浜松町のこんな光景に足が止まりました。
立派なプレートだなぁ
芝神明町町屋跡遺跡?
心惹かれたのは古地図の方でしたが、説明文をよく読むと、プレートの周辺に積まれている石が、この付近で発掘されたものだと分かりました。
昨日今日の建築材ではなく、昭和末期の再開発の時に行われた発掘調査で出土した石です。長らく地中に埋まっていた間知石が、ここに集められ積まれているようです。
間知石(けんちいし)とは石積みに使用される四角すいの石材のこと。こういう積み方が正しいのかわかりませんが、歴史をいまに伝える貴重な石材です。
低層の乱積みですかね
さて
ここは浜松町1丁目です。そもそも芝神明町とはどのエリアを指すのでしょうか
こちらの説明文によればこの付近、つまり浜松町1丁目は、かつて旧東海道を挟んだ向こう側の芝大門1丁目とともに「神明町」と呼ばれる町人の居留地だったとのこと。いわゆる町屋ですね。
この地図でタテに通っている幅広の道がかつての東海道。現在の第一京浜です。
古地図を拡大。神明町の名が見えます。左手(西側)奥に記されている飯倉神明宮が、地名の由来のようです。飯倉神明宮は現在の芝大神宮です。
こちらは第一京浜。かつての東海道です。道路の左手が先ほどの説明板のあった浜松町、右手が芝大門。むかしは道沿いの両側とも神明町と呼ばれていたわけですね。せっかくですので芝大門側に渡ってみますかね
芝大門側にある商店街の入り口。アーケードに神明の名が記されています。いまの住所表記とは異なる土地の呼び名、いいですね。
ということで
たまたま通りかかっただけですが、とても参考になり、ちょっとした街探索をさせてもらった気分です。プレートを設置してくれた住友不動産さん、ありがとうございます。
最後に
港区教育委員会さんの説明文の終わりの部分をそのまま引用させて頂きます。
『都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメントが、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。』
■訪問:住友浜松町ビル
(芝神明町町屋跡遺跡)
[東京都港区浜松町]1丁目18-16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/20
・住友不動産説明板
(文:港区教育委員会)
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2022年03月20日
2022年01月17日
伊奈半左衛門の陣屋跡と伝わる丘(御屋敷山)円阿弥陣屋
つわものどもが夢の跡
関東郡代伊奈氏の陣屋があったと伝わる場所を訪ねてみました。最初に言っておきますが、遺構はなく、石碑や説明板といった目印もありません。そんな内容でよければお付き合いください。
<台地の縁>
大宮台地から鴨川沿いの低地へ向かう地点です。この付近に伊奈半左衛門の陣屋があった伝わります
■赤山街道大宮道■
伊奈氏が自らの拠点である赤山陣屋と各地をつなぐために築いた赤山街道。時を重ねた現在も、道路として活かされています
<埼玉県道165号>大谷本郷さいたま線
こちらは赤山街道のなかでも大宮道と呼ばれる道筋。さいたま市西区から始まり、大宮区を経由して中央区の本町東付近まで南下した地点です。
<赤山通り>
伊奈氏のなごり
さて
赤山街道の大宮道はここから県道165号と分かれ、東へ進路を変えます
<交差点>
右手奥が赤山街道(県道165号)。この交差点を左折して(画像だと右方向へ進んで)八幡通りを経由して東へ向かうのが大宮道の本筋です。
ただ、当日持参した赤山街道の地図を見ると、八幡通りの逆方向も赤山街道と記されています。
これはどういうことなのか?
時間に余裕もあったので、その場でネット検索。すると、この先に伊奈氏の陣屋跡と伝わる場所があることが分かりました。
御屋敷山か…
いかにもそれらしい名です。ということで、予定を変更して先ほどの交差点を右折し、西へ向かうことになりました。
■大宮道の脇道■
<八幡通り>
西へ
<中央区本町西>
高速道路の下を通過
<中央区八王子>
ちょっと立ち寄り
<中央区円阿弥>
西へ
<不動明王像>
ちょっと立ち寄り
そして更に西へ進むと
<下り坂>
ここまで平坦でしたが、この先で下り坂となります。そして地図に記された赤山街道は、だいたいこの付近で途切れます
<既に目的地付近>
坂を下ります。既に『御屋敷山』と呼ばれるところを歩いていることを意識しながら
<台地が途切れる地点>
低地へ降りました。暗渠がお出迎えです。これ以上西へすすんでも、鴨川に出るだけ。伊奈氏の陣屋跡とされる場所は、川沿いの低地に面した大宮台地の西端にあったということになります。では具体的にはどこなのか?低い位置から台地側を見上げましたが、すっかり宅地化されていてイメージがわきません。
<推定地>
ここがもっとも可能性が高い場所?
