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2021年09月11日

将軍の休憩所(小山御殿)日光街道小山宿

今回は日光街道沿いに設けられた将軍専用の休憩所跡の話です。ただの休憩所ではありません。敷地には堀や土塁を廻らされ、ちょっとした城のような造りだったようです。

<小山御殿跡>おやまごてん
Oyamagoten-Guide-Plate.JPG
現在は広場として整備され、小山御殿に関する説明板が設置されています。


■日光街道小山宿■おやましゅく
日光街道の小山宿は、日本橋から数えて12番目の宿場です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が74軒あったとのこと(出典元ːwikipedia)

日光街道と周辺の主要な街道が交わる小山は、古くから交通の要所であり、宿場も比較的規模の大きな規模した。宿場の本陣とは、大名や幕府の役人など身分が高い人が利用する幕府公認の旅のことですね。これとは別に、宿内には将軍専用の休憩所が設けられていました。これが今回訪問の小山御殿です。


■縁起の良い場所■
小山御殿は二代将軍の徳川秀忠が、1622年に日光社参を行った際に設けられたとされています。小山と言えば、上杉征伐のために会津へ向かう家康が、石田三成挙兵の報告を受け、諸将を集めて軍議(いわゆる小山評定ですね)を開いた場所です。その後の関ヶ原の戦いの結果は言うまでもありません。その起点となった小山評定を吉例として、この地に休憩所が設けられました。

<現地説明板>
Oyamagoten-Guide.JPG
左側は地元の豪族・小山氏とその居城の説明。右側が小山御殿の説明になります。『小山評定の吉例にならったもの』と記されています。小山は徳川家にとって縁起の良い場所ということですね。周囲に堀を設け、土塁も二重土塁にするなど、そうとう厳重な警備体制だったようです。

<復元図>
Picture-Oyamagoten.JPG
左の土塁の向こう側の小屋は見張り用でしょうか。説明板によれば『16ケ所に御番所が設けられて』いたようですので、その一つですかね。

<土塁>
Oyamagoten-Oyama.JPG
遺構?と言ってよいか分かりませんが、かつて土塁に囲まれていたことを意識して整備した広場です

<説明板>
Explanatory-text-Garden.JPG
別の説明板です。こちらには発掘調査の結果なども記されています。

<航空写真>
Sketch-Oyamagoten.JPG
調査で解った建物の配置をもとに、屋敷跡がコンクリート舗装されているわけですね。なるほど。ではそういう目で見てみますかね。

屋敷の一番奥へ移動

<将軍用の部屋の跡>
Corner-of-Oyamagoten.JPG
ここに将軍用の部屋があったようです。

<プレート>
Oyamagoten-Explanatory-Text.JPG
畳90畳敷きの建物で、風呂とトイレも併設され、屋根は杮葺きであったようです。

なるほど
建物はありませんが、広さは実感できましたので、あとは勝手に想像させて頂きました。


ここ小山には、古くから城があり、江戸時代初期には家康の重臣である本多正純の居城となっていました。しかし本多正純が宇都宮城へ移ることになり、1619年に廃城。小山御殿が築かれたのはその約3年後です。城が健在であれば、将軍は城に立ち寄ったのかもしれませんね。

<将軍の休憩所>
Shogun's-rest-Area.JPG
将軍家の日光社参は、幕府の財政難により1663年以降しばらく途切れることになります。1682年、出番のない小山御殿は管轄している古河藩により解体されました。

■訪問:小山御殿跡
1622年〜1682年
(現況:小山御殿広場)
[栃木県小山市中央町]1-3

■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/9/11
・現地説明板



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タグ:日光街道
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2021年07月24日

大門宿のなごり(日光御成道)大門宿本陣表門

今回はかつて日光御成道の宿場だった大門宿のなごりの話です。

大門?

