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2023年04月29日

東海道の見附跡(小田原市)江戸口見附のなごり

<江戸口見附跡>
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ここは東海道に設けられた見附の跡です

<東海道>
Oadawara-Toukaido.JPG
いうまでもなく、東海道は江戸の日本橋から京の三条大橋に至る街道。ここは江戸から数えて9番目の宿場、そして城下町としては最初の宿場となる小田原です。

<おだわら まちしるべ>
Oadawara-Toukaido-Sannouguchi.JPG
標柱の側面に『山王口』というタイトルで説明が記されています。これによれば『山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされています。また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約八十三キロの距離となっています。』とのこと。山王口は北条氏の時代の呼び方かと思っていましたが、江戸口見附とほぼ同義語として扱われていると受け止めることにします。この地点で日本橋から『約八十三キロ』ですから約21里ということですかね。

<現地説明板>
Oadawara-Edoguchi-Mitsuke-Guide-Plate.JPG
見附跡には立派な説明板が設置されています。少し長いので、抜粋しながら要約させて頂きます。『』内は原文のままです。

まず、小田原北条氏が、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めに対し、総構を築いたことが記されています。『周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。』とのこと。この付近は総構の最南端で、小田原の役の時は、徳川家康の部隊が、天然の堀である『山王川の対岸に陣取って』いました。かなり重要な場所だったようですね。実際に、徳川軍の一部(井伊直政)が川を越えてきたため、戦闘に至っています。

さて
その徳川が天下を取ったあとの話になります。
『江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。
 江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。』


<文久図>
Oadawara-Edoguchi-Mitsuke-Guide-Map.JPG
周囲約9kmの総構え

<江戸口見附付近を拡大>
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見附では道がクランク状になっています。いわゆる「喰違」の構造ですね。そして見張りの番所も設けられていました。城好きが見附と聞くと城門をイメージしますが、街道の見附も同じですね。


小田原には北条氏が築いた町ぐるみの巨大な城郭がありましたので、もともと多くの人で賑わう場所でした。そんな城下への入口である江戸口見附は、関所とは別のいわば検問所であり、行きかう人を監視する重要な役割を担っていました。

Historic-Spot-Oadawara-Edoguchimitsuke.JPG
今は静かな見附の跡

■訪問:江戸口見附跡
[神奈川県小田原市浜町]2丁目

■参考及び出典
・現地説明板
「江戸口見附跡」
・小田原宿標柱
「おだわらまちしるべ【山王口】」



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タグ:東海道
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2022年11月23日

岩瀬宿のなごり(北陸街道)北前船寄港地

富山市にお邪魔する機会があったので、海沿いの宿場跡を訪ねてみました。

<岩瀬の町並み>
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雰囲気のある街並みです

■北前船寄港地・街道の宿場■
岩瀬は神通川河口に位置し、北前船の重要な寄港地として栄えた町です。同時に、北陸街道の宿場でもありました。北陸街道は新潟県(越後)から富山県(越中)や石川県(加賀)を経由して滋賀県(近江)へと繋がる街道。この付近では、内陸を南下して富山城下へ直接繋がるルートと、海岸線を西に行くルートの二手に分かれていました。いうまでもなく、岩瀬は後者の街道沿いということになります。

街道・海路、両方に恵まれた場所だったわけですね。

<岩瀬運河>
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この運河の先は日本海。神通川の河口でもあります。

かつて岩瀬には加賀藩の年貢米を貯蓄するための蔵が設けられ、廻船問屋が軒を並べていたそうです。明治の大火で多くの建物が焼失してしまったそうですが、むかしの面影をいまも漂わせる町並みが維持されています。

<旧森家住宅>
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こちらは岩瀬の有数の廻船問屋・森家の住宅

<旧馬場家住宅>
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こちらも岩瀬を代表する廻船問屋の家です。馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家を岩瀬の五大家と呼ぶそうです。

