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2022年12月13日

佐々成政の北アルプス踏破(さらさら越え)どうする?家康

極寒の冬に富山城から北アルプスを越えて浜松城までたどり着く。そんなことがあり得るのか。佐々成政は何でそこまでしたのか

<富山城跡>
Toyamajo-tensyu.JPG
現在の富山県富山市

<北アルプス>
mountainous-area-Toyama.JPG
富山から見た山々。3千m級の山々が連なります。撮影は11月中旬です。このあともっと白く色づくことでしょう。どう考えても挑むのは無謀と思えます

しかし
佐々成政はあの山の塊を越えて行きました。

<浜松城跡>
shirononagori496a.JPG
現在の静岡県浜松市

<徳川家康像>
shirononagori495.JPG
この人物に会うために

そこまでやるには、それ相応の経緯があります。どこまで遡れば良いか分かりませんが、絶対的な存在だった織田信長の死が、佐々成政のその後の人生を大きく狂わせたことは間違いありません。

信長亡きあと、その後継者として織田信雄を推す徳川家康と、それを良しとしない羽柴秀吉の対立がありました。この関係がそのまま小牧・長久手の戦い(1584年)となり、小牧山城や犬山城を中心に、半年以上に渡って全国各地で武力衝突が繰り返されました。この間、反秀吉の佐々成政は、秀吉に味方する前田利家支配下の末森城(能登国)を攻めています。城主奥村永福の抵抗により、末森城を奪いとることはできませんでしたが、佐々成政が精力的に動き出していたことは伺えます。
それにしても、前田利家といえば加賀の覇者であり、越中を領する佐々成政にとってはお隣さんです。逆側(東側)のお隣さんである上杉とも良好な関係ではありません。相当自信があったのでしょうか。

小牧・長久手の戦いは長期化しましたが、最終的には秀吉が条件付きで織田信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾します。これにより家康は大義を失い、その後まもなく、秀吉と和睦します。

えっ
終わっちゃうのかよ!


佐々成政は納得できません。そこで家康を説得することにしました。ただ、越中は北が海で東と西は敵対勢力という状況です。まともには動けません。そこで、南の山岳地帯を経由して家康のもとに向かうことにしました。厳冬期の北アルプス、ザラ峠を越えてです。これがいわゆる「さらさら越え」です。

繰り返しになりますが、真冬で積雪の多い時期の北アルプスです。現在の防寒具があったとしても、常人にできることではありません。「さらさら越え」は今から400年以上も前の話ですから、仮に獣の毛皮をまとったとしても、生身の人間が成し得ることとは思えません。

それでも
成政なんとか浜松の家康と対面を果たしました。
そして挙兵を促します。

どうする?家康!

2023年の大河ドラマではありませんが、そんな問いかけだったのでしょう。どうするもなにも、苦労に苦労を重ねてきた家康は、かなり思慮深い武将になっています。佐々成政の意見は聞き入れられませんでした

うぁ
何のためここまで来たのか…


そんな感じでしょうか。成政は織田信雄からも良い返事は得られず、失意のまま来た道を戻ったと伝わります。また厳冬の北アルプスを越えたということですね。ちなみに、60名で出発しながら、帰ってきた時は7名だったそうです。

ただ、その後も成政が反秀吉の姿勢を崩すことはありませんでした。どこまでも意志を貫く男ですね。この結果、居城の富山城は秀吉率いる10万の大軍に取り囲まれることになりました。ここでついに成政は秀吉に降伏「さらさら越え」の翌年の夏のことでした。

ということで
佐々成政の「さらさら越え」のご紹介でした。今回もまた個人的な雑感が混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。

最後に
「さらさら越え」はあくまで伝説ですが、孤立していた富山城主・佐々成政が、浜松で家康と対面したということは事実のようです。道中敵ばかりのなか、どうやって辿りついたのですかね。

