<天桂寺墓所>てんけいじ
沼田市天桂寺の墓所です。奥が真田信吉のお墓です。一般の方のお墓もありますので、画像は多少加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
約3メートルの宝篋印塔。近くで見るとかなり大きいです。沼田市の重要文化財に指定されています。
真田信吉は信之の長男です。生年には諸説ありますが、一般的に1595年とされています。実母についても諸説ありますが、清音院殿(せいいんいんでん)とするのが一般的です。
清音院殿は真田信綱の娘。信綱は、信之の父である昌幸の兄ですので、いとこ同士の夫婦ということになります。清音院殿は正室という立場でしたが、のちに本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)が信之の正室として迎えられたため、側室となっています。こういった経緯もあり、真田信吉の実母を稲姫とする説もあります(現地説明板では大蓮院=稲姫と記されています)。ちょっと複雑ですね。
ただまぁ、信吉が戦国屈指の知略の将・真田昌幸の孫であり、存亡をかけた局面を乗り切って真田家を守った信之の嫡子であることははっきりしています。
祖父や父と比較してしまうと地味な存在ですが、信吉は体調不良の父に代わり、大坂冬・夏の陣に弟の信政とともに出陣しています。上田へ移った信之に代わり、沼田3万石を任されているのですから、後継者として期待されていたことがよく分かりますね。この構図は、祖父・昌幸が父・信之に沼田を任せたのと同じです。
<真田河内守信吉の墓>かわちのかみ
こちらの説明板には『2代沼田藩主』と記されています。その通りなのですが、当時の沼田は正式には独立した藩ではなく、本家である松代藩の分領でした。ただ信吉が沼田の地を任されていたことは事実であり、やがては松代藩主となることが自然な流れだったのかもしれません。
ところが
父である信之が、当時としては異例の93歳まで生きたのに対し、信吉は40歳の若さで亡くなってしまいました。信之は高齢を理由に、幕府に何度も隠居を願い出ていたのですが、なかなか認められない状態が続いていました。戦国時代を知る最後の武将として、真田信之が将軍家から一目置かれていたことも影響したかもしれません。その結果、既に沼田城主となっていた信吉が、父から藩主の座を譲られることはありませんでした。
説明板には『四十歳で江戸屋敷にて没し沼田の迦葉山で火葬、天桂寺に葬られた』とあります。亡骸は江戸から沼田に運ばれ、丁重に葬られたわけですね。のちに信吉の弟・信政が、信濃松代藩第2代藩主となっています。
■訪問:
真田信吉の墓(天桂寺)
[群馬県沼田市材木町]144
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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/9/16
・沼田市HP
>市指定文化財>真田河内守信吉の墓
https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/shi/1000853.html
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