2020年11月04日

引間城のなごり 浜松城内の古城

つわものどもが夢の跡
今回は浜松城の前身ともいえる城跡の話です。

<引間城跡>ひくま
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曳馬城跡(引馬城跡)と記された石碑です。かつてここには引間城と呼ばれる城がありました。

<浜松城の縄張り>
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右上が現在位置です。

<説明板>
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こちらの説明によれば『歴代城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏』が記されています。これだけで、ここ浜松(昔の地名だと引馬)が、遠江一帯を支配する斯波氏と、駿河を支配する今川氏が鎬を削った地ということが伝わってきますね。両氏とも足利一門の名家。名門同士の抗争の場となったわけですね。説明文にある大河内氏(斯波氏に与していた大河内貞綱)が支配する浜松は、やがて今川氏の納めるところとなり、今川配下の飯尾氏が支配することになります(飯尾氏が築城者という説もあります)。

今川氏の拠点だった引間城を徳川家康が攻め落とし、城を拡張しました。まぁ引間城をのちの浜松城の原形とみなせなくもないのですが、本丸がまったく別のところに移っていることと、縄張りがかなり異なるので、やはり「のちに別の城が築かれた」と受け止める方が良いような気がします(個人意見)。

説明文には、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康が逃げ帰ったことも記されています。その当時はまだここ引間城が家康の拠点だっのでしょうか。それ以前の家康の拠点は三河国岡崎。武田に備えるべく本拠地を移しました。その後入城する豊臣系の城主以降、城は更に増改築され、引馬城のエリアは主郭から外れていったようです。なるほど。家康が一気に改修したという訳ではないのですね。

家康は『ひくま』という名を嫌い(馬を引く=負ける=縁起が悪い)、地名を浜松に改めました。浜松城の一部となった旧引間城部分は「古城」と呼ばれ、その区画は米蔵として利用されたようです。

<引馬城跡の遠景>
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ちょっと離れたところから撮影。丘の上に築かれた城だったようです。現在は東照宮が建てられています。

<元城町東照宮>もとしろちょう
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家康ゆかりの地である浜松の東照宮ということで、ごく自然に受け入れたものの、意外なことに、創建は明治になってからとのこと。

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境内はあまり広くありません。この付近がそのまま本丸だったのでしょう。

<拝殿>
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先ほどの説明板には、明治19年に旧幕臣の井上延陵(えんりょう)が東照宮を勧請したと記されています。この方は北辰一刀流の剣豪であり、明治には第二十八国立銀行の頭取に就任した人物。家康ゆかりの地に東照宮がないことを憂い、浜松城の前身である引間城の本丸跡に東照宮を建立したようです。

<二人の天下人>
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拝殿横には徳川家康と少年時代の豊臣秀吉の像。浜松は家康ゆかりの地ですが、秀吉が武士になるべく下積みをした地でもあります。


<つわものどもが夢の跡>
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徳川家康は29歳から45歳までの長きに渡り浜松を拠点とし、出世の道を切り開きました。ここ引間城本丸跡は、その始まりの地ということですね。

------■ 引間城 ■------
別 名:曳馬城
築城主:詳細不明(今川氏)
築城年:詳細不明(15世紀頃)
城 主:飯尾氏(今川氏)
    徳川家康・堀尾吉晴
現状:元城町東照宮
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年07月15日

高天神城のなごり

つわものどもが夢の跡
武田勝頼徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城跡を訪ねました。

<高天神城本丸>たかてんじんじょう
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■三方が断崖絶壁■
高天神城は三方が断崖絶壁という天然の要害です。麓からの比高約100m強の山に築かれたこの城は、激戦を繰り返すごとに進化を遂げ、最終的には東西二つのエリアに分かれた一城別格(中核となる曲輪が二か所ある)の構造となりました。

<高天神城の全体図>
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[現地撮影:高天神城想像図]
東側の峰がもともとの高天神城で、本丸が配置されています。西側の峰がどの時代にどの程度利用されたかはわかりませんが、武田勝頼が城を拡張した時に、ひとつの城として完成したようです。大きな山城ではありませんが、とにかく斜面が垂直に近い急こう配となっており、比較的緩やかな西側には堀切や横堀が設けられています。

