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2024年01月18日

鎧の宮(岩槻)城攻めの豊臣軍が布陣した八幡神社

岩槻城攻撃の際に豊臣軍が出陣準備をした地を訪ねました。

<鎧宮八幡神社>よろいのみや
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現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。

岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。

『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』

八幡さまが仇に…

神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。

<昔の荒川の流路>
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鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。

川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。

<八幡神社本殿>
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この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。

<南辻の八幡神社>
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ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。

<つわものどもが夢の跡>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-.JPG
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。

■訪問:鎧宮八幡神社
 (南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68


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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
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2024年01月07日

北陸の国宝建築物(高岡市)前田家ゆかりの瑞龍寺

城巡りで訪問した富山県で、貴重な国宝建築物を見学させて頂きました。

<瑞龍寺>ずいりゅうじ
Zuiryuji-Gate-Sanmon.JPG
堂々とした佇まいの山門。ここは高岡市の瑞龍寺です。山門と仏殿、法堂が国宝となっています。

やや暗い画像で恐縮です。高岡城を訪問したあと、日が暮れるまでの僅かな時間でお邪魔させて頂きました。


<惣門>
Somon-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
この総門を潜ると冒頭の山門と仏殿、そして法堂が一直線に並んでいます。

<山門>
National-Treasure-Main-Gate-Buddhist-Temple.JPG
広く整然とした境内。真正面に山門、両脇には玉砂利が敷き詰められています。

<山門の金剛力士像>
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-Aun.JPG
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-Un.JPG
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-A.JPG
山門には阿形・吽形の金剛力士像。悪しきものの侵入を許さないように両側から睨みをきかせています。楼上には釈迦如来と十六羅漢を祀ってあるそうです。

そして

<仏殿>
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瑞龍寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来です。

<法殿>
Old-Temple-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらには前田利長の位牌が安置されています。本来なら、古い建築物と美しい芝のコントラストが魅力のようです。私は薄暗いなかで撮影したため、この程度の画像となってしまいました。

瑞龍寺の建物は江戸時代初期を代表する禅宗建築と言われています。国宝に絞ってご紹介させて頂きましたが、他も重要文化財に指定されている貴重な寺院です。

実は、訪問した時は国宝を見たいという思いより、前田利家の後継者である利長ゆかりの寺院を訪ねたいという思いだけでした。建物の貴重さを実感したのは、現地に到着してからです。

<前田利長>まえだとしなが
Maeda-Toshinaga-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらは瑞龍寺の近く(八丁道)で撮影した前田利長像です。あの前田利家の長男ですね。利長は父に代わって豊臣家五大老に名を連ねました。その立場で、徳川家康との関係も保つ必要がありました。苦しい板ばさみを乗り越えて、初代藩主として加賀藩の立場を確立した武将です。

その利長が、当時はまだ荒野に等しかったこの地に、新たな城を築いたことが、今日の高岡市の繁栄に繋がっています。

Zuiryuji-Stone-Pillar.JPG
利長の死後、菩提をとむらうため、第2代藩主となった利常によって瑞龍寺は建立されました。(1614年)。利常は前田利家の四男です。利長にとっては腹違いの弟になります。利長には跡継ぎがいなかったため、利常を養子としたあと家督を譲りました。利長と利常の二人は、厳しい環境下で加賀百万石の礎を築いた名君です。

National-Treasure-Lecture-Hall-Zuiryuji.JPG
高岡城の南方に位置する瑞龍寺は、防衛の拠点としての性格を有していたとも言われています。高岡城は表向きは既に廃城となっていたのに、事情が複雑ですね。

利常はこの凄い寺院を一気に造り上げた?わけではなく、完成までに約20年もの歳月を費やしたそうです。加賀前田家ゆかりの古刹、そして建築物が国宝という寺院。高岡市の瑞龍寺は、富山県のみならず、北陸を代表する寺院のひとつです。