拙ブログにおつきあい頂きありがとうございました。

■参考
Wikipedia:2022/12/13



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2022年10月15日

二ノ丸枡形のなごり(名古屋城)旧二之丸東二之門

今回は重要文化財に指定されている名古屋城の城門の話です。

<旧二之丸東二之門>
ninomaru-higashininomon.JPG
この門は復元ではなく、現存する名古屋城の城門です。もともとは二ノ丸に設置されていましたが、昭和47年に本丸跡に移築されました。重要文化財です。門の形式は高麗門。城好きが高麗門と聞けば、櫓門とセットの枡形虎口を想像するのではないでしょうか。その想像であっているようです。

<説明板>
Ninomaruhigashininomon-Explanation-board.JPG
説明板が設置されています。そのまま転記させて頂きます。
『本来は東鉄門(ひがしくろがねもん)という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。』
ちょっとややこしい話ですが、現在は本丸の東二之門の位置に移されたかつての二ノ丸の東二之門ということですね。櫓門は残っていませんが、二ノ丸に設けられた枡形のなごりです。

この門をくぐった先に見どころが多いことから、わりと素通りしてしまう人も多いのではないでしょうか。現存する貴重な城門です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいれば幸いです。

■訪問:旧二之丸東二之門
(名古屋城本丸跡)
[愛知県名古屋市中区本丸]

■参考及び抜粋
現地説明板



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2022年10月12日

清正石(名古屋城)加藤清正が運んだとされる巨石

今回は名古屋城に石垣に用いられている巨石の話です。その名も清正石。呼び名の通りで、加藤清正が運んだ石とされています。

<清正石と説明板>きよまさいし
Kiyomasa-stone.JPG
表面積は畳で十畳ほどとのこと。説明文をそのまま転記すると『名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。』とのこと。搦手(からめて)ですから、正門以外の出入り口といった感じでしょう。付近の工事そのものは黒田長政が担当したようですね。この石だけは清正が積み上げた?

よくわかりませんが、後世の作り話というお話もあります。では清正は何もしていないのか?といえばそうではなく、天守台の石垣を担当していました。ちゃんと持ち場が決められていたわけですね。メンバー全てをご紹介はしませんが、元豊臣家臣団、つまり築城を命じた徳川家康にとっての外様大名たちだったようです。

<加藤清正像>
Kiyomasanoishibiki-nagoyajo.JPG
こちらは清正石の近くに設置されている清正公石曳きの像。清正が巨石の上にのって、石を運ぶ人たちを鼓舞している姿です。清正石そのものは、どうも黒田長政の手によるものと考えた方が良さそうですが、言い換えられてしまうあたりが、加藤清正の人気ぶりを表しているような気がします。

Kato-Kiyomasa-Nagoyajo.JPG
清正は戦場での武功だけでなく、新田開発や治水工事でも実績を上げた武将。そして城づくりの名手と言われ、あの熊本城の改修者にも名を連ねます。名古屋城の築城の際も、現場で重要な役割を担っていたわけですね。

ということで
名古屋城の清正石のご紹介でした。

honmaru-higashininomon.JPG
清正石は本丸東二之門付近です

■訪問:清正石
[愛知県名古屋市中区本丸]

■参考及び抜粋
現地説明板



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2022年10月11日

豊臣恩顧の大名たちが積み上げた石垣(名古屋城)

<名古屋城本丸石垣>
nagoyacastle-ishigaki.JPG

■天下普請■てんかぶしん
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その後諸大名を動員して、伏見城や駿府城など、大規模な城の再建・造営を推し進めました。いわゆる天下普請の実行です。そのなかでも、ここ名古屋城の工事はかなり大規模なもので、スケールのわりには短期間のうちに築き上げられたと伝わります。これは大坂の陣より前のお話。家康がほぼ天下を手中に収めたといっても、まだ豊臣家の影響が残っている時の話です。大坂城の豊臣秀頼を意識した戦略の一環でした。