<平面図>縄張り
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[現地撮影]
城好きの人がこの平面図だけを見たら、普通の縄張りと思うでしょうね。でも現地で実感するそれぞれの高低差を加味して眺めると、巧みな配置と思えます。

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■今川から徳川■
城の始まりについては定かではありません。鎌倉時代に地頭の砦が築かれたという説もありますが、一般的は駿河の守護・今川家が遠江攻略のために城を築いたのが始まりとされています。今川家の勢力は駿河遠江三河の三ヶ国に及びましたが、桶狭間の戦い(1560年)で当主・今川義元が討たれて以降、徐々に衰えていきます。1568年には武田信玄が駿河に進攻、同時期に徳川家康が遠江に進攻して高天神城を占領しました。家康は今川に服従していた城主・小笠原長忠をそのまま家臣とし、今後は対武田の前線基地となるであろう高天神城を守らせました。

駿河と遠江の国境に位置する高天神城。城主・小笠原長忠の守りは堅く、1571年には武田信玄が大軍で攻めかかりましたが、僅かな兵で籠城し、これを凌いでいます。あの武田信玄でも落とせなかった城ということですね。高天神城は難攻不落の城として世に知られるようになります。

<高天神城からの眺め>
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■武田勝頼対徳川家康の争奪戦■
いわゆる『高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。

(1574年:第一次高天神城の戦い)
武田信玄が1573年に没したのち、今度は跡を継いだ勝頼が高天神城を攻めます。勝頼はこの城の攻略の為に拠点として諏訪原城を築いたうえで、2万5千の大軍で高天神城をとり囲みました。城主の小笠原長忠は籠城で耐えながら、浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍は来ませんでした。その間にも武田勢の力攻めにより、曲輪は次々に落とされていきます。残すは本丸のみとなった長忠は、城兵の助命と引き換えに降伏しました。

勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許され、去る者の身柄が拘束されることもありませんでした。城主の長忠は、助けに来なかった徳川を見限り、武田へ降る道を選びました。

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武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しました。高天神城は武田の手により改修され、旧今川家臣の岡部元信が城将として入りました。

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さて
ここまでは勢いのあった武田勝頼ですが、1575年の長篠の戦い織田徳川連合軍に大敗。優秀な家臣たちをまとめて失った上に、とりまく環境(上杉や北条との外交関係)も変化し、勢いを失っています。


(1581年:第二次高天神城の戦い)
勢いを失った武田に対し、徳川の反撃が始まります。守りの堅い高天神城に対し、徳川勢は力攻めはせず、兵糧攻めを行います。周囲に砦を築いて包囲し、補給路を断ちました。城は本国の武田勝頼に救援を求めますが、援軍は来ません。多く城兵が餓死し、最後は城将の岡部元信らが城から討って出て、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。

援軍を送れなかった

徳川家康にも事情があったように、武田勝頼にも苦しい事情がありました。しかし奪ったはずの城を奪い返され、更に援軍を送れなかったことは、武田の威信を失墜させました。その後の家臣団離反の一因になったとも考えられています。高天神城は城そのものの機能だけでなく、それくらい重要な意味を持つ拠点でした。

家康が奪還後、高天神城は城としての役割を終えました。


■現地訪問■
<石碑>
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城の北側から登りました

<搦手門跡> からめてもん
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大手とは逆側です

<登山道>
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ひたすら登る

<三日月井戸>
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いわゆる井戸というより岩肌から水が湧き出て溜まるところなのでしょう。これも貴重な水の手。なぜか金魚が泳いでいました。

<もうすぐ曲輪>
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曲輪への入り口が見えました

<井戸曲輪>
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名の通りで貴重な水を確保している区画です。籠城の際、飲み水を供給できる井戸曲輪は生き残りをかけた生命線となります。
<井戸>
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『かな井戸』と呼ばれる井戸。『かな』は鉄分と関係がありそうです

<西の丸への階段>
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二つの峰の西側へ、登った先は高天神社です

<高天神社>たかてんじんじゃ
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西の丸付近に鎮座している天神社。もともとは別の曲輪(御前曲輪)に鎮座していましたが、江戸時代にこちらへ移されました。高い所にある天神さまということで高天神と呼ばれています。

