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2024年03月09日

足柄峠の関所跡(足柄道)古代東海道における東国の出入り口

古くは官道として利用された足柄道の関所跡を訪ねました。

<足柄之関>あしがらのせき
Ashigaranoseki.JPG
ここは律令国家の時代の東海道で、駿河と相模の堺です。

<足柄峠の標柱>
Signpost-Ashigara-Mountainpass.JPG
標高759mですか。高さ云々より道の傾斜の方に気をとられます。

<説明板>
Explanation-board-Ashigaranoseki.JPG
「古代の足柄の関」と題した説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます。『』内は原文の写しです(転記ミスありましたらすみません)。

『足柄の関は昌泰二年(八九九)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党を取り締まるために設けられた。関の通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などは分かっていない。
「源平盛衰記」に治承四年(一一八〇)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。また、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅経が、「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」(「明日香井和歌集)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。
 峠付近の路傍から採取された四千年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。また、歌枕として 関・峠ともに、多くの歌に詠まれている。』


僦馬(しゅうば)の党とは、本来の生業は運送ですが、ここでは強奪も行った武装集団という意味に受け取ってよいと思います。要するに、足柄峠付近は物騒だったわけですね。関所はこれを取り締まるべく設けられました。説明文にもある通り、通行するには相模国司、つまり相模の役人が発行する手形が必要でした。

<おじき石説明板>
Ojigi-ishi-Ashigaranoseki.JPG
こちらの説明板によれば『旅人がこの石に手をついておじぎをし、手形を差し出した』とのこと。

<おじぎ石>
Ojigi-ishi-Stone.JPG
石とは?他にないのでこれのことですよね。このままだとしたら、おじぎというより、膝をつかないと手形を差し出せそうにありません。「お役人さま〜お願いしますだ〜」という感じだったのでしょうか?

こういった手形のチェックに加えて、関所の役人は先述の通り物騒な連中を取り締まらなければなりません。足柄峠の関所の規模は不明のようですが、足軽なども含めて20名ほどが詰めていたと推定されています。それなりの人数ではありますが、人里離れた山奥で、冬はかなり寒かったでしょうし、あまり楽な仕事とは思えませんね。

説明文には、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人・土屋宗遠が足柄の関を通ったことも紹介されています。少なくとも、鎌倉時代初期にはまだ関所があったのでしょう。また、動乱ともなれば峠に臨時の関が設けられたとのことも記されています。足柄峠がいかに重要な場所だったか伝わってきます。

<足柄城小郭跡>
Part-of-Ashigara-Castle.JPG
右側の斜面の上は、のちの時代に築かれた足柄城の小郭となっています。足柄城も、この地を押さえるために築かれた城です。

江戸時代の東海道は箱根峠を通るため、関所としては箱根の方が有名ですよね。ただ、ここ足柄峠にはもっともっと古い関所があった。現地を訪ねてみて、東国の出入り口であることの重みを知ったような気がします。

関所の厳密な場所は分かっていないそうですが、この付近であったことは間違いなさそうです。

最後に
関所跡近くの有難い場所を紹介して終わりにします。

<聖天さん>しょうでんさん
Syoudendou-Ashigara.JPG
こちらは関所跡近くの足柄山聖天堂です。浅草聖天・生駒聖天と並んで「日本三大聖天尊」に数えられているとのこと。どんな願いも叶えてくれる霊験あらたかな聖天様は、地元の方に「聖天さん」と呼ばれ親しまれているそうです。

<金太郎>
Kintaro-Syoudendou-Ashigara.JPG
聖天堂で撮影した金太郎さん。まさかり担いで熊に跨っていました。僦馬の党も蹴散らせそうな出で立ちです。伝説はいろいろありますが、金太郎が源頼光と出会って家来となるのは、ここ足柄峠です。

ということで
足柄峠の関所跡のご紹介でした

■訪問:足柄の関跡
(足柄峠付近)
[静岡県小山町竹之下] 3649


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■参考及び出典
現地説明板
Wikipedia:2024/3/9

