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2017年09月27日

山上道及と唐沢山城

戦国武将好きです。そして花の慶次」ファン。今回とりあげる山上道及(やまがみどうきゅう)の存在を知ったのも「花の慶次」。原作の一夢庵風流記にも登場します。そこに描かれていた反骨の豪傑が、私にとっての山上道及。一騎当千のつわものです。

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■マイナー武将■有名じゃない
経歴どころか生没も詳細不明。資料もあまり目にしません。そこで、今回は「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。

『上州八家の一つ山上氏に生まれ、上杉憲政及び長野業正の許、山上城主となるが弘治元年(1555年)、北条氏康に追われる。その後、足利の長尾当長を頼るが当長が北条氏康に降ると、氏秀(道及)は下野国佐野氏13代当主・佐野泰綱の家臣となる。』
[出典元:wikipedia]2017/9/27


もとの名は氏秀。改名して道及。この説明だと、「北条氏康」大嫌いといった感じですが、本当のところはどうだったのでしょうか。槍の名手とか、逸話はいろいろあります。あと、やや曖昧ながら、武田家にいたとか、関東に進出した滝川一益(織田家家臣)と地元大名の調整役を担ったという話もあります(私のイメージでは、調整役というより、我先に戦闘に加わりそうな感じですがね)。

とにかく、実在した人物です。生涯を通じてのストーリーが分りにくいものの、史実として確認されていることもいくつかあります。その一例が「佐野家の家臣」だったという実績。これは確か。重臣だったようですよ。佐野四天王の一角でした。

なにそれ?

はい。そもそも全国的には佐野家そのものがマイナーなのに、そのまた家臣ではインパクトが弱いですよね。片倉小十郎(伊達家)や直江兼続(上杉家)ですら、興味のない人にとっては「なにそれ?」かもしれません。では、なんでわざわざスポットライトをあてるのか。これは冒頭にも書かせて頂いたように『花の慶次」に登場した』から。たったそれだけです。よくわからない関東牢人として登場。逆に謎めいたところに、得体の知れない魅力を感じてしまいます。

■はみだし武将■組織から出たり入ったり
上杉謙信や北条氏を何度も退けた15代当主の佐野昌綱。死後は息子の宗綱(むねつな)が16代目となりますが、男子なきまま世を去ってしまい、佐野家は家督問題で大もめとなります。生き残りを掛けて養子が検討されますが、小田原の北条派と常陸の佐竹派に意見が分かれます。山上道及は15代当主・昌綱の実弟である佐野房綱とともに佐竹氏を支持。しかし小田原北条氏からの圧力もあり、北条氏忠が佐野宗綱の娘を正室とするかたちで17代当主となりました。道及と房綱は佐野家を去ります

そして1590年の小田原征伐。関東覇者の北条氏を攻める天下軍のなかに、道及と房綱の姿がありました。佐野家を出奔した道及は、秀吉に仕えていたのです。北条に奪われた佐野家奪回を期する房綱とともに、天下軍の進撃に寄与関八州の詳細地図を自ら作成して提供したり、戦闘に加わるなどして功績を上げました。北条氏に支配されていた佐野家は房綱のものに。そして元重臣の山上道及ですが、その後どうなったかはっきりしていません。

■上杉家召し抱えの話■
謎の多い流浪の豪傑。北条氏が滅亡してから十年も後の話になりますが、上杉家(上杉景勝)に仕えたことが分かっています。「花の慶次」に登場するのもここから。同じく上杉のために出陣した慶次と、再会を喜び合うシーンです(そこでは滝川の陣以来の再会と言ってます)。
このころの上杉は会津120万石。これを警戒する徳川家康が、大軍を率いて上杉征伐に乗り出します。兵力を強化したい上杉家の新規召しかかえに応じ、山上道及は上杉に加担する道を選びました。

