<関城跡>せきじょう
茨城県筑西市の関城跡です。この城は南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となりました。戦いの最中に、籠城していた南朝方の重鎮・北畠親房は、白河の結城親朝に来援を求める書状を送っています。
■関城書■ かんじょうしょ
関城書は関城に籠城していた北畠親房が、白河の結城親朝に送った書状です。結城親朝は南朝方の有力武将のひとりだった結城宗広の子で、宗広の病死(1338年)後、その動向が北朝方からも南朝方からも注目されていました。北畠親房が送った書状はで約70通にも及びます。一般的には、そのうちの一通(1342年3月22日付書状)を指して関城書と呼びます。
北畠親房は後醍醐天皇に仕えた上流貴族です。身をなげうって京から東国へ移り、劣勢の南朝を支え続けました。漢文による格調高い書面で記された親房の書状は、南朝の苦戦を伝えるだけではなく、神代以来の国のあり方を記し、本来の朝廷(つまり南朝)に尽くすことが武士の役割であることを説いています。あくまで結城親朝に決起を促すものですが、この時に親房が記した関城書は、後世の思想に少なからず影響を与えました。
■結城親朝■ ゆうきちかとも
北畠親房からの要請を受け、結城親朝はこれに応えるべく周辺の北朝方と交戦を続けました。白河の関を実質支配する結城親朝の奮闘は、南朝朝廷からも高い評価を得ています(修理権大夫任じられています)。
ここまでは北畠親房の期待通り。ただ、近衛経忠による北畠親房排除の動きが、東国の南朝勢に混乱を招くことになり、その流れで結城親朝と北畠親房の関係も徐々に悪化。最終的には、結城親朝の北朝方への寝返りに至りました。
<参考:小峰城>こみねじょう
[福島県白河市郭内]
日本100名城に選ばれている白河小峰城。戊辰戦争にも巻き込まれた歴史の長い城ですが、始まりは結城親朝による築城でした。当初の小峰城は、現在の本丸付近だったと考えられています。
結城親朝は、父である宗広とは別の基盤を自力で築いた武将です。父亡きあと、子である顕朝(あきとも)に白河結城氏の家督を継がせ、自らは独立した立場を貫き、小峰城を築いて居城としました(1340年)。
寝返りという言葉だと悪い印象しか残りません。ただ、周辺の諸勢力に囲まれながら、孤立した状態で南朝であり続けることは、身を滅ぼしかねない状況だったのかもしれませんね。
北畠親房からの書状は、たとえ筋が通っていたとしても、目の前の現実と照らし合わせると無理な要請。南朝方が分裂し始めていることも把握していたでしょうし、己の力を頼りに生き残ってきた親朝としては、受け入れられなかったのかも知れませんね。
<関城跡>
関城書に込められた北畠親房の願いは、結局のところは叶いませんでした。受取人も、発送元である関城の城主・関宗祐も結城氏の出です。血縁であっても、敵と味方に分かれせざるを得ない状況下。南朝の正統性、そして武士の本分を説いた書状が、結城親朝の心変わりに歯止めをかけることはありませんでした。
■訪問:関城
[茨城県筑西市関館]
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■参考
Wikipedia:2024/7/8
タグ:茨城