場所はさいたま市緑区になります

<大門宿本陣表門>ほんじんおもてもん
Daimon-Honjin-Gate.JPG
大門宿の本陣の表門です


■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿や川口宿を経て日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。今回ご紹介の大門もその宿場の一つでした。

<日光御成道>
Road-To-Daimon.JPG
まぁただの道ですね。昔からある道のせいでしょうか。道幅が狭く、歩道が十分に確保されていません。7月の炎天下、川口市側からさいたま市緑区大門を目指してひたすら歩き続けました。

<東大門>
Road-To-Daimon2.JPG
東大門一丁目まできました。何となく先が見えてきた感じです。日光御成道はこのまままっすぐですが、ここでちょっと右手に曲がってみます。

<丘の上>
Top-Of-The-Hill.JPG
台地の上であることが実感できます。御成道は低地を避けるように、台地の縁をつたって目的地につながるようになっています。

もとの道へ戻ってしばらく進むと

<国道463号>
Road463.JPG
ここで浦和と越谷を結ぶ国道463号(越谷街道)と合流します

Road463-Daimon.JPG
この道がそのままかつての日光御成道です。もともとは鎌倉時代の鎌倉街道中道(なかつみち)でした。今回は将軍ご一行が通った道を意識して訪問していますが、多くの名だたる武将が北を目指した街道でもあります。

<鳥居>
Daimon-Shrine-Gate.JPG
進行方向右手に赤い鳥居が見えました。当然立ち寄ります。宿場だったなごりを感じるために

<大門神社>だいもんじんじゃ
Daimon-Shrine-2nd-Gate.JPG
かなり長い参道を進んだ先には凛とした空気が待っていました

<社殿>
Daimon-Shrine.JPG
お邪魔致します…

<本殿>
Daimon-Main-Shrine.JPG
本殿は江戸時代中期から後期の建立とのこと。大門神社そのものの創立時期は不詳ながら、江戸時代には十二所権現社と称し、宿場町大門宿の鎮守社だったとのことです。

さて
宿場だったなごりを少し味わったところで、この日の目的地へ

<本陣表門> ほんじんおもてもん
Shogun's-Way-Daimon-Honjin.JPG
到着です。大門宿本陣のなごり

宿場の本陣とは、大名など身分の高い人たちが宿泊するところという意味です。武士の旅は行軍であり、宿泊場所は陣営。行軍の一番偉い人がいる宿が本陣と呼ばれるのは分かる気がしますね。この茅葺の長屋門は1694年(元禄7年)に建設されたもの。会田家が本陣を勤めていたため、会田本陣とも呼ばれています。そのような大役を任されるのですから、会田家は地元の名家ということですね。母屋も昭和まで残っていたそうですが、残念ながら焼失したそうです。

<県指定史跡>
Daimon-Honjin-Gate-Pillar (1).JPG
Daimon-Honjin-Gate-E.JPG

<説明板>
Explanation-Honjin.JPG
詳細な説明が記されています。
あれ?ここには『大門宿は江戸から三番目の宿場』と記されています。えっと私の認識では四番目なのですが(岩淵→川口→鳩ヶ谷→大門)。
ここでの解釈では、岩淵と川口は合わせて一つとみなすようです。確かに、荒川の対岸同士で月の前半後半で宿場の役目を交代していました。それで一つとみなすわけですね。

江戸末期の大門宿は、本陣と脇本陣が各軒、旅籠が6軒とのこと。将軍家は更に先の岩槻城に宿泊するため、ここ大門宿にはお供の幕臣が分宿した旨が記されています。

<説明板の地図>
Shogun's-Way.JPG
将軍の最初の宿泊先が岩槻城であることから、日光街道ではなく、かつての岩槻街道が選ばれたわけですね。譜代大名が城主を務める岩槻城なら何かと安心ですね。

そして
本陣から岩槻方面へ少し進んだ左手には

<脇本陣表門> わきほんじんおもてもん
Daimon-Wakihonjin-Gate.JPGWakihonjin-Gate.JPG
こちらは脇本陣の表門。脇本陣とはいわば本陣の予備施設です。やや簡略化された造りとなっていまするそうですが、大きさは本陣の表門と同規模です。さいたま市指定有形文化財(建造物)に指定されています。

