2022年04月06日

白帝城と称された要害の城(犬山城)

犬山城の別称は白帝城。これは川沿いの小高い山に佇むさまが、中国の名城白帝城を連想させることに由来します。名付けの親は江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠です。

<犬山城と木曽川>
Inuyama-Kiso-gawa.JPG
こんな光景になります。左手の山の頂上に小さく映っている天守閣が犬山城、右手の川は木曽川です。天守の直下を川が流れる要害の城ですね。

中国の白帝城は、地形が険しい長江沿いの山頂に築かれた城です。三国史にも登場する有名な城で、政治的にも軍事的にも重要な役割を担いました。全てのご紹介はできませんが、あの劉備玄徳が没した場所としても知られています。犬山城をこの城に例えた荻生徂徠は、長江から白帝城を見上げたことがあつた?わけではなく、白帝城を詠った李白の詩にちなんだようです。中国に詳しい荻生徂徠が白帝城に例えるのですから、賛辞ということですね。

<木曽川>
Kiso-River.JPG
ここは昔でいうところの尾張国と美濃国の境です。白帝城と同じく、犬山城も政治的・軍事的に重要な役割を担いました。

ということで
国宝天守で名高い犬山城の別称についてでした。

<現在の犬山城>
Inuyama-Castle-National-Treasure.jpg

■訪問:犬山城
[愛知県犬山市犬山北古券]

■参考
・Wikipedia:2022/4/6
・犬山城内説明板
 



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4月6日は城の日 犬山城の国宝天守

4月6日は城の日。公益財団法人日本城郭協会が1974年に定めた記念日です。4と6で「しろ」の語呂合せですね。

日本全国には3万を超す城跡があるであろうといわれています。ただ、これらの大半は一般の方がイメージする城とはかけ離れた「土の城」です。これはこれで魅力的ですが、本日は城の日を意識して、「城らしい城」をご紹介させて頂きます。

<犬山城>
Inuyama-Castle-National-Treasure.jpg
天守が国宝に指定されている犬山城です。

天守がある城は全国にたくさんありますが、その多くは復元されたものです。江戸時代までに建築され、現在に至るまで維持されている城は12城しかありません。重要文化財に指定されているこの現存12天守のうち、国宝にも指定されている天守は5城のみ(国宝五城)。犬山城はそのうちの一つなのです。他は松本城、彦根城、姫路城、松江城です。

犬山城は戦国時代には既に存在していましたが、現在のような佇まいとなったのはいつ頃なのでしょうか?諸説ありますが、江戸時代初期という説が有力です。1617年、徳川家の重臣である成瀬正成が城主となり、この頃の改修によって現在の天守の姿ができ上ったと考えられています。

Inuyama-Jo-Stone-Wall.JPG
Inuyama-Castle-Stone-Wal.JPG
現状を維持するだけでも大変そう

これは城好きの間では有名な話ですが、犬山城は平成になっても個人所有の城でした。凄いことですね。所有者は成瀬氏。先述の成瀬正成以降、犬山城主は幕末まで成瀬氏代々が務めました。明治の廃藩置県で城は県の所有となり、天守以外の建物は次々と取り壊されました。そして1891年の大地震(濃尾大地震)により、残された天守も半壊。これを修復することを条件に、犬山城は県から旧藩主である成瀬氏に譲与されました。多額の資金が必要となりますが、成瀬氏と犬山町民が募金を募り、修復に至ったそうです。

Isuke-Twitter (1).jpg
現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。

ということで
国宝の城のご紹介でした。

■訪問:犬山城天守
[愛知県犬山市犬山北古券]


■参考
・Wikipedia:2022/4/6
・犬山城内説明板
 



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2022年03月27日

梶原景時子孫の城跡(犬山市)羽黒城のなごり

つわものどもが夢の跡
鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時の子孫の城跡を訪ねました。

<羽黒城>はぐろじょう
Haguro-Castle-Stone-Monument.JPG
景時の孫である景親がこの地に拠点を築いたこと始まる城です。場所は鎌倉からは遠く離れた愛知県犬山市です。

