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2024年11月09日

縁切橋跡(行田市) 城主と妻の悲話が伝わる橋

<縁切橋跡>
Stone-Monument-Enkiribashiato-Gyoda.JPG
行田市の縁切橋跡です。忍城の城主・成田氏長が、正室(由良成繁の娘)を離縁する際、この地に架かっていた橋まで見送ったと伝わります。

<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
Oshijo-Chyokazu-Oshi-Suwa-Shrine.JPG
こちらは忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図です。成田氏の時代よりあとの姿と思われますが、忍城が広大な沼地を利用した城だったことは見て取れると思います。関東七名城の一つに数えられる忍城は、沼を埋めずに点在する島を曲輪にして、橋で繋いで城としました。当然ながら、橋は多かったことでしょう。

<沼の跡>
Swamp-Enkiri-Bridge-was.JPG
方角で判断するとこの道はもともと沼だったことになりますね

城の中核エリアから数えて、ここが何本目の橋だったのかはわかりません。ただ、城主である成田氏長本人が、本丸から少し離れているここまで来て、妻との別れを惜しんだわけですね。

氏長といえば、豊臣秀吉による小田原征伐の時の城主です。小田原北条氏に与する忍城は、低湿地の城であることを逆手にとられ、天下軍の水攻めに苦しむことになります。氏長本人は小田原城の籠城に加わって不在だったため、忍城は親族の成田長親が守りました。いわゆる「のぼうの城」で描かれた世界ですね。

その「のぼうの城」にも登場した城主の長女・甲斐姫の実母は、氏長が橋まで見送って離縁した正室。忍城を去る氏長の妻は橋を渡り、次の橋を渡るところで振り返り、まだ幼い甲斐姫を見て涙ぐんだと伝わります。

成長した甲斐姫は、城主不在の忍城で籠城戦に加わり、武勇を発揮しました。また、豊臣軍を敵に回した成田氏長が、やがて下野国で2万石を与えられたことは、甲斐姫が秀吉の側室となったことと無縁ではないと考えられています。

<悲話が伝わる橋跡>
Stone-Monument-Enkiri-Bridge.JPG
道路を渡って画像の奥へ進むほど、城から遠ざかります。城主と妻の悲話が伝わるこの橋跡は、甲斐姫が遠くへ消えていく母親を見つめていた場所でもあるわけですね。

■訪問:縁切橋跡
[埼玉県行田市城西]1丁目


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■参考
ニッポン城めぐりHP
 >縁切橋跡

https://cmeg.jp/w/castles/2065/pins/11248
タグ:埼玉
posted by Isuke at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2024年11月08日

二の丸に祀られていたから二の丸稲荷社(行田市)忍城跡

忍城と縁の深い忍諏訪神社の境内には、城好きなら誰でも足を止めるであろうお稲荷さんが祀られています。
<二の丸稲荷社>
Ninomaruinari-Shrine.JPG
御祭神は宇賀御霊神。いわゆる稲荷神社です。

<説明板>
Ninomaruinari-Explanation-Board.JPG
忍城二の丸に祀ってあった。説明もそのままですね。明治になってから、諏訪神社境内に移されたようです。興味深いのはその次の文言。『永禄年間(西暦一五六〇年頃)忍城主の成田長泰が見返曲輪内に、若い時に殺生した狐の親子を祀ったものといわれている』とのこと(『』内は原文)。

この情報だけで判断すると、成田氏の時代の見返曲輪(みかえりくるわ)とは、近世城郭となった忍城の二の丸ということで良いようです。また、移転先である諏訪神社境内は、かつての諏訪曲輪です。

成田長泰といえば、小田原北条氏や越後の上杉氏といった巨大な勢力に翻弄されながらも、忍城を拠点に所領を守り続けた戦国武将です。若い頃の無益な殺生を思い出し、純粋に心を痛めたのか、あるいは狐の祟りを恐れたのかはわかりません。いずれにせよ、乱世を生きた武将の願いがこの稲荷社の始まりであり、近世を経て廃城となった城跡にいまでも祀られている。この地に刻まれた歴史の深さを感じずにはいられません。


