以下に抜粋します
『舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり』とのこと。続いて淺野内匠頭の辞世の句です。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ』
田村新交町会さん、ありがとうございます。元禄十四年は西暦1701年。この当時の将軍は第5代の徳川綱吉でした。
日比谷通り沿いのこの場所は、江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡です。将軍綱吉の裁断により、浅野長矩は即日切腹。一関藩田村家上屋敷が、そのまま浅野内匠頭長矩終焉の地となりました。
<浅野内匠頭終焉之地>たくみのかみ
<命日>
[撮影:2022年3月14日]
やむを得ない事情とはいえ、他藩の藩主の身柄を急遽預かった上に、その日のうちに切腹の段取りまでせねばならなかった田村家。その対応については諸説あるようですが、想定していない役割をまっとうせねばならず、混乱の一日だったと思われます。
この大役を任された田村家
そのルーツは、三春城を居城とし、伊達家と深い関りのあった戦国武将の田村家にあります。
<参考画像:三春城>
[福島県田村郡三春町]
三春田村家は、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。強豪揃いの周辺と比較して、決して大きな勢力とは言えませんでしたが、伊達家との繋がりで一定の地位を保っていました。しかし秀吉の奥州仕置により領地は没収。ここで一旦はお家断絶となりました。
初代仙台藩主である伊達政宗の正室・愛姫は、三春城の田村家の出です。愛姫は実家の断絶を嘆き、田村家再興を願ったままこの世を去りました。息子であり、仙台藩の第2代藩主となった伊達忠宗の時代に、孫の宗良(忠宗の三男)が仙台藩62万石のうち3万石を分知されて田村宗良を名乗り、田村家は再興されました(この時は岩沼藩)。後に一関に移り、初代一関藩主となったのが、官位から右京太夫と呼ばれる田村建顕(たつあき)でした。伊達政宗と愛姫のひ孫ですね。
藩主といっても、仙台藩のいわば子分のような小藩であり、更に外様大名という立場です。しかし学問に秀でていた田村建顕は将軍家に重用され、要職に就いていました。
松之大廊下での事件があった当日、いろんな偶然や事情があったにせよ、田村家は幕府から一定の信頼を得ているからこそ、浅野内匠頭の預りを命じられたのでしょう。厄介な話だから外様に振られたのかとも思いましたが、信頼を得ていたと受け止めておきます。
<令和4年3月14日>
今年も春の花が咲き誇っていました
ということで
浅野内匠頭終焉の地となった田村右京太夫屋敷跡と一関藩田村家のルーツのお話でした。
最後に
参考にしたWikiさんから抜粋させて頂くと『田村邸から50mほど離れた別の場所に長矩をしのぶ記念碑が再建』とあります。古地図を参考に現地を歩きましたが、正確な場所の特定はできませんでした。ただ、だいたいこのあたりというのはあっているようなので、納得することにしました。
■訪問:
田村右京太夫屋敷跡
(浅野内匠頭終焉之地碑)
[港区新橋]4丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/14
・説明板(田村新交町会)
お城巡りランキング
-----------(追 記)-----------
当ブログでは浅野内匠頭終焉之地碑について別途投稿しております。良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2019年03月10日
■タイトル:風さそふ
浅野内匠頭終焉の地
→『記事へすすむ』
-----------(追々記)-----------
本文では正確な場所の特定はできなかったとしましたが、こちらのお店は屋敷跡の一部で営業をしています。
<新正堂>
切腹最中で有名な新正堂さんです。お店につきましては前回の投稿で多少ご紹介させて頂いたので、今回は店舗の裏手の有難い場所をご紹介させて頂きます。
<田村銀杏稲荷>たむらいちょういなり
ビルに内包されている田村銀杏稲荷
浅野内匠頭が切腹した田村家上屋敷の庭には大銀杏がありました。しかし関東大震災で焼けてしまい、残った切り株の上にお稲荷さんが祀られたそうです。その稲荷神社も姿を消しましたが、新正堂さんが自費で再建したそうです。
人が意識して残した田村家上屋敷のなごりですね
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