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2024年09月08日

重忠杉(三峯神社)畠山重忠が奉納した御神木

関東一のパワースポットとも呼ばれる三峯神社には、鎌倉時代の武将・畠山重忠が植樹したと伝わる杉の木があります。
<重忠杉>しげただすぎ
Shigetadasugi-Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
拝殿の手前には、御神木の大杉が2本そびえ立っています。信仰心の厚い重忠が奉献したとされており「重忠杉」とも呼ばれています

<三峯神社>
Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
三峯神社は秩父三社の一社。約2千年前、ヤマトタケルが東国平定の際に三峰山に登り、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉册尊)のためにお宮を祀ったのが始まりとされています。

<日本武尊像>
Yamto-Takeru-Statue.JPG
三峯神社境内のヤマトタケル像

神社の始まりからすると相当あとの話になりますが、中世になると、三峯神社は関東の武将を中心に篤い信仰をうけるようになっていました。

秩父を治めていた畠山重忠が、願いを記した文を収めたところ霊験があり、十里四方の土地を寄進しましたと伝わります。西は甲斐国との境の山までといいますから、かなり広大な土地ですね。以降、三峯神社は関東武士の信仰を集めて大いに栄えました。

<パワースポット>
Power-Spot-Shigetadasugi-Mitsuminejinja.JPG
拝殿向かって左側の御神木に手をかざして祈れば、気が与えられると考えられています。いわゆるパワースポットとして人気です。

ということで
畠山重忠ゆかりの御神木のご紹介でした。

<樹齢800年>
Shigetadasugi-Mitsumine-Shrine.JPG

■訪問:重忠杉
(三峯神社拝殿前)
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考
・Wikipedia:2024/9/8
・秩父リゾートHP

https://chichibu-resort.com/2023/07/19/mitsumine/

-----------( 追 記 )-----------
せっかく訪問したので境内の画像を少しだけ追加しておきます。
<三ツ鳥居>みつとりい
Mitsuminejinja-Mitsutorii.JPG
<随身門>ずいじんもん
Mitsuminejinja-Zuijinmon.JPG
<拝殿>
Mitsuminejinja-Haiden.JPG
<本殿>
Mitsuminejinja-Honden.JPG
奥秩父の山中に鎮座する神社です。
タグ:埼玉
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2024年08月09日

福島にある旧米沢藩米蔵(福島市)

<旧米沢藩米蔵>
Former-Yonezawa-Han-Rice-Storehouse.JPG
復原された米沢藩の米蔵です。場所は福島県庁の南側の阿武隈川沿い。福島市御倉町です。

なんで福島に?

米沢藩は有効な物流の拠点として、福島藩内の阿武隈川河岸に米蔵を設けました。当時、阿武隈川を利用した舟運は盛んで、河岸(かし)と呼ばれる荷物の揚げ下ろしをする船着場が設けられ、地元の蔵だけでなく、会津藩や米沢藩の蔵も建ち並んでいました。
<阿武隈川>あぶくま
Abukuma-River.JPG
福島城の南側を流れる阿武隈川です。福島城は江戸初期まで米沢藩の配下でした。しかし藩主の後継者問題に起因するペナルティで米沢藩の所領は大幅に減らされ、福島城も手放すことになりました。

<舟運の拠点>
Abukuma-River-Fikushimajo.JPG
この地は天領となり、年貢米を江戸へ移送するための拠点となりました。このことが、もともと機能していた舟運が、ますます盛んになるきっかけとなったようです。

<説明板>
Fukushimakashi-Explanation-Board.JPG
後半を転記させて頂きます
『福島河岸は福島城の南にあたり、阿武隈川舟運図(一七六九〜七〇年頃製作)には一番東に城主蔵、その西に御城米(幕領の米)御蔵、その隣に廻米を請け負っていた上総屋幸右衛門の船会所、「上杉弾正大弼様御蔵」米沢藩の米蔵が並んで描かれています。上杉弾正大弼は、上杉鷹山のことです。』

上杉弾正大弼(だんじょうたいひつ)はひとりではありませんが、年代からして上杉鷹山のことですね。藩主の時の名は上杉治憲。財政難のどん底から藩を救った中興の祖も、阿武隈川の舟運を利用していたようです。

