2021年01月23日

直江兼続屋敷跡(米沢市)ちょっと地味な兼続ゆかりの地

今回は米沢市の直江兼続屋敷跡のご紹介です。
<直江兼続屋敷跡>
Naoe-Kanetsugu-Yashiki.JPG
こちらが米沢市の直江兼続屋敷跡

<通り沿い>
Naoe-Kanetsugu-Residence.JPG
といってもご覧の通りです。当時を偲ばせるものは何もなく、駐車場隅の説明板が目印です。これがなければ、直江兼続の屋敷跡と気付く人はいないでしょう。

<上杉博物館>
Yonezawa-Castle.JPG
場所は米沢市上杉博物館(左手の建物が上杉博物館)の南側の通り沿いです。

関ケ原の戦いの後、領地を大幅に減らされた上杉家にとって、米沢での城下町整備や新田開墾は急務でした。その舵取りを任されていたのが重臣の直江兼続。米沢はそれ以前から兼続の所領でしたが、そこへ主君である上杉景勝を筆頭に、約6千人ともいわれる家臣、そしてその家族を受け入れることになりました。小さな町だった米沢は人であふれ、住まいの確保も困難だったようです。そんな難題に立ち向かっていた頃の兼続の屋敷が、今回訪問の場所ということになります。

<松岬神社>
Shrine-Enshrined-Kanetsugu.JPG
こちらは米沢城の本丸近くの松岬神社。兼続が米沢城主だった頃は、この地に屋敷があったそうです。上杉家が会津120万石から米沢30万石に減封されると、兼続は屋敷を景勝に譲って転居したそうです。


ということで
直江兼続屋敷跡のご紹介でした。上杉ファンで米沢好きの男が当ブログを運営しております。よって米沢に関することはこれまでもたくさん投稿してきました。ただ、兼続の屋敷跡は本当に何もないのでないないご紹介しにくく、画像を放置していました。

本日は兼続の西暦での命日(1620年1月23日没)です。ふと屋敷跡のことを思い出し、取り上げさせて頂きました。このためだけにわざわざ訪問する場所とは思えないものの、観光スポットが集中しているエリアですので、ついでに足を運んでくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:直江兼続屋敷跡
[山形県米沢市城南1丁目]


-------追 記-------
■当ブログの過去記事ご紹介
<謙信の旗印>
sirononsgori YONEZAWA 148 (1).jpg
120万石から30万石へ減封となりながら、苦楽を共にしてきた者たちを一人も解雇しなかった上杉家。普通なら破たんする状況に立ち向かい、藩政の指揮をとった兼続の活躍をまとめた内容です。
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タグ:山形への旅
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2020年12月09日

徳川家康像(岡崎市)未来に挑む家康の雄姿

今回は勇ましく若々しい徳川家康像のご紹介です。

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伊達政宗並みの迫力!こちらは名鉄東岡崎駅近く。商業施設へ通じるデッキ上に設置されています。お披露目は2019年11月ということで、まだ新しいのですね。徳川家康の一般的なイメージとは異なり、かなりスマートで格好いい。

shirononagori499a (1).jpg
大きいです。なんでも日本最大級とのこと

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25歳当時の姿をイメージしているそうです。丁度松平から徳川に改称した時期。若武者像です。
浜松へ移る前はここ岡崎が家康の本拠地でした。それに相応しい姿ということですね。

shirononagori499a (3).jpg
厭離穢土  欣求浄土
おんりえど ごんぐじょうど

若き家康(松平元康)が松平家菩提寺・大樹寺の住職から授かった言葉です。家康はこの言葉を記した旗を掲げ、乱世に立ち向かいました。

家康はやがて戦のない世を築き上げますが、それはずっとずっと先の話。岡崎城を居城とする家康には、数えきれないほどの試練が待ち受けています。そんな未来に挑む姿ということですね。