ということで
すっかり市街地化された大門ですが、本陣表門と脇本陣表門がしっかり保存されているおかげで、宿場のなごりを感じることができました。維持して頂いていることに、ただただ感謝申し上げたい気分でした。


最後に
更に岩槻方面へ進み、大門宿を通り過ぎたあたりでお邪魔した寺院をご紹介します

<大興寺>だいこうじ
Daimon-Temple-Gate.JPG
Daimon-Temple-Daikoh.JPG
Daimon-Temple-Mitsubaaoi.JPG
真言宗智山派の寺院。境内の詳細は省略しますが、徳川家康より三十石寺領寄進の厚遇を受けたと伝わる古刹です。諸説ありますが、大門という地名はこの寺の門に由来していると言われています。

ということで
大門宿のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問:大門宿本陣表門
[さいたま市緑区大門]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/7/24
・さいたま市ホームページ
 文化財紹介 大門宿本陣表門

https://www.city.saitama.jp/004/005/006/001/005/001/002/p000196.html


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タグ:日光御成道
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2021年07月22日

舟運と例幣使街道(栃木市)家康と関りのある街の繁栄

今回は北関東の商都として発展した栃木市の話です。この町は舟運で栄えますが、そのきっかけは徳川家康の存在と深く関係しています。

■巴波川の舟運■うずまがわ
Uzumagawa.JPG
利根川水系渡良瀬川支流の巴波川

まずこの漢字ですが『うずまがわ』と読みます。この街の繁栄とは、切っても切れない重要な川です。巴波川の舟運は幕末から昭和初期にかけて特に発展しました。蔵の立ち並ぶ景色はそのなごりです。

家康と関係なさそう?

幕末から昭和初期の繁栄は直接的には関係ありませんが、そもそもこの地が舟運の拠点となるきっかけは、江戸時代の初期まで遡ります。

徳川初代将軍の家康が日光に祀られていることは有名ですね。家康の棺を日光山へ移動する歳に、これに付随する大掛かりな荷物などが巴波川を通ってこの地に運ばれたそうです。そして、その後の将軍家の日光参拝の時も、荷物はこの地の河岸に陸上げされました。これらを背景に、栃木は物資の集散地として江戸との交易が盛んになったそうです。

Tochigi-City-River.JPG
舟運の街


■例幣使街道■
水運のための川と並んで、街道の存在も町が形成される過程に大きく影響しました。

<保存地区>
Panel-Reiheishikaido.JPG
こちらは伝統的建造物保存地区の入り口付近。パネルで通り沿いの建造物が紹介されています。どれも立派です。

<入口>
Pillar.JPG
ここから始まるようです

<日光例幣使街道>れいへいしかいどう
Pillar-Reiheishi-Kaido.JPG
例幣使街道と記されています

れいへいし?

例幣使とは神社に幣帛(へいはく)を奉るため朝廷から遣わされるいわば使者のことです。

京を出た例幣使は中山道を通って東へ進み、上野国の倉賀野(くらがの=群馬県高崎市)から下野国の楡木(にれぎ=栃木県鹿沼市)へ繋がる街道を経由して、徳川家康が祀られている日光東照宮へ向かいました。東照宮の四月大祭に合わせての勅使派遣は1647年に始まり、以降1867年(慶応3年)まで途切れることがなかったそうです。

使者は数人?

そうではなく、約五十人規模(もっと多い場合もあり)だったようです。いわば団体さんです。庶民的な言い方をすれば、行った先でおカネを落としてくれる団体旅行客です(表現がラフですみません)。栃木は例幣使街道の宿場町となったことで、発展に拍車がかかりました。

<例幣使街道沿い>
Reiheishi-Road-1.JPG
Reiheishi-Road-2.JPG
Reiheishi-Road-3.JPG
Reiheishi-Road-4.JPG
朝廷の使者団も通った道です

ということで
やがて『蔵の街』となる栃木の繁栄のきっかけには、日光東照宮に祀られた徳川家康の存在が大きく影響しているというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:
伝統的建造物群保存地区

[栃木県栃木市嘉右衛門町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/7/22
・栃木市ホームページ
国選定重要伝統的建造物群保存地区

https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/5/1568.html



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2021年07月18日

岩淵宿のなごり(日光御成道)