と、どうやらこのあたりまでは分かっているようですが、後は不明。「花の慶次」では、長谷堂城の戦いで大ケガをするところまで。その後は、どこでどうしたのでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城からの眺め>
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山上道及もここから関東平野を眺めていたのかもしれません。私のイメージでは謎の関東牢人ですが、この地では立派な佐野家の重臣でした。佐野房綱と同じく、一度佐野家から飛び出したことで、逆に古巣を救うこととなりました。佐野房綱は当主(代行)という立場で佐野家を継ぎます。一方の山上道及、しばらくは佐野の地で暮らしたのでしょうか、、、(不明)。喰うに困る立場ではなかったと思いますが、十年後には上杉軍に加わっています。わざわざ不利な方に加担したわけですね。己の働きの場を求めて去った。私はそんなふうに受け止めています。

■訪問:唐沢山城
[栃木県佐野市富士町]


[当ブログについて]
ごく普通の会社員が興味の情報を共有できればと思い運営している個人ブログです。素人が楽しんでいるだけですので、掲載されている内容につきましても、その程度であることをご理解願います。



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タグ:栃木
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2017年09月11日

出羽の歌会 兼続・慶次ゆかりの地 (高畠町)亀岡文殊

戦国武将好きです。城跡巡りと並行して、お気に入りの戦国武将ゆかりの地を訪問したりしています。直江兼続前田慶次にゆかりがあると聞き、山形県高畠町の亀岡文殊堂を訪ねました。

■ 亀岡文殊 ■かめおかもんじゅ
<正式名は大聖寺>だいしょうじ
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亀岡文殊。京都の切戸(きれと)文殊・奈良の安倍文殊とともに「日本三文殊」の一つに数えられています。当然ですが、他は行ったことがありません。「知恵を授かれる」とのことで、合格祈願などで県外からわざわざ訪れる人も多いようです。そう言われると、なんとなく頭が良くなった気もしますが、あんまり良くなると悩みも増えそうなので、適度に叶って欲しいものです。適度に。ただ、今よりは多少は良く。

厳格な雰囲気もありながら、私のような庶民を拒む雰囲気もありません。まぁ山の上なので、登ってくるのに苦労はしましたが。

<参道を進む>
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<杉に囲まれた長い道>
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麓から小さな山を登る程度の覚悟は必要です。

<静けさ・・・>
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秘境に足を踏み入れたような感覚です。

<鐘楼と十六羅漢像>
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風格のある鐘楼。そしてお釈迦様の高弟16人の像です。ここに限らず、参道の脇には沢山の石仏があります。

<鐘楼を上から撮影>
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下界とは別の世界。歩いたせいでしょうか。ご本堂へ到着する前に、既にいろいろと感謝したい気分になっていました。

■ 戦国武将との縁 ■
頭を良くするためではなく、戦国武将ゆかりの地を訪問するために山を登りました。
かつて上杉家重臣・直江兼続の呼びかけで、ここ亀岡文殊堂に27人が集まり、詩会が開かれました。この時に詠まれた詩歌は「直江兼続等詩歌百首帖」としていまも宝物殿に保管されています。現物は無理ですが、写しが展示されています。現地の雰囲気とともに、歌を味わうことができます。

■ 歌人・慶次 ■前田利貞
「花の慶次」のヒットで現代人にも良く知られている前田慶次郎利益(とします)。武人として有名ですが、この直江兼続が開いた会にも歌人として参加。利貞という名で、春夏秋冬をテーマに五首を残しました。風流人としての慶次が垣間見える作品だそうです。そのうち、個人的に印象に残っているは下の二つ。ご紹介に際し、本文はあくまで正確に転記します。ただ訳と受けとめ方は「まったくもって個人的」ですのでご注意下さい(念の為)。


<樵路躑躅>
山柴に 岩根のつつじ かりこめて
花をきこりの 負い帰る道


山で刈り取った柴に、岩根に咲くツツジが刈り込められている。それを背負って山道を帰る人は、さながら花をまとっているようだ。

きこりは木の伐採などで生計を立てる人。柴刈りはいわばその人の仕事そのものです。せっせと薪にする雑木を集める人が、ツツジ(躑躅)の花が混じっていることを気にするでしょうか。そこに花を見る。ただ咲くだけの花、ただ暮らしに生きる人の背中。それを慈しむように見守る。慶次はもっと風流なのかもしれまんが、私はそう受けとめました。