■訪問:徳川家康像
[愛知県岡崎市上明大寺町]2丁目


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2020年12月06日

若き家康が生涯の教えを得た大樹寺(岡崎市)松平家菩提寺

今回の訪問は三河松平家の菩提寺として知られるお寺です。

■大樹寺■だいじゅじ
<山門>
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愛知県岡崎市の大樹寺です。さすがに凄いですね。徳川家康生誕地の地である岡崎城から北へ約3km。松平家4代当主の親忠(ちかただ)が、戦死者供養のため創建(1475年)したことに始まります。この重みのある山門は、三代将軍の家光が家康の十七回忌を機に建立したと伝わります。

<低地から撮影>
shirononagori498 (3).jpg
私は愛知環状鉄道の大門駅から徒歩で現地へ向かいました。柿田川に架かる橋の手前から境内の多宝塔を撮影。川を挟んだ丘。大樹寺はまるで砦のような場所に位置しています。

<丘の上>
shirononagori498 (17).jpg
この高台からは岡崎城を望むことができます。同じく、岡崎城の天守からも松平家の菩提寺である大樹寺を眺めることができます。徳川家光は、大樹寺に大掛かりな造営を施すにあたり、本堂から山門を通して城が望めるように建物を配置しました。その景観を守るため、いまでも城と寺の直線上に高層建築物を建てることは許されていないそうです。

<多宝塔>
shirononagori498 (19).jpg
坂の下から見えていた多宝塔

<多宝塔説明板>
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重要文化財です。松平家といえども順風満帆ではなく、運命を共にする寺にも衰退期はありました。しかし7代当主清康により再興され、多宝塔はその頃に建立されたとされています(1535年)。

<鐘楼>しょうろう
shirononagori498 (10).jpg
<手水舎>ちょうずや
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そして

<本堂>
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本尊の阿弥陀如来は平安末期の作られたものだそうです。そして、家康の遺言により歴代将軍の位牌が安置されています。位牌といっても等身大サイズで、かなり大きいものです。


■三河松平家墓所■
イメージしやすい言葉として『三河松平家』と言ってしまいますが、実際には分家がたくさんあります。家康のご先祖様は安祥松平家。その歴代当主の8人のお墓が大樹寺にあります。

<松平八大墓>まつだいらはちだいぼ
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個別のお墓は撮影を遠慮して入口を撮影

<説明板>
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始祖とされている松平親氏から始まり、八代当主の広忠までがこの地で眠っています。広忠は岡崎三郎を名乗った家康の父です。


■若き日の家康の逸話■
徳川家康はもともと今川家配下の武将(当時の名は松平元康)。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長と激突した際は、今川軍に属していました。この2万5千の大軍は、僅か3千(〜5千)の織田軍の奇襲により総大将の義元が討ち取られ、総崩れとなります。どの時点かはっきりしませんが、今川軍を離反する行動に出た家康は、身の危険に晒されながら今川家の支配下となっていた故郷・岡崎に逃れます。何とかこの寺に逃げ込んだものの、周囲を取り囲まれ、先祖の墓前で死ぬことまで覚悟しました。

しかし当時19歳の家康(元康)に、住職が仏の教えを説いて諭したとされています。十三代住職である登誉上人住職が家康に贈った言葉が

 厭離穢土  欣求浄土
おんりえど ごんぐじょうど

苦悩の多い穢れた世を厭(いと)い
離れたいと願い
心から欣(よろこ)んで
平和な極楽浄土を冀(こいねが)う

戦乱の世を住み良い浄土にすることを己に課した瞬間とも言えますね。切腹を思いとどまった家康は、寺の僧とともに敵を退散させ、今川軍の去った岡崎城にたどりついたとされています。徳川家(松平家)が今川から独立した瞬間です。

家康はこの時の住職の教えを生涯の宝としました。その後も幾度となく窮地に追い込まれますが、何とか生き延びています。大樹寺で再起を誓った若き日の思いは、その後の波乱万丈の人生の糧となったわけですね。

つわものどもが夢の跡
shirononagori498 (22).jpg
大樹は征夷大将軍を意味しています

■訪問:大樹寺
(成道山松安院大樹寺)
[愛知県岡崎市鴨田町]

