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2024年09月26日

真田信之と前田慶次の意外な接点

<真田信之パネル>
Panel-Nobuyuki-Sanada.JPG
沼田公園で撮影した真田信之のバネルです。ちょっと格好良すぎますね

真田信之(信幸)について調べているうちに、あの前田慶次郎利益(とします)との接点があったことを知りました。

Wikiさんによれば、真田信之(信幸)は『前田利益とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた』とのこと(『』内は転記)。真田家の家臣が記した史書『加沢記』などが情報源のようです。

織田信長が本能寺で亡くなった時(1582年6月21日)、織田四天王のひとり・滝川一益は、関東に派遣されていました。前田利益はもともとは滝川一族の出で、この時も親戚関係の滝川一益の軍勢に加わっていたと思われます。また、同時期に滝川一益の甥・滝川益重(ますしげ)が沼田城に入城していますが、これが利益の実父という説もあり、こちらと行動を共にしていた可能性もあります。もしそうだとすれば、沼田は前田慶次郎利益にとってもゆかりの地ということになります。いずれにせよ、信長の重臣・滝川一益に加担していました。

<沼田城跡>
Numata-Castle-Ruins.JPG
真田信之はもちろん、前田利益にとってもゆかりの地だった?可能性のある城跡

一方の真田信之は、父・昌幸とともに、他の国人衆と歩調を合わせて関東管領である滝川一益に従っていました。ただ、それは織田信長という権威の裏付けがあってのこと。当時の関東最大勢力・小田原北条氏の動向に気を使う必要もあり、立場はかなり流動的でした。

そんな最中に、京へ引き上げようとしていた前田利益が、滝川一益の所領でもある佐久・小県で兵を指揮していた真田信之と遭遇。信長がいなくなっても、前田利益が滝川一族を見限ることはありませんが、真田勢は状況によります。にもかかわらず、前田利益は「信長の死」という極めて重要な軍事機密を信幸に話してしまいました。

これは
どういう関係だったのでしょうね?

他に詳しい史料も見つからなかったので、Wikiさん記載の『懇意の仲』というふうに漠然と受け止めるしかなさそうです。二人とも滝川家と接点がありましたので、どこかで陣をともにし、意気投合したのかもしれません(あくまで個人の想像です)

ということで
むかし漫画『花の慶次』に熱中したオジサンが、真田信之について調べていたら、慶次と接点があることを知り、やや嬉しくなったというだけの内容でした。歴史素人の個人ブログですので、内容につきましてはその程度受け止めて頂きますようお願い致します。

<前田慶次パネル>
Panel-Keiji-Maeda.JPG
吉祥寺で開催されていた「花の慶次 原画展」で撮影しました。威風堂々の前田利益です。

拙ブログに訪問頂きありがとうございました。

■訪問:沼田公園
[群馬県沼田市西倉内町]


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■挿入パネルと撮影場所
・戦国無双パネル
[沼田公園(沼田市)]
・花の慶次原画展パネル
[GALLERY ZENON(武蔵野市)]


■参考・出典
・Wikipedia:2024/9/26
タグ:群馬
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2024年09月25日

真田の家を守り抜いた夫婦の石像(沼田市)真田信之像・小松姫像

<真田信之像・小松姫像>
Stone-Statue-Numata-Castle.JPG
沼田公園の真田信之小松姫夫婦の石像です。むかしは無かったような?それもそのはず。2015年に設置されたそうです。NHK大河ドラマ『真田丸』が放送されたのが2016年ですので、それに合わせて建立されたのかもしれません。

真田信之は父・昌幸や弟・信繁(幸村)と比較すると地味な印象ではありますが、見方を変えると、かなり大きな仕事を成しとげた武将です。

<真田信之>さなだのぶゆき
Stone-Statue-Nobuyuki-Sanada.JPG
真田昌幸の長男です。祖父は真田幸隆。真田家の三男だった父・昌幸は、既に武藤家の養子(武藤喜兵衛)となっていたので、信之は武藤家で生まれました。しかし長篠の戦いで跡取りがいなくなったてしまった真田家に父・昌幸が戻ることになり、信之は真田家を継ぐ嫡男として期待されるようになりました。主に上田領を支配していた昌幸から、信之は沼田を任され、沼田城主として北上州を治めていました。やがて天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、父と弟が石田三成率いる西軍に味方したのに対し、信之は徳川家康率いる東軍に与する道を選びました。
信之の元々の名は信幸です。「幸」は真田家の通字。信之は関ケ原で西軍についた父と弟の助命嘆願をする一方で、決別を周囲に知らしめるべく、「幸」を「之」に改めました領民思いで統治力のあった信之は名君とされ、真田松代藩の礎を築き上げました

