つわものどもが夢の跡
徳川家康『始まりの城』を訪ねました
<岡崎城>
復元された岡崎城の天守閣
■龍頭山の砦■りゅうとうざん15世紀半ば、龍頭山と呼ばれる山に守護代が砦を築いたことが城の始まりと考えられています。この拠点は後に地元三河の豪族である松平氏の支配するところとなり、分家内の争いを経て、徳川家康の祖父・
松平清康の城となりました。河岸段丘の先端に位置する砦は、このときに本格的な城へと改修されたようです。
<龍城神社>
たつきじんじゃ城内に鎮座する神社です。三河国の守護代だった
西郷頼嗣(よりつぐ)が砦を築いた際、龍が出現し、井戸から水を噴出させて天に昇ったという伝説が残されています。岡崎城の別名は龍城。
<井戸>
こちらは冒頭の天守閣近くの井戸。昇龍伝説にちなんで「龍の井」と呼ばれています。
<青海掘>
本丸北側の堀。本丸下の持仏堂曲輪との間の堀です。名の由来は築城者・西郷頼嗣の法名「青海入道」です。
<天守との高低差>
この高低差だけでも充分攻め手には厄介です
<内堀>
当初は現在の本丸を中心とした砦。家康の祖父により二の丸から三の丸付近まで拡張されました。
■徳川家康誕生の城■岡崎城は
徳川家康誕生の城でもあります。
<東照公産湯の井戸>
1542年、
竹千代(家康の幼名)誕生。こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したと伝わります。
<竹千代通り>
城主の子として生を受けた竹千代ですが、この当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。家康の父・
松平広忠は、駿河の今川家を頼る道を選びました。
<竹千代と家康像>
少年時代と晩年の家康
家康は8歳から19歳まで、今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受け元信、次に
元康と名乗りました。その間、父広忠は家臣の謀反により殺害され、岡崎城には今川家の家臣が城代として入りました。つまり岡崎は今川家の支配下となったわけですね。この状態は今川家当主の義元が、織田信長に討たれるまで続きます(1560年:桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦い後、今川家の家臣は岡崎から撤退。家康(この時点ではまだ松平元康)は岡崎城に戻ります。
今川からの独立を果たした家康は、1566年に徳川と改名しました。
■徳川信康が城主に■織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなりました。そこで長男の信康に岡崎城を任せ、自らは浜松へ移ります(1570年)。信康は現在では『松平信康』と表記されますが、この時点ではあくまで
徳川信康です。いうまでもなく、『信』は信長より与えられた偏諱ですね。
ただ、信康は織田信長から武田家との内通を疑われてしまいます。家康は自分の長男に切腹を命じることになりました(1579年)。城主が去った岡崎城は、重臣・石川数正が城代を務めました。
■豊臣支配下の岡崎城■豊臣秀吉率いる大軍が関東の覇者となっていた小田原北条氏を滅ぼすと(1590年)、家康はその関東へ移るよう命じられます。既に三河・駿河・遠江に加えて甲斐・信濃にも勢力を拡大していた徳川家康。どのような思いだったのでしょう。
<家康像>
岡崎城には、秀吉の家臣・
田中吉政が入ることになりました。
<城内の説明板>
説明板によれば
『徳川家康が1590年に関東に移封するまではの岡崎城は、空堀と土塁を巧みに配置した堅固な「土造りの城」でした』とのこと。そして『
田中吉政』が城主になって以降、天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます』とあります。改修は江戸時代も続くようですが、近世城郭への生まれれ変わりは、豊臣秀吉支配の時に既に始まっていたようです。
<縄張り図>
