真田の城として知られる沼田城を訪問しました。
<沼田公園の鐘楼>しょうろう
沼田公園のシンボルとなったてる鐘楼です。かなり以前に訪問した時も真夏でした。まったく同じ景色です。土地の有力者である沼田氏築城から始まる城は、やがて関東の覇権を巡る軍事上の重要拠点となりました。
<沼田公園入口>
沼田城跡はかつての本丸・二の丸を中心に、周辺の曲輪の一部も含めて公園として整備されています。こちらは公園のメインケートです。冠木門風の門には「天空の城下町」と表示されています。城が山の上で城下町は麓という例はたくさんありますが、沼田の場合、城も城下町も同じ丘の上に築かれています。
<堀の跡>
入口の左手の斜面は人の手が加えられた堀の跡です。上部には土塁跡が確認できます。
<沼田公園>
奥へ進んだところで撮影しました。この付近は三の丸。沼田城は比高で約60mの河岸段丘上に築かれ、本丸の周りに曲輪を拡張しながら近世城郭としての完成に至った城です。この付近には武家屋敷が建ち並んでいたと思われます。説明板が設置されていますので、引用させて頂きながら、歴史の概要を説明させて頂きます(『』内は原文の転記です)。
<説明板>
まず沼田城は『天文元年(一五三二)に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰が約三ヶ年の歳月を費やして築いた』とされています。当時は蔵内城と称したようです。私は真田の城というイメージで訪問していますが、沼田氏から始まる城ということですね。
やがて築城から48年後、『天正八年(一五八〇)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正一八年((一五九〇)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した』とあります。城の完成度のピークは、真田の時代ということですね。
しかし『天和元年(一六〇一)に真田氏五代城主伊賀守が江戸幕府に領地を没収され、翌二年一月に沼田城は幕府の命により破壊』されました。伊賀守とは真田信利(信直)のことです。松代藩相続争いに始まり、最後は独立した藩として沼田藩を立藩したものの、松代藩への対抗意識から石高を実際より多く幕府に報告し、領民には重税を課しました。領内で多数の餓死者を出し、治世不良で幕府から改易されました。領民思いの真田信幸とは真逆の統治者の出現で、真田家による沼田支配は幕引きとなりました。
そして…
その後の沼田城について。『本多氏が旧沼田領一七七ケ村のうち四六ケ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し、屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した』。
少し補足すると、荒れ果てた城跡を旧沼田藩士の家の久米民之助さん(土木技術者・衆議院議員)が私財を投じて整備し、旧沼田町に寄付したことが沼田公園の始まりです。
<あずまやと寿楽園碑>
炎天下の訪問のため少しだけ休ませて頂いたあずまやです。奥に見えている石碑は寿楽園碑。久米民之助さんは整備した公園を「寿楽園」と名付けました。しかし市民は「久米公園」と呼んでいたそうです。感謝の気持ちの現れですね。
<本丸堀跡>
本丸と三の丸を隔てる堀跡を本丸側から撮影しました。以前訪問した時には、柵の向こう側はテニスコートでした。発掘調査の影響で、今回の訪問時にはただの平らな区画となっていました。
<沼田城本丸発掘調査説明板>
説明文によれば、現存の石垣は堀底から約1m50p程度ですが、元々は6mくらいだったようです。真田時代に築かれたと考えられています。
<鐘楼>
本丸跡に再建された鐘楼。沼田城に城鐘が設置されたのは真田信吉の時でした。鐘は複製で、現物は群馬県重要文化財の指定を受け、現在は沼田市歴史資料館に展示されています。
<西櫓台の石垣と石段>
こちらは西櫓台の石段と石垣。発掘調査で明らかになりました。名の通り、ここは本丸の西隅です。
<西櫓台の石垣>
沼田城の貴重な遺構です。真田時代の石垣と考えられています。
<西櫓台の西側>
以前はここも通れましたが、立ち入り禁止となっていました。城の隅っこですからね。
<西櫓台の北側>
こちらはもともとの地形ではなく堀切跡ですね
次に
本丸西櫓跡からお隣の曲輪跡へ。高低差はあるものの本丸と地続きとなっている捨曲輪です。
<捨曲輪からの景色>すてぐるわ