今回はかつて日光御成道の宿場として栄えた岩淵宿のなごりのご紹介です。

<岩淵八雲神社>やくもじんじゃ
Iwabuchi-Yakumojinja.JPG
かつての岩淵宿の鎮守社

■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿や川口宿を経たのち、幸手宿手前で日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。いわゆる『五街道』と同様に整備された重要な脇街道の一つです。

今回ご紹介の岩淵は、その最初の宿場でした。

■岩淵郷■いわぶちごう
岩淵郷は現在の北区北部に位置し、古くから人の暮らしがあった場所です。室町時代には既に複数の村(稲付村・袋村・赤羽根村・下村そして岩淵宿の五ケ村と言われる)が存在していました。
<清水坂>
Shimizuzaka.JPG
こちらは北区中十条の清水坂です。赤羽駅方面へ続くこの道は、そのままかつての日光御成道。そしてこの付近から先が稲付村(現在の赤羽西)です。

<稲付の餅搗唄>
Dokanyamainari.JPG
[北区赤羽西]2丁目
こちらは日光御成道沿いの小高い丘に鎮座する道観山稲荷社。北区無形民俗文化財の 「稲付の餅搗唄(もちつきうた)」が江戸時代より継承されています。餅をつく時にうたう作業唄のことですね。

<稲付村の庚申塔>
Koshinto-Akabanenishi.JPG
[北区赤羽西]2丁目
この庚申塔は道標の役割も果たしています。日光御成道からそれたこの脇道が、板橋道へ繋がることが記されています。

<赤羽八幡神社>
shirononagori275 (2).jpg
shirononagori275 (4).jpg
[北区赤羽台]4丁目
こちらは岩淵五ヶ村の総鎮守であったとされる八幡神社です。

<袋諏訪神社>
shirononagori Tonoyama (12).JPG
[北区赤羽北]3丁目
こちらは日光御成道から北西へ少し離れますが、かつての袋村の丘に鎮座する諏訪神社。江戸時代の袋村の鎮守社です。手前の道は坂になっていて、赤羽方面に繋がります。

<宝幢院前の道標>ほうどういん
After-maintenance.JPG
[北区赤羽]3丁目
この付近はかつての赤羽根村になります。丁字路の道標に、東が岩槻街道(つまり日光御成道)であることが刻まれています。


■岩淵宿■いわぶちしゅく
古くから交通の要衝であった岩淵は、荒川を越えて北へ向かう岩槻街道の宿場となり、江戸時代には将軍の日光社参のための日光御成道の宿場として機能しました。
江戸から日光への道と言えば五街道の一つである日光街道が有名ですが、日光御成道のルートは、将軍一行の最初の宿泊先が岩槻城だったことと関係しているようです。岩淵宿は将軍が荒川を渡る前のいわば休憩所的な宿場です。旅路をサポートする問屋場として、重要な役割を担いました。

<正光寺>しょうこうじ
Shokoji-Temple.JPG
[北区岩淵町]32
歴史の長い寺がこの地に移転したのが江戸初期。以降岩淵の中心的な寺となりました。

<道標と庚申塔>
Iwabuchi-Koushinto.JPG
[北区岩淵町]22
道標の台石には「右 下村」と刻まれています。下村の下(しも)は、荒川の渡し場がある岩淵より下流に位置することが由来と考えられています。のちに志茂という文字に改められました。

そして
冒頭の岩淵八雲神社です
<ニの鳥居>
Iwabuchi-Shrine.JPG
<拝殿>
Yakumo-Shrine.JPG
[北区岩淵町]22
創建年代は不詳ですが、江戸時代には日光御成道岩淵宿の鎮守となっていました。現地の説明板にその旨が記されています。

<説明板>
Yakumo-Shrine-text.JPG
一部だけ以下に転記させて頂きます。
『岩淵八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした。』
あくまで神社の説明ですが、かつて日光御成道の第一の宿場として栄えたと記されており、訪問して良かったと思う瞬間でした。説明文には、神仏分離以前には正光寺が別当寺であったことや、明治になって村社に定められて、それ以来赤羽八幡神社の兼務社となっていることも記されています。
北区教育委員会さん、ありがとございました。

