2022年08月07日

赤山街道大宮道のゴール地点(さいたま市西区)

久しぶりに永田陣屋跡を訪ねました
<永田陣屋>
Nagayamon-Gate-Nagata-jinya.JPG
徳川家康の古くからの家臣・伊奈忠次が設けた陣屋跡です。忠次は荒川水系の治水と灌漑のために、ここに拠点を築いたとされています。

前回は純粋に陣屋跡として訪問しました。今回は赤山街道のゴール地点であることを意識しての再訪となります。

<赤山街道>
akayamakaido.JPG
一見ただの道路ですが、古くからある街道です。冒頭の陣屋を築いた伊奈忠次から、幕府領を管轄する役割を引き継いだ伊奈忠治により造られました。人の往来や物資輸送を円滑にするためのこの道は、忠治の本拠である赤山陣屋へ繋がることから、赤山街道と呼ばれています。

■赤山街道大宮道■
赤山陣屋を中心に整備された赤山街道は、方角からそれぞれ大宮道・千住道・越谷道と呼ばれています。このうち大宮道は、現在の川口市から旧浦和市・旧与野市を経由して、旧大宮市西部へつながる道筋です。

<永田陣屋>
Nagata-jinya-Saitama.JPG
大宮道のゴールであるこの陣屋跡は、現在の住所だと、さいたま市西区土屋になります。地名から土屋陣屋とも呼ばれています。

<永田家長屋門>
Nagatajinya-Nagayamon-Gate.JPG
この立派な長屋門は、さいたま市の指定有形文化財となっています。維持するだけでも大変そうです。

<忍び返し>
Security-Equipment-Nagata-jinya.JPG
屋根伝いの侵入者を防ぐ仕掛けです

<長屋門の内側>
Nagata-jinya-Exhibits.JPG
長屋門の内側に吊るされた籠。下から見ると造りがよくわかりますね

陣屋跡は、伊奈氏とともにこの地域の基盤造りに尽力した家臣の永田氏に受け継がれ、今に至ります。外周に堀ものこされており見応えがありますが、あくまで個人宅ですので、訪問される方はその辺りの配慮が必要ですね。

<屋敷の堀>
Nagata-jinya-moat.JPG


さて
陣屋の周辺もご紹介させて頂きます。伊奈氏の治水事業・新田開発の恩恵を受けて形成された農村のなごりです。

<氷川神社>ひかわじんじゃ
shrine-nisi-asuma-Hikawajinja.JPG
陣屋跡近くの氷川神社です。氷川神社の本社は現在の大宮区。荒川流域を中心に多数分布している神社です。

<西遊馬氷川神社拝殿>にしあすま
shrine-nisi-asuma.JPG
遊馬は「あすま」と読みます。大宮と川越の中間に位置するこの周辺には、古くから人の暮らしがあり、戦国時代には既に遊馬郷として成立していたそうです。神社もその頃の創建ではないかと考えられています。

<本殿>
main-shrine-nisi-asuma-hikawa.JPG

<遊馬の力石>
nishiasuma-chikaraishi.JPG
米の収穫を祝う力比べに使われた力石が鳥居の脇に並べられています

<力石の説明板>
Hikawajinja-information.JPG
ここにも記載されていますが、ここ遊馬は、伊奈忠次による荒川の瀬替えの恩恵を受けて発展しました。豊かになるほど人が集まる。文化が根付く。力石の行事も、その一環といえますね。

<力石>
nishiasuma-chikaraishi-.JPG
男達の汗が染み込んだ石

<大宮・川越道歴史散歩コース>
nishiasuma-information.JPG
境内に設置されている歴史散歩コースに関する説明板(さいたま市教育委員会)にも、氷川神社が遊馬村の鎮守であることが記されています。『宿の氷川様』と呼び親しまれていたとのこと。『宿』と呼ばれるところは、宿場のように道の両側に集落が形成されている場合が多いですね。ここもそうだったようです。

つづいて
そんな遊馬の古い寺院

<高城寺>こうじょうじ
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1543年(天文12年)の開創と伝わる古い寺院です。先ほどの氷川神社ののすぐ近くです。

