。


■家康は駿府へ■
戦乱を生き残った家康の支配は、三河・遠江に留まらず、駿河や信濃にまで拡大していきました。そうすると、全てを統治するには、浜松はちょっと西に寄りすぎています。そこで、家康は本拠地を東に移すこととし、駿府へ入ることにしました。諸説ありますが、これが家康が浜松城を去る理由とされています。

<家康時代の浜松城>
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家康時代の浜松城の説明板です。当時はまだ石垣は無く、土の城だったようです。

駿府は、三河生まれの家康が、8歳から19歳まで今川の人質として暮らした地。どのような思いだったのでしょう。ただ4年後の小田原征伐(1590年)ののち、家康は秀吉の命で更に東の関東へ移ることになります。


■天守閣■
徳川家康が関八州へ転封となると、浜松城には豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が12万石で入りました。浜松城に天守が築かれたのはこの頃とされています。

<天守閣(復元)>
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鉄筋コンクリートで再建された天守閣。浜松城の天守閣については資料がなく、改修者である堀尾吉晴が築いた別の城の天守閣を参考に造られたました。

<天守台>
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浜松城は天守閣よりその土台の石垣が有名です。

<野面積み>
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自然の石を加工せずそのまま積み上げるいわゆる野面積みの石垣。崩れそう?400年の風雪に耐えて今に至ります。

ハート.JPG
ハート型の石がちょっとした人気です。どこだか分かりますでしょうか?加工はしてないのですから偶然ですね。

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もともとの天守台の上に昭和の天守閣が載っている状態ということですね。

<天守門>
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天守曲輪の大手に復元された天守門

<天守曲輪>
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浜松城は本丸に天守閣があるのではなく、更に一段高い位置にある曲輪に設けられています

<徳川家康銅像>
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こちらは本丸跡に設置された『若き日の徳川家康公』です


■江戸時代■
堀尾氏の支配は10年続きますが、関ヶ原の戦い後は、譜代大名の松平忠頼が美濃金山より5万石で入ります。その後は江戸時代を通して譜代大名が代々城主を務め(江戸260年間で25代の城主)、かつて家康が17年も居城としたこともあって、浜松城の城主はいわば出世コースとなりました。出世城とも呼ばれたそうです。老中だけでも5人天保の改革の水野忠邦も、浜松城主を経験したのち老中となっています。

<縄張り図>
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城下町も含めて整備がなされた状態。いわば浜松城の完成形ですね。縄張り図だと、中央の二の丸が本丸や天守曲輪より目をひきます。

<二の丸の説明板>
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二の丸には、かつては政庁が設けられていました。この区画こそが、藩の政治の中心地だったようです。

ちょっと城の外に

<宿場町のなごり>
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街中でこんな説明板に足が止まりました。『本陣跡』です。本陣というと、戦で大将が陣取る場所と勘違いされそうですが、この場合は大名や幕府役人のために宿場に置かれた宿のことです。浜松には、ここ杉浦本陣を含めて6つの本陣が置かれたようです。

<町のなごり>
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こちらは高札場跡。こういった説明板はありがたいですね。

<大手門跡>
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縄張り図にもある大手門がこの位置ということですね。浜松城公園まではまだ距離がありますが、この付近から先はかつては城内だったということですね。

そして

<城跡>
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城の多くは失われましたが、中心部にはかつてのなごりが漂います

浜松城の廃城は明治になってから。現在は浜松城公園となっています

<公園>
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庭園を含む公園として整備されています。

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2017年には続日本100名城にも選定されました

以上

徳川家康が17年間居城とした浜松城のなごりでした。家康本人のみならず、250年以上続く徳川幕府の原点となった城とも言えますね。そして、幕府の幹部となる家臣の登竜門となった城です。

つわものどもが夢の跡
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-------■浜松城 ■-------
別 名:出世城
築城年:15世紀頃(曳馬城)
築城者:不明(今川氏)
改修者:徳川家康・堀尾吉晴 他
城 主:飯尾氏・徳川氏
堀尾氏・水野氏 他
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年11月14日

石川数正の鞍替えと徳川家康の城替え(浜松城を去る家康)

<家康像>
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浜松城で撮影した家康像です。下に『若き日の徳川家康公』と記されています。そういえば、他の銅像と比べると、ちょっとほっそりしていますかね。右手にはちょっと変わった武器?ではなく勝草(カチグサ)とも呼ばれたシダの葉です。

<浜松城>
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家康は17年もの間ここ浜松城を居城としました。強敵に囲まれながらも、この城を足掛かりに戦国大名としての地位を着々と確立していくわけですが、のちに駿府に拠点を移しています。この背景については諸説あります。そのうちのひとつ、重臣の一人だった石川数正の出奔が大きく影響したとする説をご紹介させて頂きます。理由は一つではないと思いますが、この説に重みを感じましたので。