陣屋の遺構として、台地の西縁、つまりこの付近に土塁があったと伝わります。そして台地上には段違いの二つの平らな区画があったとのこと。しかし現在は御覧の通りで、高低を感じられるだけです。
ここまでみっちり住宅が並んでいると、人目が気になりますし、そもそも手前のこの道も私道かもしれません。公道と思われるギリギリのところから写真を撮り、退散することとしました。ちなみに、どの家も新しく綺麗で、羨ましい住宅でした。
<円阿弥グラウンド>
こちらは先ほどの住宅のすぐ近くで、台地の端の斜面に位置するグラウンドです。住所は同じく中央区円阿弥2丁目。陣屋の場所は明確にはなっていないのですから、ここも候補地といえます。
ところで
<円阿弥>えんなみ
そもそもこの字は読めませんよね。地名の由来は、岩槻城の太田氏房の家臣でもあった領主の名とのことですが…え・ん・な・み…?法名ですかね?(わからず…)。また、地名の由来を知ってしまうと、ここが「御屋敷山」と呼ばれている理由、そして最近まであったと伝わる遺構は、太田氏家臣でもある領主の屋敷と関係あるのではないか?などと想像してしまいます(こちらもわからず・・・)
え・ん・な・み・・・
ということで
さいたま市内で伊奈半左衛門の陣屋跡と伝わる場所を訪ねてみたというお話でした。詳細が不明なままで恐縮です。ちなみに、伊奈氏の歴代当主の通称は半十郎か半左衛門のどちらかなので、具体的にどなたの屋敷跡だったのかも不明です。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:御屋敷山
(伝 円阿弥陣屋跡)
[さいたま市中央区円阿弥]2丁目
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関東郡代伊奈氏の陣屋があったと伝わる場所を訪ねてみました。最初に言っておきますが、遺構はなく、石碑や説明板といった目印もありません。そんな内容でよければお付き合いください。
<台地の縁>
大宮台地から鴨川沿いの低地へ向かう地点です。この付近に伊奈半左衛門の陣屋があった伝わります
■赤山街道大宮道■
伊奈氏が自らの拠点である赤山陣屋と各地をつなぐために築いた赤山街道。時を重ねた現在も、道路として活かされています
<埼玉県道165号>大谷本郷さいたま線
こちらは赤山街道のなかでも大宮道と呼ばれる道筋。さいたま市西区から始まり、大宮区を経由して中央区の本町東付近まで南下した地点です。
<赤山通り>
伊奈氏のなごり
さて
赤山街道の大宮道はここから県道165号と分かれ、東へ進路を変えます
<交差点>
右手奥が赤山街道(県道165号)。この交差点を左折して(画像だと右方向へ進んで)八幡通りを経由して東へ向かうのが大宮道の本筋です。
ただ、当日持参した赤山街道の地図を見ると、八幡通りの逆方向も赤山街道と記されています。
これはどういうことなのか?
時間に余裕もあったので、その場でネット検索。すると、この先に伊奈氏の陣屋跡と伝わる場所があることが分かりました。
御屋敷山か…
いかにもそれらしい名です。ということで、予定を変更して先ほどの交差点を右折し、西へ向かうことになりました。
■大宮道の脇道■
<八幡通り>
西へ
<中央区本町西>
高速道路の下を通過
<中央区八王子>
ちょっと立ち寄り
<中央区円阿弥>
西へ
<不動明王像>
ちょっと立ち寄り
そして更に西へ進むと
<下り坂>
ここまで平坦でしたが、この先で下り坂となります。そして地図に記された赤山街道は、だいたいこの付近で途切れます
<既に目的地付近>
坂を下ります。既に『御屋敷山』と呼ばれるところを歩いていることを意識しながら
<台地が途切れる地点>
低地へ降りました。暗渠がお出迎えです。これ以上西へすすんでも、鴨川に出るだけ。伊奈氏の陣屋跡とされる場所は、川沿いの低地に面した大宮台地の西端にあったということになります。では具体的にはどこなのか?低い位置から台地側を見上げましたが、すっかり宅地化されていてイメージがわきません。
<推定地>
ここがもっとも可能性が高い場所?