<鐘楼門>
kojoji-belltowergate.JPG
山門を抜けると正面に鐘楼門

<本堂>
kojoji-temple.JPG
立派な寺院です

遊馬山と号するこのお寺は、江戸時代後期には寺子屋が開かれたそうです。むかしの遊馬の中心地といえますね。

<境内>
kojoji-precincts.JPG
石塔が並んでいます

<門前>
kojoji-stone- Buddha.JPG
こちらは山門右手覆屋の庚申塔。青面金剛立像ですね。

<説明板>
Arakawa-Stone-Buddha.JPG
説明板によれば、もともとは荒川の土手に立っていましたが、平成20年の堤防拡張工事のため、高城寺の敷地内に移され、土手外にあった当時の面影、雰囲気を住職が再現しましたものとのこと。

荒川の恩恵で人が集まり、その人たちが願いを込めた石仏が、荒川の都合で立ち退かなくてはならない。

何となく釈然としなかったのですが、説明文の最後の『これも世の流れ、すべてのものごとは移り変わってゆく「無常」というものを感じ、これからも変わらずお参りしていただくことを願います』というお言葉に、心が和みました。

ということで
赤山街道大宮道のゴール付近の陣屋、そしてほんの一部ではありますが、その周辺に根付いた人の営みのお話でした。

<赤山街道大宮道>
akayamakaido-to-akayamajinya.JPG

<陣屋跡>
Nagayamon-Nagatajinya.JPG


川が好きなように流れ、あちこちで氾濫を繰り返す関東平野では、この対策とともに、いかに水を利用するかが課題でした。徳川家康の命でこれに立ち向かったのが伊奈忠次であり、息子の忠治でした。その活動の拠点、インフラとして整備された街道、そしてその恩恵を受けて成立したひとの暮らしを同時に感じることができ、とても満足な訪問となりました。

-------■ 永田陣屋 ■-------
別 名:伊奈陣屋・土屋陣屋
築城年:(江戸時代初期)
築城者:伊奈忠次
城 主:伊奈氏・永田氏
[さいたま市西区土屋]5番地

■参考及び出典
Wikipedia:2022/8/7
現地説明板
・西遊馬氷川神社
・高城寺
大宮・川越道歴史散歩コース説明板
(さいたま市教育委員会)


■当ブログの過去記事
投稿:2018年12月10日
タイトル:永田陣屋
  伊奈忠次が築いた陣屋跡
→記事へすすむ


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2022年07月03日

もうひとつの栗橋関所跡(日光街道)房川渡中田関所跡

日光街道の栗橋関所はじまりの地を訪ねました。

<中田御関所跡>
Bousen-Nakata-Osekishyo.JPG
こちらです。場所は現在の古河市中田。関所はまずここに設けられ、のちに利根川対岸の栗橋に移されたそうです。

<説明板>
Nakata-Osekisyoato-Explanationboard.JPG
こちらに『房川渡と中田御関所跡』と題して詳細な説明が記されています。古河市教育委員会さんの文を以下に転記させて頂きます。

『江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。』



関東平野にはたくさんの川がありますが、そこ横断する日光街道において、関所と渡船場が併設されていたのはここだけだったようです。利根川のうち、ここ中田と対岸の栗橋の間の流れを房川(ぼうせん)とよんだことから、渡船場は房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれ、関所は渡とセットで房川渡中田関所と呼ばれていたと解釈しました。やがて関所は対岸の栗橋側に移されることになり、栗橋関所と呼ばれましたが、正式名称は房川渡中田御関所のままであったようです。いずれにせよ、江戸の北の守りを長きに渡って担った関所の始まりは、この地点だったわけです。

Nakata-Osekisyoato-Street.JPG
関所跡をかすめるこの道はそのまま旧中田宿のメインストリートになります

ということで
房川渡中田関所跡のご紹介でした

Post-station-entrance.JPG
日光街道が利根川と交差する地点の関所はここから始まりました

■訪問:
房川渡中田関所跡

(房川渡と中田御関所跡)
[茨城県古河市中田]