<西の丸>
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西側の峰の頂上です

<堀切>ほりきり
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西の丸から馬場平へ向かう途中の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。

<馬場平>
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ここは険しい山城の上層に位置しています。見張番所があったと考えられています。

<細い尾根道>
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犬戻り・猿戻りと言われる難所です。本国の武田勝頼に敗戦を知らせるべく、家臣が駆け抜けたと伝わります

<二の丸ほか>
以下は西側の峰の周辺の画像です。改修により補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。
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東側へ移動

<的場曲輪>
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<本丸虎口と土塁>
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<本丸>
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高天神城の本丸。東側の峰の頂上です

<元天神社>もとてんじんしゃ
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天神社は元々こちらにありました

<御前曲輪>
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本丸の南側の区画です

<三の丸と土塁>
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以上です

■つわものどもが夢の跡■
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。ここで勝つか負けるかは、武田勝頼と徳川家康のその後の運命にも大きく影響しました。
<元天神社>
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------■高天神城■------
別 名:鶴舞城
築城主:福島氏
築城年:詳細不明(16世紀初頭)
改修者:武田勝頼
城 主:小笠原氏・岡部氏
廃城年:1581年(天正9)
[静岡県掛川市上土方・下土方]



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2020年07月13日

最後の改修者のなごり 高天神城の横堀

今回は高天神城に残る長い横堀の話です。
<横堀>よこぼり
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この堀は徳川から奪い取った城跡を、武田勝頼が改修した時に掘られた横堀です。

<説明板>
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武田による堀であることが記されています

高天神城は三方が崖であるのに対し、西側の斜面だけはやや緩やかになっています。この弱点を見極め、高天神城を西から攻め落とした勝頼は、城を手中にするとこの弱点を克服すべく城を改修しました。

<高天神城の全体図>
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[現地撮影:高天神城想像図]
この図は一城別郭(いちじょうべっかく)の代表例として扱われる高天神城が完成した状態。いわば城の能力がピークの時です。ご覧のように、西側(左手)の峰と東側の峰で、まったく別の城があるかのような構造になっています。

城は東側の峰に砦が築かれたことから始まります。城が拡張される過程で、西側の峰がどのように利用されていったか詳細は分かりませんが、勝頼の改修時に『ひとつの城』として完成しました。

<西側の守り>
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冒頭の堀のみならず、後から補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。この付近で言うと堀に加えて土塁や切岸(土の壁)、そして堀切といった防衛施設が散りばめられています。あまり大きな城ではないだけに、これらを一気に見て回れるところが城好きにうけるのかもしれません。

<つわものどもが夢の跡>
砦から始まり、今川・徳川・武田それぞれの手で改修されてきた城跡です。家康は高天神城を武田から奪還すると廃城としましたので、最後の改修者は武田勝頼ということになります。

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勝頼の思いが形となって残っています。

■訪問:高天神城
(二の丸〜袖曲輪付近)
[静岡県掛川市]
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2020年07月10日

荒々しい山城で出会ったほのぼのパネル武将(高天神城 御前曲輪)城主・小笠原信興のなごり

武田と徳川による壮絶な争奪戦のなごりを留める高天神城。歴史的な重みに加えて、かなり特徴的な縄張りと見事な遺構、そして荒々しい山肌。それほど大きくはありませんが、城マニアをうならせる『中世の土の城』です。そんな城跡ですから、あまり『観光地』という雰囲気は漂いません。それだけに、若干違和感があるのが下の画像です。

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本丸の南側の御前曲輪で撮影。武将とお姫様を象った顔出しパネルです。

明らかに異質です。ちなみに、背後のコンクリートもこの城跡にあっては異質。では駄目なのか?いや、そういう意味ではなく、ちょっと浮いた感じがするのは事実です。

ただまぁせっかくですので(何が?)、現地で素通りしたとか、まったく興味がわかなかった方のために、あえてご紹介させて頂きます。無機質なコンクリートの方を先に説明すると、これは戦前に地元出身の軍医少将が『模擬天守』を建てたなごりです。建物は落雷で焼失し、土台だけが残ったものとのこと(現地説明板より)。ではひと際目立つあのパネルは?こちらはこの城を守った英雄です。