陣屋の遺構として、台地の西縁、つまりこの付近に土塁があったと伝わります。そして台地上には段違いの二つの平らな区画があったとのこと。しかし現在は御覧の通りで、高低を感じられるだけです。
ここまでみっちり住宅が並んでいると、人目が気になりますし、そもそも手前のこの道も私道かもしれません。公道と思われるギリギリのところから写真を撮り、退散することとしました。ちなみに、どの家も新しく綺麗で、羨ましい住宅でした。
<円阿弥グラウンド>
こちらは先ほどの住宅のすぐ近くで、台地の端の斜面に位置するグラウンドです。住所は同じく中央区円阿弥2丁目。陣屋の場所は明確にはなっていないのですから、ここも候補地といえます。
ところで
<円阿弥>えんなみ
そもそもこの字は読めませんよね。地名の由来は、岩槻城の太田氏房の家臣でもあった領主の名とのことですが…え・ん・な・み…?法名ですかね?(わからず…)。また、地名の由来を知ってしまうと、ここが「御屋敷山」と呼ばれている理由、そして最近まであったと伝わる遺構は、太田氏家臣でもある領主の屋敷と関係あるのではないか?などと想像してしまいます(こちらもわからず・・・)
え・ん・な・み・・・
ということで
さいたま市内で伊奈半左衛門の陣屋跡と伝わる場所を訪ねてみたというお話でした。詳細が不明なままで恐縮です。ちなみに、伊奈氏の歴代当主の通称は半十郎か半左衛門のどちらかなので、具体的にどなたの屋敷跡だったのかも不明です。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:御屋敷山
(伝 円阿弥陣屋跡)
[さいたま市中央区円阿弥]2丁目
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タグ:赤山街道
2022年01月09日
赤山陣屋近くの古刹(川口市安行)興禅院
関東郡代伊奈氏が160年以上にわたり拠点とした赤山陣屋跡の近くに、深い歴史が刻まれ、いまでは観光名所としても名高いお寺があります。
<興禅院山門>
1546年開創という古いお寺です
<曹洞宗興禅院>
曹洞宗の寺院。山号は瑞龍山
<門前の小僧さん>
ひっそりと佇む山門の右手には小僧さん
<鐘楼>
<本堂>
大正9年(1920)に再建された本堂。本尊は釈迦如来坐像
<参道>
ご紹介の順番が逆になりますが、こちらは冒頭の山門までの参道です。この日は街探索のお仲間たちと現地を訪問。ちょうど紅葉が見頃でした。
<赤山陣屋と興禅院>
現在位置がわかるプレートが設置されていました。興禅院の場所を示す地図ですが、中心には赤山陣屋跡が記されています。密接な関係と受け止めました。陣屋からの距離は5百メートルくらいでしょうか。興禅院には、伊奈氏の重臣だった富田氏の墓所もあります。富田氏は一代限りではなく、長きに渡って伊奈氏に仕えました。赤山陣屋の二の丸に屋敷があったようです。興禅院の有力な檀家でもあり、寺の繁栄にも貢献しています。
<地図拡大>
現在位置は地図の左上です。よく見ると、興禅院のそばに弁財天と並んで「赤堀用水」と記されています。これは伊奈氏が築いた見沼溜井(みぬまためい)の水を引き込んで安行を含む各地に供給するための水路。ここ興禅院は台地上に位置していますが、すぐそばはもう谷へ降る斜面です。水路はその麓をかすめるように設けられたわけですね。
せっかくですので
その谷に降ります
<本堂の裏の斜面>
安行の秘境
<弁財天堂>
鳥居の前にはこま蛇。地形の複雑な安行は、沼地の大蛇伝説が今に伝わる地です
<放生池>
近くの説明板によれば、現代は宅地化によりかつてあった泉の多くが細る一方だが、この霊水だけはどんな日照りでも枯渇することがないとのこと。この霊水は地元の公立学校の校歌にも「泉湧く」と歌われていて、市内の貴重な泉として維持管理されているようです
以上です
こんな拙ブログでは、安行八景にも選ばれいる興禅院の魅力の半分もお伝えできませんが、画像で雰囲気だけでも共有できれば幸いです。繰り返しになりますが、伊奈氏の赤山陣屋跡から徒歩圏内です。
■訪問:興禅院
[埼玉県川口市安行領家]401
■参考及び出典
現地説明板
・さいたま市
・瑞龍山興禅院
最後に
この探索を企画して下さった「いこ〜」さんに感謝申し上げます。いこ〜さんは本業のお仕事とは別に、大宮台地の湧水を中心に各所で探索を続けている方です。自然や環境に関する造詣が深く、更にそこを舞台とする人の暮らしと向き合う視点がとても魅力的です。ほんの一例ではありますが、ブログを下記に記しておきますので、ご興味のある方は訪問してみて下さい。
ブログ:大宮台地の湧水
記 事:川口市 道合〜安行領根岸の湧水と寺社
『→記事へ進む』
<興禅院山門>
1546年開創という古いお寺です
<曹洞宗興禅院>
曹洞宗の寺院。山号は瑞龍山
<門前の小僧さん>
ひっそりと佇む山門の右手には小僧さん
<鐘楼>
<本堂>
大正9年(1920)に再建された本堂。本尊は釈迦如来坐像
<参道>
ご紹介の順番が逆になりますが、こちらは冒頭の山門までの参道です。この日は街探索のお仲間たちと現地を訪問。ちょうど紅葉が見頃でした。
<赤山陣屋と興禅院>