■参考及び出典
現地説明板(古河市教育委員会)



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利根川橋を歩いて渡る(日光街道)房川に架かる橋

<利根川橋>
Tone-River-Bridge.JPG
利根川に架かる利根川橋です。そのままですね。今回はそこを歩いて渡ってみたというだけのお話です。

この日は埼玉県久喜市の栗橋関所跡を訪問しました。満足しかけた時、現地でのネット検索で、利根川を渡った先にも関所跡があることを知り、橋を渡ることとなりました。

<利根川>
Tone-River.JPG
ここは埼玉と茨城の県堺

Tonegawabashi.JPG


橋を渡る途中
欄干に備えつけられたレリーフに足が止まりました

<埼玉県の県の鳥>
Relief-Saitama-Prefecture-symbol-Shirokobato.JPG
シラコバトか

私は埼玉県民なので、県の鳥がシラコバトであることは知っています。この橋は埼玉と茨城を結ぶ橋ですので、次に現れるであろう光景に少しだけ期待が膨らみました。長い橋をただ歩いているだけです。普通なら気にもとめないことが、ちょっとした楽しみに感じられました。

Tone-River.JPG
県境付近

そして

<茨城県の県の鳥>
Relief-Ibaraki-Prefecture-symbol- Hibari.JPG
やはりあったか

予想通り。ただ、茨城の県の鳥がヒバリということは知りませんでした


利根川のこの付近、つまり埼玉県久喜市と茨城県古河市の間の流れは、かつて房川(ぼうせん)と呼ばれていました。江戸時代には軍事的な意味から橋が架けられなかったため、房川には渡船場が設けられました。そして、人の出入りを監視する関所も。関所は江戸時代を通して栗橋宿(現在の久喜市)側にありましたが、最初は対岸の中田宿(古河市)側にあり、房川渡中田関所と呼ばれていたそうです。

<中田宿へ続く道>
To-Post-Station.JPG
利根川橋を渡ってすぐに左折すると、目的地が見えてきました。道が折れ曲がったところが関所跡です。このご紹介は次の投稿にします。

ということで
かつての栗橋宿と中田宿の間に架かる橋を、歩いて渡ってみたというだけのお話でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

Tonegawabashi-Nameplate.JPG

■訪問:利根川橋
[埼玉県久喜市栗橋北]
[茨城県古河市中田]
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2022年06月30日

梅澤太郎右衛門の墓(久喜市)将軍の渡河を助け、やがて関東郡代の家臣となった男

日光街道で第二代将軍・徳川秀忠の渡河を助け、やがては関東郡代・伊奈忠治の家臣となった男の話です。

その名も
梅澤太郎右衛門

といっても
訪問先で初めて知った名ですので、恒例により現地の説明板を頼りました。
<浄信寺>
Kukishi-Kuruhashi-Josinji.JPG
埼玉県久喜市の浄信寺です。境内に設置してある「梅澤太郎右衛門の墓」に関する説明板で概要を理解しました。
<説明板>
Bunkazai-Umezawa-Tarouemon-no-Haka.JPG
久喜市教育委員会さんの説明を以下に転記させて頂きます。

『梅澤氏の祖先は菅原氏である。その後、北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名のった。
小田原城没落後、相模国梅澤村に住み、姓を梅澤氏と改めた。その子太郎右衛門の時、慶弔五年(一六〇〇年)に栗橋(栗餅下)に移住し開墾に従事した。
元和元年(一六二二年)四月、徳川二代将軍秀忠公日光東照宮社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなった。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、いのちがけでこの橋の安全を守り、災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇及びお墨付をくだされた。この折梅澤氏は、名字、帯刀を許されたという。』


ご先祖は相模国の武士だったようですね。関東覇者だった小田原北条氏が滅びると名を改め、太郎右衛門の代で栗橋へ移り、原野に挑んで耕地の開拓に従事。将軍の渡河に際して、『人夫を率いて水中に入り』とあるので、この時には既にリーダー的な存在だったのでしょう。それにしても、防衛上の理由で利根川に橋がなかったことは承知していましたが、将軍が通る時に船を繋いで橋としたことは初めて知りました。この船橋に、天候に起因して降りかかりそうになった災難を、身を挺して防いだことで、幕臣である伊奈忠治を通じて褒美を授かった。納得です。