<閨上霰>
ねやの戸は あとも枕も 風ふれて
あられよこぎり 夜や更ぬらん


寝ている部屋の戸の隙間から、あられやら風が吹き込んで、足元や枕元を通り抜けている。ただそれでもこのまま夜は更けていくのだろう。

これはちょっと厳しい状況ですね。冬の米沢で、昔の木造家屋ですからね。現代人なら、戸がきっちり閉まっていても凍えてしまいます。私がこの歌を知ったのはそうとう昔。その時は、いたずら好きの慶次が「貧乏アピール」で笑いをとろうとしたのだと思いました。質素な生活を強いられている皮肉も込めて。ただまぁ、いまはそんな気はしません。なにがどうであれ、時は過ぎて行くよ。それを受け入れている。そんな気がします。

※繰り返しになりますが、これは個人的な思い込みです。むかし「花の慶次」が大好きだった会社員が、自分の励みになるように解釈しています。


亀岡文殊での歌会 1602年
関ヶ原の戦いの翌年、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。歌会はその翌年のことです。会を開いた直江兼続、どのような思いだったのでしょうか。間違いなく、当時の兼続は上杉家においてリーダー的な存在。閉塞状況の中、上杉という組織内に負の感情が連鎖しないよう配慮した。その思いに応える前田慶次。優雅に尽きる歌会ではなく、そんな奥深い心のやり取りの場であったような気がします。
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■訪問:大聖寺
 (通称:亀岡文殊)
[山形県東置賜郡高畠町亀岡]


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2017年08月24日

織田乃里(天童市)信長末裔の地

<織田乃里>
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風になびくのぼり旗にその文字を見つけ、しばらく足が止まりました。

■織田信長末裔の地■
信長本人も長男も討たれ、武家としての織田家はやがて消滅してしまったようなイメージありませんかね?。次男の系統は、藩主として明治維新まで存続。いろいろあって転々とし、最後は現在の山形県天童市に辿りつきました。画像は舞鶴山(天童城跡)へ向かう途中の坂。かなり遠くまでやってきたような感覚だったので、この光景にしばらく見惚れました。

■天童織田藩■祖先は織田信雄
本能寺の変(1582年)のあと、信長の次男・信雄 (のぶかつ)が宗家を継いだことは良く知られていますね(直後の清洲会議では秀吉の力で兄の子「三法師」が当主に!かと思いきや、同年秀吉がこれを反故。信雄を当主として擁立しなおしました)。信雄の所領は尾張・伊勢・伊賀で100万。あの信長さまの次男ですからね。やがて秀吉と争ってしまいますが、織田の家はしっかりと残ります(5万石)。さて、そのあとどうしたのでしょう。

天下の織田さまに対し、大変失礼ではございますが、「戦国武将好き」でありながら織田家のその後はあまり意識していませんでした。確か、秀吉の小田原征伐の布陣に、織田の名もあったような・・・そんなレベルでした。やがて織田家とは全く関係のない小説(上杉鷹山)で、天童織田藩の存在を知り、やっと調べることに。織田家は小幡藩(現在の群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治めたのち、天童へ入ったのですね(一部省略)。つまり国替えを繰り返しながら、存続し続けました。辿りついた場所が天童。天童織田藩の成立です。

<建勲神社>たけいさお
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織田信長を祀った神社。明治まで続いた天童織田藩は、多大な犠牲を払いながら新政府軍に貢献しました。そのこともあり、明治政府から信長に建勲神(たけしいさおのかみ)の神号が与えられ、それ以降は建勲神社という名称になったそうです。現地では「ちょっと読みずらいなぁ」などと思いましたが、しっかりとした経緯を知って納得です。

尾張からは遠く離れた山形県天童市。山城・天童城を探索に来ましたが、その前にとても感慨深い光景と出会えました。

■訪問:建勲神社
[山形県天童市城山]


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2017年08月11日

鮭延秀綱の軌跡(鮭延城から鮭延寺)

戦国武将好きです。今回は鮭延秀綱(さけのべひでつな)について。ややマイナー武将ですが、知る人ぞ知る出羽の名将です。

■旅の始まり■真室川町
<鮭延城跡>
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[山形県最上郡真室川町]
秀綱居城の入り口。山城です。

<山城探索>
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かなり「放っとかれた状態」でした。苔類がクッションになり、踏みつけるのが心苦しいくらいです。