<小松姫>こまつひめ
Stone-Statue-Komatsuhime.JPG
徳川四天王のひとり本多忠勝の娘で、稲姫(いなひめ)とも称されました。政治的な理由を背景に、徳川家の養女を経て信濃国上田を本拠とする真田家に嫁ぎました。真田家はのちに親子・兄弟が敵味方に分かれることになりますが、小松姫は徳川方についた真田信之を正室として支え続け、難しい局面に立たされた真田家を守り抜きました。小松姫の武勇を物語る有名な逸話が、孫の顔見たさに沼田城に立ち寄った義父・真田昌幸を、門前で追い返した話です。夫の信之が出陣中のため城の留守を預かっていた小松姫は、例え義父でも敵方となった者を通すことはできないとして、昌幸と義弟の信繁(幸村)の入城を拒みました。一方で、小松姫は昌幸たちを密かに近くの寺へ案内し、そこで孫たちと対面させたと言う話もあります。これら伝わる話から言えることは、小松姫は男勝りの勇ましさ、機転に富んだ行動力、そして深い情を備えた女性だったようです


Stonestatue-Sanadacouple.JPG
二人の婚姻は真田信之25歳、小松姫18歳のときでした。


最後に
小松姫が48歳で生涯の幕を閉じたのに対し、信之は当時としては異例の93歳まで生きました。50代半ばで小松姫に先立たれた信之は「わが家の灯火が消えたり」と言って悲しんだと伝わります。

■訪問:
真田信之像・小松姫像

(沼田公園)
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考
・Wikipedia:2024/9/25
・沼田市観光協会HP
 ―信之・小松姫像―

https://www.numata-kankou.jp/activity/sight/numatakoen/index.html
タグ:群馬
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2024年09月16日

沼田城主・真田信吉墓所(沼田市)天桂寺

沼田城主となって沼田を治めた真田信吉の墓所を訪ねました。
<天桂寺墓所>てんけいじ
Sanada-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
沼田市天桂寺の墓所です。奥が真田信吉のお墓です。一般の方のお墓もありますので、画像は多少加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-Haka.JPG
約3メートルの宝篋印塔。近くで見るとかなり大きいです。沼田市の重要文化財に指定されています。

真田信吉は信之の長男です。生年には諸説ありますが、一般的に1595年とされています。実母についても諸説ありますが、清音院殿(せいいんいんでん)とするのが一般的です。
清音院殿は真田信綱の娘。信綱は、信之の父である昌幸の兄ですので、いとこ同士の夫婦ということになります。清音院殿は正室という立場でしたが、のちに本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)が信之の正室として迎えられたため、側室となっています。こういった経緯もあり、真田信吉の実母を稲姫とする説もあります(現地説明板では大蓮院=稲姫と記されています)。ちょっと複雑ですね。

ただまぁ、信吉が戦国屈指の知略の将・真田昌幸の孫であり、存亡をかけた局面を乗り切って真田家を守った信之の嫡子であることははっきりしています。

祖父や父と比較してしまうと地味な存在ですが、信吉は体調不良の父に代わり、大坂冬・夏の陣に弟の信政とともに出陣しています。上田へ移った信之に代わり、沼田3万石を任されているのですから、後継者として期待されていたことがよく分かりますね。この構図は、祖父・昌幸が父・信之に沼田を任せたのと同じです。

<真田河内守信吉の墓>かわちのかみ
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
こちらの説明板には『2代沼田藩主』と記されています。その通りなのですが、当時の沼田は正式には独立した藩ではなく、本家である松代藩の分領でした。ただ信吉が沼田の地を任されていたことは事実であり、やがては松代藩主となることが自然な流れだったのかもしれません。

ところが
父である信之が、当時としては異例の93歳まで生きたのに対し、信吉は40歳の若さで亡くなってしまいました。信之は高齢を理由に、幕府に何度も隠居を願い出ていたのですが、なかなか認められない状態が続いていました。戦国時代を知る最後の武将として、真田信之が将軍家から一目置かれていたことも影響したかもしれません。その結果、既に沼田城主となっていた信吉が、父から藩主の座を譲られることはありませんでした。