文中の貞宗は刀工として名高い正宗の子ですので、さぞ高価なものなのでしょう。まぁこの場合は値段より名誉の問題ですね。

そして、関東郡代の伊奈忠治この人は関八州の幕府直轄領(約30万石)を任された代官です。関東の治水事業と新田開発で幕府の財政を下支えしたことで、後世に語り継がれる存在となりました。説明文には記載がありませんが、久喜市のホームページによれば、梅澤太郎右衛門はやがて伊奈忠治の家臣となり、その子孫は代々栗橋宿の名主を勤めました。伊奈忠治との出会いにより、その子孫も宿場内の指導者的役割を果たしたということですね。

<梅澤太郎右衛門の墓>
Umezawa-Tarouemon-Grave-Stone.JPG
当ブログではなるべく墓石は避けるようにしていますが、久喜市指定の文化財ということで掲載させて頂きます。

ところで
文献などを読んで感じるのは、伊奈忠治の活躍が治水や新田開発だけでなく、かなり広範囲に及んでいるということです。そんなに何でも一人でできるのか?ここからはかなり主観が入りますが、伊奈忠治という人は、それぞれの領域で、人を育てることが上手だったように思えます。なんでも手取り足取り指導するというのではなく、その現場を任せられるようなリーダーを作り上げることが上手かったような印象があります。事情を知る者を抜擢するからこそ、領民からの評判も良かったのだと思っています。

こまかな事情はわかりませんが、梅澤太郎右衛門もそんな伊奈忠治の目にかなった人物だったのではないでしょうか?

ということで
将軍の渡河を助け、やがては関東郡代の家臣となった男の話でした。

最後に簡単ではありますが、梅澤太郎右衛門が建てたとも伝わる浄信寺さんの境内をご紹介して終わりにします。

<山門>
Kurihashi-Josinji-Gate.JPG
左手には八福神の幟が見えます。八福神?久喜市栗橋地区では通常の七福神に吉祥天を加えて八福神と呼びます。ここ浄信寺には寿老人が祀られています。

<境内>
Josinji-Main.JPG
Josinji-Hall.JPG
緑に囲まれた重厚な本堂

<扁額>
Josinji-Hengaku.JPG
無量山帰命院浄信寺と号します

<墓所入口>
Josinji-Cemetery.JPG
梅澤太郎右衛門の墓に関する説明板は墓所の入り口に設置されています

■訪問:浄信寺
(梅澤太郎右衛門の墓)
[埼玉県久喜市栗橋東]3丁目

■参考及び出典
現地説明板(久喜市教育委員会)
久喜市ホームページ
・梅澤太郎右衛門の墓

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi26.html


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深廣寺の六角名号塔(日光街道)栗橋宿の名刹

今回は旧日光街道栗橋宿を訪ねた時に知った深廣寺の話です。

<深廣寺>じんこうじ
Kurihashi-Jinkoji-Hall.JPG
重厚な佇まいです。栗橋宿の開拓に尽力した並木五良平光盛が開基し、無涯閑栄(むがいかんえい)上人が開山しました。

<無涯山>
Jinkoji-Hengaku.JPG
無涯山単信院深廣寺と号する栗橋を代表する寺院です。

さて
歴史ある寺院をこんな拙ブログで解説することはできませんが、誰が見ても驚くであろう石塔に話を絞ってご紹介させて頂きます。

<六角名号塔>
Cultural-property-Jinkoji.JPG
こちらが久喜市の文化財に指定されている六角名号塔

<南無阿弥陀仏>
Cultural-property-Jinkoji-Rokkaku.JPG
南無阿弥陀仏の文字が刻まれています

深廣寺二代目住職の単信(たんしん)上人により建立されました。生ける者が迷いの世界から解放されることを願い、近隣の村々の豊作と繁栄を祈り、数年掛かりで建立した千人供養塔です。高さが約3.6mあるそうです。