中世末期、出羽国北部を支配した鮭延氏の居城です。築城時期は不明。真室川を望む高台にあり、別名は真室城。出羽の名将・鮭延秀綱の歴史はここから始まりました。

<真室川> まむろがわ
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最上川水系鮭川支流。秀綱にとって故郷の川ですね。

<正源寺> しょうげんじ
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山城の近くにある鮭延氏の菩提寺。鮭延貞綱(佐々木貞綱=秀綱の父)の菩提寺として開かれ、当初は「鮭延山総国寺」という名でしたが、秀綱が城主の時に正源寺に改称されたそうです。

立派な山門です(高さ13m、間口9.7m、奥行6.1m)。 門前が踏切(しかも参道の一部です)という状況は大変珍しい。鎌倉の江ノ電でもなかなか見ないような光景ですね。山と川に挟まれた狭い平地に寺も線路もあるので、結果としてこういうことになります。城が築かれたエリアの地形そのものが興味深いものでした。

<真室川駅>
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駅も素敵でした。

■そもそも鮭延氏とは■ 近江源氏
鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族。十五世紀末頃に一族で出羽国へ下り、地元の豪族である小野寺氏に仕えました。正確な時期は不明ながら、小野寺氏は最上氏他との抗争から、客将である佐々木氏を真室郷鮭延の地に派遣。この時に拠点となった天然の要害が、鮭延城の始まりです。またこの際に、小野寺氏から抗争の最前線を託された佐々木氏が、地名をそのまま名乗ったことが鮭延氏の始まりとされています。

■鮭延氏と最上氏■ 敵から始まり・・・
鮭延秀綱を語るのに、最上義光(よしあき)の名を省略することはできません。元々は敵対関係。秀綱が城主の時に、鮭延城は勢力拡大を目指す最上義光の攻撃を受けます。激しく抵抗したようですが、勢いもあり、更に調略にも長けた最上軍には勝てませんでした(1581年)。しかし命を奪われることなく、本領も安堵され、秀綱は最上家に仕えることになります。これにより、鮭延城は最上氏配下の北の拠点となりました。

<山形城・最上義光銅像>
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[山形県山形市]
最上家11代目当主。あの伊達政宗の伯父でもあります。仲は悪かったようです。

個人的に上杉びいきなので、対立する最上義光に最初は良いイメージがありませんでした。ところが、良く知ればこれまた魅力的な大将。出羽国の覇者であり、人間味溢れる英雄。そして鮭延秀綱の主です。

■家臣として大活躍■ 勇猛にして忠義の武士
戦歴すべては書けませんが、特に最上家に危機が迫った「長谷堂城の戦い」で大活躍。相手は直江兼続率いる上杉軍です。秀綱は直接兵を率いて上杉本陣に迫るなど、敵からも賞賛される働きをしました。直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめたほどです。

<長谷堂城>
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[山形県山形市]長谷堂古戦場
堅城と賞される山城。最上義光の居城・山形城の支城です。くしくも関ヶ原の戦いと同日に戦いの火蓋が切られました。関ヶ原の結末を知らないまま、戦いは約半月間。秀綱は副将格としてこの城に入り奮闘します。最上側は数的に不利ながら善戦しました。

■主が57万石石高ランキング5位
「長谷堂城の戦い」後、反徳川の上杉と戦った最上義光は、57万石の領地を支配することになります。これはこの当時で全国5位。最上氏は義光の時に繁栄を極めます。家臣である鮭延秀綱にとっても、人生の絶頂期だったかも知れませんね。

■最上騒動■ 義光亡き後
最上義光亡き後、最上家は家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)で改易されてしまいます。ようするに城も領地も没収ということです。身分までも。
最上家において既に重臣となっていた鮭延秀綱は、騒動を長引かせたというお咎めにより、佐倉藩主・土井利勝の元に預かりとなりました。

<佐倉城跡>
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[千葉県佐倉市]
老中・土井利勝の城です。