現在位置がわかるプレートが設置されていました。興禅院の場所を示す地図ですが、中心には赤山陣屋跡が記されています。密接な関係と受け止めました。陣屋からの距離は5百メートルくらいでしょうか。興禅院には、伊奈氏の重臣だった富田氏の墓所もあります。富田氏は一代限りではなく、長きに渡って伊奈氏に仕えました。赤山陣屋の二の丸に屋敷があったようです。興禅院の有力な檀家でもあり、寺の繁栄にも貢献しています。
<地図拡大>
現在位置は地図の左上です。よく見ると、興禅院のそばに弁財天と並んで「赤堀用水」と記されています。これは伊奈氏が築いた見沼溜井(みぬまためい)の水を引き込んで安行を含む各地に供給するための水路。ここ興禅院は台地上に位置していますが、すぐそばはもう谷へ降る斜面です。水路はその麓をかすめるように設けられたわけですね。
せっかくですので
その谷に降ります
<本堂の裏の斜面>
安行の秘境
<弁財天堂>
鳥居の前にはこま蛇。地形の複雑な安行は、沼地の大蛇伝説が今に伝わる地です
<放生池>
近くの説明板によれば、現代は宅地化によりかつてあった泉の多くが細る一方だが、この霊水だけはどんな日照りでも枯渇することがないとのこと。この霊水は地元の公立学校の校歌にも「泉湧く」と歌われていて、市内の貴重な泉として維持管理されているようです
以上です
こんな拙ブログでは、安行八景にも選ばれいる興禅院の魅力の半分もお伝えできませんが、画像で雰囲気だけでも共有できれば幸いです。繰り返しになりますが、伊奈氏の赤山陣屋跡から徒歩圏内です。
■訪問:興禅院
[埼玉県川口市安行領家]401
■参考及び出典
現地説明板
・さいたま市
・瑞龍山興禅院
最後に
この探索を企画して下さった「いこ〜」さんに感謝申し上げます。いこ〜さんは本業のお仕事とは別に、大宮台地の湧水を中心に各所で探索を続けている方です。自然や環境に関する造詣が深く、更にそこを舞台とする人の暮らしと向き合う視点がとても魅力的です。ほんの一例ではありますが、ブログを下記に記しておきますので、ご興味のある方は訪問してみて下さい。
ブログ:大宮台地の湧水
記 事:川口市 道合〜安行領根岸の湧水と寺社
『→記事へ進む』
タグ:赤山街道
2022年01月02日
安行の植木と伊奈氏の陣屋跡(赤山陣屋)
江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が赤山領の拠点として築城した赤山陣屋(赤山城)。かつての本丸・二ノ丸付近を中心に土塁や堀が残り、その一部は公園として整備されています。
<東堀跡>
昔はもっと堀も深かったことでしょう
<南堀跡>
あまりに綺麗で城跡だということを忘れそうです
さて
城跡が公園として整備されている例はよくありますが、ここは特に「植木」が目につきませんかかね?
<植木>
こんな場所もあります。刈り込んで鳥をかたどった植木。アヒル?ですかね
これらが赤山陣屋からすぐ近くの安行と関係があるとしたら、なんとなく奥深いものに見えてきませんか?
<説明板>
<四ツ門>
上の説明板の地図に加筆させて頂きました。赤い〇印が陣屋の出入り口で、赤山街道の起着点になります。その一つに安行口があります。千住方面へ向かう赤山街道千住道の起点となる出入り口ですが、陣屋を出発してまず安行を通るからそう呼ばれているのでしょう。その安行、実は昔から植木産業が盛んな地として知られています。
ところ変わって
こちらは安行の古い寺院
<金剛寺参道>
赤山街道千住道沿い、正確には街道からちょっと入ったところにある金剛寺です
<山門>
雰囲気のあるこの茅葺きの山門は、市指定有形文化財です。江戸時代初期の建立で、典型的な江戸初期の四脚門の様式とのこと。この地の歴史がいかに深いか伝わってきます
<鐘楼>
<本堂>
曹洞宗寺院の金剛寺本堂
そして
<埼玉県による説明板>
金剛寺と題しての説明ですが、これを読めば、安行がどのような地であるか、大まかではありますが分かります。下記に抜粋させて頂きます。『』内は原文そのままの転記です。
『金剛寺は、曹洞宗の寺で、明応五年(1496)に中田安斎入道安行が開基したと伝えられ、寺名も安行が金剛経を信奉していたことに由来している。』とのこと。
この中田安斎入道安行の名から、この地は安行と呼ばれるようになりました。生没年を含めて詳細はわかりませんが、この付近を開発して領主となった人物と思われます。地名は「あんぎょう」となりますが、人名の方は「やすゆき」と読みます。
つづてい
『この寺は、かつては僧侶修行道場の格式をもっていたが、現在では「お灸の寺」として広く知られている。
ここの墓地には、「安行苗木開発の祖」として知られている吉田権之丞の墓がある。小松石で作られた舟形の墓石で、棹石の高さ六七・五センチメートル、幅三二センチメートルで中央に観音立像が肉彫され、向って左側に「元禄十六癸未年七月朔日」右側に法名の「蔭清禅定門」と刻まれている。
吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないのではっきりしないが、言い伝えによると、権之丞は、若い時から草花や盆栽に趣味を持ち、珍しい草木を集めてこの地に栽培したところ、土質・風土が適合し、その成育がよかったので、これらの苗木の育成に当ったという。権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地区で植木業を営んでいる。』