言い伝えによれば、単信上人は幕府の許可を得て、実際に石材の産地として知られる伊豆に渡ったそうです。伊豆から内陸地の栗橋までは相当な距離ですが、巨大な石は舟で運ばれ、海を経由して利根川をさかのぼり、栗橋まで運ばれたそうです。これは1654年から1657年頃の話。むかしの日本人は凄いことをしますね。

ということで
栗橋を代表する深廣寺の石塔のご紹介でした。下記に記します久喜市さんのホームページを記しておきますので、ご興味のある方はそちらを参考にして下さい。

Kurihashi-Jinkoji.JPG

■訪問:深廣寺
(六角名号塔)
[埼玉県久喜市栗橋東]3丁目

■参考及び出典
久喜氏ホームページ
>美術広報連載久喜歴史だより>単信上人の祈りが込められた六角名号塔

https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi33.html
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2022年06月26日

関所番士屋敷跡(日光街道)栗橋関所の番人たち

(栗橋関所址の追記です)
<関所番士屋敷跡>せきしょばんしやしきあと
Sekisyobanshiyashikiato.JPG
Explanation- board-Sekisyobanshiyashikiato.JPG
栗橋関所の番人たちが住んだ屋敷に関する説明板です。文面によれば、関所の番人は4名による交代制であったようです。

栗橋の関は伊奈忠次の管轄でした。関東の治水事業他で徳川幕府を下支えした家康の家臣ですね。のちに老中の管轄下となったあと、忠次の子で、幕府内での役割を継承した伊奈忠治が支配することとなりました。

実は、正式に幕府の「関所」となった時期は不明です。ただこの説明板にもある通り、1624年に関東郡代である伊奈忠治が番人4名を召し抱えたことだけははっきりしています。根拠が明らかなことから、関所創設をこの時と定義する文献も見受けられます。

Kurihashi-Sekisyo-Banshi-Yashikiato.JPG
実際の屋敷跡はここより更に利根川の堤防よりのようですが、この付近であったことは間違いなさそうです。

当時は画像のようなダイナミックな堤防はありません。川に近い番屋敷は何度も水の被害にあったようです。冒頭の説明板から抜粋させて頂くと『各家敷地とも高く盛土』されていたとのこと。屋敷跡はもう残されていませんが、発掘調査で明らかになっています。

伊奈忠治の召し抱えた冨田・新井・佐々木・森の4家から始まり、基本的には家が役割を代々継承しました。江戸時代は長いので交代などもあり、明治になって関所が廃止された時点では、冨田家・島田家・足立家・加藤家が番人を勤めていました。

江戸時代を通じて、日光街道の役割はどんどん大きくなり、人や物資の通行量はあきらかに増えたと思いますが、4名体制は変わらなかったのですね。

仕事が増えたんだから人増やせ!

私ならいいそうですが、言わなかったのでしょうね。それどころか、幕末になって政情が不安定になると、関所番の4家では剣術を習い始める人もいたそうです。己の役割を全うしようという心意気のようなものが伝わってくるようです。

ということで
栗橋関所の番人たちと、その屋敷跡のご紹介でした。わかりやすく番人と言わせて頂きましたが、最後に江戸の北を守った「関所番士」と呼ばせて頂きます。

■訪問:関所番士屋敷跡
(2022年5月現在)
[埼玉県久喜市栗橋北]

■参考
現地説明板(久喜市教育委員会)
久喜市ホームページ
・関所番士と神道無念流

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/dai121kai.html

■関所番士に関するお勧めサイト
久喜市図書館
(久喜市デジタルアーカイブ)
・島田家文書

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1123215100/1123215100200010/ht000010


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栗橋関所址(日光街道)入鉄砲に出女を監視した利根川渡しの関所