石川数正(かずまさ)は、家康がまだ竹千代と名乗っていた頃から仕え、今川義元のところに人質として預けられていた時にも、そばに寄り添っていた側近中の側近です。家康の主要な合戦に出陣しては武功を挙げ、更に交渉術でも実力を発揮しました。酒井忠次らと共に初期の家康を支え、徳川家躍進に大きく貢献した武将です。

それにも関わらず
家康の元を去ることに

家康からの信頼も厚く、家老まで務めた人物の離反。戦国の世では、主君の鞍替えや裏切りは決して珍しくありませんが、結束が強い徳川家臣団ではそういう例が少なく、石川数正の出奔はかなり稀なケースと言えます。いや、忠義に厚い三河時代からの幹部に絞れば、石川数正は家康に背を向けた唯一の家臣かもしれません。この理由にも諸説(秀吉によるヘッドハンティング・家康の長男信康の切腹に起因する主君への不信感などなど)ありますが、真相は謎のままです。ただひとつだけはっきりしていることは、徳川家の軍事機密を知り尽くす石川数正が、よりによって豊臣秀吉の家臣となってしまったこと。家康はこの前年に小牧・長久手で秀吉と戦い、和睦したばかりです。この時点ではまだ秀吉は敵。大きな衝撃だったことでしょう。

これを境に、家康はそれまでの戦術を改め、武田流の戦術を取り入れたと言われています。そうせざるを得なかったのでしょうね。そして、数正が去った翌年(1586年)には、長年居城としてきた浜松城を離れ、駿府に移っています。

<家康像>
shirononagori495a.jpg
駿府城の家康像です

繰り返しになりますが
家康が駿府に拠点を移す理由はひとつではないと思います。ただ、徳川軍の手の内を知り尽くし、城の縄張りまで熟知したいわば懐刀が、敵に渡ってしまった事実は重いですよね。時系列に状況を整理すると、やはり石川数正の離反は、家康が浜松城を去る大きな理由だったと思います。

<駿府城>
shirononagori495 d.JPG

-------■ 画像撮影 ■-------
浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]
駿府城
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]


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posted by Isuke at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2020年11月08日

浜松城の野面積み

今回は「野面積み」の代表作といっても過言ではない浜松城の石垣のご紹介です。
<天守閣>
shirononagori493 (2).JPG
復元された天守閣も立派ですが、城郭ファンの間で有名なのが土台の石垣です。自然の石を加工せずにそのまま積み上げています。

■野面積み■のづらづみ
この言葉は石垣に用いる石の加工具合を基準に分類した時の呼び名です。石を加工せず、そのまま積み上げる方法を野面積みと呼びます。この分類だと他に「打込ハギ」とか「切込ハギ」などがありますが、今回は説明を省略します。別途投稿していますので、ご興味のある方は覗いてみて下さい
→『城用語の記事へすすむ
今回は画像を中心に、浜松城の見事な野面積みを共有させて頂ければと思います。

shirononagori493 (1).JPG
どれも自然の石。これを適所に選んでは積み上げるわけですから、その道のならではの勘と経験が必要とされますよね。

shirononagori493 (4).JPG
不規則な石の大きな面は外側に向け、小さい面は内側に向け、隙間に小石を埋めて石を固定します。野面の「ツラ」とは、自然の石の表面のことを意味しています。

shirononagori493d.JPG
現地に説明板がありました。小石と言わせてもらいましたが、役割によってちゃんと呼び名があるようです(長くなるのでこれはまた別の機会にご紹介します)。

shirononagori493c.JPG
江戸城などと比べて「原始的?」と思われるかもしれませんが、野面積みならではのメリットもあります。石垣は表面を覆っているだけで、内部はあくまで土の塁です。雨水などの排水が上手くなされないと内部が膨張するなどして、塁が崩れる原因にもなります。野面積みは石と石の間に隙間があり、水が適度に排出され、塁の劣化を防げるという長所があります。実際、これらの石垣は4百年の風雪に耐えて今日に至っています。

shirononagori493 (3).JPG
塁の隅ギリギリに建造物が築けられています。土塁だとこういう訳にはいきません。建物が飛び出ているのは石落としなどの仕掛けを設けるためです。

shirononagori493e.JPG
徳川家康は約17年間ここ浜松城を居城としましたが、その頃は石垣のない土の城でした。

shirononagori493b.jpg
家康が去った後も、浜松城はこのエリアの重要拠点であり続けたましたので、改修される過程で石垣の城となったわけですね。

ということで
野面積みの代表作といって良い浜松城の石垣のご紹介でした。野積みは中世の石垣でよく見かけますが、石の加工技術が普及する江戸時代においても、野面積みそのものがなくなった訳ではありません。文中にある通り、野積みならではのメリットもあるのです。

■訪問:浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]


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posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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