<岩瀬銀行>
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こちらは町並みに調和している現役の北陸銀行岩P支店。かつての岩瀬銀行本店です。岩瀬銀行?いかに繁栄したか伝わってくるようですね。

<北前船のモニュメント>きたまえぶね
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先ほどの森家住宅付近に設置されているモニュメント。北前船は蝦夷地(北海道)とも海路で繋がっていました。行きは本州から米などを、帰りは北海道から海の幸を運びました。行きと帰りの両方で儲けたということになります。北前船は荷物を預かって運送費を得るのではなく、船主自体が商品を買いとり、それを販売することで大きな利益を得ていました。


そして
ここ岩瀬には、富山県を代表する日本酒「満寿泉」の酒造所もあります

<桝田酒造店>
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ルーツは北海道(旭川)のようですが、明治には既にこの地で創業していました。昔の雰囲気を漂わせる岩瀬に蔵を構えている。素敵ですね。

ということで
駆け足で通り過ぎたに過ぎませんが、北前船寄港地にして北陸街道の宿場だった岩瀬の雰囲気を、少しだけ味わったというお話でした。

最後に
<東岩瀬駅休憩所>
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こちらは畳にほっこりした駅の待合室(休憩所)です。かつての駅舎とのこと。足が棒になっていたので、5分ほど座らせてもらいました。ありがとうございます。

<旧東岩瀬駅ホーム>
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このホームは現役ではありませんが、何となく心が和みました

以上です。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:岩瀬浜〜東岩瀬
[富山県富山市岩瀬町付近]

<富山港線>
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岩瀬へは富山駅から富山港線を利用すると便利です。画像は岩瀬浜駅(終点)。

■参考及び出典
現地説明板(森家住宅)
Wikipedia:2022/11/23



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2022年11月05日

板橋宿のなごり(中山道)

中山道六十九次のうち日本橋から数えて最初の宿場である板橋宿を訪ねました。

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■ 板橋宿 ■いたばししゅく
板橋宿という呼び名は実は総称で、上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていました。かなり大雑把に位置を説明すると、JR板橋駅付近から都営三田線の板橋本町駅付近までがかつての板橋宿です。一番北側が上宿となりますが、これは中山道の経路で最も京に近いからです。

<JR板橋駅西口>
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板橋駅の西口駅前広場で撮影。この日のスタート地点です。

<国道17号>
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現在の中山道(国道17号)に出ました。旧中山道はこの道の東側です。

<旧中山道>
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かつての宿場らしい雰囲気が漂う場所に到着しました。このまま南北に長い商店街を北に向かいます。

<案内板>
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東光寺・観明寺といった街道沿いの寺院が記されていますが、ひときわ目をひくのは宿場の東側の加賀藩下屋敷ですね。21万坪という広大な敷地です。さすがは加賀百万石。板橋には今でも加賀という地名が残っています。

この日は加賀藩下屋敷跡へは足を延ばしませんでしたが、加賀藩前田家がこの地を拠点としたなごりを少しご紹介します。

<東光寺>
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先ほどの場所から少し南へ戻って東光寺を訪問。ご本尊は阿弥陀如来。現地説明板によれば延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山とのこと。歴史ある寺院です。

<宇喜多秀家供養塔>
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境内にある宇喜多秀家供養塔。石塔には秀家卿と刻まれています。関ヶ原で敗れ流罪となったため墓は八丈島ですが、秀家の妻が前田利家の娘であったことから、前田家ゆかりのここ板橋に供養塔が建てられました。

つづいて

<観明寺>かんみょうじ
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創建が室町時代と伝わる真言宗寺院。この山門は、板橋宿お隣の加賀藩下屋敷の裏門が移設されたものと伝わります。

<本堂>
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本尊の聖観音立像は12世紀頃の作とのこと

<境内の稲荷社>
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こちらの稲荷社は、もともとは加賀藩下屋敷内に祀られていました。明治になって遷されたそうです。