タグ:足柄道 静岡
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2024年03月03日

中山道桶川宿のなごり

今回は中山道の宿場町として栄えた桶川宿の話です。いまも昔の名残を留める宿場跡を訪ねました。

<中山道桶川宿>おけがわじゅく
Okegawazyuku.JPG
中山道桶川宿は、日本橋から数えて6番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮→上尾→桶川)。日本橋からの距離は10里14町(約40.8 km)。マラソンとほぼ同じくらいですね。日本橋を出た旅人が街道を1日かけて歩き通し、夕方になるのが桶川付近と言われています。よって、宿場町として絶妙の位置にあったことになります。

江戸初期の桶川宿は、宿内の家数が58軒程度でしたが、天保14年(1843年)頃には347軒に達していたそうです。背景には、桶川が紅花などの染料や農作物の集散地となり、経済的に潤っていたことがあります。加賀百万石の前田家を筆頭に、多くの大名が参勤交代の際の宿として桶川宿を利用しました。

■現地訪問■
<桶川宿案内図>
Guide-Map-at-Okegawa-Station.JPG
下車したJR桶川駅の東口で撮影しました。桶川の史跡を全て訪ねるのは大変なので、この日は桶川宿のメインストリートを端から端(南側から北側)まで歩くことにしました。

<旧中山道>
Nakasendo-Okegawa.JPG
少しだけ欲張って宿場の入り口より手前からスタート

<川跡>
Ankyo-Okegawazyuku.JPG
観光スポットではないですが街道沿いの暗渠に足が止まる。中山道から桶川宿に入る手前には川、または水路があったなごりですね

<旧中山道>
Townscape-like-Post-Town.JPG
何となく宿場跡のような雰囲気が漂い始める

<地蔵堂>
Roadside-Jizo-Okegawa.JPG
何となく足が止まる

そして

<木戸跡>きど
Kidoato-Okegawazyuku.JPG
宿場の警備のために出入り口に設置されていた木戸の跡です。つまり、厳密に言うとここからが桶川宿です。

<旅籠>はたご
Takemuraryokan-Okegawazyuku.JPG
宿場の旅籠の姿を今にとどめる武村旅館です。当時の間取りが今もほぼ引き継がれているとのこと。

<武村旅館説明板>
Takemuraryokan-Explanation-board.JPG
嘉永5年(1852)の建築。国登録有形文化財に登録されています。

ここ武村旅館に限らず、街道沿いの歴史的建造物には、桶川市教育委員会さんによる丁寧な説明がなされています。ですから、あまり予習しないで訪問しても充分に楽しめます。

<懐かしいような景色>
Inabayahonten-Okegawa.JPG
古民家のような魚屋さん「鮮魚稲葉屋本店」を通過。更に北へ向かいます。

<島村老茶舗>しまむらろうちゃほ
Simamuraroucyaho-Okegawazyuku.JPG
嘉永7年(1854)創業という島村老茶舗の店舗兼主屋です。こちらも宿場の雰囲気を今に伝える建物です。見た目も良いですが、内部も建設当初の姿をとどめているとのこと。

<土蔵造り>どぞう
Yabeke-Okegawazyuku.JPG
遠くからでも目立つ重厚な土蔵造り。木半の屋号で知られた穀物問屋・矢部家住宅です。いかにも歴史的建造物という佇まいです(現在の建物は明治37年から)。

<元旅籠>
Kobayashike-Okegawazyuku.JPG
こちらの小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に建てられた旅籠を材木商が店舗として利用してきたととのこと。改修されてはいますが、外観は建築当時の姿をとどめているそうです。