■訪問:高岡山瑞龍寺
[富山県高岡市関本町]35


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■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「国宝 高岡山瑞龍寺」

https://www.info-toyama.com/attractions/21009
・国宝高岡山瑞龍寺 公式HP
https://www.zuiryuji.jp/
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2023年12月30日

箕田源氏の祖が神のおつげで創建した神社(鴻巣市)大野神社

鴻巣市の大野神社にお邪魔させて頂きました。

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創建は938年。嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏の祖・源仕(みなもとのつこう)が建立したと伝わる神社です。

Konosu-oonojinja-Gate.JPG
源仕は武蔵国の国司として関東に下向しました。官物の横領や国府の襲撃を働いたという物騒な話も伝わりますが、処分されたという記録もないそうです。何か深い事情でもあったのでしょうか?

源仕は任期終了後も京都へは戻らず、そのまま箕田(現在の鴻巣市北部)に土着し、豪族となりました。清和源氏3代目・源頼光に従事した四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)はその孫です。

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源仕が大国主命のおつげにより神社を造営したことに始まります

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御由緒には『嵯峨源氏の末流の渡部仕』と記されていますね。もともとは氷川神社として創建されましたが、明治になって大間地区と北中野地区から文字(大と野)をとって大野神社に改称されたようです。

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氷川山大野神社です。


Konosu-oonojinja-Explanation-Board.JPG
こちらの「大野神社記」には『鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました』とあります。

鎌倉末期の改築はよいとして、文禄は戦国末期ですので、既に小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされています。よって、武蔵国に定着していた元家臣ということになりますね。道祖土という名は全国的には珍しいですが、埼玉県では時々耳にする苗字です。遡ると下野の名族那須氏の一族と言われていますが、ここに登場した満兼の祖先についてはよくわかりません。

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現在の祭神は大国主命・須佐之男命・奇稲田姫の3柱です。

ということで
箕田源氏による建立から始まる大野神社のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

<大願成就>
KonosuOonoJinja.JPG
理屈抜きにいいですね!

■訪問:大野神社
[埼玉県鴻巣市大間]2丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(大野神社御由緒)
・現地説明板(大野神社記)
・猫の足あと「大野神社」

https://tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_oma_ono.html
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2023年12月29日

本多忠勝の娘・小松姫のお墓(鴻巣市)勝願寺

本多忠勝の娘・小松姫は、政治的な理由を背景に、真田昌幸の長男・真田信幸に嫁ぎました

一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。

<勝願寺本堂>
Shoganji-Kounosu.JPG
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。

なぜ鴻巣に?

<眞田小松姫の墓の説明板>
Shoganji-Explanationboard-Komatsuhime.JPG
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。

ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。

<小松姫の説明板>
Familytree-Komatsuhime.JPG
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。

ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?

実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。

ただ
こんな偶然もあるのですね

<墓所>
Konosu-Temple-Shoganji-Graveyard-Samada-Family.JPG
やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。

そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。

小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。

■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)

[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
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2023年12月28日

伊奈忠次・忠治墓所(鴻巣市)勝願寺

徳川家康の国造りの陰の功労者である伊奈忠次・忠治親子の墓所を訪ねました。

<惣門>
Konosu-Temple-Shoganji-Main-Gate.JPG
鴻巣市の勝願寺です。号は天照山良忠院。浄土宗の寺院です。

<栴檀林>ぜんだんりん
Konosu-Temple-Shoganji-Name-Plate.JPG
僧侶の養成所を意味しています。勝願寺は関東における浄土宗の僧侶養成のための十八カ寺(関東十八檀林)のひとつです。

<仁王門>
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もともとは結城城から移設された仁王門がありましたが明治に焼失。再建された際に秩父の三峯神社から贈られた仁王像が立ち並んでいます。

<鐘楼>
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屋根をよく見ると、三つ葉葵の紋があります。

<本堂>
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鎌倉時代創建の古い寺院です。16世紀末期に清巌上人によって中興されました。

