古くは官道として利用された足柄道の関所跡を訪ねました。
<足柄之関>あしがらのせき
ここは律令国家の時代の東海道で、駿河と相模の堺です。
<足柄峠の標柱>
標高759mですか。高さ云々より道の傾斜の方に気をとられます。
<説明板>
「古代の足柄の関」と題した説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます。『』内は原文の写しです(転記ミスありましたらすみません)。
『足柄の関は昌泰二年(八九九)、足柄坂に出没する強盗団、僦馬の党を取り締まるために設けられた。関の通行には相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などは分かっていない。
「源平盛衰記」に治承四年(一一八〇)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。また、鎌倉時代の歌人飛鳥井雅経が、「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」(「明日香井和歌集)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。
峠付近の路傍から採取された四千年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。また、歌枕として 関・峠ともに、多くの歌に詠まれている。』
僦馬(しゅうば)の党とは、本来の生業は運送ですが、ここでは強奪も行った武装集団という意味に受け取ってよいと思います。要するに、足柄峠付近は物騒だったわけですね。関所はこれを取り締まるべく設けられました。説明文にもある通り、通行するには相模国司、つまり相模の役人が発行する手形が必要でした。
<おじき石説明板>
こちらの説明板によれば『旅人がこの石に手をついておじぎをし、手形を差し出した』とのこと。
<おじぎ石>
石とは?他にないのでこれのことですよね。このままだとしたら、おじぎというより、膝をつかないと手形を差し出せそうにありません。「お役人さま〜お願いしますだ〜」という感じだったのでしょうか?
こういった手形のチェックに加えて、関所の役人は先述の通り物騒な連中を取り締まらなければなりません。足柄峠の関所の規模は不明のようですが、足軽なども含めて20名ほどが詰めていたと推定されています。それなりの人数ではありますが、人里離れた山奥で、冬はかなり寒かったでしょうし、あまり楽な仕事とは思えませんね。
説明文には、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人・土屋宗遠が足柄の関を通ったことも紹介されています。少なくとも、鎌倉時代初期にはまだ関所があったのでしょう。また、動乱ともなれば峠に臨時の関が設けられたとのことも記されています。足柄峠がいかに重要な場所だったか伝わってきます。
<足柄城小郭跡>
右側の斜面の上は、のちの時代に築かれた足柄城の小郭となっています。足柄城も、この地を押さえるために築かれた城です。
江戸時代の東海道は箱根峠を通るため、関所としては箱根の方が有名ですよね。ただ、ここ足柄峠にはもっともっと古い関所があった。現地を訪ねてみて、東国の出入り口であることの重みを知ったような気がします。
関所の厳密な場所は分かっていないそうですが、この付近であったことは間違いなさそうです。
最後に
関所跡近くの有難い場所を紹介して終わりにします。
<聖天さん>しょうでんさん
こちらは関所跡近くの足柄山聖天堂です。浅草聖天・生駒聖天と並んで「日本三大聖天尊」に数えられているとのこと。どんな願いも叶えてくれる霊験あらたかな聖天様は、地元の方に「聖天さん」と呼ばれ親しまれているそうです。
<金太郎>
聖天堂で撮影した金太郎さん。まさかり担いで熊に跨っていました。僦馬の党も蹴散らせそうな出で立ちです。伝説はいろいろありますが、金太郎が源頼光と出会って家来となるのは、ここ足柄峠です。
ということで
足柄峠の関所跡のご紹介でした
■訪問:足柄の関跡
(足柄峠付近)
[静岡県小山町竹之下] 3649
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■参考及び出典
現地説明板
Wikipedia:2024/3/9
2024年03月09日
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