続いて

<桶川宿本陣遺構>
Okegawazyuku-Hojin.JPG
[桶川市寿]2丁目
宿場の中央に位置する本陣跡です。先述の通り、名だたる殿様が宿泊・休憩した場所です。15代将軍徳川慶害の父で水戸藩主の徳川斉昭が宿泊し、文久元年(1861)年には皇女和宮が宿泊した記録が残っています。この大変な役割は、代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、宿場の全体の運営にもあたっていました。桶川宿には府川家本陣に加えて、これを補う脇本陣2軒が置かれていました。遺構はありませんが、1軒(武笠家)は本陣のお隣、もう1軒(内田家)は道を挟んだ向かい側です。

<現地説明板>
X-Twitter-Isuke-Okegawa240302.JPG
私の訪問時は中には入れなかったので、入口に設置されている説明板を確認させて頂きました。こんな感じの建物なんですね(画像の左下)。広大な本陣のうち、現存しているのは一部(右下画像の赤で囲んだところ)のようですが、残っているだから大変貴重な遺構です。


<中山道宿場館>
Tourist-information-center-Okegawa.JPG
[桶川市寿]1-11-19
こちらは桶川市観光協会が運営する観光案内所です。

<館内展示物>
X-Isuke-Okegawa240302.JPG
桶川宿に関する展示物が多数。最初にここに寄れば良かったです。春先の訪問のためお雛様も飾られていました。

<宿場の浮世絵>
Ukiyoe-Nakasendo.JPG
こちらは埼玉県内の中山道の宿場。右上から蕨・浦和・大宮、上尾・桶川・鴻巣、熊谷・本庄・深谷。


<休憩所>
Rest-Area-Okegawa.JPG
ちょっと休憩です。宿場跡の案内板も設置されていてトイレも完備。助かりました。


<市神社跡>いちがみしゃ
Ichigamishya-Ato-Okegawa.JPG
現在の東和銀行に設置されている市神社跡の標柱。桶川宿で五と十のつく日に開かれていた「市」の守護神がここに祀られていました。明治になると、交通の妨げとなることから、市神社は桶川稲荷神社へ移されました。合祀され今は八雲社として祀られています。

次は旧中山道から少しだけ南側に入った寺院です

<大雲寺本堂>だいうんじ
Daiunji-temple-Okegawa.JPG
[桶川市西]1丁目
1557年創建と伝わる寺院です。山号は龍谷山。宿場を取り仕切った府川家の場所でもあります。宿場の上方(京側)にありることから「上の寺」とも呼ばれていました。足立坂東三十三箇所霊場の第2番札所です。


<一里塚跡>
Ichirizuka-ato-Okegawa.JPG
歩道橋に設置された桶川市教育委員会さんの説明文によれば、一里塚がこの付近の中山道の両側にあったそうです。杉が植えられ、根元には妙見菩薩が祀られていました。明治になって取り壊されたようです。


<北側の木戸跡>
Okegawazyuku-Signpost.JPG
木戸跡の石柱です。ここが宿場の北側の出入り口です。「北の木戸」または「上の木戸」などと呼ばれています。

これで宿場跡の通り抜けは終了です。かつてのメインストリートを歩いただけですが、充分に楽しめました。

探索の最後に、街道から東側へやや逸れますが、桶川宿の鎮守にお邪魔させて頂きました。

<桶川稲荷神社>
Okegawa-Inari-Shrine.JPG
[桶川市寿]2丁目14-23
創建は1134年又は嘉禄年間(1225-1227)という古い神社です。

<境内>
X-Isuke-Okegawainari240302.JPG
鳥居、稲荷神社拝殿
境内社は雷電社、そして琴平社・八雲社・阿芙利社

<大盤石>だいばんせき
X-Isuke-Chikaraishi240302.jpg
約6百キロの力石!?ちょっと無理かと思いますが…
三ノ宮卯之助なる人物が実際に持ち上げたとされており、日本一重い力石と言われています。現地の説明板をみると、手で持ち上げたのではなく、足を使ったようにも思えましたが、それでも凄いことですよね。三ノ宮卯之助は岩槻出身で、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。