■梶原景時一族の滅亡■
梶原景時は源頼朝に仕えて鎌倉幕府設立に尽力した人物。頼朝からの信任も厚く、有力御家人としての立ち位置を確立していました。しかし権力者となった景時に反感を持つ御家人たちも多かったようです。頼朝亡きあと鎌倉から追放されてしまい、上洛を目指す途上で一族の大半が討たれ、景時本人も自害となりました。

私は長らく
ここで梶原氏滅亡と思っていました。

今回の訪問がきっかけで、景時の孫が尾張国へ落ち延び、梶原一族の新たな歴史が始まりまったことを知りました。


■梶原景時子孫の城■
一族の多くが亡くなった梶原氏ですが、景時の次男・景高の子である豊丸が羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り、館を構えるに至りました。これが今回訪問の羽黒城の始まりです。梶原氏と尾張国との関係ですが、梶原景時がまだ平家に従っていた頃、尾張国府に下向赴任した経緯があったようです。その経緯が直接影響したかどうかわかりませんが、羽黒は豊丸の乳母(お隅の方)の故郷でもあったようです。

<興禅寺>
Kozenji-Inuyamashi.JPG
羽黒城跡の西側は興禅寺。前身は梶原景時が建立した光善寺で、梶原氏の菩提寺です

居を構えた景親を初代として、羽黒の地は梶原氏代々により統治され続けました。17代・影義の時には織田信長に仕えて、3千石の領主となっていたようです。

ところが、本能寺の変(1582年)により主である信長が死亡。梶原影義も明智軍との戦いで討死したと伝わります。当主の死により梶原氏は滅亡。拠点としていた城も、この時に廃城となりました。

<土塁跡>
Hagurojo-Dorui.JPG
羽黒城跡は住宅地から隔離された竹藪の中にあります。外からはそこが城跡だということは分かりにくいですが、足を踏み入れれば立派な遺構と出会えます。また、土塁は興禅寺側にも一部残っており、もともとは繋がっていたと思われます。

<土塁と曲輪>
Hagurojo-nagori.JPG
城としての全盛期の一部に過ぎないと思いますが、それでもありがたい遺構です

<高低差>
Haguro-castle.JPG
平城ではありますが、土塁により周囲との高低差もあります

<堀跡>
Hagurojo-Hori.JPG
埋められた堀跡でしょうか?

<物見台跡?>
Hagurojo-Monomi.JPG
冒頭の石碑はここを登った先にあります。奥がひときわ高くなっているので、物見櫓を設置した場所なのかもしれません。犬山市には古墳が多く、ここ羽黒城も元々あった古墳の墳丘を利用したとされています

城内はだいたいこんな感じす

■つわものどもが夢の跡■
本能寺の変から2年後、小牧・長久手の戦い(1584年:秀吉vs家康)において、秀吉方がこの地を砦として使用したという記録があります。配下の山内一豊が守ったとのこと。遺構の一部は、この戦いの際に修復されたものも含まれるのかも知れませんね

<つわものどもが夢の跡>
Hagurojo-Inuyama.JPG
最後に羽黒城を守った山内一豊の実母(法秀院)は梶原氏の出です

-------■ 羽黒城 ■-------
別 名:梶原屋敷
築城主:梶原景親
築城年:13世紀初頭
城 主:梶原氏
廃城年:1582年
改 修:1584年
[犬山市羽黒字城屋敷]

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/27
・興禅寺説明板
 



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2020年12月29日

岡崎城のなごり

つわものどもが夢の跡
徳川家康『始まりの城』を訪ねました

<岡崎城>
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復元された岡崎城の天守閣

■龍頭山の砦■りゅうとうざん
15世紀半ば、龍頭山と呼ばれる山に守護代が砦を築いたことが城の始まりと考えられています。この拠点は後に地元三河の豪族である松平氏の支配するところとなり、分家内の争いを経て、徳川家康の祖父・松平清康の城となりました。河岸段丘の先端に位置する砦は、このときに本格的な城へと改修されたようです。