捨曲輪からの景色。河岸段丘の上から利根川の低地を見渡すことができます。沼田城は利根川と薄根川の合流点付近の台地上に築かれています。捨曲輪は古城とも呼ばれ、沼田氏が築城した時の中心的な曲輪と推定されています。
<名胡桃城遠望>
沼田城から北西を眺めた景色です。やや山の陰となりますが、利根川に架かる橋の左側、赤〇で記したところが名胡桃城です。豊臣秀吉の裁定で、川の向こうの名胡桃城は真田、そして沼田城は小田原北条氏のものとなります。しかし沼田城の城代となった北条配下の猪俣邦憲が名胡桃城を略奪するに至り、これが秀吉による小田原征伐のきっかけとなりました。言い換えると、同時の沼田城の支配者に起因して、北条氏は滅んでしまいました。その戦後処理で、沼田城は真田に返還されました。
<平八石>
捨曲輪には、真田昌幸が沼田平八郎景義の首を載せたと伝わる石が置かれています。沼田氏の子孫である沼田平八郎は、沼田領奪回を目論み挙兵しましたが、騙し討ちにより命を落としました。
<天狗堂>
捨曲輪の隅の天狗堂と呼ばれるお堂です。堂内には巨大な木彫りの天狗面が安置されています(造られたのは昭和)。
<堀切>
捨曲輪の向こう側に住宅が見えています。地続きの台地を削った堀切跡ですね。
捨て曲輪から再び本丸へ
<本丸と捨曲輪の高低差>
本丸と捨曲輪の間の傾斜です。本丸が城の要であるのに対し、捨曲輪は戦闘になった場合に本丸から打って出るための区画で、形勢によっては放棄するつもりで築かれた曲輪です。本丸と捨曲輪は高低差があるだけで繋がっています。
かなり大きな石碑に足が止まりました。
<五大尊講碑>
台座に説明が刻まれていますが、私にはちょっと難解でした。ただ、沼田を治めた土岐氏と関係があることだけは分かりました。五大尊とは不動明王ほか五大明王の総称。土岐氏が城内に建立した寺が廃寺となり、代わりにこの石碑に五大明王が祀られているものと思われます(個人の推定含まれております)。
<真田信之と小松姫>
本丸跡の真田信之・小松姫夫婦の石像です。
真田信之は真田昌幸の長男。父から沼田領を任され、沼田城主として北上州を治めました。天下分け目の関ヶ原の戦いでは父・弟と決別し、徳川家康率いる東軍に与する道を選びました。最終的には信濃松代藩の初代藩主となっています。一般的には弟の信繁(幸村)の方が有名ですが、信之は真田家を守り、領民思いの統治を行った名君として知られています。
妻の小松姫は、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘です。政治的な理由で、徳川家の養女を経て信濃国上田を本拠とする真田家に嫁ぎました。真田家と徳川家の調整役を担い、夫を補佐して難しい局面に立たされた真田家を守り抜きました。小松姫は男勝りの勇ましさ、機転に富んだ行動力、そして深い情を備えた女性だったようです。
<利根英霊殿>
本丸の東側には利根沼田地区出身の戦没者が祀られています。奥が盛り土で高くなっており、天守はこの位置にあったのではないかとも言われています。ただ、西櫓台跡のような石垣も確認できず、更に正確な位置もわかっていないようです。
<沼田城の絵図>
どこまでがリアルな城の姿なのか分かりませんが、沼田城には関東では珍しい五層の天守があったとされています。
<二の丸跡>
広大な二の丸跡です。低くなっているので、初めて見た時は堀跡と勘違いしましたが、曲輪の跡です。家臣団の屋敷が建ち並んでいたと思われます。この区画の更に外側(画像右側)、現在は住宅地や学校になっているところも、かつては城内でした。
<つわものどもが夢の跡>
真田の城として有名な沼田城は、奪い奪られ、そして奪い返しが繰り返された城跡です。深い歴史が刻まれた城跡は、続日本100名城に選定されています。
--------■ 沼田城 ■--------
別 名:倉内城
築城者:沼田顕泰
築城年:1532年
城 主:沼田氏 猪俣氏
真田氏 他
改修者:真田信幸 他
廃城年:1682年
(のちの藩庁時代除く)
[群馬県沼田市西倉内町]
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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/5
・沼田市観光協会HP
>沼田城
https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
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