そして
<紅花商人寄進の石燈籠>
Stone-Lantern-Okegawainari.JPG
かつての繁栄を物語る紅花商人寄進の石燈籠です。桶川郷の紅花の生産量は、出羽国の最上紅花に次いで全国第2位を誇っていました。気候の違いから収穫が早いという有利さもあったようです。文化が花開く根底には、経済的な基盤があったわけですね。石燈籠は先ほどの力石とともに桶川市文化財に指定されています。

最後に
<欅稲荷神社>けやきいなり
Keyaki-Inari-Shrine.JPG
境内の欅の木の中に稲荷神が祀られていました。私の知る限りでは一番小さな稲荷神社です。

以上です。
桶川宿のなごりのご紹介でした。

蛇足になりますが、日本橋から40qという距離は決して短くありませんよね。飛脚、つまりその道のプロならともかく、普通の人が1日で歩いたのですから、江戸時代の人達はみなさん健脚ですね。

■訪問:桶川宿跡
[埼玉県桶川市寿]他


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■参考
・現地説明板(桶川市教育委員会)
・中山道宿場館パネル他
・Wikipedia:2024/3/3

タグ:埼玉 中山道
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2024年02月24日

日光御成道と鎌倉街道のなごり(川口宿)鎌倉橋の碑

今回は川口の宿場跡に漂う日光御成道と鎌倉街道のなごりの話です。

<鎌倉橋の碑>
Kamakura-Bridge-Monument-Kawaguchi.JPG

■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩槻宿などを経て日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。今回訪問した川口もその宿場の一つでした。

■川口宿■
古くからあった鎌倉街道の中道(なかつみち)を利用して整備された御成道は、現在の東京都北区で荒川を渡ります荒川を挟んだ岩淵宿(東京側)と川口宿(埼玉側)は、セツトで宿場の役目を果たしていました。文献によっては、2つをひとつの宿場とみなすようです。合い宿として、月の前半後半で役目を交代していました。

<川口元郷駅>
Kawaguchimotogo-Station.JPG
埼玉高速鉄道の川口元郷駅。この日はここからスタートです。

<国道122号線>
Onarimichi-Kawaguchi.JPG
駅を出たら国道沿いに南へ。この道そのものが日光御成道です。

<上之橋>かみのはし
Kaminohashi-Kawaguchi.JPG
芝川を渡ります。この先で国道を右手(西側)に逸れて川口宿方面へ向かいます。

<芝川>
Shiba-River.JPG
上之橋から撮影した芝川

<旧川口宿>
Kawaguchi-Post-Station-ruins.JPG
かつての川口宿の通りです。地元の商店街となっていますが、いまではやや活気が失われつつあります。

<旧本陣の門>
Kawaguchi-Post-Station-Honjingate.JPG
こちらは旧川口宿本陣表門です。宿場の本陣は、偉い方の宿泊する場所です。川口宿には本陣1軒と脇本陣(本陣の予備施設)1軒、そして一般の旅籠屋が10軒あったそうです。

宿場の遺構とよべるものは少ないですが、かつて賑わった古い町並みの雰囲気は残っています。

<商店>
Kawaguchi-Post-Station-ruins-old-store.JPG
素敵な景色です。

<商店街>
Kawaguchi-Post-Station-Ato.JPG
商店街を通り抜け、振り返って撮影。賑わった街道にシルバーゾーンと記されているのが印象的でした。

そして

<鎌倉橋記念緑地>
Kamakura-Bridge-Monument.JPG
冒頭の「鎌倉橋の碑」です。この画像では伝わりにくいですが、見開き型の碑となっており、左側には文字が刻まれています。

<説明板>
Kaido-History-Information-Board.JPG
『日光御成道と鎌倉街道』というタイトルで説明がなされています。抜粋させて頂くと、日光御成道が中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されたこと、奥州への要所であったこと、そして義経記には『源義経が奥州から鎌倉に向う際に小川口で兵をあらためたと記されて』いることが説明されています。鎌倉街道中道が『将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624-44)』といわれているとのこと。

