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2024年04月20日

名君を育てた高遠(伊那市)保科正之ゆかりの地

<保科正之像>ほしなまさゆき
Masayuki-Hoshina-Statue.JPG
少年期を高遠で過ごした名君の銅像です

保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました

<保科正之とお静>
Masayuki-Hoshina-Statue-Area.JPG
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。

秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。

正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました

<参考>
Takato-Castle-South-Compound.JPG
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。

江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。

幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。

時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。


最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。

Masayuki-Hoshina-Takatojo.JPG


■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]


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■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)

https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
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2024年04月13日

絵島囲み屋敷(伊那市)大奥女中筆頭が幽閉された高遠藩の屋敷

高遠城址公園近くの「絵島囲み屋敷」を訪問しました。

<絵島囲み屋敷>
House-of-Eshima-Takato.JPG
綺麗に管理された屋敷ですが、これは大奥女中筆頭だった絵島が長きに渡って幽閉された建物。見取り図を基に復元したものです。

幽閉に至る理由は?

■ 江島生島事件 ■えじまいくしま
事件が起きたのは1714年。将軍が第7代・徳川家継の時代です。家継の生母・月光院に仕えていた絵島(江島)は、主人の名代として前将軍・家宣の墓参りの帰りに、人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見物。これだけなら問題にならなかったかもしれませんが、役者を交えての宴会、そして大奥の門限を破ってしまい、大問題となってしまいました。

これにより、旗本だった兄には死罪の処分が下され、役者を含めて流罪も多数、処分された関係者は千数百名にも及ぶことになりました。

現代人の感覚ではちょっと厳し過ぎますが、大奥の風紀を乱すということは、当時それくらい大問題だったのでしょう。絵島は人気役者である生島新五郎との密会を幕府から疑われ、拷問も受けています。いま風に言えば大スキャンダルだったようです。

絵島は本来なら死罪のところを、減じての島流しとされ、更に月光院の嘆願により、高遠藩へのお預けで落ち着いたそうです。時の将軍の生母をもってしても、そこまでが精一杯だった。それくらい大奥を揺るがす問題だったのですね。この時絵島は34歳。以降27年間、高遠城下の屋敷に幽閉されました。

<屋敷>
Eshima-Enclosed-Residence-Entrance.JPG
屋敷そのものはある程度の広さです。ただ、常に藩の監視下におかれ、絵島は屋敷内の一室に閉じ込められていたそうです。現地での説明(音声ガイダンス)を聞く限りでは、絵島の食事は朝夕二度で一汁一菜、着る物は木綿のみだったようです。他にも、いろんなことが制約だらけのなかで暮らしていたようです。

喰うには困らない?

とも言えますが、旗本の家に生まれ、大奥の筆頭女中にまでなった方ですからね…

<絵島の間>
Eshima-Enclosed-Room-Takato.JPG
Eshima-Enclosed-Room-Takatohan.JPG
絵島が過ごした部屋です。格子は現在の住宅なら防犯用ですが、これは逃亡防止用。牢と言えなくもない。高遠藩の措置が厳しいというより、逃げられてしまっては、幕府に面目が立たないということなのでしょう。

絵島は大奥のことを語ることもなく、お経などを読んで時を過ごしたとされています。その清らかな態度により、高遠藩主からも一目置かれたとのことです。

私は大奥について詳しくはないのですが、小説やドラマの影響からか、嫉妬やら内部の権力争いが激しいというイメージです。絵島の背負った罪、真実はどうだったのでしょうね?

<屋敷入口>
Eshima-Enclosed-Residence-Gate.JPG
しばらくののち(1722年)、藩主・内藤頼卿による幕府への赦免嘆願により、絵島は屋敷周辺の散歩などは認められるようになったそうです。監視されていることに変わりはありませんが、少しだけよかったですね。また、高遠城へ登城し、城内の女性たちにしつけの指導をする機会も与えられたとのこと。しっかりとした、信用される女性だったのでしょうね。

■訪問:絵島囲み屋敷
(高遠歴史博物館)
[長野県伊那市高遠町東高遠]457


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■参考
・現地音声ガイダンス
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠に残る絵島囲み屋敷)

https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=900
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2024年03月09日

源義光ゆかりの石(足柄峠)新羅三郎義光吹笙之石

むかし難所と呼ばれた足柄峠には、源義光ゆかりの石があります。

<源義光ゆかりの石>
Shira-Saburo-Yoshimitsu-Suishonoishi-Stone.JPG
ここは神奈川と静岡の県堺の山中です。厳密に言うと石は峠の静岡側にあります。