加賀前田家との深いつながりが伝わってきますね。せっかく立ち寄らせて頂いたので、観明寺さんの境内の古い庚申塔もご紹介させて頂きます。

<観明寺寛文元年庚申塔>
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こちらが観明寺境内の庚申塔です。寛文元年(1661年)に造立されたものとのことです。

<青面金剛像>しょうめんこんごうぞう
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説明板によれば青面金剛像が彫られたものとしては都内で最古とのことです。


さて
旧中山道をもう少し進みます

<平尾脇本陣豊田家跡>
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下宿(平尾宿)の脇本陣跡。この地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。板橋で新政府軍に処刑される近藤勇が幽閉されていた場所でもあります

下宿を出て中宿へ

<仲宿>
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旧中山道と交差する王子新道を渡って中宿(仲宿)へ

<板五米店>いたごこめてん
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むかしの雰囲気が漂います。この土蔵造りの建物は、築100年を越えており、板橋区の登録有形文化財となっています。もともとは大きなお米屋さんでした。しばらく空き家となっていたようですが、現在は店舗として活用されており、仲宿商店街の人気スポットとなっています。


<遍照寺>へんしょうじ
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天台宗寺院でしたが明治初期に一旦廃寺となりました。のちに復活し、現在は成田山新勝寺末寺です。現地の説明板によれば、宿場だったころ、境内は馬つなぎ場だったそうです。

そしていよいよ板橋宿の本陣へ

<板橋宿本陣跡>
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こちらは注意していないと素通りしてしまいそうな石碑です。ここが本陣跡です。一般のご家庭の入り口と思われるため、かなり遠慮して撮影しました。

<説明板>
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板橋区教育委員会さんの説明によれば、板橋は江戸から近いため、本陣は宿泊より休憩所として利用されていたようです。まぁ日本橋から10q程度ですからね。これと関係して『他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。』とのこと。納得です。本陣のお役目は飯田家が務めていました
[『』内は原文からそのまま転記]

<ライフストア>
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先ほど本陣跡の石碑は、こちらのスーパーの南側です。この付近一帯が本陣でしたが、明治の火災で建物は失われ、今は何も残っていません。

そして

<中宿脇本陣跡>
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こちらは板橋宿の中宿名主を務めた飯田家の屋敷跡。あれ、また飯田?本陣も飯田さんでしたよね。

説明板によれば、こちらが飯田家の総本家のようです。板橋宿の本陣は分家に譲り、脇本陣として役割を担ったようです。詳細が説明板に記されていますので、以下に転記させて頂きます。

<説明板>
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『当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(一七〇四)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を努めました。世襲名は宇兵衞。
 飯田家は、大阪の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和〜寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして当家が御茶屋守としてとしてこれを管理していたと思われます。なお、御林四〇町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
 江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿 の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。
 そのような中で、文久元年(一八六一)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(一八六八)の岩倉具定率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。
平成二十年三月』

[出典:板橋区教育委員会]
明治の話になりますが、大宮の氷川神社へ向かう明治天皇が休憩した場所でもあるようですね。現在は石碑と説明板のみですが、深い歴史が刻まれた場所です。板橋宿の歴史そのものが伝わってくるようです。

最後に

<板橋>
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旧中山道と石神井川が交差する地点に架かる橋。いわば街道の一部です。とんでもなく身分の高い方も、そうでもない人も、ここで石神井川を越えていったわけですね。板橋という地名の由来ともいわれています。

以上です。
宿場跡はまだ続きますが、この日の私の探索はここまででした。

都市化が進んだ街並みですが、その気になって歩いてみると、まだまだ昔の雰囲気を感じることができる通りです。当ブログがきっかけで、足を運んでくれる人がいたら幸いです。

拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。

twitter-Isuke-2022.jpg

■訪問:旧板橋宿(下宿・中宿)
[東京都板橋区仲町付近]

■参考及び出典
現地説明板
・板橋区教育委員会
Wikipedia:2022/11/5


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2022年11月03日

地名の由来となった橋(板橋)距日本橋二里二十五町三十三間

<旧中山道の橋>
Symbolbridge-itabashi.JPG
こちらは旧中山道と石神井川が交差する地点に架けられている橋です。

<板橋>
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橋の名は板橋。地名の由来となったとされる橋です。