そして鎌倉橋について。以下にそのまま転記します。
『荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかっての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。』

<地図拡大>
Kamakura-Bridge-pictorial-map.JPG
荒川北側の小川に架かっていた土橋が鎌倉橋と呼ばれたわけですね。そして橋の名に「鎌倉」がつくのは、ここがもともと奥州に繋がる鎌倉街道であることに由来する。納得しました。

鎌倉橋記念緑地の南側は荒川のスーパー堤防です。更に南下するために登ってみました。

<荒川>
Arakawa-River.JPG
堤防の上から撮影した荒川です。徳川家臣の伊奈氏によって荒川の流路は変更され、入間川と合流する川となりました対岸は岩淵宿です。

<善光寺>
Zenkoji-Temple-Kawaguchi.JPG
こちらは川口市舟戸町の善光寺です。独特の雰囲気を醸し出す近代的な建物となっていますが、川口宿の入り口といってもいいこの地に古くからある寺院です。かつては荒川の河川敷でしたが、現在は幅広の堤防上です。

WIKIさんから引用させて頂くと『江戸時代、「日本三大善光寺」の一つとされ、大いに賑わった。『江戸名所図会』『名所江戸百景』でも取り上げられる程の江戸近郊の名所であった。』とのこと。

信濃や甲州と並び称される善光寺だったわけですね。

ということで
川口宿付近の日光御成道・鎌倉街道のなごりのご紹介でした。遺構のようなものは少ないですが、歴史は明らかであり、その雰囲気だけでも共有できれば幸いです。

会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:鎌倉橋の碑
(鎌倉橋記念緑地)
[埼玉県川口市本町]1丁目8-19

--------■ 参考画像 ■--------

<錫杖寺>しゃくじょうじ
shirononagori311 (2).JPG
こちらは別の日に訪問した川口市の錫杖寺。川口宿の北の外れに位置する由緒正しき寺院です。1622年には、徳川秀忠が日光社参の際に休息所として立ち寄りました。私はこちらの山門が宇都宮城からの移設と聞き、訪問させて頂きました。

<岩淵渡船場跡>いわぶちとせんばあと
Iwabuchi-Ferry.JPG
[北区岩淵町]41先
こちらは対岸の岩淵渡船場跡です。川口の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。


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■参考及び出典
・現地説明板
(鎌倉橋記念緑地)
・Wikipedia:2024/2/24

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辻村の三叉路(岩槻)日光御成街道と粕壁道の分岐点

日光御成街道は、将軍の日光東照宮参拝のために整備された街道です。今回はその通り沿いの三叉路の話です。現地はさいたま市岩槻区です。

<分かれ道>
Onatimichi-Iwatsuki-minamitsuji.JPG
左へカーブする日光御成街道、そして右へそれる脇道

<南辻の三叉路>
Onatimichi-Iwatsuki-three-way-intersection.JPG
街道の分かれ道にはありがちな光景ですね

<南辻の地蔵>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-statue.JPG
祠にはお地蔵さん。やや大きめのお地蔵さんです。

<地蔵菩薩>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo.JPG
雨ざらしではないせいか、保存状態もよいように思われます(素人意見として)。

<お地蔵さんの背中>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-Back.JPG
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-Back-2.JPG
刻まれた背中の文字もくっきり。ただ…當安楽?證菩提之(處かな?)…全部は読めず、意味も想像できず。菩提だけは確かです。

<路傍の石>
Onatimichi-Iwatsuki-Stone-Carved-with-Letters.JPG
道路沿いのお地蔵さんのそばには丸い石が二つ。文字か刻まれています。奉???ほぼ読めません。力石でしょうか?神社の境内などに、地元で使われていた力石が置かれている光景をよく見ます。この付近はかつて岩槻領に属する辻村でした。村民が実際に使った力石の納まる先が、古くから親しまれているお地蔵さんの足元だったのかもしれませんね。