<岩槻宿問屋場址之碑>
Iwabuchi-Toiyaba.JPG
[北区岩淵町]26
こちらは問屋場の跡です

そして

<岩淵の渡船場跡>
Iwabuchi-Ferry.JPG
[北区岩淵町]41先
荒川を渡るための渡船場跡です。ここでも北区教育委員会さんの説明板にお世話になりました。

<説明板の地図>
Iwabuchi-Map.JPG
昔の荒川です。まだ新河岸川の姿がありません。いま以上に荒々しく蛇行する荒川を、ここ岩淵から対岸へ渡ったのですね。岩淵宿はこれに備える宿場でした。

ということで
岩淵宿のご紹介でした。

最後に
かつての家並みは残っておらず、宿場だったことを感じさせてくれるものは少なくなっていますが、道は当時の道筋とあまり変わらない状態で残っています。実際に自分で歩いてみて、そのなごりを感じてみる。地味ながら、なかなか奥深い探索となりました。

拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■参考及び出典
・各所現地説明板(北区教育委員会)
・岩淵八雲神社説明板(  〃   )
・Wikipedia:2021/7/18



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タグ:日光御成道
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2021年07月11日

将軍も通った荒川の渡し(北区岩淵町)岩淵の渡船場跡

今回は日光御成道渡船場の話です
<岩淵渡船場跡>いわぶちとせんばあと
Iwabuchi-Ferry.JPG
かつてこの付近に荒川を渡るための渡船場がありました

■将軍が通る道■
日光御成道は家康が祀られた日光東照宮に歴代将軍がお参りする際に通った道です。徳川将軍一行は、江戸城を出てまず中山道に入り、本郷追分(文京区)からは日光御成道を通って北を目指しました。その途上、岩淵宿と川口宿の間で荒川を渡らねばなりません。橋は無く、船で対岸に渡りました。

<新荒川大橋>しんあらかわおおはし
Iwabuchi-Arakawa.JPG
こちらは東京都北区と埼玉県川口市の間の橋。新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋です。新河岸川は流路変更でいまはこの付近を流れていますが、かつては荒川のみでした。『渡し場』はこの辺りにあったとされています。

<荒川赤羽緑地>
Akabaneryokuchi.JPG
冒頭の説明板は荒川と新河岸川を隔てる堤防に建てられています。

<説明板>
Iwabuchi-Ferry-Information.JPG
こんな感じの場所です。左側が岩淵の渡船場跡に関する説明板です。

<説明文>
Information- statement.JPG
かなり詳しい内容まで記されています。ありがたいですね。ちょっと長いので、部分的に抜粋させて頂きます。北区教育委員会さん、すみません。
『このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また、室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。』
あの義経もここで川を渡ったのですね。将軍一行の渡しを意識して訪問しましたが、渡船場としての歴史はそうとう古いようです。

日光御成道として整備されてからは『渡船場も将軍用と一般用に別れて』いたとのこと。そして『将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられ』たことも記されています。荒川に船を並べて繋ぎ、その上を渡ったわけですね。将軍が通るのですから、そうとう頑丈に船と船をつないだことでしょう。荒川に橋を架けないのは江戸防衛のためと言われています。ならば、将軍と言えども仕方のないこと。船橋の長さは百メートルを越えていたようです。

<広重の浮世絵し>
Iwabuchi-Ukiyoe.JPG
歌川広重の「川口のわたし善光寺」です。これは岩淵側から見た荒川と対岸の川口です。今は想像できませんが、荒々しい岩場が描かれていますね。岩淵の名の由来です。

<昔の荒川>
Iwabuchi-Map.JPG
こちらは明治13年の地図です。まだ新河岸川の姿がありません。荒川の蛇行も今とは比較になりません。こんな感じの荒川を渡ったのですね。