■小笠原信興■ おがさわらのぶおき
この方は地元に根をはる豪族であり、高天神城の城主です。通称は与八郎。もともと今川の家臣でしたが、今川に代わって遠江国の支配者となった徳川家康に属し、対武田の最前線にあたる高天神城の城主を任されました。

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ここでは『小笠原与八郎長忠』と記されています。姫様は『奥方』のようですね。

高天神城は『高天神を制する者は遠江を制す』とまで言われた重要拠点です。1571年には、あの武田信玄が大軍を率いて高天神城に攻め掛かったこともありました。しかし与八郎こと信興は、わずかな兵で籠城し、武田軍を撃退しました。

凄いですね!

これにより、高天神城は難攻不落の城として知られるようになります。

しかし、これで終わりではありません。信玄亡き後の1574年、今度は武田勝頼がまた大軍を率いて高天神城に攻め掛かりました。繰り返しますがここは徳川の『最前線』なのです。攻める武田も必死です。小笠原信興は籠城しながら浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍が来ることはありませんでした。

家康にも事情があったとは思いますが、信興にしてみれば、約2ヵ月間も持ち堪えながら、誰も助けにこなかったことは重い事実。最後は城兵の助命を条件に降伏しました。

武田勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許されました。小笠原信興は最前線で奮闘する自分たちに援軍をよこさなかった徳川を見限り、武田に降る道を選びました。

まぁ家康に反旗を翻したことになりますが、籠城した兵たちの無駄死にを避けたという結果を伴っており、武将として筋が通らない話とは思えませんね。更に、小笠原氏はもともと地元の豪族ですから、自然な流れとも言えます。

■つわものどもが夢の跡■
<高天神城からの眺め>
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小笠原信興も眺めたであろう景色です

武田に降ったあとの小笠原信興の消息については、諸説あってはっきりしていません。ただ、直後の徳川勢との闘いで、小笠原信興が武田勢の先鋒だったという記録があります。

ということで
冒頭のパネル武将は、この城ゆかりの凄い武将だったというお話でした。

■訪問:高天神城 御前曲輪
[静岡県掛川市]



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2020年07月09日

信玄でも落とせなかった山城を攻略した武田勝頼 (高天神城) 

今回は偉大な父の跡を継いだ武田勝頼の話です。

■武田家を滅亡させたイメージ■
勝頼は武田信玄の息子であり後継者ですが、カリスマ武将の父との比較で、評価はあまり高くありません。武田家は勝頼の代で滅亡したことは事実ですから仕方ないですかね。ただ、まるで無能だったかのような扱いで描かれている映画や小説を目にすると気の毒で、当ブログでは何度か勝頼を庇うような論調で投稿させて頂いております。良かったら覗いてみて下さい

⇒武田勝頼は弱くない!(蒲原城)
→『記事へすすむ

⇒諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城)
→『記事へすすむ

今回もほぼ同じ内容です。
ただ、舞台は高天神城です。

<高天神城>たかてんじんじょう
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山城

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曲輪

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土塁

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城内からの眺め

要害の地に築かれた山城です。ここは遠州を征するのに欠かせない拠点。武田と徳川の激しい争奪戦が繰り広げられた場所です。あの武田信玄が大軍で攻めても落とせなかった難攻不落の城ですが、信玄の跡を継いだ勝頼により、一旦は武田の城となりました。

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山城の西側の斜面のこの横堀は、武田時代に設けられました。高天神城を西から攻め落とした勝頼が、弱点を補うために構築した跡です。


■出戻り四男の当主■
武田勝頼は信玄の四男。母は信濃国の諏訪家当主・頼重の娘で、信玄が諏訪領を攻略したのち、諏訪家へ送りこまれました。諏訪四郎勝頼を名乗り、武田配下の一勢力として武功を挙げたと伝わります。

そのまま何事なければ、勝頼は諏訪家の当主として、父や兄をサポートする役割を担ったはずです。しかし嫡男である兄・義信が、謀反の疑いで武田家を継ぐ権利をはく奪されるに至り、他の二人の兄が候補者に成り得なかったことから、勝頼は諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