<御倉町地区公園>
Yonezawa-Rice-Storehouse.JPG
米蔵は御倉町地区公園(御倉邸)内にあります。

■訪問:旧米沢藩米蔵
(御倉町地区公園内)
[福島県福島市御倉町]1


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■参考及び引用
・現地説明板
・Wikipedia:2024/8/9
・福島市HP
公園 > 御倉邸(御倉町地区公園)

https://www.city.fukushima.fukushima.jp/kouen-kanri/machizukuri/koenhiroba/koen/1825/index.html
タグ:福島
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2024年08月01日

前田慶次ゆかりの資料館(米沢市)宮坂考古館

米沢市の宮坂考古館を訪問しました。

<宮坂考古館>
Miyasaka-Kokokan.JPG
宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。

<公益財団法人>
Miyasaka-Museum-Yonezawa.JPG
郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。

<考古館入口>
Miyasaka-Museum.JPG
その集大成を、我々は見学することができるわけです。

<前田慶次>
kabukimono-panel.JPG
実は、訪問は初めてではありません。「花の慶次」のファンである私は、慶次所用と伝わる甲冑を見るために、過去に何度かお邪魔させて頂いています。

<宮坂考古館冊子>
Booklet-Miyasaka-Museum.JPG
受付で頂いた冊子。やはり表紙は前田慶次の甲冑。展示品はそれだけではありませんが、やはり慶次の甲冑見たさに訪問する人は多いようです。

館内は撮影できませんので、冊子に掲載されている甲冑だけでもご紹介させて頂きます。

<冊子裏面を撮影>
Booklet-Armor-Miyasaka.JPG
左から
伝 上杉謙信所用伝 上杉景勝所用
伝 直江兼続所用伝 前田慶次所用

詳細は宮坂考古館のホームページに掲載されています。ここでは、前田慶次の分だけもう少し具体的にご紹介させて頂きます。

朱漆塗 紫絲素掛威 五枚胴具足
しゅうるしぬり
むらさきいとすがけおどし
ごまいどうぐそく

[宮坂考古館HPから引用]

漢字の羅列でちょっととっつきにくいですが、分割すれば納得できます。まず朱の漆を塗るは文字の通りですね。糸が紫もそのまま。素掛(すがけ)は札状の板の上下を重ねることで、次に威ですが、これは「おどし」と読み、糸で札状の板を連結する手法のことです。ですから素掛威(すがけおどし)は札状の板を重ねて糸でつなぐ手法を意味しています。で、胴の板は五枚使用。まぁそんな感じです。冊子だと素掛紫絲威五枚胴具足となっていますが、漢字それぞれの意味は同じです(私は専門家ではないのでその程度に受け止めて下さい)。

南蛮笠風の朱色の兜や、鱗のような模様の袖がひときわ目をひきます。他の武将の風格漂う甲冑とは異なり、かなり個性的だと思います。傾奇者の慶次に相応しい甲冑ですね。出で立ちそのものが、慶次の生き方すら表しているのではないでしょうか。

もっと奇抜でも良いような気もしましたが、新品だとどんな感じだったのでしょうか。そして何より、この甲冑は、数多くの逸話がある前田慶次のどのシーンで身につけたのでしょうか…


私は前田慶次と呼ばせてもらっていますが、正式な名は前田慶次郎利益(とします)。織田信長に仕えた滝川 一益の血縁者、つまりもともとは滝川氏です。諸々の経緯で前田利久の養子となり、前田を名乗りました。あの前田利家の甥となったわけです。のちに出奔し、京などを転々として過ごし、直江兼続と出会いがきっかけで上杉景勝の家臣となりました。上杉家とともに米沢へ移り、晩年は米沢郊外の堂森に居を構えました。

慶次が晩年を過ごしたここ米沢に、本人が使用した甲冑も保存されている。慶次ファンにとっては、感慨深いことです。ちなみに「花の慶次」ではかなりの大男という設定になっていますが、甲冑のサイズは普通でした。