日光街道利根川に差し掛かる地点に設けられた関所跡を訪ねました。

<栗橋関所址>
Kurihashi-Sekisho- Monument.JPG
立派な石碑です。

<記念碑と説明板>
Kurihashi-Sekishoato.JPG
説明板によれば、石碑に刻まれた文字は徳川宗家16代当主の徳川家達の書とのこと。関所そのものの姿はもうありませんが、ここ栗橋の地にかつて関所があったなごりです。後ろに見えている堤防の向こう側は利根川です。

栗橋に関所が設けられたのは江戸時代初期。よく「入鉄砲に出女」という言葉を耳にしますが、これは江戸時代の関所の役割を端的に表していると思います。江戸に鉄砲を持ち込まないか、あるいは人質である諸大名の妻子が江戸から国元へ逃げないか。行き交う人を厳重に取り締まりました。

関所というと、税の徴収などもやっているようなイメージがありますが、江戸時代に設けられた関所はあくまで警備が目的。人や馬、運搬される物資を念入りに調べたようです。

<利根川橋>
Tone-River-Bridge.JPG
いまはこの橋で川を渡れますが、防衛の観点から、江戸時代には橋は架けられませんでした

橋がない
船で渡るしかありませんね

日光街道の宿場となった栗橋と対岸の中田(茨城県古河市)の間に渡船場が設けられました。栗橋の関所は渡船場の前に設置されましたので、避けて通るわけにはいきませんね。この渡船場の名から、関所は房川渡中田御関所と呼ばれていました。房川とはこの区間の利根川のことです。


さて
せっかくここまで来たので、宿場跡も散策してきました。その一部をご紹介させて頂きます。

<栗橋宿>くりはしじゅく
kurihashi-syuku.JPG
日光街道栗橋宿。江戸時代以前に北へ向かう主要街道は別ルート(奥州街道)だったので、日光街道の整備とともに成立した(いわば移転してきた)宿場です。日本橋から数えて7番目の宿で、対岸の中田宿と合宿の形態をとっていました(セットで交代交代に役割を果たすという意味です)。

<現在の栗橋>
Kurihashi-Post-Station.JPG
街道が利根川と交差する地点の宿場跡。この通りそのものが宿場町のなごりですね

<ちょっと立ち寄り>
twitter220528-Isuke.jpg
Ishikura-Kurihashi.JPG
こちらはあまりに立派だったので足を止めた石の蔵。本陣跡は工事中で近づけませんでしたが、その近くで良い景色と出会えました。表札からして、栗橋宿の開拓者に名を連ねた方のご子孫かとも思いましたが、あくまで個人宅なのでこのヘンでやめておきます。

<深廣寺>じんこうじ
Old-temple-Kurihashi.JPG
こちらは宿場と深い関りのある深廣寺さん

<無涯山單信院> むがいさんたんしんいん
Kurihashi-Jinkoji.JPG
無涯山単信院深廣寺と号する栗橋を代表する名刹です。小田原北条氏の元家臣で、栗橋宿の開拓に尽力した並木五良平光盛が開基とされています。

<深廣寺六角名号塔>
Cultural-property-Jinkoji.JPG
南無阿弥陀仏と彫られた21基の六角形の石塔。かなり大きいです。石は江戸時代に伊豆から船で運ばれたそうです。久喜市の指定有形文化財です。


<栗橋の町並み>
Post-town-on-Nikkokaido.JPG
関所と宿場があった栗橋。いろんな人がいろんな思いで行き交った通りということですね


ところで
<記念碑の設置場所>
Temporary- Place-Kurihashi-Sekisho.JPG
記念碑そのものは立派ですが、周辺が若干寂しい光景です。これには訳があります。ここは旧栗橋町商工会館跡地で、もともと別のところに設置されていた記念碑が、利根川堤防強化事業の影響でこの地に移されたとのことです(久喜市ホームページより)。ここはいわば仮の場所ということですね(2022年5月現在)。

<碑建立記念写真>
Old-photograph-Kurihashi-Sekisho-Kinenhi.JPG
説明板に掲載されている古い写真。利根川橋が開通した大正13年に碑が建てられたので、その時のものです。関所そのものの遺構が残っているわけではないので、この記念碑が設置される場所が旧跡となります。堤防工事が終了すれば、別な場所に移されることとなりそうですが、とりあえず、旧跡の象徴たる記念碑を訪ねることができたので満足な訪問となりました。