勝頼は信玄の実の子です。ただ、一旦は諏訪四郎勝頼を名乗った男。家臣団の間で既に諏訪家当主として浸透してしまっている立場から、武田家当主となるのは順当な流れではありません。名門武田家では、将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのが普通。しかし勝頼にはそれもなく、名前に武田家の通字である「信」もありません(勝頼の『頼』は諏訪家の通字です)。明らかに従来の『お屋形様』と比較して異質な存在でした。

1573年に武田信玄が亡くなり、勝頼はここで初めて武田姓に戻し、武田家の第20代当主となりました。信玄の死は突然のことで、残した課題はたくさんありました。勝頼は身内からの信頼も不安定なまま、信玄の死を機に巻き返しを図ろうとする織田信長や徳川家康と激突します。

信玄亡きあとの武田家は弱い?

とんでもありません。武田勝頼率いる武田軍は快進撃を続けました。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合い、更に勝利すること。勝頼は信玄の拡大路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。華々しい戦歴のすべてはご紹介できませんが、その代表例が、信玄でも落とせなかった高天神城の攻略です。


■第一次高天神城の戦い■1574年
高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。
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第一次』と呼ばれるのは1574年5月の戦い。武田側が勝利しました。勝頼は、信玄にも仕えた重臣・馬場信房を遠江に派遣し、高天神城を落とすための拠点として諏訪原城を築かせます。そのうえで、2万5千の大軍で押し寄せ、徳川方の小笠原信興(のぶおき)が千人で守る山城を落城させます。浜松の徳川家康は、援軍を出すことができませんでした。

信玄でも落とせなかった城を攻略

織田信長に「天下一強い」と言わしめた武将でも落とせなかった高天神城を、勝頼は落としました。勿論これだけで比較するつもりはありませんが、決して弱い戦国武将などではないのです。

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この時、勝頼は籠城して抵抗した敵の諸将の命を奪いませんでした。将兵の助命と引き換えに降伏した城主との約束を守ったわけですね。希望する者は自らの家臣とし、去る者は追わなかったそうです。


■つわものどもが夢の跡■
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高天神城を攻略できたことで勝頼は自信過剰になり、家臣の助言を受け入れなくなり、それが原因でやがて滅亡したという考え方があります。実際はどうなんでしょうね。出戻りで嫡男でもなかった勝頼は、自信過剰になれるほどの余裕もなく、ただただ勝ち続けることでしか武田家を束ねられなかったような気がします。

■訪問:高天神城
[静岡県掛川市上土方嶺向]


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2020年06月20日

馬場は馬の居場所とは限らない(高天神城 馬場平)

いわゆる『馬場』といえば、軍馬が待機したり馬術の練習をする場というのが一般的な解釈です。ただ山城を巡っていると『こんな高いところまで馬を連れてきたのか?』などと思うことはありませんでしょうか?まぁ実際に馬が待機していたのかもしれませんが、馬場の『馬』はあて字の場合もあるということを知っていると、ちょっと見方も変わりますね。
<高天神城 馬場平>
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ここだけ見ると落ち着けそうな曲輪ですが、険しい山城の上層に位置していまする

<険しい山城>
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[現地撮影:高天神城想像図]
左側の山のほぼ頂上です。周囲は崖で、隣の大きな曲輪(西の丸)との間は堀切で仕切られています。

<堀切>ほりきり
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西の丸との間の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。
sn440Takatenjinjo (2).JPG
堀切内部の説明板です。切割とありますが意味は堀切と同じですね。

これではとても馬が自由に出入りできるような場所ではありませんね。それでも馬場平というのでしょうか?