<説明板>
Suishonoishi-Explanation-Board.JPG
石のそばに説明板が設置されています。引用も交えながらご紹介させて頂きます。『』内は原文のままです(転記ミスありましたらすみません)。

まず義光について
『八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても風雅の心を失わず、笙は時の名人豊原時元に学んだ。』
河内源氏2代目棟梁・源頼義の長男が八幡太郎義家義光は三男です。笙(しょう)は竹を縦に束ねたような雅楽の楽器ですね。義光はその道の名人から教えを受けていたようなので、みやびな世界に精通した人物だったのでしょう。

つづきは要約します。
清原武衡らの朝廷に対する反乱を鎮圧するために、八幡太郎義家が奥州へ向かいました(後三年の役)が、激しく抵抗されて義家は苦戦。これを聞いた義光は、兄を救援するために京を出ます。

『数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年の仲秋の名月であった。』

寛治元年は1087年です。説明板に記載はありませんが、義光の出陣は認められておらず、朝廷に無断で陸奥国へ向かったそうです。これにより官職を失っています。一大決心で京を出たわけですね。

その途上、足柄の山中に陣営を構えた義光は、自分に付いてきた笙の師匠の子である豊原時秋を呼びよせます。

『「よく聞かれよ、我は御尊父より笙の秘曲を授り、これを後世に伝うべく託された、然るにこの度戦場に赴く上は生死の程も計り難い、我死なばこの道はすたれ先師の志をも空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ。」と輸しこの大石の上に坐り伶人豊原時秋に笙の奥儀を伝えた。』

伶人、つまり雅楽を職とする時秋は、幼くして父と死別したため、その曲を知らなかったようです。義光は自分が戦いでこの世を去ってしまえば、曲の伝承者が絶えてしまうことを惜しみ、この地で時秋に曲を授けたというお話です。時秋は義光の思いと亡き父の秘曲を受けとり、京に引き返しました

いい話ですね。

<吹笙之石>すいしょうのいし
Suishonoishi-Stone.JPG
長くなりましたが、秘曲を伝授する時に義光が腰かけたのがこの大きな石と伝わります。この故事にちなみ、毎年9月の第二日曜日に足柄峠笛まつりが開催されているそうです。

■訪問:新羅三郎義光吹笙之石
[静岡県駿東郡小山町竹之下]


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■参考
Wikipedia:2024/3/9
南足柄市HP「足柄峠」

https://www.city.minamiashigara.kanagawa.jp/kankou/spot/ashigara_touge.html
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2024年01月18日

鎧の宮(岩槻)城攻めの豊臣軍が布陣した八幡神社

岩槻城攻撃の際に豊臣軍が出陣準備をした地を訪ねました。

<鎧宮八幡神社>よろいのみや
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-Worship-hall.JPG
現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。

岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。

『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』

八幡さまが仇に…

神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。

<昔の荒川の流路>
Arakawa-river-ruins.JPG
鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。

川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。

<八幡神社本殿>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-Main-shrine.JPG
この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。

<南辻の八幡神社>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine.JPG
ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。

<つわものどもが夢の跡>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-.JPG
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。

■訪問:鎧宮八幡神社
 (南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68


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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
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2024年01月07日

北陸の国宝建築物(高岡市)前田家ゆかりの瑞龍寺

城巡りで訪問した富山県で、貴重な国宝建築物を見学させて頂きました。

<瑞龍寺>ずいりゅうじ
Zuiryuji-Gate-Sanmon.JPG
堂々とした佇まいの山門。ここは高岡市の瑞龍寺です。山門と仏殿、法堂が国宝となっています。

やや暗い画像で恐縮です。高岡城を訪問したあと、日が暮れるまでの僅かな時間でお邪魔させて頂きました。


<惣門>
Somon-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
この総門を潜ると冒頭の山門と仏殿、そして法堂が一直線に並んでいます。

<山門>
National-Treasure-Main-Gate-Buddhist-Temple.JPG
広く整然とした境内。真正面に山門、両脇には玉砂利が敷き詰められています。

<山門の金剛力士像>
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National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-Un.JPG
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-A.JPG
山門には阿形・吽形の金剛力士像。悪しきものの侵入を許さないように両側から睨みをきかせています。楼上には釈迦如来と十六羅漢を祀ってあるそうです。

そして

<仏殿>
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瑞龍寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来です。

<法殿>
Old-Temple-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらには前田利長の位牌が安置されています。本来なら、古い建築物と美しい芝のコントラストが魅力のようです。私は薄暗いなかで撮影したため、この程度の画像となってしまいました。