安行苗木開発の祖が紹介されています。植木産業が盛んな地らしいお話ですね。文中にある吉田家のみならず、今でも多くの植木農家が安行及びその周辺に存在しています。
ふたたび赤山陣屋
<城址碑>
説明板では赤山陣屋となっていますが、石碑には赤山城址碑と刻まれています。広大な敷地に土塁や堀を設けた陣屋は、構造だけ見れば城と呼ぶ方がしっくりきますね
伊奈忠治を筆頭に、伊奈一族は治水や新田開発で大きな恩恵を後世に残しました。関東郡代を世襲し続けたことから、かなりの権力者でもありましたが、立ち位置は基本的に農民寄りであり、大事業とは別に領内の特産物推奨なども行っています。安行の植木もそのひとつ。それが今に繋がっているわけです。
やがて12代目当主・忠尊(ただたか)の時に伊奈氏は改易、所領没収となりますが、領内及び関係する村々から幕府に赦免の請願書が提出されたようです。その願いは叶いませんでしたが、いかに庶民から支持されていたかが伝わってきます。
<赤山陣屋堀跡>
幕府の命で破却された伊奈氏の陣屋跡です。特産物となった植木が縁取ることで、かつての堀の跡が保たれている。そう受けとめれば、それはそれで奥深いですね
つわものどもが夢の跡です
■訪問
赤山陣屋(赤山城)
[埼玉県川口市赤山]
金剛寺
[埼玉県川口市安行吉岡] 1361
■参考及び抜粋
現地説明板
・金剛寺境内(埼玉県)
・赤山城址碑付近
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<東堀跡>
昔はもっと堀も深かったことでしょう
<南堀跡>
あまりに綺麗で城跡だということを忘れそうです
さて
城跡が公園として整備されている例はよくありますが、ここは特に「植木」が目につきませんかかね?
<植木>
こんな場所もあります。刈り込んで鳥をかたどった植木。アヒル?ですかね
これらが赤山陣屋からすぐ近くの安行と関係があるとしたら、なんとなく奥深いものに見えてきませんか?
<説明板>
<四ツ門>
上の説明板の地図に加筆させて頂きました。赤い〇印が陣屋の出入り口で、赤山街道の起着点になります。その一つに安行口があります。千住方面へ向かう赤山街道千住道の起点となる出入り口ですが、陣屋を出発してまず安行を通るからそう呼ばれているのでしょう。その安行、実は昔から植木産業が盛んな地として知られています。
ところ変わって
こちらは安行の古い寺院
<金剛寺参道>
赤山街道千住道沿い、正確には街道からちょっと入ったところにある金剛寺です
<山門>
雰囲気のあるこの茅葺きの山門は、市指定有形文化財です。江戸時代初期の建立で、典型的な江戸初期の四脚門の様式とのこと。この地の歴史がいかに深いか伝わってきます
<鐘楼>
<本堂>
曹洞宗寺院の金剛寺本堂
そして
<埼玉県による説明板>
金剛寺と題しての説明ですが、これを読めば、安行がどのような地であるか、大まかではありますが分かります。下記に抜粋させて頂きます。『』内は原文そのままの転記です。
『金剛寺は、曹洞宗の寺で、明応五年(1496)に中田安斎入道安行が開基したと伝えられ、寺名も安行が金剛経を信奉していたことに由来している。』とのこと。
この中田安斎入道安行の名から、この地は安行と呼ばれるようになりました。生没年を含めて詳細はわかりませんが、この付近を開発して領主となった人物と思われます。地名は「あんぎょう」となりますが、人名の方は「やすゆき」と読みます。
つづてい
『この寺は、かつては僧侶修行道場の格式をもっていたが、現在では「お灸の寺」として広く知られている。
ここの墓地には、「安行苗木開発の祖」として知られている吉田権之丞の墓がある。小松石で作られた舟形の墓石で、棹石の高さ六七・五センチメートル、幅三二センチメートルで中央に観音立像が肉彫され、向って左側に「元禄十六癸未年七月朔日」右側に法名の「蔭清禅定門」と刻まれている。
吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないのではっきりしないが、言い伝えによると、権之丞は、若い時から草花や盆栽に趣味を持ち、珍しい草木を集めてこの地に栽培したところ、土質・風土が適合し、その成育がよかったので、これらの苗木の育成に当ったという。権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地区で植木業を営んでいる。』
安行苗木開発の祖が紹介されています。植木産業が盛んな地らしいお話ですね。文中にある吉田家のみならず、今でも多くの植木農家が安行及びその周辺に存在しています。
ふたたび赤山陣屋
<城址碑>
説明板では赤山陣屋となっていますが、石碑には赤山城址碑と刻まれています。広大な敷地に土塁や堀を設けた陣屋は、構造だけ見れば城と呼ぶ方がしっくりきますね
伊奈忠治を筆頭に、伊奈一族は治水や新田開発で大きな恩恵を後世に残しました。関東郡代を世襲し続けたことから、かなりの権力者でもありましたが、立ち位置は基本的に農民寄りであり、大事業とは別に領内の特産物推奨なども行っています。安行の植木もそのひとつ。それが今に繋がっているわけです。
