■マイナー武将■有名じゃない
経歴どころか生没も詳細不明。資料もあまり目にしません。そこで、今回は「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『上州八家の一つ山上氏に生まれ、上杉憲政及び長野業正の許、山上城主となるが弘治元年(1555年)、北条氏康に追われる。その後、足利の長尾当長を頼るが当長が北条氏康に降ると、氏秀(道及)は下野国佐野氏13代当主・佐野泰綱の家臣となる。』
[出典元:wikipedia]2017/9/27
もとの名は氏秀。改名して道及。この説明だと、「北条氏康」大嫌いといった感じですが、本当のところはどうだったのでしょうか。槍の名手とか、逸話はいろいろあります。あと、やや曖昧ながら、武田家にいたとか、関東に進出した滝川一益(織田家家臣)と地元大名の調整役を担ったという話もあります(私のイメージでは、調整役というより、我先に戦闘に加わりそうな感じですがね)。
とにかく、実在した人物です。生涯を通じてのストーリーが分りにくいものの、史実として確認されていることもいくつかあります。その一例が「佐野家の家臣」だったという実績。これは確か。重臣だったようですよ。佐野四天王の一角でした。
なにそれ?
はい。そもそも全国的には佐野家そのものがマイナーなのに、そのまた家臣ではインパクトが弱いですよね。片倉小十郎(伊達家)や直江兼続(上杉家)ですら、興味のない人にとっては「なにそれ?」かもしれません。では、なんでわざわざスポットライトをあてるのか。これは冒頭にも書かせて頂いたように『「花の慶次」に登場した』から。たったそれだけです。よくわからない関東牢人として登場。逆に謎めいたところに、得体の知れない魅力を感じてしまいます。
■はみだし武将■組織から出たり入ったり
上杉謙信や北条氏を何度も退けた15代当主の佐野昌綱。死後は息子の宗綱(むねつな)が16代目となりますが、男子なきまま世を去ってしまい、佐野家は家督問題で大もめとなります。生き残りを掛けて養子が検討されますが、小田原の北条派と常陸の佐竹派に意見が分かれます。山上道及は15代当主・昌綱の実弟である佐野房綱とともに佐竹氏を支持。しかし小田原北条氏からの圧力もあり、北条氏忠が佐野宗綱の娘を正室とするかたちで17代当主となりました。道及と房綱は佐野家を去ります。
そして1590年の小田原征伐。関東覇者の北条氏を攻める天下軍のなかに、道及と房綱の姿がありました。佐野家を出奔した道及は、秀吉に仕えていたのです。北条に奪われた佐野家奪回を期する房綱とともに、天下軍の進撃に寄与。関八州の詳細地図を自ら作成して提供したり、戦闘に加わるなどして功績を上げました。北条氏に支配されていた佐野家は房綱のものに。そして元重臣の山上道及ですが、その後どうなったかはっきりしていません。
■上杉家召し抱えの話■
謎の多い流浪の豪傑。北条氏が滅亡してから十年も後の話になりますが、上杉家(上杉景勝)に仕えたことが分かっています。「花の慶次」に登場するのもここから。同じく上杉のために出陣した慶次と、再会を喜び合うシーンです(そこでは滝川の陣以来の再会と言ってます)。
このころの上杉は会津120万石。これを警戒する徳川家康が、大軍を率いて上杉征伐に乗り出します。兵力を強化したい上杉家の新規召しかかえに応じ、山上道及は上杉に加担する道を選びました。
と、どうやらこのあたりまでは分かっているようですが、後は不明。「花の慶次」では、長谷堂城の戦いで大ケガをするところまで。その後は、どこでどうしたのでしょうね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城からの眺め>
山上道及もここから関東平野を眺めていたのかもしれません。私のイメージでは謎の関東牢人ですが、この地では立派な佐野家の重臣でした。佐野房綱と同じく、一度佐野家から飛び出したことで、逆に古巣を救うこととなりました。佐野房綱は当主(代行)という立場で佐野家を継ぎます。一方の山上道及、しばらくは佐野の地で暮らしたのでしょうか、、、(不明)。喰うに困る立場ではなかったと思いますが、十年後には上杉軍に加わっています。わざわざ不利な方に加担したわけですね。己の働きの場を求めて去った。私はそんなふうに受け止めています。
■訪問:唐沢山城
[栃木県佐野市富士町]
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