板橋という地名は古い軍記にも登場していることから、かなり昔からの呼び名と言えます。板の橋?もともとは石神井川を何とか渡れる程度の簡素な橋だったのでしょう。江戸時代になると、板橋は中山道の宿場町として栄えました。その頃には、長さ9間・幅3間(約16m×5m強)の立派な橋が架かけられていたようです。

<石神井川>
syakujiigawa.JPG
かつては深い渓谷でした

<板橋宿>
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中山道の板橋宿は、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、そして日光街道の千住宿と並んで江戸四宿の一つとして栄えました。大勢の人が行き来する重要な道だったわけですね。

<現在の板橋>
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距日本橋二里二十五町三十三間と記されています。日本橋を起点として約10.6kmの距離。中山道最初の宿場に架かる橋です

■訪問:板橋
[東京都板橋区加賀]

■参考
・Wikipedia:2022/11/3
・板橋区ホームページ

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/1014983/1015448/1015453/1015885.html


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加賀藩前田家ゆかりの赤門(板橋区)観明寺山門

赤門と言えば本郷の東京大学。本郷キャンパスの敷地には、かつて加賀藩前田家の上屋敷がありました。赤門はそのなごりです。今回ご紹介の赤門も、加賀藩前田家ゆかりの門です。

<観明寺山門>かんみょうじ
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こちらです。場所は板橋区板橋。観明寺さんの山門です。この地はかつ中山道の宿場として栄えました。そして、宿場のすぐお隣が、広大な加賀藩前田家の下屋敷でした。屋敷は明治になって取り壊されましたが、通用門として使われていた門が、ここに移設されたそうです。

ちなみに

<稲荷社>
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観明寺さんの境内である稲荷社も、もともとは加賀藩の下屋敷にあったそうです。赤門と同じく、明治になってからこちらに移されました。

どちらも、ここ板橋に加賀百万石前田家の屋敷があったなごりですね。

■訪問:観明寺
[東京都板橋区板橋]3-25

■参考サイト
猫の足あと

https://tesshow.jp/itabashi/temple_itabashi_kanmyo.html


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2022年08月07日

赤山街道大宮道のゴール地点(さいたま市西区)

久しぶりに永田陣屋跡を訪ねました
<永田陣屋>
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徳川家康の古くからの家臣・伊奈忠次が設けた陣屋跡です。忠次は荒川水系の治水と灌漑のために、ここに拠点を築いたとされています。

前回は純粋に陣屋跡として訪問しました。今回は赤山街道のゴール地点であることを意識しての再訪となります。

<赤山街道>
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一見ただの道路ですが、古くからある街道です。冒頭の陣屋を築いた伊奈忠次から、幕府領を管轄する役割を引き継いだ伊奈忠治により造られました。人の往来や物資輸送を円滑にするためのこの道は、忠治の本拠である赤山陣屋へ繋がることから、赤山街道と呼ばれています。

■赤山街道大宮道■
赤山陣屋を中心に整備された赤山街道は、方角からそれぞれ大宮道・千住道・越谷道と呼ばれています。このうち大宮道は、現在の川口市から旧浦和市・旧与野市を経由して、旧大宮市西部へつながる道筋です。

<永田陣屋>
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大宮道のゴールであるこの陣屋跡は、現在の住所だと、さいたま市西区土屋になります。地名から土屋陣屋とも呼ばれています。

<永田家長屋門>
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この立派な長屋門は、さいたま市の指定有形文化財となっています。維持するだけでも大変そうです。

<忍び返し>
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屋根伝いの侵入者を防ぐ仕掛けです

<長屋門の内側>
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長屋門の内側に吊るされた籠。下から見ると造りがよくわかりますね

