<伊奈氏屋敷跡>
ここは江戸時代に関東の治水事業で名を馳せた伊奈氏の下屋敷跡です。関東代官伊奈忠治は、この地に約10万坪という広大な土地を与えられました。屋敷内にはのちに将軍家の鷹狩の際の休息所が設けられ、小菅御殿と呼ばれました。
<小菅御殿跡>
8代将軍吉宗の時に造営された御殿は、体の弱かった吉宗の長男で9代将軍となる家重の養生所としても利用されました。
<東京拘置所>
小菅陣屋とも呼ばれる伊奈氏下屋敷の広大な敷地は、現在は日本最大規模の拘置所となっています。立派な施設ですが、撮影は塀だけにしました。冒頭の画像の川は古隅田川跡の水路です。
■伊奈氏■
伊奈氏は徳川幕府のおひざ元である関東において、治水事業や新田開発といった役割を担い、徳川幕府の国造りに深く関与した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、三代目の忠治の活躍によりその地位は不動のものとなります。幕府直轄領約30万石を管轄する伊奈氏の役職は、世襲で12代(約2百年)続くことになります。
■赤山街道■
武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構えた伊奈忠治は、赤山と現場との往来を円滑にするための道を整備しました。赤山街道と呼ばれるこの道は、道筋によって大宮道・越谷道・千住道の3つに分類されます。
<参考画像>
こちらは足立区内で撮影した赤山街道千住道です。赤山陣屋から始まるこの道のゴールが、今回訪問の小菅陣屋でした。
■屋敷取り壊し■
江戸時代初期に盤石の地位を築いた伊奈氏ですが、十二代目の忠尊の時に不祥事により領地を没収されました(1792年)。屋敷跡は幕府所有地となり、御殿も取り払われました。
<拘置所敷地の隅>
東京拘置所の中には入れませんが、敷地の隅に小菅御殿の遺構があり、説明板も設置されています。場所は拘置所正門近く、この電話ボックスが目印です。
<古い説明板>
塀の外側に向かって設置されている説明板ですので撮影可です。ただ、私の訪問時にはちょっと読める状態ではありませんでした。文中に、関東郡代伊奈半左衛門の文字があることは確認できます。現地でややガッカリしましたが、説明板がもうひとつありました。
<旧小菅御殿石灯籠説明板>
葛飾区教育委員会さんによる説明板です。ちょっと撮影しにくかったですが、これなら読めます。せっかくですので、伊奈氏の屋敷に関する部分をそのまま転記させて頂きます。
『現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736)7月、伊奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。』
関東郡代・伊奈氏の屋敷だったことがはっきりと記されていますね。そして将軍の休憩所のことも。伊奈氏の失脚にともなって屋敷も御殿も取り壊されましたが、こちらの説明文によれば『跡地は幕府所有地の小菅御囲地』となり、その後も籾蔵などとして利用されたようです。
<石灯籠>
これが唯一の遺構。しつこい言い方をすると、小菅陣屋の遺構というより、屋敷内に設けられた小菅御殿の遺構です。先ほどの説明によれば『石燈籠は全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています』とのこと。
まぁこれだけだと、過去を想像するにはちょっと物足りない感じもしますが、比較的新しい葛飾区教育委員会さんの説明板が設置されていたことに感謝し、現地をあとにしました。
■訪問:小菅陣屋
(伊奈氏下屋敷)
[東京都葛飾区小菅]
--------■ 参考画像 ■-------
<赤山陣屋跡>
[埼玉県川口市赤山]
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■参考・引用
・現地説明板
(葛飾区教育委員会)
・葛飾区HP
>「かつしか郷土かるた」の札の紹介
>【た】鷹狩に将軍通った小菅御殿
https://www.city.katsushika.lg.jp/kosodate/1002752/1027557/1002848/1002886.html
2024年11月29日
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