ということで
久々に訪問した宮坂考古館のご紹介でした。

Museum-Miyasaka.JPG
今回は常設の展示とは別に、企画展として上杉家臣団の甲冑も展示されており(期間:令和6年4月16日〜11月24日)、とても満足な訪問となりました。

■訪問:宮坂考古館
[山形県米沢市東]1丁目


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■参考・出典:
・宮坂考古館小冊子
・宮坂考古館HP

https://www.miyasakakoukokan.com/
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2024年06月01日

義の武将 斎藤実盛ゆかりの地(熊谷市)妻沼聖天山

悲劇の武将と言われる斎藤実盛ゆかりの地を訪ねました。

<斎藤実盛像>さいとうさねもり
Saito-Sanemori-Statue.JPG
実盛が開創した熊谷市の妻沼聖天山で撮影しました。

斎藤実盛が生きた時代は平安時代末期。藤原利仁の流れを汲む河合則盛の子として越前国で生まれ、13歳の時に武蔵国の長井庄(現在の熊谷市)の荘官である斉藤実直の養子となりました。

■ 源氏に仕える ■
斎藤実盛は相模国を本拠とする源義朝に仕えたのち、その弟である源義賢に仕えます。しかし武蔵国をめぐる争いから、義賢は甥(義朝の子・義平)に討たれてしまいます(大蔵合戦)。斎藤実盛は再び義朝に仕えることになりますが、旧恩を忘れず、義賢の遺児を預かり、殺害命令に背いて信濃国の中原兼遠の元へ逃がしました。実盛が命を救った義賢の子・駒王丸こそが、のちの木曾義仲です。

■ 平家に仕える ■
源平が京都を舞台に争った平治の乱(1159年)において源氏は大敗。源義朝は落ち延びる途上で命を落とし、義朝に仕えていた実盛は長井庄へ戻りました。長井庄は平家の領地となりましたが、実盛は別当として管理・統治を任され、開拓や治水などを押し進めました。もともとの本拠である長井庄の別当となって以降、実盛は源平が争う時には、常に平家方に尽くすことになります。

■ 斎藤実盛の最期 ■
既に晩年を迎えていた斎藤実盛は、平維盛(清盛からみて孫)が源氏の木曾義仲を討つべく北陸に兵を進めると、総大将に忠誠を尽くすべく平家軍に加わります。平家軍は十万とも言われ、数の上では圧倒的に勝っていたものの、木曾義仲の奇襲により大敗。平維盛は京へと敗走します。斎藤実盛は総大将を逃がすべく奮戦し、源氏の武将・手塚太郎光盛によって討ち取られました。寿永2年6月1日(1183年6月22日)。実盛はこの時すでに73歳でした。

<右手に筆・左手に鏡>
Saito-Sanemori-Statue-Menuma.JPG
実盛は老齢を敵に悟られぬよう白髪を墨で染めて戦に臨みました。この像はその時の様子を表したものです。

大将格の出で立ちでありながら、従う者もなく、名乗れと言われても決して名を名乗らなかった平家の武将。報告を受けた木曾義仲が、討ち取った首を池で洗わせたところ、黒髪は白髪に変わり、斎藤実盛であることが分かりました。義仲は幼き日の命の恩人を討ち取ってしまったことを知り、人目もはばからず涙したと伝わります。

斎藤実盛、そして木曾義仲
ともに義理人情に厚い武将ですね


<妻沼聖天山歓喜院>
menumasyoudenzan-third-gate.JPG
斎藤実盛が自らの守り本尊である大聖歓喜天を祀ったことに始まる妻沼聖天山

<歓喜院聖天堂>
menumasyoudenzan-national-treasure-main-shrine.JPG
江戸時代(1760年)に建立された聖天堂は国宝に指定されています。

■訪問:斎藤別当実盛像
(妻沼聖天山歓喜院)
[埼玉県熊谷市妻沼]1511


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■参考
・Wikipedia:2024/6/1
・妻沼聖天山歓喜院HP
>斎藤別当実盛公伝

http://www.ksky.ne.jp/~shouden/sanemori.html
タグ:埼玉
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2024年04月20日