※厭離穢土欣求浄土について今回もWikiさんのお世話になりました
[参考:Wikipedia2020/12/6]


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2020年12月01日

石川数正が岡崎三郎信康を祀った神社(岡崎市)若宮八幡神社

若くして亡くなった徳川家康の長男・信康ゆかりの地を訪ねました。

shirononagori497 (6).jpg
囲いの中には信康の首塚があります。

shirononagori497 (7).jpg
ここは愛知県岡崎市。信康が祀られた若宮八幡神社です。

■家康長男の切腹■
1579年、岡崎城主となっていた信康は、織田信長より武田内通の疑いをかけられ、切腹させられることになりました。まだ21歳です。家康の長男であり、信長の娘を嫁とし、将来を嘱望された武将だったはずなのですが・・・
この背景については諸説あります。専門の方々の研究結果ですので、それぞれ納得してしまいます。ただそれらの中で、私個人は「織田信長が将来を見据えて潰した」という説に重みを感じています。信康については、乱暴者であったという話もありますが、賢明にして勇猛果敢であったという話もあります。どちらかといえば後者を信じたいですね。そして、家康としても不本意であったと思いたいです。徳川と織田が同盟関係といっても、並列の関係ではありません。信長には逆らえなかった。そういうイメージが拭いきれません。

介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。しかし、鬼と呼ばれた男もこれを果たすことはできず、検死役が代わって介錯したそうです。

我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ

そう言い残し、信康はこの世を去りました。天道に逆うようなことはしていない。父にそれだけは分かって欲しい。まだ若く血気盛んな若武者です。無念だったことでしょう。

信康の遺体は切腹した城(二俣城)近くに葬られ、首級は織田信長の首実検を経てから、岡崎に戻されたそうです。一旦は別の場所(根石原観音堂)に葬られましたが、のちに今回訪問の若宮八幡宮へ移されました。

<若宮八幡宮>
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若宮八幡宮は、岡崎城代となっていた石川数正が、信康の霊を祀った神社です。石川数正は家康屈指の家臣であると同時に、信康の後見人でした。城主となったとはいえまだ若い信康に代わって政務を取り仕切りながら、信康がいつか徳川家の当主となるよう支援してきました。数正は人間味溢れる三河家臣団にあってはあまり感情を表に出さない男だったそうです。信康がいなくなった城を城代として守りながら、どんな思いで過ごしたのでしょうか。

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社殿の右横が信康の首塚です。訪問する前のイメージより質素な感じがしました

Wikiさんから引用させて頂くと
『1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲により、土蔵を残して全焼。社殿は再建されたが旧観はない』とのこと。そうですか。むかしはどんな感じだったのでしょう。

ただ、創建当時の雰囲気が失われても、石川数正の思いが、ここに引き継がれていることに変わりありません。そう受け止め、現地をあとにしました。

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当主となり、将軍になるはずだった戦国武将の首塚です。中も撮影できますが、遠慮させて頂きました。

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徳川家康の父である松平広忠と同じく、信康は岡崎三郎と名乗りました。跡取りに相応しい名前ですね。

■訪問:若宮八幡宮
[愛知県岡崎市朝日町]

■参考及び抜粋した資料
[Wikipedia2020/12/1]


------- 補 足 -------
文中に登場してもらった服部半蔵は、晩年信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。これについては別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
■半蔵の眠る丘(西念寺)
→『記事へすすむ


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2020年11月03日

秀吉にとってもゆかりの地・浜松(元城町東照宮の銅像)

浜松城と聞いて思い出すのは徳川家康。そんな思いで訪問した現地で、こんな銅像と対面することとなりました。
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左は家康として右の少年は誰?

ここはかつての浜松城内に位置する元城町東照宮です。東照宮だから家康。これは想定していましたが、子供が家康と同等の位置にいることに非常に違和感がありました。

shirononagori491 (6).JPG
豊臣秀吉公?!