■この頃の逸話■
この頃の逸話は有名ですが、聞く話によって微妙に違います。私が聞いた話の要点だけを抜粋してまとめるとこんな感じです。

『罪を許された鮭延秀綱ですが、土井利勝から手を差し伸べられたにも関わらず「我が主は最上義光のみ」と言いって召し抱えの話を断り、出羽から自分を慕ってついて来た家来とともに江戸へ向かいます。家来たちは秀綱のために町人仕事に奮闘しますが上手くいかず、それでも何とか主を養おうと乞食に身を落とすことに。自分を慕う者達の必死の姿を見かねて、秀綱は過去へのこだわりを捨て、土井利勝に仕える道を選びました。』

こんな感じです。

■乞食大名■ 小説のタイトルです
直木賞作家の海音寺潮五郎の小説「乞食大名」(短編集『かぶき大名』収録)に、その人望がよく描かれています。勇猛でありながら部下思いのリーダー。私にとっての鮭延秀綱もそういう男です。どうせ仕事をするなら、こういう人のために精一杯働きたい。そう感じさせる人です。

■5千石■ かなりいい条件
土井利勝は5千石で鮭延秀綱を召し抱えました。決して少なくない石高です。ただ秀綱はこれを己のものとはせず、出羽以来の家来に全て分け与えてしまい、自身は家来のもとを転々として暮らしたともいわれています。

■旅の終わり■ 土井利勝とともに古河へ
土井利勝の国替えに従い、鮭延秀綱も古河へ移り住みます。この地が波乱の人生の最後の地となりました。

<古河城本丸跡>
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[茨城県古河市]

■つわものどもが夢の跡■
<鮭延寺> けいえんじ
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[茨城県古河市]
石碑には「鮭延越前守秀綱」と刻まれています。菩提を弔うため、秀綱を慕う家臣たちによって創建されました。出羽の名将のお墓は、ここ古河市の鮭延寺にあります。

鮭延寺shirononagori.jpg


最後に
冒頭の山形県真室川町、そして茨城県古河市。かなり距離がありますね。この二つの都市、接点もなさそうですが、姉妹都市を締結しています。そう、お察しの通りです。鮭延秀綱で繋がっています。


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2017年08月10日

佐倉城と築城者・土井利勝

<佐倉城跡>
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現在は城址公園として整備されています。

佐倉城訪問記の追記として、この城の築城者である土井利勝についてちょっと触れさせて頂きます。城や地形に興味があっての訪問でしたが、どうしても来たかった最大の理由は、ここが土井利勝ゆかりの地だからです。

■ 土井利勝とは ■ どいとしかつ
徳川家康と同じ三河の国の出身(1573年生)。幼少の段階で既に家康に才能を見込まれ、二代将軍となった秀忠からも絶大な信頼を得ていました。老中として活躍。幕府の中核としてその手腕を発揮した男です(1644年没)。

■異例の出世■
時系列に並べると以下の通りです。

1602年■小見川1万石 (後に1万加増)
1610年■佐倉3万2千石 老中就任
1612年    4万5千石  
1615年    6万5千石  
1625年  14万2千石   
1633年■古河16万石
1638年   大老就任
1644年   大老のまま没 (享年72)

こうして整理してみると凄いですね。石高そのもは、地方の有力外様大名と比較して小さく見えるかもしれませんが、これは徳川の身内で固められた関東での話。そしてスケールより重要なのは着実に出世し、幕府内での地位を築いている点です。人柄も才覚も突出していたと評される利勝。最後の大老職は名誉職的なもので、最も活躍したのは老中のときのようです。特に、それまで権力のあった本多正純が失脚した1622年以降、老中・土井利勝は将軍を除けば意思決定の最高責任者という立場でした。

戦歴を省略してしまいましたが、無いわけではありません。天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、徳川秀忠の軍が信濃上田城で真田昌幸に止められ、関ヶ原の決戦に間に合わなかった話は有名ですね。土井利勝もこの軍に加わっていました。大坂の陣でも利勝は秀忠付として従軍しています。ただ、特筆するような武功があったわけではありません。

土井利勝は幕府の組織作り・運営で才能を発揮した人。優秀な人材が沢山の徳川家臣団ですが、組織の環境が変われば、必要とされる人材も変ります。本人の才覚もさることながら、異例の出世の背景には、世の中の移り変わりも追い風になっているように思えます。