■豊臣恩顧の大名による築城■
名古屋城築城には加藤清正福島正則黒田長政ほかの豊臣恩顧の有力大名が動員されています。元豊臣秀吉の家臣たちは、この工事をどのように受け止めていたのでしょう。ちなみに、家康は豊臣家にも動員を命じていますが、これは拒否されています。

nagoyacastle-honmaru.JPG

労務提供だけでも大変なことですが、大名たちは石材などを自分たちで持ち寄り、技術者を集めて名古屋城を築きました。経済力を削がれた上に、尽くす相手は豊臣ではなく徳川。何となく納得はしていなかったような気もします(素人の想像です)。逆に、それでも従わせることで、家康は今後の序列を明らかにしていたのかもしれませんね。

nagoyacastleishigaki.JPG
当時の最先端技術が集結して積み上げられた石垣です

--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]


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2022年10月10日

御三家の筆頭 尾張徳川家17代の居城

深い歴史が刻まれ、日本100名城に選定されている名城を訪ねました。

<名古屋城>
nagoya-castle-tower.JPG
誰でも知っている城ですね。一般に金箔押の鯱でもよく知られ、金鯱城(きんしゃちじょう)などと呼ばれたりもします。

名古屋城は、徳川家康の命により築かれた尾張徳川家の居城です。1609年(慶長14年)に築城を開始して1612年(慶長17年)には天守完成。その後1871年(明治4年)の廃城令まで存続した城です。江戸城や大阪城の天守は江戸時代に焼失していましたが、名古屋城の天守は明治・大正を経て、なんと昭和まで存在していました。1930年(昭和5年)に国宝に指定されています。凄いことですね。しかし1945年(昭和20)の空襲で天守を含め多くの貴重な建物が焼失してしまいました。

<五層の天守>
castle-tower-nagoyajo.JPG
現在は鉄骨鉄筋コンクリートの天守ですが、外観は旧天守を再現したものと言われています。ということは、この佇まいは、かつて日本最大級を誇った名古屋城の天守と思ってよいようです。大阪城・熊本城とともに日本三名城に数えられる城です。

私のような素人の目にはわかりませんが、この天守は再建が早かった(1959年)こともあり、既に老朽化という問題を抱えているそうです。城に関する詳細な資料が残されていることから、今度は木造による復元も検討されているとのこと。


■完成までの道のり■
名古屋城そのものは徳川家康の命で築かれましたが、この地にはそれ以前に今川氏の城がありました。織田信秀がこれを奪って那古野城と改名し、息子である信長もこの城に居住していたと伝わります。その信長が清須城(清洲城)を築いて本拠とすると、那古野城の存在意義は徐々に薄れ、しばらくしたのちに廃城となりました。

nagoya-castle-hori.JPG

尾張統治の中心地は清須へ移りましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は清須城に代わり、既に荒れ地となっていた那古野の城跡に新たな城を築くことを決断しました。これが名古屋城のはじまりです。明らかに大坂城にいる豊臣秀頼を意識した戦略の一環であり、築城には多くの名だたる諸大名が動員されました。

nagoyajo-hori.JPG

nagoyacastle-honmaru.JPG
尾張国清洲藩主となっていた家康9男・義直が初代城主となり、尾張徳川家の祖となりました。

<東南隅櫓(辰巳櫓)>
tatumiyagura-nagoyajo.JPG
御三家筆頭と呼ばれる尾張徳川家はじまりの城です

--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]

■参考
Wikipedia:2022/10/10



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2022年10月08日

堀川堀留跡の碑(名古屋市)福島正則が残した堀川

名古屋市内の朝日橋付近でこんな石碑をみつけました。

<石碑>
horikawa-horidome-monument.JPG
長文が刻まれています。どうやら、私が渡ろうとした橋は、福島正則によって開削された堀川に架かる橋だったようです。夜の撮影のため文字がはっきりしませんので、ネット検索でたどり着いたkasen.netさんのページから転記させて頂きます。『』内はkasen.netさんからの情報です。