説明板には『四十歳で江戸屋敷にて没し沼田の迦葉山で火葬、天桂寺に葬られた』とあります。亡骸は江戸から沼田に運ばれ、丁重に葬られたわけですね。のちに信吉の弟・信政が、信濃松代藩第2代藩主となっています。

■訪問:
真田信吉の墓(
天桂寺)
[群馬県沼田市材木町]144


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/9/16
・沼田市HP
>市指定文化財>真田河内守信吉の墓

https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/shi/1000853.html
タグ:群馬
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2024年09月15日

藩主になるはずだった真田信守墓所(沼田市)舒林寺

沼田市で真田信守の墓所を訪ねました。

<舒林寺山門>じよりんじ
Jyorinji-Temple-Main-Gate.JPG
立派な佇まい。ここ舒林寺は曹洞宗の寺院。初代藩主・真田信之により境内を寄進され真田氏の菩提寺となりました。

<案内板>
Jyorinji-Sanadamatasaburonohaka-Sign.JPG
奥へ進むと「真田又八郎信守の墓」と記された標識をみつけました。

真田信守は信濃松代藩の第2代藩主・真田信政の次男として生まれました。長男の信就は、身分不確かな側室の子であることから、早々に後継ぎを辞退していました。これにより、次男・信守はやがては真田家当主、そして信濃松代藩の藩主となることが期待されていました

しかし
沼田城内で、論争の末に弟の信武を殺害するに至り、自らも自刃しました(1645年)。まだ18歳。真田家としては、身内の争いで一度に二人の男子を失うこととなりました。

その場の論争だけで弟を殺すというのは考えにくいですね。背景にどんな事情があったのでしょうか?兄弟の争いを止めようとした真田家臣の佐久間善八も巻き添えで命を落としています。沼田城で突然起きた、異例の騒動でした。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Nobumori-Haka.JPG
こちらが真田信守の墓です(右側)。周囲には一般の方の墓石もありますので、画像を多少加工させて頂きましたが、宝篋印塔がひときわ目をひく墓所の雰囲気は伝わると思います。

<真田六文銭> さなだろくもんせん
Sanada-rokumon-sen.JPG
信守の墓石には真田六文銭。当主になるはずだった真田の若武者の墓です。

■訪問:舒林寺
[群馬県沼田市材木町]


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■参考
・Wikipedia:2024/9/15
・WEB GUNMA HP
 >真田信守の墓

http://www.webgunma.com/1757/
タグ:群馬
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2024年09月09日

伊奈氏歴代当主が保護した奥秩父の三峯神社

<三峯神社>
Mitsuminejinja-Chichibu.JPG
訪問した三峯神社の御由緒に、関東郡代・伊奈氏のことが記されているのを見つけました。その部分だけ以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年 現在の本殿が造営されました。』

伊奈氏は関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、『関東郡代』を十二代にわたって世襲しました。関東の代官の筆頭というポジションですので、秩父と関りがあってもなんら不思議ではありませんが、直接関与していたあたりに、徳川幕府が三峯神社を優遇していたことが伝わってきます。文中の『除地』とは、その土地の税を免除することを意味しています。

さて
御由緒には『伊奈半十郎』と記されていますが、半十郎はあくまで通称です。伊奈氏歴代当主のうち、複数人が半十郎を名乗りました。具体的にはどなたですかね?

現在の本殿が造営されたのが『寛文元年』となっていますが、これは西暦だと1661年。検地と税の免除がほぼ同時だとすると、この時の関東郡代は伊奈忠克ですので、これが半十郎の正体?かと思いましたが、よく調べると、伊奈忠克の通称は半左衛門でした。ちなみに、忠克の先代であり父である忠治と、後継者で息子の忠常の通称は半十郎です。忠常ですかね?(個人的推測です)

いずれにせよ
徳川幕府の意向と、関東の代官の頭である伊奈氏の尽力もあり、三峯神社は江戸時代におおいに栄えて、庶民にも広く知られるようになりました。

God's-Messenger-Mitsuminejinja.JPG
秩父に生息する狼は、猪などから農作物を守る神の使いとされました。

mitsuminejinja-okariya-power-spot.JPG
やがては火防や盗賊除けなど御利益の範囲は広がり、神そのものとしてあがめられました。

最後に
伊奈氏による関東郡代世襲は、十二代目の伊奈忠尊が諸事情で改易(1792)となったことで幕引きとなります。伊奈氏そのものが、幕府の中核からは外れることとなりました。ただ、長年に渡る伊奈一族の功績は否定されるものではありませんでした。幕府は伊奈忠治の三男・忠重の子孫にあたる忠盈(ただみつ)に対し、武蔵国秩父および常陸国信太合せて千石を与えて、伊奈氏の名跡を継がせました。伊奈氏と秩父の関係は、その後も続いたということですね。