名君を育てた高遠(伊那市)保科正之ゆかりの地

<保科正之像>ほしなまさゆき
Masayuki-Hoshina-Statue.JPG
少年期を高遠で過ごした名君の銅像です

保科正之と聞けば、会津藩を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。正之は二代将軍・徳川秀忠のいわば「隠し子」として生まれ、保科氏の養子となり、多感な少年期を高遠で過ごしました

<保科正之とお静>
Masayuki-Hoshina-Statue-Area.JPG
左の女性は保科正之の生みの親であるお静です。地蔵が3体並んでいますが、これはお静(浄光院)が正之の幸せを願って江戸の寺に寄進した石仏と同じ形のものとのことです。

秀忠の正室はあの有名なお江ですね。その嫉妬を恐れ、お静は実家、そして武田信玄の娘である見性院・信松尼の支援を受け、無事に正之(幼名は幸松)を出産しました。

正之が7歳の時に、見性院の世話で保科家の養子となります。保科家は武田の旧臣。武田家滅亡後は徳川家に仕えて、高遠藩主となりました。実母が見守るなか、正之は高遠で育ちました

<参考>
Takato-Castle-South-Compound.JPG
高遠城の南曲輪跡に設置されている説明板です。本丸の南に位置する曲輪です。やがて藩主となる保科正之が、幼少のころ母と居住したところと言われています。

江戸から遠ざかっていた正之ですが、のちに秀忠の実子、そして三代将軍・家光の実弟として認められます。正之は兄・家光に対して、あくまで家臣という立場を貫き、この謙虚さが家光に好かれ側近に取り立てられました。高遠藩主、山形藩主を経て、会津の初代藩主となりますが、その一方で、将軍家を支える役割も担っています。

幕府の中枢となった保科正之の活躍を列挙したらきりがありませんが、個人的に印象に残っているのは、1657年3月2日の明暦の大火への対応です。

時の将軍は第4代の家綱でした。しかし17歳とまだ若く、将軍の指南役である保科正之が、実質的に復興の指揮をとりました。明暦の大火は江戸城天守のみならず、城下町の大半を焼いたといわれる大災害です。これに対し正之は、天守再建より民の暮らしを優先させることを決断します。威厳を必要とする将軍家、そしてそれに服従の姿勢を示そうとする大名たち、その微妙な雰囲気の中で、正論を堂々と唱えられたのは、保科正之だけだったのではないでしょうか。江戸城に天守が無いことは、保科正之の民を思う気持ちの現れだと私個人は思っています。


最後に
保科正之は会津藩松平家の祖とされる人物ですが、正之本人は松平を名乗っていません。自身を育てた保科家の名を、変えることはありませんでした。松平への改名は、正之が亡くなったあとの話です。

Masayuki-Hoshina-Takatojo.JPG


■訪問:保科正之像
(お静の方・保科正之像)
[長野県伊那市高遠町東高遠]


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■参考
・現地説明文(石碑)
・伊那谷ねっとニュース2009/4/5
(保科正之公像完成)

https://ina-dani.net/topics/detail/?id=23690
タグ:長野
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2024年04月13日

絵島囲み屋敷(伊那市)大奥女中筆頭が幽閉された高遠藩の屋敷

高遠城址公園近くの「絵島囲み屋敷」を訪問しました。

<絵島囲み屋敷>
House-of-Eshima-Takato.JPG
綺麗に管理された屋敷ですが、これは大奥女中筆頭だった絵島が長きに渡って幽閉された建物。見取り図を基に復元したものです。

幽閉に至る理由は?

■ 江島生島事件 ■えじまいくしま
事件が起きたのは1714年。将軍が第7代・徳川家継の時代です。家継の生母・月光院に仕えていた絵島(江島)は、主人の名代として前将軍・家宣の墓参りの帰りに、人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見物。これだけなら問題にならなかったかもしれませんが、役者を交えての宴会、そして大奥の門限を破ってしまい、大問題となってしまいました。

これにより、旗本だった兄には死罪の処分が下され、役者を含めて流罪も多数、処分された関係者は千数百名にも及ぶことになりました。

現代人の感覚ではちょっと厳し過ぎますが、大奥の風紀を乱すということは、当時それくらい大問題だったのでしょう。絵島は人気役者である生島新五郎との密会を幕府から疑われ、拷問も受けています。いま風に言えば大スキャンダルだったようです。