こんなにも立派な寺院を拙ブログではご紹介できませんので、のちに深い関りを持つことになる徳川家康、そして伊奈氏との接点に話を絞ると、戦国時代末期ということなります。鷹狩りの際に勝願寺を訪れた家康は、住職(円誉不残)の教養と徳の高さに感銘を受けます。自ら帰依するとともに、同行していた伊奈忠政と伊奈忠家らに檀家になるように命じました忠政は伊奈忠次の長男、忠家は父です。勝願寺と伊奈氏の関係は、おそらくこの時から始まったわけですね。

<伊奈忠次・忠治墓>いなただつぐ・ただはる
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こちらが伊奈氏墓所です。周囲の墓と比べれば大きく立派なため目立ちますが、関東郡代(厳密にいうと関東代官頭)という役割を担ったことを思うと、やや地味な印象です。ただ、この辺りが、いかにも庶民に信頼された役人という感じもします。4基の墓(宝筺塔)が並んでいるので、忠次と忠治、他も伊奈家当主のものかと思いましたが、それぞれの妻のものとのこと。この時代にして、夫婦が並んでいるという構図です。

<説明板>
Konosu-Temple-Shoganji-Explanationboard-Ina.JPG
伊奈忠次と忠治に関する説明が記されています。私の主観も入りますが、引用(『』内)を含めながら簡単に説明させて頂きます。

まず初代の伊奈忠次について
『三河国幡豆郡 小鳥の城主伊奈忠家の嫡子』として生まれ、徳川家康の近習を経て関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わったと記されています。のちのち関東郡代を継承した伊奈一族始まりということですね。忠次は『関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富む』といわれたそうです。茨城県の特産物として有名な結城紬が、忠次の奨励によるものという話は初めて聞きました。きっとこれも功績の一例に過ぎないのでしょうね。
忠次は江戸幕府の財政の基盤造ったことで知られていますが、検地検税は忠次が採用した方法が基本となったようです。やがて『従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)』とあります。忠次が築いた水路が備前堀などと呼ばれるのは、この官職に由来しているわけですね。


次に伊奈忠治について
ここには記されていませんが、忠次には先ほど名をあげさせて頂いた忠政という兄がいました。関東郡代の2代目である忠政は、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる際に奉行を任されるなど、徳川の家臣として既に活躍し始めていました。

ただ、忠政は34歳の若さで亡くなってしまいます。本家の家督はまだ幼い忠政の子が引き継ぎ、事業は弟である忠治が引き継ぎました。忠治はすでに独立していたので、実家(現在の伊奈町)とは別の足立郡赤山(現在の川口市)を拠点に活動しました。

続きは鴻巣市教育委員会さんの説明を転記させて頂きます。
『元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。』

絶賛されていますね。初代の忠次あってのことですが、次男で3代目の忠治によって、伊奈氏の関東郡代としての地位は盤石なものとなりました。幕府直轄領約30万石を管轄する関東郡代・伊奈氏は、12代(約2百年)続くことになります。


<関東郡代の墓所>
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伊奈忠次・忠治親子は、全国的にはあまり有名ではありませんが、徳川家康から絶大な信頼を得ていました。幕府のおひざ元である関東において、治水や新田開発、検地といった仕事で国造りに関わった影の功労者の墓です。

■訪問:伊奈氏墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(鴻巣市教育委員会)
・Wikipedia:2023/12/28
・こうのす広場HP
「勝願寺にでかけよう」

https://kounosu-portal.jp/article/shoganji_kounosu
・鴻巣商工会HP
「勝願寺」

https://www.syokoukai.or.jp/syokokai/kohnosu/060/20140403180048.html
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2023年12月24日

小さな東照宮(鴻巣市)鴻巣御殿のなごり

埼玉県鴻巣市の「小さな東照宮」にお邪魔させて頂きました。

<東照宮>
Toshogu-Torii-Konosu.JPG
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です

<紫の幟>
Flag-Toshogu-Shrine-Konosu.JPG
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。

<東照宮入口>
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石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。

<狭い参道>
Approach-to-Toshogu-Shrine-Konosu.JPG
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…

<境内>
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ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。

<説明板>
Explanation-Board-Toshogu-Shrine-History.JPG
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?