■訪問:三峯神社
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考及び出典
・現地説明板(御由緒)
・三峯神社HP

https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
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2024年09月08日

重忠杉(三峯神社)畠山重忠が奉納した御神木

関東一のパワースポットとも呼ばれる三峯神社には、鎌倉時代の武将・畠山重忠が植樹したと伝わる杉の木があります。
<重忠杉>しげただすぎ
Shigetadasugi-Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
拝殿の手前には、御神木の大杉が2本そびえ立っています。信仰心の厚い重忠が奉献したとされており「重忠杉」とも呼ばれています

<三峯神社>
Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
三峯神社は秩父三社の一社。約2千年前、ヤマトタケルが東国平定の際に三峰山に登り、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉册尊)のためにお宮を祀ったのが始まりとされています。

<日本武尊像>
Yamto-Takeru-Statue.JPG
三峯神社境内のヤマトタケル像

神社の始まりからすると相当あとの話になりますが、中世になると、三峯神社は関東の武将を中心に篤い信仰をうけるようになっていました。

秩父を治めていた畠山重忠が、願いを記した文を収めたところ霊験があり、十里四方の土地を寄進しましたと伝わります。西は甲斐国との境の山までといいますから、かなり広大な土地ですね。以降、三峯神社は関東武士の信仰を集めて大いに栄えました。

<パワースポット>
Power-Spot-Shigetadasugi-Mitsuminejinja.JPG
拝殿向かって左側の御神木に手をかざして祈れば、気が与えられると考えられています。いわゆるパワースポットとして人気です。

ということで
畠山重忠ゆかりの御神木のご紹介でした。

<樹齢800年>
Shigetadasugi-Mitsumine-Shrine.JPG

■訪問:重忠杉
(三峯神社拝殿前)
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考
・Wikipedia:2024/9/8
・秩父リゾートHP

https://chichibu-resort.com/2023/07/19/mitsumine/

-----------( 追 記 )-----------
せっかく訪問したので境内の画像を少しだけ追加しておきます。
<三ツ鳥居>みつとりい
Mitsuminejinja-Mitsutorii.JPG
<随身門>ずいじんもん
Mitsuminejinja-Zuijinmon.JPG
<拝殿>
Mitsuminejinja-Haiden.JPG
<本殿>
Mitsuminejinja-Honden.JPG
奥秩父の山中に鎮座する神社です。
タグ:埼玉
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2024年08月09日

福島にある旧米沢藩米蔵(福島市)

<旧米沢藩米蔵>
Former-Yonezawa-Han-Rice-Storehouse.JPG
復原された米沢藩の米蔵です。場所は福島県庁の南側の阿武隈川沿い。福島市御倉町です。

なんで福島に?

米沢藩は有効な物流の拠点として、福島藩内の阿武隈川河岸に米蔵を設けました。当時、阿武隈川を利用した舟運は盛んで、河岸(かし)と呼ばれる荷物の揚げ下ろしをする船着場が設けられ、地元の蔵だけでなく、会津藩や米沢藩の蔵も建ち並んでいました。
<阿武隈川>あぶくま
Abukuma-River.JPG
福島城の南側を流れる阿武隈川です。福島城は江戸初期まで米沢藩の配下でした。しかし藩主の後継者問題に起因するペナルティで米沢藩の所領は大幅に減らされ、福島城も手放すことになりました。

<舟運の拠点>
Abukuma-River-Fikushimajo.JPG
この地は天領となり、年貢米を江戸へ移送するための拠点となりました。このことが、もともと機能していた舟運が、ますます盛んになるきっかけとなったようです。

<説明板>
Fukushimakashi-Explanation-Board.JPG
後半を転記させて頂きます
『福島河岸は福島城の南にあたり、阿武隈川舟運図(一七六九〜七〇年頃製作)には一番東に城主蔵、その西に御城米(幕領の米)御蔵、その隣に廻米を請け負っていた上総屋幸右衛門の船会所、「上杉弾正大弼様御蔵」米沢藩の米蔵が並んで描かれています。上杉弾正大弼は、上杉鷹山のことです。』

上杉弾正大弼(だんじょうたいひつ)はひとりではありませんが、年代からして上杉鷹山のことですね。藩主の時の名は上杉治憲。財政難のどん底から藩を救った中興の祖も、阿武隈川の舟運を利用していたようです。