『堀川堀留跡の碑
 堀川は慶長十五年(一六一〇年)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、天明四年(一七八四年)に行われた大幸川の付け替え明治十年(一八七七年)の黒川治愿による黒川の開削、さらに昭和初期の改修を経て現在の姿になった。
 朝日橋は天明五年(一七八五年)に初めて架橋され昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの落差工があった。その水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落口近くにあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いた時の音から「ドンドン橋」とも呼ばれ、人々に親しまれていた。
かつて、巾下御門に通じるこの地には多くの船が行きかい、今の州崎橋付近に至る渡船が始まる萬延元年(一八六〇年)頃には、名古屋の交通の中心でもあった。また、満ちてくる潮にのって、鰹や鰯がこの付近までさかのぼってきたと伝えられている。
昭和五十九年九月 名古屋市』


堀留ですから、物資輸送のための堀川は、当時はこの付近までだったと考えてよいわけですね。逆の言い方をすると、堀川はここから始っていたということです。福島正則は、のちに広島城主となり、城下町の整備で実績を残した人物です。そのなごりが、徳川のおひざ元であるこの地にも残っているわけですね。

<朝日橋>
Nagoya-horikawa- horidome.JPG

ということで
福島正則が残した堀川の話でした。名古屋到着が夜だったため、暗い画像で恐縮です。

■訪問:堀川堀留跡の碑
(朝日橋左岸)
[愛知県名古屋市中区三の丸]1丁目

■参考及び出典
kasen.net(日本の川と災害)

http://www.kasen.net/@5/syounai/horikawa/360/ishi.htm


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-------- 追 記 --------

<携帯で撮影>
Nagoyajo-at-night.JPG
名古屋城は翌日ゆっくり訪問しました

<正門>
nagoyajo-front-gate.JPG
この夜はここまでです
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2022年04月12日

木ノ下城のなごり(犬山市)織田一族ゆかりの城

つわものどもが夢の跡
犬山市の木ノ下城跡を訪ねました。

<城跡の説明板>
Kinoshitajo-Direction-Board.JPG

■城のはじまり■
木ノ下城は守護大名・斯波義廉(しばよしかど)配下の武将・織田広近により築かれました(1469年)。これは守護代だった兄・織田敏広の命を受けたもので、美濃国の斎藤氏を牽制する目的があったようです。織田広近は、木ノ下城とは別に近くの山に砦を築きました。木曽川沿いの乾山に築かれたこの砦が、のちの犬山城となります。

<愛宕神社>
Kinoshitajo-Atago-Shrine.JPG
城跡は愛宕神社となっています。説明板によれば『慶長11年(1606)鍛冶屋町の銘鍛冶兼常が、当時の犬山城主小笠原吉次に願い出て旧城地のこの場所に天台宗の愛宕山長泉寺延命院を建立し将軍地蔵を祀ったのがはじまりである』とのこと。延命院は明治になって廃止され、寺の中にあった愛宕神社となっていまに至るそうです。

Kinoshitajo-Castle.JPG
Kinoshita-jo.JPG
現地に城跡らしい雰囲気はありません。木ノ下城の敷地は、一辺が200mくらいのほぼ正方形だったそうです。適所に堀を設けたようですが、なにぶんにも平坦な土地であるため要害性はあまりありません。統治のための拠点だったのでしょう。

<愛宕神社本殿>
Main-Shrine-Atago.JPG
本殿は周囲より高台となっていますので、おそらく城の主要な建物もこの位置にあったのでしょう。

■ 廃城 ■
木ノ下城は築城者である広近のあとも四代に亘って織田氏の居城でした。しかし織田信康(信長の叔父)のときに犬山城が整備され、廃城となりました(1537年)。犬山城の築城者によって幕引きとなった城跡ということですね。ちなみに、織田信康は犬山城主となったあと、兄・織田信秀(信長の父)の美濃国攻めに従軍して亡くなっています。

■つわものどもが夢の跡■
織田信康の跡を継いで犬山城主となった信清は、織田信長とは不仲でした。信長は犬山城を攻めることになりますが、その時に既に廃城となっていた木ノ下城跡が拠点となったそうです。犬山城からはすぐ近く。なにかと都合がよかったのでしょう。

