<近藤勇生家跡>
こちらです。現地は調布市と三鷹市の市境付近。標柱と説明板の以外は、勇の産湯に使ったとされる井戸が残っているだけです。
<産湯井戸>
近藤勇はこの地で暮らす百姓・宮川家の三男として生まれ、のちに近藤家の養子となりました。
<説明板>
調布市教育委員会さんによる分かり安い説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文:改行省略)。
『この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。』
生涯でいろいろな名のある近藤勇の最初の名は宮川勝五郎。のちに養父となる天然理心流・近藤周助に15歳で入門しました。実父の宮川久次郎は比較的裕福な百姓であったようで、屋敷がそうとう広かったことが説明文から伝わってきます。
現在の生家跡は、広い屋敷内の隅っこのごく一部。更に農地もあったのですから、感覚的には、この付近一帯が近藤勇が生まれた場所と受け止めることにしました。宮川家は屋敷の一部を道場として提供するなどしたため、付近の出稽古先として賑わったそうです。近藤勇というと、師匠であり養父である近藤周助の話をよく耳にしますが、実家である宮川家も、剣豪が育つに相応しい環境だったように思えます。
説明文によれば、昭和18年までは家が残っていたようです。ここは調布飛行場の近く。当時の陸軍機の離着陸の都合で取り壊されたようです。
<もうひとつの説明板>
説明板はもうひとつ設置されています。宮川家の説明から始まり、天然理心流入門や4代目襲名、そして板橋で処刑されたことなどが経緯も含めて紹介されています。左側には宮川家の写真や復元図なども掲載されているのですが、私の訪問時にはちょっと色あせておりました。この説明板だと、宮川家は裕福というより、村の中間層だったことになります。どっちみち諸説あるので、私は「比較的恵まれた環境」というふうに理解したいと思います。
そして
<近藤神社>
こちらは生家跡のすぐお隣の近藤神社です。昭和元年、有志の手により建てられました。言うまでもなく、近藤勇が祀られています。
実は
事前のネット検索で見た近藤神社には、木製の鳥居がありましたが、私の訪問時(2024年8月18日)にはありませんでした。
<鳥居の跡>
事情はわかりませんが、鳥居は根元からなくなっています。きちんと切断された断面を見ると、割れ目が柱の内部にまで至っているように見えます。古い木製の鳥居でしたので、付け替えるのかもしれませんね(そう思うことにしたというだけです)。
<近藤勇生家跡と近藤神社>
ということで
近藤勇生家跡と近藤神社のご紹介でした。
<人見街道沿い>
現地は道路に面しています。ここから徒歩数分のところに、近藤勇墓所である龍源寺があります。
■訪問:近藤勇生家跡
[東京都調布市野水]1-6-8
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■参考・出典
・Wikipedia:2024/8/23
・現地説明板
(調布市教育委員会)
・調布観光ナビHP
>近藤勇生家跡
https://csa.gr.jp/contents/16004
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