やがて12代目当主・忠尊(ただたか)の時に伊奈氏は改易、所領没収となりますが、領内及び関係する村々から幕府に赦免の請願書が提出されたようです。その願いは叶いませんでしたが、いかに庶民から支持されていたかが伝わってきます。
<赤山陣屋堀跡>
幕府の命で破却された伊奈氏の陣屋跡です。特産物となった植木が縁取ることで、かつての堀の跡が保たれている。そう受けとめれば、それはそれで奥深いですね
つわものどもが夢の跡です
■訪問
赤山陣屋(赤山城)
[埼玉県川口市赤山]
金剛寺
[埼玉県川口市安行吉岡] 1361
■参考及び抜粋
現地説明板
・金剛寺境内(埼玉県)
・赤山城址碑付近
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2021年12月29日
曲輪という名のバス停(川口市)
川口市には曲輪という名のバス停があります。読み方は「くるわ」です。
<バス停留所>
バス停の住所は川口市赤山。曲輪は地名そのものではありません。
城に詳しい方は別として、一般的には何を意味しているか分かりにくいですよね。曲輪とは、お城の区画をさす言葉です。分かり安い例で説明すると、お城の中心となる曲輪のことを本丸、次に重要な曲輪を二ノ丸と呼んだりします。曲輪がお城の区画を表していること、何となく伝わりましたでしょうか。同じ読み方で「郭」と書く場合もあります。
さて
なぜこのバス停にお城の言葉が使われているかといえば、この付近がかつての城跡だからです。といっても、広大な城は大半が失われ、周囲を見回しても城跡らしさは感じられません。しかしバス停からほんのちょっと歩けば、かつての城の中心部分が城址公園として整備されています。
<赤山城跡>
こちらです
<説明板>
ここは徳川家の家臣・伊奈氏が拠点とした赤山城跡。赤山陣屋とも呼ばれています
<地図と説明>
こちらには伊奈氏の説明とともに城(陣屋)の配置図が掲載されています。城は低湿地に囲まれた台地上に築かれました。本丸・二の丸・出丸の他に、伊奈氏の家臣団が住む屋敷が立ち並ぶ曲輪もあります。
冒頭のバス停は家臣の屋敷があった曲輪の東側の道となります。それはそのままかつての赤山街道。赤山城へつながる街道です。
ということで
城のなごりを今に伝えるバス停のお話でした。この地ならではの歴史を物語る素敵な名前のバス停ですね。
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<バス停留所>
バス停の住所は川口市赤山。曲輪は地名そのものではありません。
城に詳しい方は別として、一般的には何を意味しているか分かりにくいですよね。曲輪とは、お城の区画をさす言葉です。分かり安い例で説明すると、お城の中心となる曲輪のことを本丸、次に重要な曲輪を二ノ丸と呼んだりします。曲輪がお城の区画を表していること、何となく伝わりましたでしょうか。同じ読み方で「郭」と書く場合もあります。
さて
なぜこのバス停にお城の言葉が使われているかといえば、この付近がかつての城跡だからです。といっても、広大な城は大半が失われ、周囲を見回しても城跡らしさは感じられません。しかしバス停からほんのちょっと歩けば、かつての城の中心部分が城址公園として整備されています。
<赤山城跡>
こちらです
<説明板>
ここは徳川家の家臣・伊奈氏が拠点とした赤山城跡。赤山陣屋とも呼ばれています
<地図と説明>
こちらには伊奈氏の説明とともに城(陣屋)の配置図が掲載されています。城は低湿地に囲まれた台地上に築かれました。本丸・二の丸・出丸の他に、伊奈氏の家臣団が住む屋敷が立ち並ぶ曲輪もあります。
冒頭のバス停は家臣の屋敷があった曲輪の東側の道となります。それはそのままかつての赤山街道。赤山城へつながる街道です。
ということで
城のなごりを今に伝えるバス停のお話でした。この地ならではの歴史を物語る素敵な名前のバス停ですね。
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タグ:赤山街道
赤山街道の起着点 赤山陣屋の四ツ門
幕府領を管轄する役割を担った伊奈忠治が、新田開発や河川改修のための物資輸送のための道として整備した赤山街道。道のりからそれぞれ大宮道・千住道・越谷道と呼ばれる街道は、全て伊奈忠治の陣屋と繋がっています。
<赤山陣屋跡>
伊奈忠治が築いた陣屋跡
<説明板>
伊奈氏と赤山陣屋についての説明文と縄張り図が記されています。一部抜粋させて頂くと『伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配と開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました』とのこと。本丸と二の丸だけでも約110,000u、周囲の家臣持ち分の区画なども含めると約770,000uにも及ぶ広大なものだったことも記されています。代官の拠点であることから陣屋と呼んでいますが、城といった方がしっくれするかもしれませんね。
左側の地図には曲輪の配置とともに、赤山街道が記されています。ちょっと見えにくいので画像を拡大させて頂きます。
<縄張り図の拡大>
加筆させて頂きました。赤い〇印が陣屋の出入り口で、赤山街道の起着点になります。