<忍諏訪神社>おしすわじんじゃ
Gyoda-Suwa-Shrine.JPG
こちらは諏訪神社

<忍東照宮>おしとうしょうぐう
Gyoda-Toshogu-Shrine.JPG
こちらは東照宮です

諏訪神社と東照宮を目当てに訪問する人が多いと思いますが、当ブログがきっかけで、小さな稲荷社にも手を合わせる方がいれば嬉しいです。

Ninomaruinarishya-Name-Plate-Hengaku.JPG

■訪問:二の丸稲荷社
(忍諏訪神社境内)
[埼玉県行田市本丸]12-5


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■参考・引用
現地説明板(大野建設)

タグ:埼玉
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2024年10月26日

城主八幡とよばれた忍城下の総鎮守(行田市)行田八幡神社

行田の忍城へ向かう途中、地元の八幡神社にお邪魔させて頂きました。
<鳥居>
Gyoda-Hachiman-Shrine-Gate.JPG
ここ行田の八幡神社は、子供の夜泣きやかんの虫を封じる「封じの宮」として有名であるとともに、美しい花手水を鑑賞できることでも人気のスポットです。

<拝殿>
Gyoda-Hachimanshrine.JPG
私の滞在中に人が途切れることはありませんでした。後ろから失礼します。

<愛宕神社>
Gyoda-Hachiman-Shrine-Atago.JPG
こちらは境内の愛宕神社です。境内にはほかに恵比寿神社や大国主神社など多数

<なで桃>
Gyoda-Hachiman-Nademomo.JPG
桃も祀られている?病難・災害避けの神として有名だそうです。

<武将ゆかりの神社>
Gyoda-Hachimanjingya.JPG
神社のはじまりは、源頼義・義家親子が奥州討伐に向かう途上でこの地に陣を敷いた際に、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。現在の場所に移転した際に、忍城の城主である成田長泰が社殿を補修して城下総鎮守としたことから城主八幡とも呼ばれたそうです。

成田長泰といえば、上杉謙信の関東管領の就任式で、馬から降りなかったことを理由に謙信にとがめられた城主。下馬しないことは非礼ではないという認識の長泰は、そのまま兵を率いて忍城へ引き上げたという言い伝えがあります。

誇り高き成田氏の当主が、庇護した神社ということですね。

成田氏が去ったあとも、行田八幡神社は忍城の歴代城主の尊崇が篤く、老中にもなった阿部忠秋が城主の時には、八幡大神の御神像が奉納されています。

<行田八幡神社>
Hotspot-Gyoda-Hachiman.JPG
地元民の信仰の場であるとともに、城主にとっての八幡様であり続けたわけですね。

■訪問:行田八幡神社
[埼玉県行田市行田] 16-23

<花手水>はなちょうず
Hanachouzu-Gyoda.JPG
行田八幡神社で人気の花手水は人がいっぱいで撮影できませんでした。こちらは忍城跡で撮影したもの。参考に貼っておきます。


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■参考
・Wikipedia:2024/10/26
・行田八幡神社HP

https://gyodahachiman.jp/
タグ:埼玉
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2024年10月14日

真田の里の総鎮守(沼田市)沼田榛名神社

沼田城を訪問した帰りに、沼田の榛名神社にお邪魔させて頂きました。
<榛名神社鳥居>
Haruna-Shrine-Numata.JPG
創建 1529年(享禄二年)。沼田城の支配者は何度も入れ替わりましたが、榛名神社は代々の城主が崇敬した沼田の総鎮守です。特に真田氏とゆかりは深く、1615年(元和元年)に真田信之が社殿を改築したと伝わります。本殿扉には真田六文銭が描かれています。