陣屋跡は、伊奈氏とともにこの地域の基盤造りに尽力した家臣の永田氏に受け継がれ、今に至ります。外周に堀ものこされており見応えがありますが、あくまで個人宅ですので、訪問される方はその辺りの配慮が必要ですね。

<屋敷の堀>
Nagata-jinya-moat.JPG


さて
陣屋の周辺もご紹介させて頂きます。伊奈氏の治水事業・新田開発の恩恵を受けて形成された農村のなごりです。

<氷川神社>ひかわじんじゃ
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陣屋跡近くの氷川神社です。氷川神社の本社は現在の大宮区。荒川流域を中心に多数分布している神社です。

<西遊馬氷川神社拝殿>にしあすま
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遊馬は「あすま」と読みます。大宮と川越の中間に位置するこの周辺には、古くから人の暮らしがあり、戦国時代には既に遊馬郷として成立していたそうです。神社もその頃の創建ではないかと考えられています。

<本殿>
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<遊馬の力石>
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米の収穫を祝う力比べに使われた力石が鳥居の脇に並べられています

<力石の説明板>
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ここにも記載されていますが、ここ遊馬は、伊奈忠次による荒川の瀬替えの恩恵を受けて発展しました。豊かになるほど人が集まる。文化が根付く。力石の行事も、その一環といえますね。

<力石>
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男達の汗が染み込んだ石

<大宮・川越道歴史散歩コース>
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境内に設置されている歴史散歩コースに関する説明板(さいたま市教育委員会)にも、氷川神社が遊馬村の鎮守であることが記されています。『宿の氷川様』と呼び親しまれていたとのこと。『宿』と呼ばれるところは、宿場のように道の両側に集落が形成されている場合が多いですね。ここもそうだったようです。

つづいて
そんな遊馬の古い寺院

<高城寺>こうじょうじ
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1543年(天文12年)の開創と伝わる古い寺院です。先ほどの氷川神社ののすぐ近くです。

<鐘楼門>
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山門を抜けると正面に鐘楼門

<本堂>
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立派な寺院です

遊馬山と号するこのお寺は、江戸時代後期には寺子屋が開かれたそうです。むかしの遊馬の中心地といえますね。

<境内>
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石塔が並んでいます

<門前>
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こちらは山門右手覆屋の庚申塔。青面金剛立像ですね。

<説明板>
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説明板によれば、もともとは荒川の土手に立っていましたが、平成20年の堤防拡張工事のため、高城寺の敷地内に移され、土手外にあった当時の面影、雰囲気を住職が再現しましたものとのこと。

荒川の恩恵で人が集まり、その人たちが願いを込めた石仏が、荒川の都合で立ち退かなくてはならない。

何となく釈然としなかったのですが、説明文の最後の『これも世の流れ、すべてのものごとは移り変わってゆく「無常」というものを感じ、これからも変わらずお参りしていただくことを願います』というお言葉に、心が和みました。

ということで
赤山街道大宮道のゴール付近の陣屋、そしてほんの一部ではありますが、その周辺に根付いた人の営みのお話でした。

<赤山街道大宮道>
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<陣屋跡>
Nagayamon-Nagatajinya.JPG


川が好きなように流れ、あちこちで氾濫を繰り返す関東平野では、この対策とともに、いかに水を利用するかが課題でした。徳川家康の命でこれに立ち向かったのが伊奈忠次であり、息子の忠治でした。その活動の拠点、インフラとして整備された街道、そしてその恩恵を受けて成立したひとの暮らしを同時に感じることができ、とても満足な訪問となりました。

-------■ 永田陣屋 ■-------
別 名:伊奈陣屋・土屋陣屋
築城年:(江戸時代初期)
築城者:伊奈忠次
城 主:伊奈氏・永田氏
[さいたま市西区土屋]5番地

■参考及び出典
Wikipedia:2022/8/7
現地説明板
・西遊馬氷川神社
・高城寺
大宮・川越道歴史散歩コース説明板
(さいたま市教育委員会)