<石塔>
Onatimichi-Signpost.JPG
こちらには複数の石塔。こちらはまったく字が読めず、私には何だかわかりませんでしたが、街探索のお仲間の話では、これは道しるべのようです。

<粕壁道>かすかべ
Road-to-Kasukabe.JPG
道しるべによればこの脇道は粕壁道。日光御成道から分かれて春日部方面へ向かう道ということになります。そもそも辻という言葉が、道が交差する場所を意味しています。ここがかつて辻村と呼ばれたのは、街道の分岐点だったからかもしれませんね。


<日光御成街道岩槻宿>
Onatimichi-Iwatsukijukuato.JPG
Onatimichi-Iwatsukijuku.JPG
Onatimichi-Iwatsukijuku-Ichirizuka.JPG
岩槻は城下町であると同時に、日光御成道の宿場でした。宿場の本陣他には、名だたる大名や幕府の役人が宿泊したと思われます。さすがに将軍ご本人は、警護の行き届いた岩槻城を宿としましたが、日光御成道の宿場で、将軍が宿泊場としたのは岩槻だけです。

今回訪問の辻村の三叉路は、宿場を北に抜けて少し進んだところです。

ということで
地蔵菩薩に呼び止められたような感覚で足を止めた場所は、日光御成街道と粕壁道の分岐点だったというお話でした。いつもにも増して「字が読めない」を連発して失礼しました。ただの会社員の街探索に過ぎませんので、内容についてもその程度に受け止めてくださるようお願い致します。

<旧辻村の日光御成街道>
Onatimichi-Iwatsuki-1.JPG
都市化の波が押し寄せても、ずっとここを動かないで欲しいですね。お地蔵さんはもちろん、道しるべも力石も。

■訪問:南辻の三叉路
(日光御成道)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]1


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2024年02月03日

いざ鎌倉への道(東村山市)鎌倉古街道跡

所沢市の古戦場へ向かう途中で、こんな標柱に足が止まりました。

<標柱>
signpost-Kamakurakodo.JPG
何となく嬉しい標柱でした。この日は、上州から鎌倉街道を南下して鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を意識しての訪問だったので。

<古道>
Ancient-Road-Kamakurakaido-Higashimurayama.JPG
東村山駅付近(南側)から府中街道を北上すると、こんな光景が目に入ります。この付近までは右側の道路(府中街道)が鎌倉街道ということになりますが、ここから先は左手の細い道になります。先ほどの標柱もここを入ってすぐのところで撮影しました。

関東統治のため、鎌倉幕府は諸国と鎌倉を結ぶ街道を整備しました。そのうちのひとつ、鎌倉街道上道(かみつみち)は、武蔵国をひたすら北上するように整備された街道です。その通過点である東村山でも、南北に貫くように道が通っています。

<鎌倉古街道>
Kamakurakodo- Higashimurayama.JPG
鎌倉からみれば北上する道ですが、鎌倉へ向かう側にしてみれば南下する道ですね。そのまま新田軍の進軍ルートとなりました。幕府のめだてはなく、幕府を倒すためとなりましたが「いざ鎌倉」への道です。

当たり前のことですが、この時代の関東の中心は小田原でも江戸でもなく、鎌倉なんですよね。

■訪問:鎌倉古街道跡
[東京都東村山市本町]2丁目


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東京の大坂(北区)岩槻街道から板橋街道への抜け道

北区の赤羽駅近くを歩いていたら、こんな坂道と出会いました。

<大坂>おおさか
Osaka-Kita-Ku-Tokyo.JPG
大坂…東京の北区で?