ということで
将軍一行も通った荒川の渡し跡のご紹介でした。現地にかつての面影はなく、川の流路すら昔のままではありませんが、日光御成道をテーマにここまで歩いてきたので、何となく満足な訪問となりました。

<現在の荒川>
Arakawa.JPG


■訪問
岩淵の渡船場跡
[東京都北区岩淵町]41先

■参考及び出典
現地説明板
(東京都北区教育委員会)

タグ:日光御成道
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2021年07月10日

宿場の問屋場とは (北区岩淵町の問屋場跡)

今回は宿場の問屋場についてです。

訪問先したのは北区岩淵町。岩淵は古くからの交通の要衝であり、江戸時代には日光御成道最初の宿場町でした。宿場と言えば字の通りでまず宿を想像しますが、それ以上に盛んだったのが問屋場としての業務だったようです。

<石碑>
Stone-Monument-Toiyaba.JPG
岩槻街道岩淵宿問屋場跡之碑と刻まれています。

問屋場?問屋さん?

岩淵は街道が通っている上に荒川に面した場所。陸運・水運ともに有利で、多くの物資が集積する町でした。よって、いわゆる問屋さんを想像しがちですが、宿場における問屋(といや)はちょっと意味が違うようです。

問屋(といや)とは『江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった』とのこと。『』内はWikiさんからの抜粋です。

旅路をサポートする重要な役割を担うわけですね。人足や馬を用意し、次の宿場までの手助けなどの労務を、周辺の地元民に課したりする業務を行っていました。ほぼ役人?のような印象ですが、宿場町とその周辺の村々が、こういった役割を担うのは普通のことだったようです(実際の苦労は別にして)。いずれにせよ、かなり重要な任務です。

宿場町で重要な役割というと、まず『本陣』を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。宿泊施設の提供を中心とする役割ですね。本陣と問屋場、これが江戸時代の宿場の中核機能だったことは間違いありません。どちらも地元の有力者が務めたようですが、両方を兼ねることも結構多かったようです。

<問屋場跡>
Iwabuchi-Toiyaba.JPG
左の道路は岩槻街道(日光御成道)。かつてここが宿場だったことを感じさせてくれるものは少なくなっています。目立つ石碑ではありませんが、貴重な目印ですね。

■訪問
岩淵街道岩槻宿問屋場址之碑

[東京都北区岩槻町]26-9

■出典及び参考
・Wikipedia:2021/7/10
タグ:日光御成道
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2021年07月07日

旧街道の分岐点(北区赤羽)宝幢院前の道標

今回は旧街道沿いの分岐点に立てられた道標の話です。

<道標>みちしるべ
Road-sign.JPG
こちらは北区の宝幢寺の前に設置されている道標

<正面>
Road-to-Edo.JPG
正面に「南 江戸道」と刻まれています

両側面にも文字が刻まれていますが、ちょっと確認するのが難しい状況です。特に向かって左側は厳しい

<以前>
Before-maintenance.jpg
私が初めて訪問した時はこの状態でした。柵も覆堂もありません。ただ、これだと手で直接触れたり、あるいは人が誤ってぶつかるなんてこともあり得ますね。

<現在>
After-maintenance.JPG
歴史を刻んだ貴重な文化財です。保護するため、いまのような状態となったのでしょう。

ということで
無理やりのぞきこまないで、北区教育委員会さんによる文化財説明板を参考にさせて頂きます
<説明板>
Explanation- cultural-properties.JPG
とても丁寧な説明がなされています。刻まれている文字については以下の通りです。

東 川口善光寺道 日光岩槻道
西 西国富士道 板橋道
南 江戸道

なるほど。丁字路に立つ道標だったわけですね。主要な町の名が記されていますので、これなら方向音痴の私でも選ぶべき道を間違えないような気がしました。南へ行けば江戸へ向かう、西は板橋方面ですから中山道方面へ向かうことになります。そして東は日光御成道へと繋がる道。ここからすぐ近くの岩淵宿を経由して荒川を渡り、川口宿などを経て日光街道に出る道です。

日光御成道は将軍が徳川家康を祀った日光東照宮を参詣するための街道ですが、普段は庶民を含めた多くの人の往来があった道です。各々の事情で道を選ぶ人たち。どのような思いで道標を見つめたのでしょうね。