■当ブログの過去記事
投稿:2018年12月10日
タイトル:永田陣屋
  伊奈忠次が築いた陣屋跡
→記事へすすむ


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2022年07月03日

もうひとつの栗橋関所跡(日光街道)房川渡中田関所跡

日光街道の栗橋関所はじまりの地を訪ねました。

<中田御関所跡>
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こちらです。場所は現在の古河市中田。関所はまずここに設けられ、のちに利根川対岸の栗橋に移されたそうです。

<説明板>
Nakata-Osekisyoato-Explanationboard.JPG
こちらに『房川渡と中田御関所跡』と題して詳細な説明が記されています。古河市教育委員会さんの文を以下に転記させて頂きます。

『江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
 四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。』



関東平野にはたくさんの川がありますが、そこ横断する日光街道において、関所と渡船場が併設されていたのはここだけだったようです。利根川のうち、ここ中田と対岸の栗橋の間の流れを房川(ぼうせん)とよんだことから、渡船場は房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれ、関所は渡とセットで房川渡中田関所と呼ばれていたと解釈しました。やがて関所は対岸の栗橋側に移されることになり、栗橋関所と呼ばれましたが、正式名称は房川渡中田御関所のままであったようです。いずれにせよ、江戸の北の守りを長きに渡って担った関所の始まりは、この地点だったわけです。

Nakata-Osekisyoato-Street.JPG
関所跡をかすめるこの道はそのまま旧中田宿のメインストリートになります

ということで
房川渡中田関所跡のご紹介でした

Post-station-entrance.JPG
日光街道が利根川と交差する地点の関所はここから始まりました

■訪問:
房川渡中田関所跡

(房川渡と中田御関所跡)
[茨城県古河市中田]

■参考及び出典
現地説明板(古河市教育委員会)



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利根川橋を歩いて渡る(日光街道)房川に架かる橋

<利根川橋>
Tone-River-Bridge.JPG
利根川に架かる利根川橋です。そのままですね。今回はそこを歩いて渡ってみたというだけのお話です。

この日は埼玉県久喜市の栗橋関所跡を訪問しました。満足しかけた時、現地でのネット検索で、利根川を渡った先にも関所跡があることを知り、橋を渡ることとなりました。

<利根川>
Tone-River.JPG
ここは埼玉と茨城の県堺

Tonegawabashi.JPG


橋を渡る途中
欄干に備えつけられたレリーフに足が止まりました

<埼玉県の県の鳥>
Relief-Saitama-Prefecture-symbol-Shirokobato.JPG
シラコバトか

私は埼玉県民なので、県の鳥がシラコバトであることは知っています。この橋は埼玉と茨城を結ぶ橋ですので、次に現れるであろう光景に少しだけ期待が膨らみました。長い橋をただ歩いているだけです。普通なら気にもとめないことが、ちょっとした楽しみに感じられました。

Tone-River.JPG
県境付近

そして

<茨城県の県の鳥>
Relief-Ibaraki-Prefecture-symbol- Hibari.JPG
やはりあったか

予想通り。ただ、茨城の県の鳥がヒバリということは知りませんでした


利根川のこの付近、つまり埼玉県久喜市と茨城県古河市の間の流れは、かつて房川(ぼうせん)と呼ばれていました。江戸時代には軍事的な意味から橋が架けられなかったため、房川には渡船場が設けられました。そして、人の出入りを監視する関所も。関所は江戸時代を通して栗橋宿(現在の久喜市)側にありましたが、最初は対岸の中田宿(古河市)側にあり、房川渡中田関所と呼ばれていたそうです。

<中田宿へ続く道>
To-Post-Station.JPG
利根川橋を渡ってすぐに左折すると、目的地が見えてきました。道が折れ曲がったところが関所跡です。このご紹介は次の投稿にします。

ということで
かつての栗橋宿と中田宿の間に架かる橋を、歩いて渡ってみたというだけのお話でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

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■訪問:利根川橋
[埼玉県久喜市栗橋北]
[茨城県古河市中田]
タグ:日光街道
posted by Isuke at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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