以下は現地の説明板の写しです。これが答えです。
『馬場とは番場のあて字で、見張番所があったと思われる』(以下省略)

見張番の場ということですね。これなら高い位置にあっても納得です。むしろ、高い位置にある方が良いということになります。

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今回は高天神城の馬場平を例にご紹介しましたが、ほかの山城でも、比較的高い所で『馬場』と名の付く区画を見かけることがあるかと思います。そんな時に、『これはいわゆる馬場か、それとも見張番の場ということか?』などと想像してみるのも、城の楽しみ方だと思います。

以上です。
馬の居場所とは限らない『馬場』のお話でした。

■訪問:高天神城 馬場平
[静岡県掛川市]


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2020年06月18日

犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道

つわものどもが夢の跡
今回は天然の地形を巧みに活かした高天神城の険しい尾根道と、そこを駆け抜けた戦国武将の話です。
<甚五郎抜け道>
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ここは険しい山城の抜け道。細い尾根道が続き『犬戻り・猿戻り』とも言われる難所です。意味ですが、たぶん機敏な犬や猿ですら行きかけて戻ってきてしまう険しさということでしょう。
<説明板>
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軍艦の甚五郎が落城を報告すべく駆け抜けたということですね。以下に転記します。

『天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍艦横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方の約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った』『この難所を別名犬戻り猿戻りとも言う』
[大東町教育委員会]

なるほど。大東町は掛川市と合併する前の町名ですね。『天正九年三月落城』ですから、これは当時武田が支配していた高天神城が、宿敵徳川勢に包囲され、兵糧攻めのあげく落城した時のお話です(1581年:第二次高天神城の戦い)。補給路も断たれ、城は本国に救援を求めましたが援軍は来ず、最後は城将の岡部元信らが城から討って出ますが、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。この壮絶な戦いの最後に、軍監の横田甚五郎が難所から脱出し、本国の武田勝頼に落城を報告したということです。

<馬場平>
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城の西端の曲輪です。ここ馬場平から更に西へ延びる尾根道が『甚五郎抜け道』と呼ばれています。

■横田甚五郎尹松■ただとし
武田信玄にも仕えた武将です。祖父は武田二十四将の一人に数えられる原虎胤(とらたね)といいますから、古くから武田家に仕えた家柄ということですね。この時は猛将で知られる岡部元信とともに高天神城に入っていました。岡部元信が城を死守すべく武田勝頼に援軍を求めたのに対し、横田甚五郎は『武田全体の兵力の温存を優先すべき』という内容の書状を密かに勝頼に送っていたようです。つまり、戦略上重要拠点ではあるものの、高天神城に拘らないことを勧めたということですね。武田勝頼は一時期の破竹の勢いを既に失っており、取り巻く状況も複雑だったので、両者のどちらが正しかったのか分かりません。ただ少なくとも、岡部元信と横田甚五郎とでは、武田にとって良かれと思う選択が異なっていたわけですね。

岡部元信らの最後の奮闘もありましたが、高天神城は落城。

城が徳川勢に屈したことを甲州の勝頼に伝えるべく、横田甚五郎は冒頭の細い尾根道を馬で駆け抜けたそうです。犬や猿でも躊躇する難所を馬でですか。かなり厳しい道のりですね。勝頼は死地から生還した横田甚五郎を褒め、太刀を与えようとします。劣勢の勝頼としては、側近の帰還は素直に嬉しかったのではないでしょうか。しかし甚五郎はこれを断ったそうです。

負け帰って褒美を貰ったのでは
筋がたたない

甚五郎にもいろんな思いがあったのでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
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武田滅亡後、甚五郎は徳川家康の家臣となります。この尾根道を駆け抜けた先に、そんな将来が待っていようとは思いもよらなかったでしょうね。やがて江戸幕府が開かれると旗本となり、当時としては長生きをして、82歳で没しました(1635年)。

■訪問:高天神城 馬場平
甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)
[静岡県掛川市]


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2020年02月02日

荒子城のなごり 前田利家・慶次 傾奇者ゆかりの城

つわものどもが夢の跡
今回は誰もが知っている戦国武将が、若き日を過ごした城跡の話です。
<前田利家卿御誕生之遺址>
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こちらは前田利家生誕地を示す巨大な石碑です。ここは名古屋市中川区。前田利家が生まれた場所といわれています。

■荒子城■ あらこじょう
加賀百万石で知られる前田家も、もともとは尾張の地元豪族。今回の訪問地は、そんな時代に築かれた前田家の居城跡です。築城者は前田利昌(利春)。前田利家の父です。織田家に仕えて荒子の地を与えられ、城を築きました(1544年)。