以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』

将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。

鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。

<江戸図屏風>
Konosu-Goten-Explanation-Board.JPG
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。

将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。

やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。

説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。

<石碑>
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東照宮 敷地奉納記念碑

<石祠>せきし
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石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。

無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。

<御成町>おなりちょう
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将軍が御成りになった町です

■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26


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■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」

https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html
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2023年12月10日

熊谷直実像(熊谷駅前)日ノ本一の剛の者

今回は、源平合戦などで活躍し、源頼朝から「日ノ本一の剛の者」と讃えられた武将の銅像の話です。

<熊谷直実像>くまがいなおざね
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ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。

熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。

<熊谷次郎直実>
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熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。

銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。

これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。

少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。


<熊谷駅北口ロータリー>
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冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。

■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]


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■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」

https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
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2023年10月28日

前田利家ゆかりの地(金沢)尾山神社

戦国武将・前田利家が祀られている神社を訪ねました。

<尾山神社>おやまじんじゃ
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創建は1873年(明治6年)です。前田利家が没したのは1599年(慶長4年)ですから、相当あとの話になりますね。この当時、各地で藩祖又は藩主を祀る神社が流行りとなっていました。尾山神社の創建も、そういった世の中の風潮に乗ったものだったようです。それまで前田利家の霊が祀られていた卯辰八幡社は、尾山神社建立を境に宇多須神社となりました。

<鳥居>
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堂々とした鳥居は日本風ですが…

<神門>
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え?これが神社の門!和漢洋の三様式が混合されたこの珍しい神門は、国の重要文化財に指定されています。

<異彩>
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神社でステンドグラスかぁ…ちなみに、てっぺんの避雷針は日本で最古のものとのことです。

<拝殿>
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旧加賀藩士等により社殿が築かれました


<前田利家像>
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かなり高い位置に設置されています。

<槍の又左>やりのまたざ
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豊臣政権下で五大老に名を連ねた大御所の姿ではなく、織田信長配下で槍の又左衛門として名を馳せた頃の雄姿ですね。利家は当時としてはかなりの大男で、180cm前後はあったようです。

<母衣>ほろ
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背中の大きな丸い袋は母衣です。若い頃の利家は赤い母衣を背負う母衣衆のリーダー的な存在でした。敵から目立ってしまいますが、背後から飛んくる矢から身を守る効果がありました。


<境内の様子>
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尾山神社の境内は、もともとは金沢城の一部で、金谷出丸と呼ばれていました。出丸はやがて隠居した藩主の居住地となり、金谷御殿と呼ばれました。

<東神門>
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見どころ沢山の境内と比較するとちょっと地味ですが、尾山神社の裏門(東神門)には、かつての金沢城二の丸の門が移設されています。

<金谷神社> かなやじんじゃ
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こちらは境内にある金谷神社です。利家の嫡男・利長から始まる前田家歴代当主、そしてその正室が祀られています。前田家の血筋は現在も受け継がれています。


<神苑>しんえん
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旧金谷御殿の池泉廻遊式の庭園とされています。江戸末期から明治初期にかけて造られたようです。廃藩置県が1871年(明治4年)ですから、藩として造園した最後の庭園の部類と思われます。

<おまつの方の石碑>
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藩祖・前田利家を祀る神社として創建されましたが、1998年(平成10年)に正室のお松の方も合祀されました。松は利家を支え続け、没後は菩提を弔うために出家して「芳春院」と号しました。息子利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられると、自ら人質として江戸に入り、加賀藩を救いました。

<観光名所>
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「利家とまつ」が祀られ、金沢の人気スポットのひとつとなっています。

■訪問:尾山神社
[石川県金沢市尾山町]11-1


お城巡りランキング

■参考
・Wikipedia:2023/10/25
・ほっと石川旅ねっと
>石川の観光スポットを探す>尾山神社

https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4830
posted by Isuke at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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