行田市の縁切橋跡です。忍城の城主・成田氏長が、正室(由良成繁の娘)を離縁する際、この地に架かっていた橋まで見送ったと伝わります。
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
こちらは忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図です。成田氏の時代よりあとの姿と思われますが、忍城が広大な沼地を利用した城だったことは見て取れると思います。関東七名城の一つに数えられる忍城は、沼を埋めずに点在する島を曲輪にして、橋で繋いで城としました。当然ながら、橋は多かったことでしょう。
<沼の跡>
方角で判断するとこの道はもともと沼だったことになりますね
城の中核エリアから数えて、ここが何本目の橋だったのかはわかりません。ただ、城主である成田氏長本人が、本丸から少し離れているここまで来て、妻との別れを惜しんだわけですね。
氏長といえば、豊臣秀吉による小田原征伐の時の城主です。小田原北条氏に与する忍城は、低湿地の城であることを逆手にとられ、天下軍の水攻めに苦しむことになります。氏長本人は小田原城の籠城に加わって不在だったため、忍城は親族の成田長親が守りました。いわゆる「のぼうの城」で描かれた世界ですね。
その「のぼうの城」にも登場した城主の長女・甲斐姫の実母は、氏長が橋まで見送って離縁した正室。忍城を去る氏長の妻は橋を渡り、次の橋を渡るところで振り返り、まだ幼い甲斐姫を見て涙ぐんだと伝わります。
成長した甲斐姫は、城主不在の忍城で籠城戦に加わり、武勇を発揮しました。また、豊臣軍を敵に回した成田氏長が、やがて下野国で2万石を与えられたことは、甲斐姫が秀吉の側室となったことと無縁ではないと考えられています。
<悲話が伝わる橋跡>
道路を渡って画像の奥へ進むほど、城から遠ざかります。城主と妻の悲話が伝わるこの橋跡は、甲斐姫が遠くへ消えていく母親を見つめていた場所でもあるわけですね。
■訪問:縁切橋跡
[埼玉県行田市城西]1丁目
お城巡りランキング
■参考
ニッポン城めぐりHP
>縁切橋跡
https://cmeg.jp/w/castles/2065/pins/11248
タグ:埼玉