<富士権現社>荒子城跡
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荒子城の鎮守とされたと伝わります。右手の標柱には「冨士大権現 天満天神宮」と刻まれています。現在の正式名は冨士天満社。

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御祭神は木花開耶姫命、菅原道真

城跡といっても、遺構は残されていません。そもそも平らな土地で、城として地の利があったとは言い難い場所です。文献によれば、平地に柵と堀を巡らしたシンプルな構造だったようなので、屋敷に近いものだったのかもしれませんね。

とはいえあの前田家が拠点とした場所。それだけで来た甲斐はあります。ちなみに、荒子という地名には、開墾まもない田という意味があったようです。


■前田利家ゆかりの地■
前田利昌が亡くなると、まず長男の利久が荒子城主を継ぎました。これは順当ですね。ただ利久はあまり体が丈夫な方ではなく、更に実子がなかったことから、織田信長は利家に前田家の当主となることを命じます。利家は四男ですが、この頃既に信長の下で活躍が認められていたからでしょう。主君の命により、利家は自身が生まれた城の城主となりました。

<石碑と説明板>
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<説明板>
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のちに大出世する利家が、初めて一城の主となった場所ということですね。

<荒子観音山門>仁王門
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荒子城跡近くの荒子観音です。1576年に前田利家によって本堂が再建され、この時に前田利家自身の甲冑も寄贈しているそうです。


■前田慶次ゆかりの城■
『花の慶次』のファンです。荒子城もちょっと関係しているので、触れさせて頂きます。
●前田慶次郎利益●とします
利家の兄である利久は、家督を継いだ際に妻の実家である滝川氏(信長の重臣・滝川一益の一族)から、利益を養子に迎えています。この人物こそ、いわゆる『花の慶次』の前田慶次郎利益ですね。異風を好む傾奇者(かぶきもの)として描かれる慶次が、当時どのような暮らしぶりだったかは分かりませんが、ここ荒子城で過ごしたことは間違いありません。つまり、この地は前田慶次にとってもゆかりの地ということになります。

義理の叔父にあたる前田利家は、『花の慶次』ではちょっと情けないオジサン武将として登場しますが、若いころは派手好みで喧嘩早い傾奇者だったそうです。そう考えると、『花の慶次』における二人の関係は、生涯傾奇者の慶次と、変わってしまった元傾奇者の利家という構図なわけですね。

●奥村助右衛門●
ちなみにですが、その当時の前田家の家老は奥村永福。一般的にはマイナーな武将かも知れませんが、『花の慶次』では助右衛門の名で気骨ある武将として描かれ、慶次の親友とされています。奥村永福は利久に仕えて荒子城の城代を務めていました。信長の命で荒子城が利家のものとなっても、利久の指示があるまで城は渡せないとして抵抗したそうです。主の指示で城を明け渡すと、浪人する道を選びました。(のちに帰参し、前田家のために再び奮闘します)。

■廃城■
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前田利家が1575年に越前国府中(福井県越前市)に移り、続いて利家の長男・利長も1581年に越前に移ったことで、荒子城は廃城となったようです。


■つわものどもが夢の跡■
前田慶次や奥村助右衛門にまで言及させて頂きましたが、やはり荒子城と言えばこの男で締めた方が良いですね。
<前田又左衞門利家>またざえもんとしいえ
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荒子駅前ロータリーの前田利家像です。槍の又左と呼ばれた利家らしい姿です。

<利家とまつ>
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まつもここで幼少期を過ごしています

利家は15歳で織田信長に仕え、赤母衣衆の一員に抜擢され頭角を現します。短気なところもあり、出奔して浪人となった時期もありますが、信長の許しもないまま勝手に桶狭間の戦いに参戦して活躍し、帰参を許されています。利家が兄に代わって荒子城主となるのは、その直後のことでした。まだ傾奇者だった頃ですね。

------■荒子城■------
築城主:前田利昌
築城年: 1544年
城 主:前田利昌
   利久・利家・利長
廃城年:1581年頃
現 況:富士権現社(天満天神宮)
[愛知県名古屋市中川区荒子]4


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