なんと秀吉でした。いかにも若く、まだ風格が備わる前の姿ですね。ここ浜松は、後に天下人となる秀吉(木下藤吉郎)にとってもゆかりの地なのです。

家を出て奉公先を探していた秀吉は、まずここ浜松で、頭陀寺城(ずだじじょう)の城主だった松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えます。のちに織田信長に仕えて頭角を現す秀吉ですが、浜松での恩を忘れず、かつての主である松下之綱を、逆に家臣として召し抱え、所領を与えることになります。

松下之綱はもともと今川義元に仕えていましたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕えました。武田勝頼率いる軍勢が高天神城に押し寄せた際には、徳川側として籠城戦に加わっています(1574年:第一次高天神城の戦い)。この戦い、窮地に追い込まれた高天神城は浜松の徳川家康に助けを求めます。しかし援軍は来ませんでした。約2ケ月後、高天神城は落城。武田勝頼は敗軍の将たちの命を奪いませんでしたので、松下之綱も解放されています。その後、長浜城主となっていた秀吉に仕える道を選びました。

高天神城を救うことができなかった家康ですが、この時は浜松から動けない深い事情がありました。家康はのちに高天神城を奪回しています。

話をもどしますと
秀吉の出自や幼少の頃の話には不確実なものが多いですが、16歳〜18歳という多感な時期を、ここ浜松で過ごしたことは事実のようです。この地での下積みが、のちの大出世に繋がっていくわけですね。

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訪問した元城町東照宮

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大出世する二人が並んでいます

■訪問:浜松元城町東照宮
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年10月25日

畠山重忠ゆかりの地(旧与野市)武州与野銭洗弁天

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠ゆかりの地です。場所はさいたま市中央区、旧与野市です。

<銭洗弁天>ぜにあらいべんてん
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与野公園内の武州与野銭洗弁天です。武蔵国の与野の弁財天、しかも銭洗弁天が、どうして畠山重忠ゆかりの地なのでしょうか?

<祠と縁起>
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右手に説明板(縁起)があります。これによれば、畠山重忠が鎌倉へ向かう途中、霊験があると言われる弁天の霊泉で腰の名刀を洗い清めたところ武勲をあげたことから、商売繁盛、財宝の神として崇められているとのこと。

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いまは公園内の池として綺麗に設備されていますが、古くから湧水池だったのかもしれませんね。

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現在の埼玉県嵐山町に館を構えていた畠山重忠が、鎌倉へ向かう途上でここへ立ち寄り刀を清めた。重忠は戦での活躍もさることながら、清廉潔白で知られる武将です。その時どんな思いだったのでしょうね。

<開運橋>
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その後の畠山重忠の武勲にあやかって、いまでは商売繁盛の神とし崇められています。刀ではなく『銭を洗って』繁栄を祈願する銭洗い弁天です。

<神橋>
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この橋を渡ってお参りすることになります。ここは財宝の神が祀られた場所。そして「坂東武士の鑑」とまで称された畠山重忠ゆかりの地です。

■訪問:武州与野銭洗弁天
(与野公園)
[さいたま市中央区本町西]


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------- 補 足 -------
<バラ園>
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与野公園はバラ園で知られる人気スポットです。この日は秋の薔薇を楽しませてもらいました。

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2020年10月10日

埼玉県にある島原の乱の供養塔(新座市)平林寺

埼玉県新座市に『島原の乱』の供養塔があります。まず天草四郎の名が思い浮かばれるこの乱、制圧した側(幕府側)の総大将が松平伊豆守ということはあまり知られてません。供養塔は伊豆守の菩提寺である平林寺境内。今回はそのご紹介です。
<島原の乱 供養塔>
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<説明板>
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こちらに『島原・天草の一揆供養塔』というタイトルで詳細が記されていますので、以下に抜粋します。

『寛永十四年から十五年(1637〜38)にかけて肥後国天草 の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

[出典:現地説明板]

島原の乱は江戸時代初期に起こった一揆ですね。内戦といっていいこの戦いには、幕府軍が十万人以上動員されています。反乱の背景については、過酷な年貢の取立てとか、宗教的な意味合いなど、まだ議論が続いていながらも、かなり世間の知るところとなっています。ただ、幕府を相手に戦った3万を越える者たちが、単なる百姓の集まりではなく、職を失った武士たちが多く含まれていたことはあまり知られていません。もともと武士だった者が指揮することで、組織だった戦いをしていたようです。