実は…
過去に一度参拝しているし、この日は沼田市内と坂道を歩き続けて疲れていたので、榛名神社にはお邪魔しないつもりでした。ところが駅へ向かう途中、遠くの方に巨大な鳥居が見えてしまい、方向を変えてのろのろと歩き続けました。

<一の鳥居>
First-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
かなり大きいです(高さは約9m)。これは平成になってから設けられた鳥居だそうです。

<二の鳥居>
Second-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
ここからは長い参道を一直線に進むたけ

<三の鳥居>
Third-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
何となく速足になる

<四の鳥居>
Fourthi-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
ほぼ到着です

あとはゆっくりと…

<榛名神社>
General-Guardianship-Numata.JPG
神社独特の空気が漂いながらも何となく和める雰囲気

<手水所>
Ginmeisui.JPG
銀明水と名付けらた手水は湧水とのこと。『御鎮座よりよりはるか昔から湧き出ている』と記されています。

<境内>
Haruna-Shrine-Kagura.JPG
授与所の奥に神楽殿

<拝殿>
Shrine-Building-Numata-Haruna.JPG
何かを具体的にお願いする習慣がないので、ご挨拶の気持ちを込めて参拝させて頂きました。

<お守り>
Sanada-Rokumonsen-Charm.JPG
すっかり雰囲気に浸って、真田六文銭が記されたお守りを購入させて頂きました。

<真田の里>
Sanadayukarinojingya.JPG
私は真田ゆかりの神社のつもりで訪問していますが、沼田城を築いた沼田氏から始まり、真田が去ったあと藩主として沼田の統治にあたった本多氏土岐氏にとってもゆかりの神社です。本多氏は荒廃してしまった沼田領内の再興に務め、土岐氏は明治まで12代に渡って沼田藩主を務めました

<榛名神社扁額>
Guardian-of-Numata.JPG
足が棒になりつつも、お邪魔できてよかったです

■訪問:榛名神社
[群馬県沼田市榛名町] 2851


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■参考
・Wikipedia:2024/10/14
・利根・沼田の総鎮守 榛名神社HP

http://harunanomori.org/harunajinjya/010_history.html
タグ:群馬
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2024年10月13日

真田信之正室・小松姫のお墓(沼田市)正覚寺

沼田市にある小松姫墓所を訪ねました。
<小松姫墓所>こまつひめ
Komatsuhime-Grave-Numata-City.JPG
こちらです。沼田市の重要文化財に指定されています。周囲の墓石には少しだけ画像に手を加えさせて頂きました。

徳川四天王に名を連ねる本多忠勝の長女・小松姫は、その当時の政治的な理由を背景に真田家に嫁ぎました。相手は真田昌幸の長男・真田信幸(のちに信之に改名)でした。

小松姫は本多家からではなく、一旦徳川家の養女となってから、真田家に嫁いでいます。つまり徳川家からの嫁入りです。一方、真田信幸には既に正室がいましたが、側室に格を変更してから小松姫を迎え入れています。この大掛かりな婚姻には、対立関係にあった真田・徳川両家の緊張緩和の意味が込められていました。

しかし豊臣秀吉がなくなると、その関係は再び悪化。その結果、夫である信幸は徳川方に留まりますが、家康の与力大名だった義父・昌幸が義弟の信繁(幸村)とともに離脱し、石田三成の挙兵に呼応する道を選びました。

いろんな板挟みの中で、真田・徳川両家の調整役を担い、夫を支え続けた小松姫。いろいろな逸話があり、どれが史実か分かりませんが、総じて褒めたたえる内容が多く、利発で才色兼備の女性という評価が一般的です。

江戸屋敷で暮らしていた小松姫は、48歳の時に病を患います。療養のために上州草津に向かいますが、その途中の武蔵国鴻巣で没しました(1620年)。小松姫の遺骨は分骨され、鴻巣の勝願寺と上田の芳泉寺、そしてここ正覚寺にそれぞれ葬られました。