絵島は本来なら死罪のところを、減じての島流しとされ、更に月光院の嘆願により、高遠藩へのお預けで落ち着いたそうです。時の将軍の生母をもってしても、そこまでが精一杯だった。それくらい大奥を揺るがす問題だったのですね。この時絵島は34歳。以降27年間、高遠城下の屋敷に幽閉されました。

<屋敷>
Eshima-Enclosed-Residence-Entrance.JPG
屋敷そのものはある程度の広さです。ただ、常に藩の監視下におかれ、絵島は屋敷内の一室に閉じ込められていたそうです。現地での説明(音声ガイダンス)を聞く限りでは、絵島の食事は朝夕二度で一汁一菜、着る物は木綿のみだったようです。他にも、いろんなことが制約だらけのなかで暮らしていたようです。

喰うには困らない?

とも言えますが、旗本の家に生まれ、大奥の筆頭女中にまでなった方ですからね…

<絵島の間>
Eshima-Enclosed-Room-Takato.JPG
Eshima-Enclosed-Room-Takatohan.JPG
絵島が過ごした部屋です。格子は現在の住宅なら防犯用ですが、これは逃亡防止用。牢と言えなくもない。高遠藩の措置が厳しいというより、逃げられてしまっては、幕府に面目が立たないということなのでしょう。

絵島は大奥のことを語ることもなく、お経などを読んで時を過ごしたとされています。その清らかな態度により、高遠藩主からも一目置かれたとのことです。

私は大奥について詳しくはないのですが、小説やドラマの影響からか、嫉妬やら内部の権力争いが激しいというイメージです。絵島の背負った罪、真実はどうだったのでしょうね?

<屋敷入口>
Eshima-Enclosed-Residence-Gate.JPG
しばらくののち(1722年)、藩主・内藤頼卿による幕府への赦免嘆願により、絵島は屋敷周辺の散歩などは認められるようになったそうです。監視されていることに変わりはありませんが、少しだけよかったですね。また、高遠城へ登城し、城内の女性たちにしつけの指導をする機会も与えられたとのこと。しっかりとした、信用される女性だったのでしょうね。

■訪問:絵島囲み屋敷
(高遠歴史博物館)
[長野県伊那市高遠町東高遠]457


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■参考
・現地音声ガイダンス
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠に残る絵島囲み屋敷)

https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=900
タグ:長野
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2024年03月09日

源義光ゆかりの石(足柄峠)新羅三郎義光吹笙之石

むかし難所と呼ばれた足柄峠には、源義光ゆかりの石があります。

<源義光ゆかりの石>
Shira-Saburo-Yoshimitsu-Suishonoishi-Stone.JPG
ここは神奈川と静岡の県堺の山中です。厳密に言うと石は峠の静岡側にあります。

<説明板>
Suishonoishi-Explanation-Board.JPG
石のそばに説明板が設置されています。引用も交えながらご紹介させて頂きます。『』内は原文のままです(転記ミスありましたらすみません)。

まず義光について
『八幡太郎義家の弟、三郎義光は琵琶湖の畔り三井寺の近くの新羅の森で元服したから新羅三郎義光と云っていた。戦乱の世にあっても風雅の心を失わず、笙は時の名人豊原時元に学んだ。』
河内源氏2代目棟梁・源頼義の長男が八幡太郎義家義光は三男です。笙(しょう)は竹を縦に束ねたような雅楽の楽器ですね。義光はその道の名人から教えを受けていたようなので、みやびな世界に精通した人物だったのでしょう。

つづきは要約します。
清原武衡らの朝廷に対する反乱を鎮圧するために、八幡太郎義家が奥州へ向かいました(後三年の役)が、激しく抵抗されて義家は苦戦。これを聞いた義光は、兄を救援するために京を出ます。

『数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年の仲秋の名月であった。』

寛治元年は1087年です。説明板に記載はありませんが、義光の出陣は認められておらず、朝廷に無断で陸奥国へ向かったそうです。これにより官職を失っています。一大決心で京を出たわけですね。