幕府側の当初の総大将は板倉重昌でしたが、九州の諸藩の統率がとれず苦戦(大大名が多いため板倉重昌では束ねられなかったようです)。長期化で幕府の権威が揺らぐことを避けるべく、討伐の切り札として次に送り込まれたのが、三代将軍家光公の信任の厚かった松平伊豆守信綱でした。

この内戦、幕府軍の死者は8千人とも言われています。一方制圧された側ですが、3万7千人が戦いに参加し、全滅と伝わります。

<平林寺>へいりんじ
sn484 (3).jpg
sn484c.jpg
ここは老中であり、川越藩主だった松平伊豆守の菩提寺です。

sn484b.jpg
その境内にある島原の乱の供養塔。現地説明板の通り、松平伊豆守が収めた内戦によって『亡くなった人たちの霊をなぐさめるため』の供養塔です。

■訪問:平林寺
[埼玉県新座市野火止]


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2020年06月09日

大岡忠光ゆかりの地 (龍門寺)9代将軍とともに生きた生涯

<龍門寺>
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岩槻の龍門寺です。3百石の旗本の家に生まれ、2万石の岩槻藩主となった大岡忠光のお墓があります。忠光は9代将軍徳川家重の難のある言葉を唯一理解できた側近で、信頼も厚かったとのこと。あの大岡越前の遠縁でもあります。

■大岡忠光■おおおかただみつ
忠光は旗本の長男として生まれました。徳川吉宗の後継者となる家重の小姓となったことで城詰めの侍となり、以後側近として長らく家重を支え続けた人物です。徳川家重はあまり体が丈夫ではない上に、話す言葉がはっきりせず、家臣たちに直接語り掛けることは困難でした。しかし幼少よりお仕えしている忠光は家重の発する言葉を聞き取り、趣旨も理解できたそうです。
公私ともにお手伝いをしてきたわけですからね。普通の人に難儀なことも、忠光にとっては慣れ切ったことなのかもしれません。
当然の流れですが、家重から全幅の信頼を得ることになり、結果として異例の出世となりました。

■時代劇での悪役■
上記のような史実から、時代劇では時々ヒール役として登場する場合もあります。将軍の言葉を唯一理解できる。将軍に代わってこれを家臣団に伝える。そこに私意を混ぜ込めば、確かに悪いこともできてしまいますよね。
でも実際にはそんなことはなく、大岡忠光は私欲どころか、政治そのものに口を挟むこともしなかったようです。ただただ家重のために尽くしました。当時、将軍の身の回りで起きる事がどの程度城外に伝わるのかわかりませんが、庶民からの評判も良かったようです。

■岩槻藩主■
徳川家重との出会いがなければ、大岡忠光は普通に江戸中期の普通の旗本で生涯を閉じたのかもしれません。しかし上総勝浦藩1万石の大名、そして最終的には2万石武蔵岩槻藩主となりました(1756年)。岩槻藩主の座は、忠光の子である忠喜に引き継がれ、以降明治まで大岡家が代々藩主を務めました。


■龍門寺訪問■
<龍門寺入り口>
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日光御成道に面した古い寺院です。

<山門(三解脱門)>
shirononagori436 (21).jpg

<山門内側>
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<開期霊屋>
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<聖観世音菩薩>
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<鐘楼>
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<七福神>
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<境内>
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<本堂>
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宗派は曹洞宗です。龍門寺は忠光以降、大岡家の菩提寺となりました。

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■つわものどもが夢の跡■
<大岡忠光墓所>
shirononagori436 (5).jpg
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大岡忠光は岩槻藩主となった4年後(1760年6月9日)に没しています。9代将軍徳川家重は、その後まもなく長男(家治)に将軍職を譲っています。そして1761年7月13日に没しました。

■訪問:龍門寺
[埼玉県さいたま市岩槻区日の出町]


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