<斎藤実盛像>さいとうさねもり
実盛が開創した熊谷市の妻沼聖天山で撮影しました。
斎藤実盛が生きた時代は平安時代末期。藤原利仁の流れを汲む河合則盛の子として越前国で生まれ、13歳の時に武蔵国の長井庄(現在の熊谷市)の荘官である斉藤実直の養子となりました。
■ 源氏に仕える ■
斎藤実盛は相模国を本拠とする源義朝に仕えたのち、その弟である源義賢に仕えます。しかし武蔵国をめぐる争いから、義賢は甥(義朝の子・義平)に討たれてしまいます(大蔵合戦)。斎藤実盛は再び義朝に仕えることになりますが、旧恩を忘れず、義賢の遺児を預かり、殺害命令に背いて信濃国の中原兼遠の元へ逃がしました。実盛が命を救った義賢の子・駒王丸こそが、のちの木曾義仲です。
■ 平家に仕える ■
源平が京都を舞台に争った平治の乱(1159年)において源氏は大敗。源義朝は落ち延びる途上で命を落とし、義朝に仕えていた実盛は長井庄へ戻りました。長井庄は平家の領地となりましたが、実盛は別当として管理・統治を任され、開拓や治水などを押し進めました。もともとの本拠である長井庄の別当となって以降、実盛は源平が争う時には、常に平家方に尽くすことになります。
■ 斎藤実盛の最期 ■
既に晩年を迎えていた斎藤実盛は、平維盛(清盛からみて孫)が源氏の木曾義仲を討つべく北陸に兵を進めると、総大将に忠誠を尽くすべく平家軍に加わります。平家軍は十万とも言われ、数の上では圧倒的に勝っていたものの、木曾義仲の奇襲により大敗。平維盛は京へと敗走します。斎藤実盛は総大将を逃がすべく奮戦し、源氏の武将・手塚太郎光盛によって討ち取られました。寿永2年6月1日(1183年6月22日)。実盛はこの時すでに73歳でした。
<右手に筆・左手に鏡>
実盛は老齢を敵に悟られぬよう白髪を墨で染めて戦に臨みました。この像はその時の様子を表したものです。
大将格の出で立ちでありながら、従う者もなく、名乗れと言われても決して名を名乗らなかった平家の武将。報告を受けた木曾義仲が、討ち取った首を池で洗わせたところ、黒髪は白髪に変わり、斎藤実盛であることが分かりました。義仲は幼き日の命の恩人を討ち取ってしまったことを知り、人目もはばからず涙したと伝わります。
斎藤実盛、そして木曾義仲
ともに義理人情に厚い武将ですね
<妻沼聖天山歓喜院>
斎藤実盛が自らの守り本尊である大聖歓喜天を祀ったことに始まる妻沼聖天山
<歓喜院聖天堂>
江戸時代(1760年)に建立された聖天堂は国宝に指定されています。
■訪問:斎藤別当実盛像
(妻沼聖天山歓喜院)
[埼玉県熊谷市妻沼]1511
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■参考
・Wikipedia:2024/6/1
・妻沼聖天山歓喜院HP
>斎藤別当実盛公伝
http://www.ksky.ne.jp/~shouden/sanemori.html
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