その途上、足柄の山中に陣営を構えた義光は、自分に付いてきた笙の師匠の子である豊原時秋を呼びよせます。

『「よく聞かれよ、我は御尊父より笙の秘曲を授り、これを後世に伝うべく託された、然るにこの度戦場に赴く上は生死の程も計り難い、我死なばこの道はすたれ先師の志をも空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ。」と輸しこの大石の上に坐り伶人豊原時秋に笙の奥儀を伝えた。』

伶人、つまり雅楽を職とする時秋は、幼くして父と死別したため、その曲を知らなかったようです。義光は自分が戦いでこの世を去ってしまえば、曲の伝承者が絶えてしまうことを惜しみ、この地で時秋に曲を授けたというお話です。時秋は義光の思いと亡き父の秘曲を受けとり、京に引き返しました

いい話ですね。

<吹笙之石>すいしょうのいし
Suishonoishi-Stone.JPG
長くなりましたが、秘曲を伝授する時に義光が腰かけたのがこの大きな石と伝わります。この故事にちなみ、毎年9月の第二日曜日に足柄峠笛まつりが開催されているそうです。

■訪問:新羅三郎義光吹笙之石
[静岡県駿東郡小山町竹之下]


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■参考
Wikipedia:2024/3/9
南足柄市HP「足柄峠」

https://www.city.minamiashigara.kanagawa.jp/kankou/spot/ashigara_touge.html
タグ:静岡
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2024年01月18日

鎧の宮(岩槻)城攻めの豊臣軍が布陣した八幡神社

岩槻城攻撃の際に豊臣軍が出陣準備をした地を訪ねました。

<鎧宮八幡神社>よろいのみや
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-Worship-hall.JPG
現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。

岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。

『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』

八幡さまが仇に…

神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。

<昔の荒川の流路>
Arakawa-river-ruins.JPG
鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。

川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。

<八幡神社本殿>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-Main-shrine.JPG
この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。

<南辻の八幡神社>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine.JPG
ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。

<つわものどもが夢の跡>
Yoroinomiya-Hachiman-Shrine-.JPG
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。

■訪問:鎧宮八幡神社
 (南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68


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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
タグ:埼玉
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2024年01月07日

北陸の国宝建築物(高岡市)前田家ゆかりの瑞龍寺

城巡りで訪問した富山県で、貴重な国宝建築物を見学させて頂きました。

<瑞龍寺>ずいりゅうじ
Zuiryuji-Gate-Sanmon.JPG
堂々とした佇まいの山門。ここは高岡市の瑞龍寺です。山門と仏殿、法堂が国宝となっています。

やや暗い画像で恐縮です。高岡城を訪問したあと、日が暮れるまでの僅かな時間でお邪魔させて頂きました。


<惣門>
Somon-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
この総門を潜ると冒頭の山門と仏殿、そして法堂が一直線に並んでいます。

<山門>
National-Treasure-Main-Gate-Buddhist-Temple.JPG
広く整然とした境内。真正面に山門、両脇には玉砂利が敷き詰められています。

<山門の金剛力士像>
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-Aun.JPG
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-Un.JPG
National-Treasure-Maingate-Kongo-Rikishi-statue-A.JPG
山門には阿形・吽形の金剛力士像。悪しきものの侵入を許さないように両側から睨みをきかせています。楼上には釈迦如来と十六羅漢を祀ってあるそうです。

そして

<仏殿>
National-Treasure-Buddha-Hall-Zuiryuji.JPG
瑞龍寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来です。

<法殿>
Old-Temple-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらには前田利長の位牌が安置されています。本来なら、古い建築物と美しい芝のコントラストが魅力のようです。私は薄暗いなかで撮影したため、この程度の画像となってしまいました。

瑞龍寺の建物は江戸時代初期を代表する禅宗建築と言われています。国宝に絞ってご紹介させて頂きましたが、他も重要文化財に指定されている貴重な寺院です。

実は、訪問した時は国宝を見たいという思いより、前田利家の後継者である利長ゆかりの寺院を訪ねたいという思いだけでした。建物の貴重さを実感したのは、現地に到着してからです。