<木ノ下城石碑>
Stone-Monument-Kinoshita-Castle.JPG
遺構はないのでこの石碑はありがたかったですね

--------■木ノ下城■--------
築城年:1469年(文明元年)
築城者:織田広近
城 主:織田広近
廃城年:1537年頃
[愛知県犬山市犬山字愛宕]16


■参考及び出典
・Wikipedia:2022/4/12
・現地説明板



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2022年04月07日

犬山城のなごり

今回は戦国時代のつわものどもと深い関りのある犬山城についてです。
<犬山城石碑>
Inuyama-Jo-Stone-Monument.JPG

■川沿いの平山城■
<犬山城と木曽川>
Inuyama-Kiso-gawa.JPG
犬山城は尾張国と美濃国の境となる木曽川のほとりの山に築かれました。いわゆる平山城です。別名は白帝城。これは長江沿いの山に佇む中国の名城・白帝城にちなんだ呼び名です。北側は天然の川、逆側の山の麓に堀を施した典型的な中世の城でした。


■ 戦国時代 ■
犬山城は織田信長の叔父である織田信康によって1537年に築城されましたという解釈が一般的です。もともとあった岩倉織田氏の砦を改修して築いたとされていますので、それ以前から軍事的な拠点であったようです。

国と国の境に位置する重要拠点であり、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が奪い合った城です。なかでも有名な戦いといえば、信長亡きあと、秀吉と家康が争った「小牧・長久手の戦い」ではないでしょうか(1584年)。
この戦いは、明智光秀や柴田勝家といったライバルを討ち果たして勢いに乗る豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)と、信長の後継者(次男)である織田信雄・徳川家康の連合軍が激突した大規模なものでした。広範囲、そして半年以上にも及ぶ長期戦となり、緒戦の段階で犬山城を占領した秀吉側は、終戦までこの城を本陣としました。この時、家康は小牧山城を居城としています。信長の叔父が築いた城に秀吉、信長本人が築いた城に家康という構図。いかにも信長亡きあとの戦らしいですね。

Inuyamajo.JPG
のちに天下人となる両雄が激突した戦いで、重要拠点だった城です


■ 江戸時代 ■
江戸初期の1617年、平岩氏に代わって尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、以降9代にわたって明治まで、藩主である成瀬氏代々の居城としました。

<犬山城天守>
Inuyama-Castle-National-Treasure.jpg
国宝に指定されている犬山城の天守です。地上4階と地下2階の構造。犬山城そのものの築城は室町時代ですが、天守が現在のような姿となったのは、成瀬正成が城主の時といわれています。江戸時代までに建造された現存天守12城のひとつであり、5つしかない国宝5城のひとつでもあります。


■ 明治以降 ■
明治の廃城令により、犬山城は一旦廃城となります。天守だけは取り壊しを免れていましたが、1891年の大地震(M8.0:濃尾地震)で半壊となってしまいました。この修復を条件に、犬山城は県から犬山藩の最後の藩主・成瀬正肥へ無償返還され(1895年)、募金などの支援も得て見事に修復されました。

Inuyama-Jo-Stone-Wall.JPG
長らく全国唯一の個人所有の城郭でした。現在は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。

<現地説明板>
Inuyama-Jo- Guidance.JPG
Overall-view-Inuyama-Castle.JPG
近世城郭として完成したころの城の姿ですね。立派です。犬山城は城下町と一体となったいわゆる「総構え」の城だったと言われています。

Inuyama-Jo-Ishigaki.JPG
いまは本丸周辺を残すのみ

Inuyama-Jo-Gate.JPG
しかし、この城門をくぐれば、国の宝となった天守が出迎えてくれます

InuyamaJo-Tenshyu.JPG
この日も多くの人が訪れていました。いまもむかしも、犬山のシンポルですね

--------■ 犬山城 ■--------
別 称:白帝城
築城年:1537年(天文6)
築城者:織田信康(信長叔父)
城 主:織田氏・池田氏・石川氏
    成瀬氏
改修者:成瀬氏
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県犬山市犬山北古券]


■参考
・Wikipedia:2022/4/7
・犬山城内説明板
 



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