■ 家康の御落胤説 ■
落胤(らくいん):身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子。おとしだね。
[出典:goo辞書]
これは土井利勝というとお決まりで出てくる話です。あり得るかもしれません。ただ、本人の異例の出世とセットで語られたりすることもあり、土井利勝に好意的な私としてはあまり好きな話ではありません。

そもそも、親の七光りでチャンスが多かったり優遇されても、駄目な人は大成しません。むしろ身の丈に合わない地位の高さから、笑いものになることもあり得ます。これはいつの時代でも同じですね。ですから、土井利勝に関するこのお話は「そういえばそんな話も耳にしたことはあるなぁ」といった程度で済ませたいと思います。

■好意的な理由■ ちょっとヘンな理由
訪問記で触れさせて頂きましたが、私にとっては、佐倉城といえば土井利勝。築城者だからではなく、これには回りくどいようでシンプルな理由があります。

いまでこそ城跡も好きですが、もともとはただの「戦国武将」好き。土井利勝?ちょっと戦国武将っぽくないですよね。家康の家臣団なら、やはり本多忠勝とか井伊直政が好きです。出羽国のとある武将の武勇伝を深掘りしていくうちに、佐倉城主・土井利勝を意識するようになり、いつのまにか好きになっていました。

武将の名は鮭延秀綱(さけのべひでつな)。その活躍を上げたらきりがないので今回は省略しますが、簡単に言えば武人としての実力と人情味を兼ね備えた男(戦国の英雄はそんなのばっかりですが・・・)。あの最上義光の家臣でしたが、義光亡きあとの最上家お家騒動が原因で浪人となります。その身柄を預かったのが佐倉城主の土井利勝でした。

それだけ
たったそれだけの理由です。

史実及び逸話として語り継がれる鮭延秀綱の話から、私は土井利勝の人としての魅力を感じずにはいられません。土井利勝は最上家57万石が取り潰されることにも幕府の中核として関与しており、その結果として浪人となった鮭延秀綱を受け入れ、配慮し続けました。大きな決断から、起こってしまう結末まで、筋を通す一方で人情味もある。態度、度量に好意を持たざるを得ません。鮭延秀綱のような戦国の英雄とは別の意味で、格好いいではないですか!

<つわものどもが夢の跡>
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土井利勝は、身柄を預かっていた鮭延秀綱をのちに召抱えました。


最後に
会社員のブログですので、その程度に受け止めて下さい。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:佐倉城
[千葉県佐倉市城内町]

---------(追 記)---------
2017年08月11日
仕事の合間を狙って、約3年かけて訪ね歩いた鮭延秀綱ゆかりの地について投稿させて頂きました。宜しければのぞいてみて下さい。戦国の世の雰囲気を残しつつ、実際の戦では目立たなかった土井利勝と佐倉城。関心を持てた理由はこの「出羽の猛将」のおかげてす。
鮭延秀綱の軌跡


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2017年06月03日

犬伏の別れ 真田ゆかりの地 (佐野市)新町薬師堂

この日は休暇を取得、真田家ゆかりの地を訪ねました。

犬伏の別れいぬぶし
犬伏?これは地名です。場所は現在の栃木県佐野市南部。
徳川家康の号令に従って出陣した真田昌幸は、この地で息子二人と今後の身の振り方について話し合いをしました。その結果、長男である信幸は徳川軍と合流、逆に昌幸と次男の幸村は徳川に従わない道を選択。そのままこの地で分れました。地名から、この真田親子及び兄弟の決別は「犬伏の別れ」と呼ばれています。

<新町薬師堂>
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石田三成挙兵の知らせが届き、ここ下野犬伏にて密談。まぁ家族会議ですね。

<密談の場所>
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密議の場所と伝承されている佐野市の薬師堂です。真田昌幸は人払いをした上で息子二人と話し合いました。その後の行動は史実ですが、話し合いの内容は分かっていません。ただ相当長い話し合いだったようです。

[逸話]あまりの長さに、心配した家臣(河原綱家)が言いつけに背いて中をのぞきに行きました。しかし激怒した昌幸にゲタを投げつけられ、前歯が欠けてしまった。この逸話、大河ドラマ「真田丸」でもしっかり描かれていましたね。