<龍城神社>たつきじんじゃ
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城内に鎮座する神社です。三河国の守護代だった西郷頼嗣(よりつぐ)が砦を築いた際、龍が出現し、井戸から水を噴出させて天に昇ったという伝説が残されています。岡崎城の別名は龍城。

<井戸>
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こちらは冒頭の天守閣近くの井戸。昇龍伝説にちなんで「龍の井」と呼ばれています。

<青海掘>
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本丸北側の堀。本丸下の持仏堂曲輪との間の堀です。名の由来は築城者・西郷頼嗣の法名「青海入道」です。

<天守との高低差>
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この高低差だけでも充分攻め手には厄介です

<内堀>
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当初は現在の本丸を中心とした砦。家康の祖父により二の丸から三の丸付近まで拡張されました。


■徳川家康誕生の城■
岡崎城は徳川家康誕生の城でもあります。

<東照公産湯の井戸>
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1542年、竹千代(家康の幼名)誕生。こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したと伝わります。

<竹千代通り>
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城主の子として生を受けた竹千代ですが、この当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。家康の父・松平広忠は、駿河の今川家を頼る道を選びました。

<竹千代と家康像>
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少年時代と晩年の家康

家康は8歳から19歳まで、今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受け元信、次に元康と名乗りました。その間、父広忠は家臣の謀反により殺害され、岡崎城には今川家の家臣が城代として入りました。つまり岡崎は今川家の支配下となったわけですね。この状態は今川家当主の義元が、織田信長に討たれるまで続きます(1560年:桶狭間の戦い)。

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桶狭間の戦い後、今川家の家臣は岡崎から撤退。家康(この時点ではまだ松平元康)は岡崎城に戻ります。

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今川からの独立を果たした家康は、1566年に徳川と改名しました。


■徳川信康が城主に■
織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなりました。そこで長男の信康に岡崎城を任せ、自らは浜松へ移ります(1570年)。信康は現在では『松平信康』と表記されますが、この時点ではあくまで徳川信康です。いうまでもなく、『信』は信長より与えられた偏諱ですね。

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ただ、信康は織田信長から武田家との内通を疑われてしまいます。家康は自分の長男に切腹を命じることになりました(1579年)。城主が去った岡崎城は、重臣・石川数正が城代を務めました。


■豊臣支配下の岡崎城■
豊臣秀吉率いる大軍が関東の覇者となっていた小田原北条氏を滅ぼすと(1590年)、家康はその関東へ移るよう命じられます。既に三河・駿河・遠江に加えて甲斐・信濃にも勢力を拡大していた徳川家康。どのような思いだったのでしょう。

<家康像>
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岡崎城には、秀吉の家臣・田中吉政が入ることになりました。

<城内の説明板>
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説明板によれば『徳川家康が1590年に関東に移封するまではの岡崎城は、空堀と土塁を巧みに配置した堅固な「土造りの城」でした』とのこと。そして『田中吉政』が城主になって以降、天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます』とあります。改修は江戸時代も続くようですが、近代城郭への生まれれ変わりは豊臣秀吉支配の時に始まるようです。

<縄張り図>
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説明板の縄張り図を拡大。下方向が北です。城のすぐ南を菅生川(乙川)が流れ、小高い丘を本丸とし、二の丸・三の丸が北東に配置された梯郭式の山城(平山城)です。他にも小規模な曲輪が適所に配置され、念入りな縄張りとなっています。これは江戸期の完成形と思われますが、この基盤は豊臣支配下の時に築かれていたと思われます。

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城主となった田中吉政は、もともとの縄張りを引き継いで更に強化したわけですね