<標柱>
Osaka-Signpost.JPG
標柱に説明が記されています。そのまま抜粋させて頂きます。

『この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。』

小坂と呼ばれた石段に対して、大坂と呼ばれたわけですね納得。いわゆる大阪とは無関係でした。清瀧不動の石段がどこを指すのか分かりませんでしたが、きっとそう遠くないところだったのでしょう。

そして
この坂は旧板橋街道に抜ける道とのこと。私が歩いていたのは中世の岩槻街道です。江戸時代に、将軍が日光に参拝する時に使った街道(日光御成道)でもあります。今回見つけた急な坂道は、そこからそれて板橋街道へ抜ける道ということのようです。

板橋といえば中山道の宿場ですね。板橋街道の正確な道筋がわかりませんが、岩槻街道と板橋宿のある中山道を結ぶ外環道的な街道だったのでしょう。大坂はそこへつながる坂道。わざわざ赤羽の台地を登っていくわけですから、近道だったと受け止めることにしました。

それと
狸にまつわる民話から狸坂とも呼ばれるとのこと。

<坂の途中の稲荷神社>
Inari-Shrine-Akabanenishi.JPG
狐は見つけましたが、狸と縁のありそうなものは見当たりませんでした。狐も狸もむかしは人の暮らしのそばにいた動物。どんな民話なのでしょうね。調べましたが分かりませんでした。政右衛門さんは名前からして侍と思われますが、こちらも手がかりがなく、分かりませんでした。

ということで
中途半端ではありますが、昔の岩槻街道を歩いていたら、脇に急勾配の坂道を見つけ、そこが古くからある板橋街道に抜ける脇道だったというお話でした。拙いブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

<古道の坂道>
Osaka-Kita-Ward-Tokyo.JPG
きっと人の行き来の多い坂道だったのでしょう

■訪問:大坂
(別名:狸坂 政右衛門坂)
[東京都北区赤羽西]1丁目

■出典
現地標柱説明文
(東京都北区教育委員会)

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2023年12月24日

中山道鴻巣宿 将軍ゆかりの宿場町

<鴻巣本陣跡>こうのすほんじんあと
Post-Station-Center-Konosu.JPG
鴻巣宿の本陣跡です。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて7番目の宿場でした。

WIKIさんによれば、江戸末期(1843年)の調べで、宿場内の人口は2千人以上、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒とのこと。69ある中山道の宿場のなかで、比較的大きい方だったようです。

<旧中山道>
Cityscape-Post-Station-Konosu.JPG
この街並みは宿場として栄えたなごりです。鴻巣宿はもともと北本市にあり、中山道が整備された時に、北本宿を鴻巣宿として移設してできたとのこと。

また
鴻巣宿は将軍家ゆかりの宿場でもあります。徳川家康に始まり、秀忠、家光が鷹狩りの際に利用した鴻巣御殿もありました。

<鴻巣御殿跡>
ToshoguKonosu.JPG
Explanation-Board-Toshogu-Shrine-History.JPG
地元豪族所有の土地に建てられた将軍の為の御殿。跡地には東照宮が祀られました

<御成町>
Related-to-Tokugawa.JPG
将軍が御成りになった街です

<勝願寺>
Shoganji-Nioumon-Kounosu.JPG
Shoganji-Kounosu.JPG
境内のあちらことらに三つ葉葵の紋。徳川ゆかりの寺院です。


鴻巣宿は桶川宿と熊谷宿の間に位置し、将軍ゆかりの宿場であるとともに、忍行田道・松山道といった街道の分岐点でもあました。交通の要衝として栄えた鴻巣は、古くから雛人形の生産地としても知られています。

<本陣跡の標石>
Post-Station-Konosu.JPG
長きに渡って重要な役割を担った街なのです

私を含めた埼玉県民にとって、鴻巣は運転免許センターのある街です。用事だけ済ませて帰ってしまう方が多いと思いますが、せっかくですので、長くて深い鴻巣の歴史に触れてみては如何でしょうか。

拙ブログがそのきっかけになれば幸いです。

■訪問:鴻巣本陣跡の碑
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目6-21


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■参考
Wikipedia:2023/12/24



-----------( 追 記 )-----------
宿場と直接関係しませんが、鴻巣は古くから源氏ゆかりの地でした。
<伝源経基館跡>
Castle-Ruins-Konosu.JPG
武蔵介となって関東へ下った源経基が館を構えたのは現在の鴻巣市でした