<正覚寺山門>
Shogakuji-Templegate-Numata-City.JPG
沼田市指定重要文化財の山門。現地説明板によれば、建築技法や彫刻に、江戸時代後期の特徴をとどめている貴重に文化財のようです。

奥へ進むと

<境内標識>
Shogakuji-Temple-sign.JPG
これなら迷うこともありません

そして

<大蓮院殿の墓>だいれんいんでん
Daireninden-No-Haka-Numata.JPG
稲姫とも称された小松姫の戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。説明板によれば『総丈二七一センチの宝篋印塔。塔身に、「阿弥陀三尊(梵字)大連院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘がある。相輪の蓮華が細かく屋蓋の彫りは強く、塔身・基礎は荘重な形で、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表している』とのこと。

<説明板>
Shogakuji-Temple-Information-Board.JPG
小松姫に関する説明文です。有名な逸話の部分を転記させて頂きます(『』内)。
『翌年七月信幸は沼田城主となり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役において徳川方に従い、東軍に付くことになった。敵味方に別れた信幸と父昌幸、弟信繁(幸村)が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、入城を拒んだ大連院殿は女丈夫とうたわれた。』
じょじょうふ?今ではあまり使われない言葉ですが、要するに気も強くしっかりしているという意味ですね。さすが本多忠勝の娘です。

<墓所からの眺め>
Distantview-Numata.JPG
正覚寺からは、利根川に沿った低地が一望できます。小松姫がいまも見守っている景色です。

以上
小松姫のお墓の紹介でした。

<小松姫の墓>
Daireninden-Grave-Numata-City.JPG

■訪問:
小松姫の墓(正覚寺)
[群馬県沼田市鍛冶町]938


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■参考
・Wikipedia:2024/10/13
・沼田市観光協会HP
「大蓮院殿の墓」

https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
タグ:群馬
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2024年09月26日

真田信之と前田慶次の意外な接点

<真田信之パネル>
Panel-Nobuyuki-Sanada.JPG
沼田公園で撮影した真田信之のバネルです。ちょっと格好良すぎますね

真田信之(信幸)について調べているうちに、あの前田慶次郎利益(とします)との接点があったことを知りました。

Wikiさんによれば、真田信之(信幸)は『前田利益とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた』とのこと(『』内は転記)。真田家の家臣が記した史書『加沢記』などが情報源のようです。

織田信長が本能寺で亡くなった時(1582年6月21日)、織田四天王のひとり・滝川一益は、関東に派遣されていました。前田利益はもともとは滝川一族の出で、この時も親戚関係の滝川一益の軍勢に加わっていたと思われます。また、同時期に滝川一益の甥・滝川益重(ますしげ)が沼田城に入城していますが、これが利益の実父という説もあり、こちらと行動を共にしていた可能性もあります。もしそうだとすれば、沼田は前田慶次郎利益にとってもゆかりの地ということになります。いずれにせよ、信長の重臣・滝川一益に加担していました。

<沼田城跡>
Numata-Castle-Ruins.JPG
真田信之はもちろん、前田利益にとってもゆかりの地だった?可能性のある城跡

一方の真田信之は、父・昌幸とともに、他の国人衆と歩調を合わせて関東管領である滝川一益に従っていました。ただ、それは織田信長という権威の裏付けがあってのこと。当時の関東最大勢力・小田原北条氏の動向に気を使う必要もあり、立場はかなり流動的でした。

そんな最中に、京へ引き上げようとしていた前田利益が、滝川一益の所領でもある佐久・小県で兵を指揮していた真田信之と遭遇。信長がいなくなっても、前田利益が滝川一族を見限ることはありませんが、真田勢は状況によります。にもかかわらず、前田利益は「信長の死」という極めて重要な軍事機密を信幸に話してしまいました。

これは
どういう関係だったのでしょうね?

