今回は日光御成道の渡船場の話です
<岩淵渡船場跡>いわぶちとせんばあと
かつてこの付近に荒川を渡るための渡船場がありました
■将軍が通る道■
日光御成道は家康が祀られた日光東照宮に歴代将軍がお参りする際に通った道です。徳川将軍一行は、江戸城を出てまず中山道に入り、本郷追分(文京区)からは日光御成道を通って北を目指しました。その途上、岩淵宿と川口宿の間で荒川を渡らねばなりません。橋は無く、船で対岸に渡りました。
<新荒川大橋>しんあらかわおおはし
こちらは東京都北区と埼玉県川口市の間の橋。新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋です。新河岸川は流路変更でいまはこの付近を流れていますが、かつては荒川のみでした。『渡し場』はこの辺りにあったとされています。
<荒川赤羽緑地>
冒頭の説明板は荒川と新河岸川を隔てる堤防に建てられています。
<説明板>
こんな感じの場所です。左側が岩淵の渡船場跡に関する説明板です。
<説明文>
かなり詳しい内容まで記されています。ありがたいですね。ちょっと長いので、部分的に抜粋させて頂きます。北区教育委員会さん、すみません。
『このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また、室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。』
あの義経もここで川を渡ったのですね。将軍一行の渡しを意識して訪問しましたが、渡船場としての歴史はそうとう古いようです。
日光御成道として整備されてからは、『渡船場も将軍用と一般用に別れて』いたとのこと。そして『将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられ』たことも記されています。荒川に船を並べて繋ぎ、その上を渡ったわけですね。将軍が通るのですから、そうとう頑丈に船と船をつないだことでしょう。荒川に橋を架けないのは江戸防衛のためと言われています。ならば、将軍と言えども仕方のないこと。船橋の長さは百メートルを越えていたようです。
<広重の浮世絵し>
歌川広重の「川口のわたし善光寺」です。これは岩淵側から見た荒川と対岸の川口です。今は想像できませんが、荒々しい岩場が描かれていますね。岩淵の名の由来です。
<昔の荒川>
こちらは明治13年の地図です。まだ新河岸川の姿がありません。荒川の蛇行も今とは比較になりません。こんな感じの荒川を渡ったのですね。
ということで
将軍一行も通った荒川の渡し跡のご紹介でした。現地にかつての面影はなく、川の流路すら昔のままではありませんが、日光御成道をテーマにここまで歩いてきたので、何となく満足な訪問となりました。
<現在の荒川>
■訪問
岩淵の渡船場跡
[東京都北区岩淵町]41先
■参考及び出典
現地説明板
(東京都北区教育委員会)
2021年07月11日
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