一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。
<勝願寺本堂>
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。
なぜ鴻巣に?
<眞田小松姫の墓の説明板>
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。
ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。
<小松姫の説明板>
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。
ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?
実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。
ただ
こんな偶然もあるのですね
<墓所>
やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。
そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。
小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。
■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
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■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
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