<大野神社>
Ono-Shrine-Konosu.JPG
古くは源仕(みなもとのつこう)が社を造営したと伝わります

また近年では花火も有名です
<鴻巣駅前>
In-front-of-Konosu-Station.JPG
四尺玉打ち上げで元世界一(重さ)
タグ:埼玉 中山道
posted by Isuke at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2023年09月05日

雑木林の古道を歩く(さいたま市)鎌倉街道跡

さいたま市北区の鎌倉街道跡を訪ねました。

<鎌倉街道>
Kamakurakaido-Kitaku-Saitamashi.JPG
ここは大宮台地の雑木林。鎌倉街道跡と伝わる土の道が数百メートル続きます。

<古道>
Kamakurakaido-Saitama.JPG
良い雰囲気ですね。すぐ近くまで宅地化が進んでいますが、こういう自然を、そして鎌倉街道跡として確保して頂けるとありがたいですね。

<台地の縁>
Sanganshimizu-Ryokuchi-kodou.JPG
雑木林の西側は低地になっているようです。街道は大宮台地の縁を通っていたことになります。

<脇道>
Sanganshimizu-Wooded-path.JPG
脇道があるので低地へ降りてみることにしました。

<鴨川沿いの低地>
Kamogawa-lowland.JPG
台地を降りて鴨川沿いの低地へ。川の対岸は上尾市になります。

<湿地帯>
SanganshimizuRyokuchi-Saitama.JPG
Sanganshimizu-Ryokuchi.JPG
先ほどの雑木林と街道を含め、この付近一帯が緑地として整備・保護されています。

<斜面>
Sanganshimizu-Kamakurakaido.JPG
鴨川が長年かけて削った台地の斜面を撮影。この地は台地から溢れ出る水の恩恵をうけ、湧水地としても知られています。鎌倉街道を行き交う人が、足を止めてひと休みする場所だった可能性もありますね。あの太田道灌が、狩りの途中で立ち寄ったという逸話も残されています。

一般的に、街道は足元の悪い低地をなるべく避け、台地上や尾根道に整備される方が多いですが、低地のこの道が古道ではないかという話もあるそうです。


ところで
そもそも鎌倉街道とは、鎌倉を起点に放射状に延びる中世期の街道をいいます。一般的には基幹道として上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)と呼ばれる3本の道筋を指す場合が多いですね。

今回訪問の付近は、どれにも該当しません。

支道?

鎌倉街道と呼ばれる故道は、3ルート以外にも存在しています。今回訪問の鎌倉街道は羽根倉道と呼ばれる道筋で、所沢からこの付近を経由して加須へ至ります。もう少し具体的に言うと、所沢で鎌倉街道上道から分かれ、北東に進んだ先で鎌倉街道中道と合流します。

よって
一般的な解釈だと、鎌倉街道の上道と中道を繋ぐ道ということになりますね。

<羽根倉道>はねくらみち
Kamakurakaido-hanekura.JPG
枝道と受け止めるのが妥当のようですが、鎌倉街道の定義にも諸説あるようなので、ここが基幹道だった可能性だって、絶対ないとは言えません(よね?)

以上、さいたま市北区の鎌倉街道跡のご紹介でした。
最後のひとことは素人の妄想ですので、その程度に受け止めて下さい。いずれにせよ、中世からあった道です。

<いにしえの道>
Saitamacity-The-road-to-Kamakura.JPG
古道の原風景を思わせる素敵な場所でした

■訪問:
鎌倉街道跡[羽根倉道]

 (三貫清水緑地内)
[埼玉県さいたま市北区奈良町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2023/9/5
・さいたま市HP 
  北区プロフィール>歴史>
 「北区の歴史、伝統と文化」

https://www.city.saitama.jp/kita/001/003/001/p019515.html


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posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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