ということで
道と道が出会う重要な場所の道標のご紹介でした。

<宝幢院> ほうどういん
Houdouin-temple.JPG

<宝幢院前の道標>
Road-sign-front-temple.JPG

■訪問:
宝幢院前の道標
[東京都北区赤羽]3丁目


■参考及び出典
・現地説明板
(北区教育委員会)
・北区飛鳥山博物館ホームページ

https://www.city.kita.tokyo.jp/hakubutsukan/rekishi/fureru/bunkazai/akabane/michishirube.html
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2021年07月06日

旧街道の枝道(北区赤羽西)真正寺坂の庚申塔

今回はかつての主要な街道と街道を結んでいたと伝わる道の話です。北区の岩槻街道を移動する途中で、明らかに周りと異なる空気を醸し出す庚申塔が目に飛び込んできました。これがなければ、旧街道の枝道に気付くこともなかったかもしれません。

<庚申塔>
Koshinto-Akabanenishi.JPG
なんでこんなところに…

道の傍らに石碑や石塔がひっそりと佇んでいることは珍しくありませんね。ただ、向いている方向やら、狭い道で幅を利かせていることに興味を惹かれ、近づいてみることにしました。

<赤羽西交番>
Koban-Akabanenishi.JPG
場所は赤羽西の交番付近。大きな道との分岐点です。

<岩槻街道>
Iwatsukikaido-Akabanenishi.JPG
こちらがその大きな道で、十条と赤羽を結ぶ都道460号線です。かつての岩槻街道であり、徳川将軍が日光へ向かう時に通った日光御成道です。

<青面金剛>しょうめんこんごう
Shomen-Kongo.JPG
庚申塔の正面です。青面金剛立像ですね。そうとう長く風雪にさらされてきたのでしょう。かなり疲れています。

<側面>
michishirube.JPG
側面に何やら刻まれています。道の分岐点の庚申塔が道標を兼ねている例はよくみかけますので、地名と信じて読み取ろうとしましたが

そ?・・て?・・・(読めず)

交番のおまわりさんに多少は気を使いながらも粘りましたが、結局なんだか分からず。そもそも、まともに文字が残っていても、くずし字は難解です。

なぁいいか

Koshinto.JPG
諦めかけた時、庚申塔の背後の標柱に気付きました。事前に知っていれば、まず最初に読んだでしょう。まぁこの効率の悪さと引き換えに、わくわくしたので良いでしょう。

北区教育委員会さんによる丁寧な説明文を以下に抜粋させて頂きます。
『真正寺坂
岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西2−14−6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和6年(1769)11月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて、稲付の人々は縁起をかついて「しんしょう昇る」といって登ったそうです。』

[出店ː現地標柱(北区教育委員会)]

庚申塔は250年以上もまえのものだったようです。そして予想通り道標も兼ねたものでした。

あの字は『こ』でしたか。「これより先は板橋道である」という案内だったようです。板橋といえば中山道の宿場。庚申塔に導かれて足を踏み入れた細い道は、かつて岩槻街道と中山道を結ぶ外環道のような役割を担っていたわけですね。ただ岩槻街道から西へ向かうには、赤羽西(稲付村)の台地を登っていく必要があります。その登り坂が、廃寺となった真正寺(しんしょうじ)にちなんで今も真正寺坂と呼ばれている。なるほど、納得できました。

<普門院>
Temple-along-Onarimichi.JPG
こちらは文中にあった普門院さん。庚申塔のあった道よりひとつ北側の脇道を登ったところです。まぁ道こそ違えど、同じ丘の上と言って良いと思います。かつてあった真正寺は、普門院が統括するお寺だったようですね。

ということで
赤羽西付近の岩槻街道(日光御成道)を探索中、庚申塔をきっかけにして、街道の枝道に気付いたというお話でした。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:
赤羽西の庚申塔

(真正寺坂入口)
[東京都北区赤羽西]2丁目
タグ:日光御成道
posted by Isuke at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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