瑞龍寺の建物は江戸時代初期を代表する禅宗建築と言われています。国宝に絞ってご紹介させて頂きましたが、他も重要文化財に指定されている貴重な寺院です。

実は、訪問した時は国宝を見たいという思いより、前田利家の後継者である利長ゆかりの寺院を訪ねたいという思いだけでした。建物の貴重さを実感したのは、現地に到着してからです。

<前田利長>まえだとしなが
Maeda-Toshinaga-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらは瑞龍寺の近く(八丁道)で撮影した前田利長像です。あの前田利家の長男ですね。利長は父に代わって豊臣家五大老に名を連ねました。その立場で、徳川家康との関係も保つ必要がありました。苦しい板ばさみを乗り越えて、初代藩主として加賀藩の立場を確立した武将です。

その利長が、当時はまだ荒野に等しかったこの地に、新たな城を築いたことが、今日の高岡市の繁栄に繋がっています。

Zuiryuji-Stone-Pillar.JPG
利長の死後、菩提をとむらうため、第2代藩主となった利常によって瑞龍寺は建立されました。(1614年)。利常は前田利家の四男です。利長にとっては腹違いの弟になります。利長には跡継ぎがいなかったため、利常を養子としたあと家督を譲りました。利長と利常の二人は、厳しい環境下で加賀百万石の礎を築いた名君です。

National-Treasure-Lecture-Hall-Zuiryuji.JPG
高岡城の南方に位置する瑞龍寺は、防衛の拠点としての性格を有していたとも言われています。高岡城は表向きは既に廃城となっていたのに、事情が複雑ですね。

利常はこの凄い寺院を一気に造り上げた?わけではなく、完成までに約20年もの歳月を費やしたそうです。加賀前田家ゆかりの古刹、そして建築物が国宝という寺院。高岡市の瑞龍寺は、富山県のみならず、北陸を代表する寺院のひとつです。

■訪問:高岡山瑞龍寺
[富山県高岡市関本町]35


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■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「国宝 高岡山瑞龍寺」

https://www.info-toyama.com/attractions/21009
・国宝高岡山瑞龍寺 公式HP
https://www.zuiryuji.jp/
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2023年12月30日

箕田源氏の祖が神のおつげで創建した神社(鴻巣市)大野神社

鴻巣市の大野神社にお邪魔させて頂きました。

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創建は938年。嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏の祖・源仕(みなもとのつこう)が建立したと伝わる神社です。

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源仕は武蔵国の国司として関東に下向しました。官物の横領や国府の襲撃を働いたという物騒な話も伝わりますが、処分されたという記録もないそうです。何か深い事情でもあったのでしょうか?

源仕は任期終了後も京都へは戻らず、そのまま箕田(現在の鴻巣市北部)に土着し、豪族となりました。清和源氏3代目・源頼光に従事した四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)はその孫です。

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源仕が大国主命のおつげにより神社を造営したことに始まります

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御由緒には『嵯峨源氏の末流の渡部仕』と記されていますね。もともとは氷川神社として創建されましたが、明治になって大間地区と北中野地区から文字(大と野)をとって大野神社に改称されたようです。

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氷川山大野神社です。


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こちらの「大野神社記」には『鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました』とあります。

鎌倉末期の改築はよいとして、文禄は戦国末期ですので、既に小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされています。よって、武蔵国に定着していた元家臣ということになりますね。道祖土という名は全国的には珍しいですが、埼玉県では時々耳にする苗字です。遡ると下野の名族那須氏の一族と言われていますが、ここに登場した満兼の祖先についてはよくわかりません。

Konosu-Oono-Jinja-Haiden.JPG
現在の祭神は大国主命・須佐之男命・奇稲田姫の3柱です。

ということで
箕田源氏による建立から始まる大野神社のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

<大願成就>
KonosuOonoJinja.JPG
理屈抜きにいいですね!

■訪問:大野神社
[埼玉県鴻巣市大間]2丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(大野神社御由緒)
・現地説明板(大野神社記)
・猫の足あと「大野神社」

https://tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_oma_ono.html
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2023年12月29日

本多忠勝の娘・小松姫のお墓(鴻巣市)勝願寺

本多忠勝の娘・小松姫は、政治的な理由を背景に、真田昌幸の長男・真田信幸に嫁ぎました

一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。

<勝願寺本堂>
Shoganji-Kounosu.JPG
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。

なぜ鴻巣に?

<眞田小松姫の墓の説明板>
Shoganji-Explanationboard-Komatsuhime.JPG
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。

ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。

<小松姫の説明板>
Familytree-Komatsuhime.JPG
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。

ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?