<御倉町地区公園>
Yonezawa-Rice-Storehouse.JPG
米蔵は御倉町地区公園(御倉邸)内にあります。

■訪問:旧米沢藩米蔵
(御倉町地区公園内)
[福島県福島市御倉町]1


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■参考及び引用
・現地説明板
・Wikipedia:2024/8/9
・福島市HP
公園 > 御倉邸(御倉町地区公園)

https://www.city.fukushima.fukushima.jp/kouen-kanri/machizukuri/koenhiroba/koen/1825/index.html
タグ:福島
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2024年08月01日

前田慶次ゆかりの資料館(米沢市)宮坂考古館

米沢市の宮坂考古館を訪問しました。

<宮坂考古館>
Miyasaka-Kokokan.JPG
宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。

<公益財団法人>
Miyasaka-Museum-Yonezawa.JPG
郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。

<考古館入口>
Miyasaka-Museum.JPG
その集大成を、我々は見学することができるわけです。

<前田慶次>
kabukimono-panel.JPG
実は、訪問は初めてではありません。「花の慶次」のファンである私は、慶次所用と伝わる甲冑を見るために、過去に何度かお邪魔させて頂いています。

<宮坂考古館冊子>
Booklet-Miyasaka-Museum.JPG
受付で頂いた冊子。やはり表紙は前田慶次の甲冑。展示品はそれだけではありませんが、やはり慶次の甲冑見たさに訪問する人は多いようです。

館内は撮影できませんので、冊子に掲載されている甲冑だけでもご紹介させて頂きます。

<冊子裏面を撮影>
Booklet-Armor-Miyasaka.JPG
左から
伝 上杉謙信所用伝 上杉景勝所用
伝 直江兼続所用伝 前田慶次所用

詳細は宮坂考古館のホームページに掲載されています。ここでは、前田慶次の分だけもう少し具体的にご紹介させて頂きます。

朱漆塗 紫絲素掛威 五枚胴具足
しゅうるしぬり
むらさきいとすがけおどし
ごまいどうぐそく

[宮坂考古館HPから引用]

漢字の羅列でちょっととっつきにくいですが、分割すれば納得できます。まず朱の漆を塗るは文字の通りですね。糸が紫もそのまま。素掛(すがけ)は札状の板の上下を重ねることで、次に威ですが、これは「おどし」と読み、糸で札状の板を連結する手法のことです。ですから素掛威(すがけおどし)は札状の板を重ねて糸でつなぐ手法を意味しています。で、胴の板は五枚使用。まぁそんな感じです。冊子だと素掛紫絲威五枚胴具足となっていますが、漢字それぞれの意味は同じです(私は専門家ではないのでその程度に受け止めて下さい)。

南蛮笠風の朱色の兜や、鱗のような模様の袖がひときわ目をひきます。他の武将の風格漂う甲冑とは異なり、かなり個性的だと思います。傾奇者の慶次に相応しい甲冑ですね。出で立ちそのものが、慶次の生き方すら表しているのではないでしょうか。

もっと奇抜でも良いような気もしましたが、新品だとどんな感じだったのでしょうか。そして何より、この甲冑は、数多くの逸話がある前田慶次のどのシーンで身につけたのでしょうか…


私は前田慶次と呼ばせてもらっていますが、正式な名は前田慶次郎利益(とします)。織田信長に仕えた滝川 一益の血縁者、つまりもともとは滝川氏です。諸々の経緯で前田利久の養子となり、前田を名乗りました。あの前田利家の甥となったわけです。のちに出奔し、京などを転々として過ごし、直江兼続と出会いがきっかけで上杉景勝の家臣となりました。上杉家とともに米沢へ移り、晩年は米沢郊外の堂森に居を構えました。

慶次が晩年を過ごしたここ米沢に、本人が使用した甲冑も保存されている。慶次ファンにとっては、感慨深いことです。ちなみに「花の慶次」ではかなりの大男という設定になっていますが、甲冑のサイズは普通でした。

ということで
久々に訪問した宮坂考古館のご紹介でした。

Museum-Miyasaka.JPG
今回は常設の展示とは別に、企画展として上杉家臣団の甲冑も展示されており(期間:令和6年4月16日〜11月24日)、とても満足な訪問となりました。

■訪問:宮坂考古館
[山形県米沢市東]1丁目


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■参考・出典:
・宮坂考古館小冊子
・宮坂考古館HP

https://www.miyasakakoukokan.com/
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