<前田利長>まえだとしなが
Maeda-Toshinaga-Zuiryuji-Takaoka-Toyama.JPG
こちらは瑞龍寺の近く(八丁道)で撮影した前田利長像です。あの前田利家の長男ですね。利長は父に代わって豊臣家五大老に名を連ねました。その立場で、徳川家康との関係も保つ必要がありました。苦しい板ばさみを乗り越えて、初代藩主として加賀藩の立場を確立した武将です。

その利長が、当時はまだ荒野に等しかったこの地に、新たな城を築いたことが、今日の高岡市の繁栄に繋がっています。

Zuiryuji-Stone-Pillar.JPG
利長の死後、菩提をとむらうため、第2代藩主となった利常によって瑞龍寺は建立されました。(1614年)。利常は前田利家の四男です。利長にとっては腹違いの弟になります。利長には跡継ぎがいなかったため、利常を養子としたあと家督を譲りました。利長と利常の二人は、厳しい環境下で加賀百万石の礎を築いた名君です。

National-Treasure-Lecture-Hall-Zuiryuji.JPG
高岡城の南方に位置する瑞龍寺は、防衛の拠点としての性格を有していたとも言われています。高岡城は表向きは既に廃城となっていたのに、事情が複雑ですね。

利常はこの凄い寺院を一気に造り上げた?わけではなく、完成までに約20年もの歳月を費やしたそうです。加賀前田家ゆかりの古刹、そして建築物が国宝という寺院。高岡市の瑞龍寺は、富山県のみならず、北陸を代表する寺院のひとつです。

■訪問:高岡山瑞龍寺
[富山県高岡市関本町]35


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■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「国宝 高岡山瑞龍寺」

https://www.info-toyama.com/attractions/21009
・国宝高岡山瑞龍寺 公式HP
https://www.zuiryuji.jp/
タグ:富山 国宝
posted by Isuke at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年12月30日

箕田源氏の祖が神のおつげで創建した神社(鴻巣市)大野神社

鴻巣市の大野神社にお邪魔させて頂きました。

Ono-Shrine-Konosu.JPG
創建は938年。嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏の祖・源仕(みなもとのつこう)が建立したと伝わる神社です。

Konosu-oonojinja-Gate.JPG
源仕は武蔵国の国司として関東に下向しました。官物の横領や国府の襲撃を働いたという物騒な話も伝わりますが、処分されたという記録もないそうです。何か深い事情でもあったのでしょうか?

源仕は任期終了後も京都へは戻らず、そのまま箕田(現在の鴻巣市北部)に土着し、豪族となりました。清和源氏3代目・源頼光に従事した四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)はその孫です。

Konosu-Oono-Jinja.JPG
源仕が大国主命のおつげにより神社を造営したことに始まります

Konosu-oonojinja-Explanationboard.JPG
御由緒には『嵯峨源氏の末流の渡部仕』と記されていますね。もともとは氷川神社として創建されましたが、明治になって大間地区と北中野地区から文字(大と野)をとって大野神社に改称されたようです。

Konosu-Oono-Jinja-Torii.JPG
氷川山大野神社です。


Konosu-oonojinja-Explanation-Board.JPG
こちらの「大野神社記」には『鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました』とあります。

鎌倉末期の改築はよいとして、文禄は戦国末期ですので、既に小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされています。よって、武蔵国に定着していた元家臣ということになりますね。道祖土という名は全国的には珍しいですが、埼玉県では時々耳にする苗字です。遡ると下野の名族那須氏の一族と言われていますが、ここに登場した満兼の祖先についてはよくわかりません。

Konosu-Oono-Jinja-Haiden.JPG
現在の祭神は大国主命・須佐之男命・奇稲田姫の3柱です。

ということで
箕田源氏による建立から始まる大野神社のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

<大願成就>
KonosuOonoJinja.JPG
理屈抜きにいいですね!

■訪問:大野神社
[埼玉県鴻巣市大間]2丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(大野神社御由緒)
・現地説明板(大野神社記)
・猫の足あと「大野神社」

https://tesshow.jp/saitama/konosu/shrine_oma_ono.html
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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