最後に

<関所番士屋敷跡>せきしょばんしやしきあと
Sekisyobanshiyashikiato.JPG
こちらは関所の番人たちが住んだ屋敷跡です。人と物の往来を監視することが仕事と言ってしまえばそれまでですが、栗橋は数ある関所の中でも重要地点です。更に、大名や幕府のお偉いさんの送迎などにも気を使ったことでしょう。屋敷そのものは残っていませんが、この説明板がかつて任務を全うした人たちのなごりとなっています。

ということで
利根川沿いの栗橋関所のご紹介でした。

■訪問:栗橋関所址記念碑
(2022年5月現在)
[埼玉県久喜市栗橋北2丁目]5-19


■参考
現地説明板(久喜市教育委員会)
・栗橋関所址記念碑
・関所番士屋敷跡
久喜市ホームページ
・県指定栗橋関跡

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/shiseki/kurihashiseki.html


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2022年05月26日

新田義貞の軍勢が通った坂道(府中市)旧鎌倉街道の光明院坂

府中市の古戦場を訪問した際に、こんな坂道と出会いました。

<光明院坂>こうみょういんざか
fuchu-koumyouinzaka.JPG
ごく普通の坂道です。しかし現地に設置されている標識に足が止まりました。

<光明院坂標識>
Sign-koumyouinzaka.JPG
なにか書いてあるな

小さいながらしっかりとした標識です。これが無ければ、素通りしていたと思います。以下に抜粋させて頂きます。

『この坂道は,普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。
沿道には浅間神社,八雲神社,光明院といった由緒ある古社寺が点在しています。坂の名も真言宗光明院に由来します。別名を「根っ子坂」ともいわれますが,これは以前道が荒れていたころ,道の両側に木の根がわだかまっていたことによると言われます。
この坂下に広がる平地一帯は,元弘三年(一三三三)五月に新田義貞と北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です。
昭和六十年三月 府中市』


その古戦場へ向かう途中だったので、ちょっと感動しました。よく読み返せば、どこにも『新田義貞が通った坂』とは書いてありません。しかし、新田義貞が北の方から鎌倉街道沿いに進軍してきたことを意識した上で訪問しているので、ここを『通過しないわけない』と勝手に思い込み、ひとりで満足してしまいました。

<光明院山門>
fuchu-koumyouin-temple.JPG
坂の名はこちらの寺院に由来するわけですね。鎌倉時代に北条家の家臣が建立した祈願所に始まる寺院とのこと。本堂は近代的な建物となっていますが、風格のあるこの山門が遠くからも目をひきます。

<梅花山光明院>
fuchu-koumyouin-baikazan.JPG
梅花山と号する真言宗豊山派寺院です

今回出会った道は『陣街道』として江戸名所図会に描かれています。その呼び名は、中世に軍勢が陣立てして通ったことに由来するとのこと。鎌倉街道は主要な街道であるため、名だたる武将が軍を率いて通っても何ら不思議ではありませんが、新田義貞もそのひとりと受け止めることにしました。

ちなみに
鎌倉街道には上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)とそれぞれ呼ばれる3本の道筋があります。今回訪問の分倍河原付近の鎌倉街道は、3本の中では一番西側の上道となります。もともと鎌倉幕府の御家人が、いざという時に鎌倉へ駆けつけるための道。新田義貞も御家人のひとりですが、攻め込むために利用することとなりました。

<台地と低地の境>
koumyouin-zaka-Fuchu.JPG
武蔵野台地と多摩川の氾濫低地の境目に位置する坂道です

ということで
歴史認識に間違い等あるかもしれませんが、現地を訪ね歩いては、勝手に想像している会社員ブログということでご容赦下さい。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:光明院坂
( 根っ子坂 )
[府中市分梅町]1丁目

■参考
現地標識説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/26
猫の足あと
・梅花山光明院

https://tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/temple_vbai_komyo.html



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posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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