他に詳しい史料も見つからなかったので、Wikiさん記載の『懇意の仲』というふうに漠然と受け止めるしかなさそうです。二人とも滝川家と接点がありましたので、どこかで陣をともにし、意気投合したのかもしれません(あくまで個人の想像です)

ということで
むかし漫画『花の慶次』に熱中したオジサンが、真田信之について調べていたら、慶次と接点があることを知り、やや嬉しくなったというだけの内容でした。歴史素人の個人ブログですので、内容につきましてはその程度受け止めて頂きますようお願い致します。

<前田慶次パネル>
Panel-Keiji-Maeda.JPG
吉祥寺で開催されていた「花の慶次 原画展」で撮影しました。威風堂々の前田利益です。

拙ブログに訪問頂きありがとうございました。

■訪問:沼田公園
[群馬県沼田市西倉内町]


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■挿入パネルと撮影場所
・戦国無双パネル
[沼田公園(沼田市)]
・花の慶次原画展パネル
[GALLERY ZENON(武蔵野市)]


■参考・出典
・Wikipedia:2024/9/26
タグ:群馬
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2024年09月25日

真田の家を守り抜いた夫婦の石像(沼田市)真田信之像・小松姫像

<真田信之像・小松姫像>
Stone-Statue-Numata-Castle.JPG
沼田公園の真田信之小松姫夫婦の石像です。むかしは無かったような?それもそのはず。2015年に設置されたそうです。NHK大河ドラマ『真田丸』が放送されたのが2016年ですので、それに合わせて建立されたのかもしれません。

真田信之は父・昌幸や弟・信繁(幸村)と比較すると地味な印象ではありますが、見方を変えると、かなり大きな仕事を成しとげた武将です。

<真田信之>さなだのぶゆき
Stone-Statue-Nobuyuki-Sanada.JPG
真田昌幸の長男です。祖父は真田幸隆。真田家の三男だった父・昌幸は、既に武藤家の養子(武藤喜兵衛)となっていたので、信之は武藤家で生まれました。しかし長篠の戦いで跡取りがいなくなったてしまった真田家に父・昌幸が戻ることになり、信之は真田家を継ぐ嫡男として期待されるようになりました。主に上田領を支配していた昌幸から、信之は沼田を任され、沼田城主として北上州を治めていました。やがて天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、父と弟が石田三成率いる西軍に味方したのに対し、信之は徳川家康率いる東軍に与する道を選びました。
信之の元々の名は信幸です。「幸」は真田家の通字。信之は関ケ原で西軍についた父と弟の助命嘆願をする一方で、決別を周囲に知らしめるべく、「幸」を「之」に改めました領民思いで統治力のあった信之は名君とされ、真田松代藩の礎を築き上げました

<小松姫>こまつひめ
Stone-Statue-Komatsuhime.JPG
徳川四天王のひとり本多忠勝の娘で、稲姫(いなひめ)とも称されました。政治的な理由を背景に、徳川家の養女を経て信濃国上田を本拠とする真田家に嫁ぎました。真田家はのちに親子・兄弟が敵味方に分かれることになりますが、小松姫は徳川方についた真田信之を正室として支え続け、難しい局面に立たされた真田家を守り抜きました。小松姫の武勇を物語る有名な逸話が、孫の顔見たさに沼田城に立ち寄った義父・真田昌幸を、門前で追い返した話です。夫の信之が出陣中のため城の留守を預かっていた小松姫は、例え義父でも敵方となった者を通すことはできないとして、昌幸と義弟の信繁(幸村)の入城を拒みました。一方で、小松姫は昌幸たちを密かに近くの寺へ案内し、そこで孫たちと対面させたと言う話もあります。これら伝わる話から言えることは、小松姫は男勝りの勇ましさ、機転に富んだ行動力、そして深い情を備えた女性だったようです