説明板の縄張り図を拡大。下方向が北です。城のすぐ南を菅生川(乙川)が流れ、小高い丘を本丸とし、二の丸・三の丸が北東に配置された梯郭式の山城(平山城)です。他にも小規模な曲輪が適所に配置され、念入りな縄張りとなっています。これは江戸期の完成形と思われますが、この基盤は豊臣支配下の時に築かれていたと思われます。
城主となった田中吉政は、もともとの縄張りを引き継いで更に強化したわけですね
この田中吉政ですが、秀吉の甥で関白にもなった秀次の宿老として活躍しています。秀次失脚の際に多くの家臣が連座の罪に問われて処分されるなか、吉政は逆に加増されて10万石の大名となっています(当初5万7,400石)。秀吉から格別の信頼を得ていたということでしょう。
<天守閣>
当時の天守閣は失われましたが、復元天守がその雰囲気を今に伝えてくれています。3層5階建てのこの天守閣は1959年に建てられました。中は歴史資料館になっています。
<天守台>
石垣はむかしのものを修復して維持しているようです。
岡崎城は田中吉政10万石の居城となり、近世城郭へと生まれ変わりました。豊臣方として、関東へ移った徳川家康を牽制する役割を担ったのでしょう
城内の石垣もこの時代に設けられたと思われます
城のみならず、田中吉政は
城下町の整備にも注力しました。東海道は城下町の真ん中を通るように変更され、街道に睨みをきかす重要拠点と位置づけられました。「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道が整備されたのもこの頃です。更に城下町を囲む堀を巡らせ、いわゆる『総構え』としました。豊臣の資金力あってのことですかね?(想像です)いずれにせよ、のちの時代にも活かされる基盤がこの時代に築かれました。
■江戸時代■関ヶ原の戦い後の徳川政権下では、譜代大名が岡崎城の城主を務めています。時を刻む毎に神格化されていった徳川家康が誕生した場所です。家康が17年居城とした浜松城がそうであるように、特別な城であり続けました。石高と関係なく、岡崎城の城主となることは名誉なことだったでしょう。明治の廃城令により廃城となった時は、本多家が城主を務めていました。家督を継いだ本多忠敬(ただあつ)により、旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。
<本多忠勝像>
ほんだ ただかつ本多家のご先祖様です。家康に仕え『戦国最強の武将』と呼ばれた英雄ですね。本丸跡の龍城神社には、徳川家康とともに本田忠勝も祀られています。
■岡崎公園■以下は公園内のご紹介です。テーマパーク的な要素もありながら、確かな遺構が残る魅力的な公園となっています。
<模擬大手門>
公園の正面玄関です。右手前は国道1号線。岡崎城はもっと広かったので大手門の位置はここではないようですが、訪問者をその気にさせる入口です。
<能楽堂>
<徳川家康公銅像周辺>
<松平元康騎馬像>
こんなユニークなのもあります
<本丸の龍城神社周辺>
<天守閣周辺>
<天守付近の堀>
<太鼓門跡>
二の丸から天守近くの曲輪(持仏堂曲輪)へ通じるところにあった城門跡
<石垣と武者走り>
向こう側は深い堀となっています
見どころは多いのですがこのへんにして、最後にちょっと外側をご紹介します
<菅生曲輪>
すごうくるわ本丸から見て東側の比較的低い区画。現在は広場となっていますが、かつては武家屋敷が建ち並んでいました
<坂谷門跡>
本丸から見て西側の区画(坂谷曲輪)にあった門の跡です。左手はいまでこそ川ですが、かつての外堀です
■つわものどもが夢の跡■江戸時代には「神君出生の城」として神聖化された岡崎城ですが、それ以前の歴史は生々しく壮絶です。それぞれの時代のつわもの達の思惑が幾重にも連なって今に至っているわけですね。
深い歴史が刻まれた岡崎城は日本100名城に選定されています。
---------■ 岡崎城 ■---------別 名:龍城
築城主:西郷稠頼(守護代)
築城年:詳細不明(1455年頃)
改修者:
松平清康(家康祖父)
田中吉政 本多忠利
城 主:西郷氏 松平氏
田中氏 本多氏 水野氏
廃城年:1873年(明治6)
現 況:岡崎公園
[ 愛知県岡崎市康生町 ]