実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。

ただ
こんな偶然もあるのですね

<墓所>
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やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。

そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。

小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。

■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)

[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
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2023年12月28日

伊奈忠次・忠治墓所(鴻巣市)勝願寺

徳川家康の国造りの陰の功労者である伊奈忠次・忠治親子の墓所を訪ねました。

<惣門>
Konosu-Temple-Shoganji-Main-Gate.JPG
鴻巣市の勝願寺です。号は天照山良忠院。浄土宗の寺院です。

<栴檀林>ぜんだんりん
Konosu-Temple-Shoganji-Name-Plate.JPG
僧侶の養成所を意味しています。勝願寺は関東における浄土宗の僧侶養成のための十八カ寺(関東十八檀林)のひとつです。

<仁王門>
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もともとは結城城から移設された仁王門がありましたが明治に焼失。再建された際に秩父の三峯神社から贈られた仁王像が立ち並んでいます。

<鐘楼>
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屋根をよく見ると、三つ葉葵の紋があります。

<本堂>
Shoganji-Kounosu.JPG
鎌倉時代創建の古い寺院です。16世紀末期に清巌上人によって中興されました。

こんなにも立派な寺院を拙ブログではご紹介できませんので、のちに深い関りを持つことになる徳川家康、そして伊奈氏との接点に話を絞ると、戦国時代末期ということなります。鷹狩りの際に勝願寺を訪れた家康は、住職(円誉不残)の教養と徳の高さに感銘を受けます。自ら帰依するとともに、同行していた伊奈忠政と伊奈忠家らに檀家になるように命じました忠政は伊奈忠次の長男、忠家は父です。勝願寺と伊奈氏の関係は、おそらくこの時から始まったわけですね。

<伊奈忠次・忠治墓>いなただつぐ・ただはる
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こちらが伊奈氏墓所です。周囲の墓と比べれば大きく立派なため目立ちますが、関東郡代(厳密にいうと関東代官頭)という役割を担ったことを思うと、やや地味な印象です。ただ、この辺りが、いかにも庶民に信頼された役人という感じもします。4基の墓(宝筺塔)が並んでいるので、忠次と忠治、他も伊奈家当主のものかと思いましたが、それぞれの妻のものとのこと。この時代にして、夫婦が並んでいるという構図です。

<説明板>
Konosu-Temple-Shoganji-Explanationboard-Ina.JPG
伊奈忠次と忠治に関する説明が記されています。私の主観も入りますが、引用(『』内)を含めながら簡単に説明させて頂きます。

まず初代の伊奈忠次について
『三河国幡豆郡 小鳥の城主伊奈忠家の嫡子』として生まれ、徳川家康の近習を経て関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わったと記されています。のちのち関東郡代を継承した伊奈一族始まりということですね。忠次は『関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富む』といわれたそうです。茨城県の特産物として有名な結城紬が、忠次の奨励によるものという話は初めて聞きました。きっとこれも功績の一例に過ぎないのでしょうね。
忠次は江戸幕府の財政の基盤造ったことで知られていますが、検地検税は忠次が採用した方法が基本となったようです。やがて『従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)』とあります。忠次が築いた水路が備前堀などと呼ばれるのは、この官職に由来しているわけですね。


次に伊奈忠治について
ここには記されていませんが、忠次には先ほど名をあげさせて頂いた忠政という兄がいました。関東郡代の2代目である忠政は、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる際に奉行を任されるなど、徳川の家臣として既に活躍し始めていました。

ただ、忠政は34歳の若さで亡くなってしまいます。本家の家督はまだ幼い忠政の子が引き継ぎ、事業は弟である忠治が引き継ぎました。忠治はすでに独立していたので、実家(現在の伊奈町)とは別の足立郡赤山(現在の川口市)を拠点に活動しました。

続きは鴻巣市教育委員会さんの説明を転記させて頂きます。
『元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。』

絶賛されていますね。初代の忠次あってのことですが、次男で3代目の忠治によって、伊奈氏の関東郡代としての地位は盤石なものとなりました。幕府直轄領約30万石を管轄する関東郡代・伊奈氏は、12代(約2百年)続くことになります。


<関東郡代の墓所>
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伊奈忠次・忠治親子は、全国的にはあまり有名ではありませんが、徳川家康から絶大な信頼を得ていました。幕府のおひざ元である関東において、治水や新田開発、検地といった仕事で国造りに関わった影の功労者の墓です。

■訪問:伊奈氏墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(鴻巣市教育委員会)
・Wikipedia:2023/12/28
・こうのす広場HP
「勝願寺にでかけよう」

https://kounosu-portal.jp/article/shoganji_kounosu
・鴻巣商工会HP
「勝願寺」

https://www.syokoukai.or.jp/syokokai/kohnosu/060/20140403180048.html
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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