Stonestatue-Sanadacouple.JPG
二人の婚姻は真田信之25歳、小松姫18歳のときでした。


最後に
小松姫が48歳で生涯の幕を閉じたのに対し、信之は当時としては異例の93歳まで生きました。50代半ばで小松姫に先立たれた信之は「わが家の灯火が消えたり」と言って悲しんだと伝わります。

■訪問:
真田信之像・小松姫像

(沼田公園)
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考
・Wikipedia:2024/9/25
・沼田市観光協会HP
 ―信之・小松姫像―

https://www.numata-kankou.jp/activity/sight/numatakoen/index.html
タグ:群馬
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2024年09月16日

沼田城主・真田信吉墓所(沼田市)天桂寺

沼田城主となって沼田を治めた真田信吉の墓所を訪ねました。
<天桂寺墓所>てんけいじ
Sanada-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
沼田市天桂寺の墓所です。奥が真田信吉のお墓です。一般の方のお墓もありますので、画像は多少加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-Haka.JPG
約3メートルの宝篋印塔。近くで見るとかなり大きいです。沼田市の重要文化財に指定されています。

真田信吉は信之の長男です。生年には諸説ありますが、一般的に1595年とされています。実母についても諸説ありますが、清音院殿(せいいんいんでん)とするのが一般的です。
清音院殿は真田信綱の娘。信綱は、信之の父である昌幸の兄ですので、いとこ同士の夫婦ということになります。清音院殿は正室という立場でしたが、のちに本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)が信之の正室として迎えられたため、側室となっています。こういった経緯もあり、真田信吉の実母を稲姫とする説もあります(現地説明板では大蓮院=稲姫と記されています)。ちょっと複雑ですね。

ただまぁ、信吉が戦国屈指の知略の将・真田昌幸の孫であり、存亡をかけた局面を乗り切って真田家を守った信之の嫡子であることははっきりしています。

祖父や父と比較してしまうと地味な存在ですが、信吉は体調不良の父に代わり、大坂冬・夏の陣に弟の信政とともに出陣しています。上田へ移った信之に代わり、沼田3万石を任されているのですから、後継者として期待されていたことがよく分かりますね。この構図は、祖父・昌幸が父・信之に沼田を任せたのと同じです。

<真田河内守信吉の墓>かわちのかみ
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
こちらの説明板には『2代沼田藩主』と記されています。その通りなのですが、当時の沼田は正式には独立した藩ではなく、本家である松代藩の分領でした。ただ信吉が沼田の地を任されていたことは事実であり、やがては松代藩主となることが自然な流れだったのかもしれません。

ところが
父である信之が、当時としては異例の93歳まで生きたのに対し、信吉は40歳の若さで亡くなってしまいました。信之は高齢を理由に、幕府に何度も隠居を願い出ていたのですが、なかなか認められない状態が続いていました。戦国時代を知る最後の武将として、真田信之が将軍家から一目置かれていたことも影響したかもしれません。その結果、既に沼田城主となっていた信吉が、父から藩主の座を譲られることはありませんでした。

説明板には『四十歳で江戸屋敷にて没し沼田の迦葉山で火葬、天桂寺に葬られた』とあります。亡骸は江戸から沼田に運ばれ、丁重に葬られたわけですね。のちに信吉の弟・信政が、信濃松代藩第2代藩主となっています。

■訪問:
真田信吉の墓(
天桂寺)
[群馬県沼田市材木町]144


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/9/16
・沼田市HP
>市指定文化財>真田河内守信吉の墓

https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/shi/1000853.html
タグ:群馬
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2024年09月15日

藩主になるはずだった真田信守墓所(沼田市)舒林寺

沼田市で真田信守の墓所を訪ねました。

<舒林寺山門>じよりんじ
Jyorinji-Temple-Main-Gate.JPG
立派な佇まい。ここ舒林寺は曹洞宗の寺院。初代藩主・真田信之により境内を寄進され真田氏の菩提寺となりました。