この田中吉政ですが、秀吉の甥で関白にもなった秀次の宿老として活躍しています。秀次失脚の際に多くの家臣が連座の罪に問われて処分されるなか、吉政は逆に加増されて10万石の大名となっています(当初5万7,400石)。秀吉から格別の信頼を得ていたということでしょう。

<天守閣>
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当時の天守閣は失われましたが、復元天守がその雰囲気を今に伝えてくれています。3層5階建てのこの天守閣は1959年に建てられました。中は歴史資料館になっています。

<天守台>
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石垣はむかしのものを修復して維持しているようです。

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岡崎城は田中吉政10万石の居城となり、近世城郭へと生まれ変わりました。豊臣方として、関東へ移った徳川家康を牽制する役割を担ったのでしょう

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城内の石垣もこの時代に設けられたと思われます

城のみならず、田中吉政は城下町の整備にも注力しました。東海道は城下町の真ん中を通るように変更され、街道に睨みをきかす重要拠点と位置づけられました。「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道が整備されたのもこの頃です。更に城下町を囲む堀を巡らせ、いわゆる『総構え』としました。豊臣の資金力あってのことですかね?(想像です)いずれにせよ、のちの時代にも活かされる基盤がこの時代に築かれました。


■江戸時代■
関ヶ原の戦い後の徳川政権下では、譜代大名が岡崎城の城主を務めています。時を刻む毎に神格化されていった徳川家康が誕生した場所です。家康が17年居城とした浜松城がそうであるように、特別な城であり続けました。石高と関係なく、岡崎城の城主となることは名誉なことだったでしょう。明治の廃城令により廃城となった時は、本多家が城主を務めていました。家督を継いだ本多忠敬(ただあつ)により、旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。

<本多忠勝像>ほんだ ただかつ
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本多家のご先祖様です。家康に仕え『戦国最強の武将』と呼ばれた英雄ですね。本丸跡の龍城神社には、徳川家康とともに本田忠勝も祀られています。


■岡崎公園■
以下は公園内のご紹介です。テーマパーク的な要素もありながら、確かな遺構が残る魅力的な公園となっています。

<模擬大手門>
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公園の正面玄関です。右手前は国道1号線。岡崎城はもっと広かったので大手門の位置はここではないようですが、訪問者をその気にさせる入口です。

<能楽堂>
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<徳川家康公銅像周辺>
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<松平元康騎馬像>
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こんなユニークなのもあります

<本丸の龍城神社周辺>
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<天守閣周辺>
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<天守付近の堀>
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<太鼓門跡>
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二の丸から天守近くの曲輪(持仏堂曲輪)へ通じるところにあった城門跡

<石垣と武者走り>
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向こう側は深い堀となっています

見どころは多いのですがこのへんにして、最後にちょっと外側をご紹介します

<菅生曲輪>すごうくるわ
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本丸から見て東側の比較的低い区画。現在は広場となっていますが、かつては武家屋敷が建ち並んでいました

<坂谷門跡>
shirononagori503M (1).JPG
本丸から見て西側の区画(坂谷曲輪)にあった門の跡です。左手はいまでこそ川ですが、かつての外堀です


■つわものどもが夢の跡■
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江戸時代には「神君出生の城」として神聖化された岡崎城ですが、それ以前の歴史は生々しく壮絶です。それぞれの時代のつわもの達の思惑が幾重にも連なって今に至っているわけですね。

深い歴史が刻まれた岡崎城は日本100名城に選定されています。

------■ 岡崎城 ■------
別 名:龍城
築城主:西郷稠頼(守護代)
築城年:詳細不明(1455年頃)
改修者:松平清康(家康祖父)
    田中吉政・本多忠利
城 主:西郷氏・松平氏
    田中氏・本多氏・水野氏
廃城年:1873年(明治6)
現 況:岡崎公園
[愛知県岡崎市康生町]
タグ:日本100名城
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岡崎城の堀のなごり(伊賀川)