陣屋の西側には赤山街道大宮道の新町口、南側には二手に分かれて陣屋とつながる赤山街道千住道の鳩ヶ谷口と安行口、そして東側には赤山街道越ヶ谷道の越ヶ谷口と記されています。赤山陣屋の四ツ門です。
このうち、鳩ヶ谷口は赤山陣屋の表門です。そこへ繋がる道を千住道とは切り離し、鳩ヶ谷道とする記載もありますが、私は一般的な分類にならって千住道として受け止めたいと思います。
ということで
全ての赤山街道にとっての起点であり終着点である赤山陣屋の出入り口(四ツ門)の紹介でした。
■訪問:赤山陣屋
[埼玉県川口市赤山]
■参考及び抜粋
現地説明板
お城巡りランキング
<赤山陣屋跡>
伊奈忠治が築いた陣屋跡
<説明板>
伊奈氏と赤山陣屋についての説明文と縄張り図が記されています。一部抜粋させて頂くと『伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配と開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました』とのこと。本丸と二の丸だけでも約110,000u、周囲の家臣持ち分の区画なども含めると約770,000uにも及ぶ広大なものだったことも記されています。代官の拠点であることから陣屋と呼んでいますが、城といった方がしっくれするかもしれませんね。
左側の地図には曲輪の配置とともに、赤山街道が記されています。ちょっと見えにくいので画像を拡大させて頂きます。
<縄張り図の拡大>
加筆させて頂きました。赤い〇印が陣屋の出入り口で、赤山街道の起着点になります。
陣屋の西側には赤山街道大宮道の新町口、南側には二手に分かれて陣屋とつながる赤山街道千住道の鳩ヶ谷口と安行口、そして東側には赤山街道越ヶ谷道の越ヶ谷口と記されています。赤山陣屋の四ツ門です。
このうち、鳩ヶ谷口は赤山陣屋の表門です。そこへ繋がる道を千住道とは切り離し、鳩ヶ谷道とする記載もありますが、私は一般的な分類にならって千住道として受け止めたいと思います。
ということで
全ての赤山街道にとっての起点であり終着点である赤山陣屋の出入り口(四ツ門)の紹介でした。
■訪問:赤山陣屋
[埼玉県川口市赤山]
■参考及び抜粋
現地説明板
お城巡りランキング
タグ:赤山街道
2021年12月25日
赤山街道 八丁堤のなごり(追記)八丁橋たもとの説明板
赤山街道の八丁堤付近を通過する時に見かけた説明板の内容を追記させて頂きます。
<芝川と八丁橋>
伊奈忠治が築いた八丁堤が破られ、見沼田んぼの開発が始まったことを象徴する場所です。この橋のたもとに、八丁堤を詳しく紹介した説明板が設置されていました。
<説明板>
さいたま市による説明です。以下(『』内)に転記させて頂きます。
八丁堤
『八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤ある。この堤は、長さが八町(約八七〇メートル)ほどあるのでその名がつけられた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
寛永六年 (一六二九)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八工堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は一二〇〇ヘクタールに
及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域二三二か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと犯らんしたり旱ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(一七二七)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は、寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある』
新田開発や治水事業で名を馳せた伊奈氏のことや、八丁堤に関することが記載されています。そして、堤がそのまま伊奈氏の拠点である赤山陣屋に通ずる「赤山街道」の一部であったことも。台地と台地の間の低地を横切るための道、そして水を堰き止める堤。伊奈忠治が築いた八丁堤は、その両方を兼ねていた訳ですね。
■訪問:八丁橋(説明板)
[さいたま市緑区大間木]1885
■参考及び出典
現地説明板(さいたま市)
<芝川と八丁橋>
伊奈忠治が築いた八丁堤が破られ、見沼田んぼの開発が始まったことを象徴する場所です。この橋のたもとに、八丁堤を詳しく紹介した説明板が設置されていました。
<説明板>
さいたま市による説明です。以下(『』内)に転記させて頂きます。
八丁堤
『八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤ある。この堤は、長さが八町(約八七〇メートル)ほどあるのでその名がつけられた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
寛永六年 (一六二九)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八工堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は一二〇〇ヘクタールに