<案内板>
Jyorinji-Sanadamatasaburonohaka-Sign.JPG
奥へ進むと「真田又八郎信守の墓」と記された標識をみつけました。

真田信守は信濃松代藩の第2代藩主・真田信政の次男として生まれました。長男の信就は、身分不確かな側室の子であることから、早々に後継ぎを辞退していました。これにより、次男・信守はやがては真田家当主、そして信濃松代藩の藩主となることが期待されていました

しかし
沼田城内で、論争の末に弟の信武を殺害するに至り、自らも自刃しました(1645年)。まだ18歳。真田家としては、身内の争いで一度に二人の男子を失うこととなりました。

その場の論争だけで弟を殺すというのは考えにくいですね。背景にどんな事情があったのでしょうか?兄弟の争いを止めようとした真田家臣の佐久間善八も巻き添えで命を落としています。沼田城で突然起きた、異例の騒動でした。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Nobumori-Haka.JPG
こちらが真田信守の墓です(右側)。周囲には一般の方の墓石もありますので、画像を多少加工させて頂きましたが、宝篋印塔がひときわ目をひく墓所の雰囲気は伝わると思います。

<真田六文銭> さなだろくもんせん
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信守の墓石には真田六文銭。当主になるはずだった真田の若武者の墓です。

■訪問:舒林寺
[群馬県沼田市材木町]


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■参考
・Wikipedia:2024/9/15
・WEB GUNMA HP
 >真田信守の墓

http://www.webgunma.com/1757/
タグ:群馬
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2024年09月09日

伊奈氏歴代当主が保護した奥秩父の三峯神社

<三峯神社>
Mitsuminejinja-Chichibu.JPG
訪問した三峯神社の御由緒に、関東郡代・伊奈氏のことが記されているのを見つけました。その部分だけ以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年 現在の本殿が造営されました。』

伊奈氏は関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、『関東郡代』を十二代にわたって世襲しました。関東の代官の筆頭というポジションですので、秩父と関りがあってもなんら不思議ではありませんが、直接関与していたあたりに、徳川幕府が三峯神社を優遇していたことが伝わってきます。文中の『除地』とは、その土地の税を免除することを意味しています。

さて
御由緒には『伊奈半十郎』と記されていますが、半十郎はあくまで通称です。伊奈氏歴代当主のうち、複数人が半十郎を名乗りました。具体的にはどなたですかね?

現在の本殿が造営されたのが『寛文元年』となっていますが、これは西暦だと1661年。検地と税の免除がほぼ同時だとすると、この時の関東郡代は伊奈忠克ですので、これが半十郎の正体?かと思いましたが、よく調べると、伊奈忠克の通称は半左衛門でした。ちなみに、忠克の先代であり父である忠治と、後継者で息子の忠常の通称は半十郎です。忠常ですかね?(個人的推測です)

いずれにせよ
徳川幕府の意向と、関東の代官の頭である伊奈氏の尽力もあり、三峯神社は江戸時代におおいに栄えて、庶民にも広く知られるようになりました。

God's-Messenger-Mitsuminejinja.JPG
秩父に生息する狼は、猪などから農作物を守る神の使いとされました。

mitsuminejinja-okariya-power-spot.JPG
やがては火防や盗賊除けなど御利益の範囲は広がり、神そのものとしてあがめられました。

最後に
伊奈氏による関東郡代世襲は、十二代目の伊奈忠尊が諸事情で改易(1792)となったことで幕引きとなります。伊奈氏そのものが、幕府の中核からは外れることとなりました。ただ、長年に渡る伊奈一族の功績は否定されるものではありませんでした。幕府は伊奈忠治の三男・忠重の子孫にあたる忠盈(ただみつ)に対し、武蔵国秩父および常陸国信太合せて千石を与えて、伊奈氏の名跡を継がせました。伊奈氏と秩父の関係は、その後も続いたということですね。

■訪問:三峯神社
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考及び出典
・現地説明板(御由緒)
・三峯神社HP

https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
posted by Isuke at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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