今回は堀だった川の話です。舞台は『徳川家康生誕の城』として知られる岡崎城。現在は岡崎公園として整備されています。天守閣や堀跡などを見学したあと、公園西側の川沿いをのんびり歩いていたら、こんな光景と出会いました。

<川沿いの石垣>
shirononagori503M (1).JPG
あんなところにも石垣かぁ

<伊賀川>
shirononagori504 (2).JPG
川沿いです。この川を天然の堀として利用していたのだろう

急に決めた訪問であまり予習していなかったので、最初はそう思いました。しかし設置された説明板を見て、ここがかなり重要な場所であることが分かりました。

<説明板と石垣>
shirononagori504 (6).JPG
板谷曲輪?川に面した区画の入口ということか。この石垣は城門のなごりということらしい

<説明板拡大>
shirononagori504 (7).JPG
えっ?川の向こう側まで繋がってたのか?

△が説明板の位置です。現在の川を跨いで外側まで石垣が続き、半円形の馬出しが設けられていたようです。

shirononagori504 (4).JPG
石垣はここで終わりではなく、先まで続いていたわけか

後で分かったのですが、この伊賀川は城の堀跡に付け替えられた人工の川でした。伊賀川そのものは昔からあったのですが、洪水を防ぐために明治以降改修工事がなされ、岡崎城西側の堀を通って南下する流路に変更されたそうです。

shirononagori504 (1).JPG
堤防の向こうに馬出しがあったわけか

堀の役割を果たした川ではなく、川の役割を果たすようになった堀ということですね。つまり堀のなごりです。遺構が豊富な岡崎城跡ですが、他とはちょっと味わいの異なる景色でした。

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■訪問:岡崎城板谷門跡■
(岡崎公園:伊賀川沿い)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月22日

岡崎公園(岡崎城跡)の本多平八郎忠勝像

<本多忠勝像>ほんだ ただかつ
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岡崎公園内の本多忠勝像です。通称は平八郎。徳川四天王のひとりです。鹿角兜と甲冑を身にまとい、長い槍を携えています。

本多平八郎忠勝はここ岡崎の生まれ。幼い頃から家康に仕え、幾多の戦場で巧を立て、家康にとってなくてはならない存在となりました。

<蜻蛉切>どんぼぎり
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忠勝が所持するこの槍は蜻蛉切と呼ばれています。穂先に止まったトンボが真っ二つになったという逸話がその名の由来。これを振り回す本多忠勝は、初陣から大小57回の戦に出向きながら、生涯無傷であったそうです。家康の戦いは決して楽なものばかりではありません。大敗もありました。それでいながら無傷!このあたりが『戦国最強の武将』と呼ばれる所以かもしれません。

豊臣秀吉は
日本第一、古今独歩の勇士
織田信長は
花も実も兼ね備えた武将
と褒めたたえました

<岡崎城>
shirononagori500A (3).jpg
ここ岡崎城は家康生誕の地であり、当時の三河の最重要拠点です。この地に銅像が建つのですから、家康からの信頼厚い忠勝が城を任されたこともあったのでしょう?と現地では思いましたが、ちょっと違っていました。

明治維新を迎えた時、岡崎藩は本多家(本多平八郎家)が治めていました。最後の藩主となった本多忠直の死後、家督を継いだ忠敬(ただあつ)により旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。

<岡崎公園>
shirononagori502 (2).JPG

本多平八郎忠勝の銅像は、本多家の先祖を称える意味でこの地に設置されたわけですね

shirononagori502 (1).JPG
敵味方から賞賛された猛将です

■訪問:本多平八郎忠勝公像
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月13日

岡崎公園(岡崎城跡)の徳川家康しかみ像

本日放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(第36回「訣別」)では、上洛途上にある甲斐の武田信玄が、浜松の徳川家康に攻めかかっている様子が充分すぎるほど伝わってきました。が、家康は登場せず!戦況の報告のみ!残念です!この時の武田信玄対徳川家康の戦い(三方ヶ原の戦い)は、武田軍が約2万7千に対し徳川軍は約7千。織田信長からの援軍3千を含めても徳川方は約1万でした。数で勝る武田軍ですが、家康の居城・浜松城への城攻めは行わず、三方原の台地へおびき出してから野戦で完膚なきまでに徳川・織田の連合軍をたたきました。家康は多くの優秀な家臣を失うこととなり、本人も命からがら浜松へ逃げ帰りました。