及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域二三二か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと犯らんしたり旱ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(一七二七)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は、寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある』
新田開発や治水事業で名を馳せた伊奈氏のことや、八丁堤に関することが記載されています。そして、堤がそのまま伊奈氏の拠点である赤山陣屋に通ずる「赤山街道」の一部であったことも。台地と台地の間の低地を横切るための道、そして水を堰き止める堤。伊奈忠治が築いた八丁堤は、その両方を兼ねていた訳ですね。
■訪問:八丁橋(説明板)
[さいたま市緑区大間木]1885
■参考及び出典
現地説明板(さいたま市)
タグ:赤山街道
赤山街道 八丁堤のなごり(追記)附島氷川女体神社
かつての赤山街道を探索中に立ち寄らせて頂いた附島氷川女体神社について、追記させて頂きます。
<附島氷川女体神社>つきしま
現在の県道103号線に面した高台に鎮座する附島氷川女体神社
<鳥居>
<覆屋と本殿>
小規模な社殿とこじんまりとした境内。覆屋内部の本殿は市指定有形文化財となっています
<奇稲田姫命>くしなだひめ
御祭神は奇稲田姫命。稲田の女神です。ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の生贄になるところをスサノオノミコト(素戔嗚尊)に救われ妻となりました。
<氷川女体社御由緒>
以下に転記させて頂きます(『』内)
□ 御縁起(歴史)
『 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(一六九二)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四−七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。』
崖の下は入り江。そんな地形が附島という地名の由来となったのですね。やがて海の水が引いて、残された沼地の南端に位置するこの地には、吉田一族により集落が形成された。人の営みの始まりは吉田家ということですね。氷川女体神社が祀られたのは、見沼溜井が造成された(1629年)以降。水を堰き止める八丁堤が築かれることで水没する三室村内の氷川女体神社が、附島村へと移されたことに始まる。
ちょっと大まかではありますが、そう受けとめさせて頂きました。
<末社>
本殿脇の末社の向こう側は見沼通船堀となっています。
<八丁堤のなごり>
盛られた土は八丁堤のなごり。すなわち、新田開発のために堤を築いた関東郡代・伊奈忠治のなごりです。
■訪問:附島氷川女体神社
(つきしまひかわにょたいじんしゃ)
[さいたま市緑区大間木]1522
■参考及び出典
現地説明板(御由緒)
<附島氷川女体神社>つきしま
現在の県道103号線に面した高台に鎮座する附島氷川女体神社
<鳥居>
<覆屋と本殿>
小規模な社殿とこじんまりとした境内。覆屋内部の本殿は市指定有形文化財となっています
<奇稲田姫命>くしなだひめ
御祭神は奇稲田姫命。稲田の女神です。ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の生贄になるところをスサノオノミコト(素戔嗚尊)に救われ妻となりました。
<氷川女体社御由緒>
以下に転記させて頂きます(『』内)
□ 御縁起(歴史)
『 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(一六九二)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四−七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。』
崖の下は入り江。そんな地形が附島という地名の由来となったのですね。やがて海の水が引いて、残された沼地の南端に位置するこの地には、吉田一族により集落が形成された。人の営みの始まりは吉田家ということですね。氷川女体神社が祀られたのは、見沼溜井が造成された(1629年)以降。水を堰き止める八丁堤が築かれることで水没する三室村内の氷川女体神社が、附島村へと移されたことに始まる。
ちょっと大まかではありますが、そう受けとめさせて頂きました。
<末社>
本殿脇の末社の向こう側は見沼通船堀となっています。
<八丁堤のなごり>
盛られた土は八丁堤のなごり。すなわち、新田開発のために堤を築いた関東郡代・伊奈忠治のなごりです。
■訪問:附島氷川女体神社
(つきしまひかわにょたいじんしゃ)
[さいたま市緑区大間木]1522
■参考及び出典
現地説明板(御由緒)
タグ:赤山街道