<顰像>しかみぞう
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家康が逃げ延びた先は浜松城ですが、こちらの画像は家康生誕の地である岡崎城(岡崎公園)にて撮影したものです。有名な肖像画『徳川家康三方ヶ原戦役画像』をモチーフに造られた家康像が展示されています。

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惨敗した直後の姿です。この時31歳。家康は無謀な戦い方をして大敗した自分の姿を描かせ、その後の教訓としたとされています。家臣の犠牲を代償に生き延びた敗軍の将です。この失敗を生涯忘れず、のちに天下人と成るわけですね

『三方ヶ原の戦い』は、三河一向一揆伊賀越えと並んで徳川家康の三大危機とされています。『麒麟がくる』の主役はあくまで明智光秀ですが、これまで脇役としての家康も要所要所で上手く描かれてきました。新たに登場した武田信玄の迫力も良かったので、ちょっとだけ、ホントにちょっとで良いので、その武田に挑み、負けるとはいえ奮闘する家康及び家臣団の姿が見たかったですね。

ということで
期待して『麒麟がくる』を観ていたが、家康の出番はなかったというお話でした。こんな思いつきの投稿にお付き合い頂き、ありがとうございます。

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岡崎公園には立派な家康像もあります

■画像撮影:
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月12日

東照公産湯の井戸(岡崎城跡)

徳川家康生誕の城として知られる岡崎城跡にて、こんな光景と出会いました。

<東照公産湯の井戸>
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<説明板>
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東照公つまり徳川家康が誕生した時、こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したということですね。場所は岡崎公園の西側。伊賀川沿いの低いところにあります。

<井戸の水>
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産湯の井戸は柵で囲まれたうえに閉じられていますが、こちらの水場で井戸から汲み上げた水に触れることができます。開運スポットとしても人気です。のちに大出世して天下泰平の世を築く人物ですからね。

その当時、家康の父は岡崎城主。そして家康本人は城内で誕生した。

どうしても恵まれた環境を想像してしまいますね。ただ、当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。周辺の大きな勢力に翻弄され続け、その道のりは苦難の連続でした。

<竹千代像>
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家康の幼名は竹千代。幼少を過ごした城であることから、公園内では『竹千代』の名をよく目にします。

三河には松平家の分家が多数存在しますが、家康は安祥松平家の出。安祥城を居城としていましたが、家康の祖父の代に岡崎松平家と対立し、結果として岡崎城を手中に収め(途中は大幅に省略)、拠点を岡崎に移しました。この時点で三河をほぼ支配するに至りながらも、祖父は家臣に暗殺されてしまい、その勢力は徐々に衰えます。家康の父は受け継いだ地を守るべく、駿河の今川義元の助けを得る道を選びました。

駿河の今川家

言わずと知れた巨大な勢力ですね。この存在を抜きに若き日の家康は語れません。8歳から19歳の間、家康は今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受けて元信と名乗り、続いて元康と名乗りました。松平元康です。

<岡崎城>
shirononagori500A (3).jpg

父の死後、家康の生誕地であるここ岡崎城は今川家に接収されてしまいます。その支配は、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるまで続きました。今川義元死後の混乱に乗じて、家康は岡崎城への帰還を果たし、今川家から独立します。そして元康の「元」の字も返上しました。

shirononagori500A (1).jpg
家康がここ岡崎城で生を受けてから19年後のことです

■訪問:東照公産湯の井戸
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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