<米山古墳の石碑>
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薬師堂は周辺よりやや高台となっています。大河ドラマ「真田丸」に便乗してのぼりが沢山。石碑には「米山古墳」の文字が見えます。佐野市内には遺跡が多く、薬師堂の裏手もただの山かと思いきや、有名な古墳でした。現地へ行かれる方は、新町薬師堂より米山古墳で検索する方が場所が分りやすいですね。

<真田父子犬伏密談図>
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以前上田市の博物館で見た「真田父子犬伏密談図」。忘れられない絵です。右が昌幸(父)、その正面(左手前)に座っているのが長男信幸。真ん中が幸村になります。一般的に、昌幸はどちらの勢力が勝っても真田の家が残るように考えていたとされています。また、兄弟それぞれの事情としては、兄の信幸は家康の側近・本多忠勝の娘(形としては家康の養女)を妻にしており、弟の幸村は石田三成の親友と言っていい大谷吉継の妹(娘という説もあり)を妻にしています。

[幸村という呼び名]今回に限らず、このブログでは幸村の名で通しています。これは後世の別称で、本名は信繁です。真田昌幸は、次男坊に武田信玄の弟の名をつけました。

<真田兄弟の別れ橋>
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薬師堂の傍にはかつて川が流れており、そこに架かっていた橋は真田兄弟の「別れ橋」として語り継がれています。現地案内を参考に、その推定地まで行ってみました。

<別れ橋の推定値>
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石碑があるわけでもなく、川の姿もありません。せっかく犬伏まで来たのですから「ここで真田兄弟は分れたのだなぁ」と実感したいところですが、ちょっとそれも難しい状況ですね。案内文も「別れ橋があったと云われる場所」……とても奥ゆかしい言い回しです。川跡とか暗渠(あんきょ)には多少敏感な方ですが、この側溝だけで、昔は川だったと信じるのはちょっと厳しい……ですね。まぁあくまで推定ということで。

ただ、この画像の右手は丘・古墳ですので、高低差からして水が流れていても不思議ではない場所です。正確な場所はともかく、真田兄弟はこの付近に架かる橋で分かれ、長男はそのまま東(小山市方面)へ、次男は父とともに逆戻りして西(群馬県方面)へ向かった。そういうことですね。

そもそもの話上杉征伐
秀吉亡き後、天下の主導権は家康に移りつつありました。もう一人の実力者だった前田利家が亡くなると、家康の動きはますます活発になります。半ばいいがかりに近い話で上杉景勝に因縁をつけ、諸大名を招集して上杉征伐(会津征伐)へと動き出しました。真田親子の話し合いは、この途上での出来事です。

三成の挙兵
やや話が逸れますが、実は石田三成の挙兵を促すために、家康は会津へ向かったという説もあります。だとすると、上杉家が言い掛かりに対して「ああ、それはどうも失礼しました」などと真田昌幸なみの柔軟な対応をとっていたら、三成の挙兵もなかったかも知れませんね。ただ名門にして義を重んじる上杉家に、そんな対応はありません。この時の筋を通した反論として有名なのが、重臣である直江兼続が家康に送った書状(直江状)。最大権力者に対して、内容はほぼ「是非に及ばず(話にならんわ)」。この気質、人質として上杉家で過ごしてた真田幸村に影響を与えたかも知れませんね。
また、三成挙兵を聞いて真田昌幸は態度を変えたのですから、三成が「やっぱり俺も大人しくしておくか」というタイプだったら、犬伏の別れもありません。何かが一つ違うだけで、その後の話が成り立たない。人の思惑まで想像すると、歴史は奥が深いですね。

小松姫の逸話
先述の通り、長男・真田信幸の妻は徳川四天王に名を連ねる本多忠勝の娘・小松姫。「真田丸」では内田羊さんが演じていました。ドラマでも描かれていた通り、下野国犬伏で息子と別れた昌幸は、上田への帰り道に「孫に会いたい」を理由に沼田城を訪れます。これに対し、夫の留守を守る小松姫は「敵である」ことを理由にこれを拒否。武装した姿で現れ、城門を開けず昌幸と幸村を追い返しました。さすがは三河武士最強と言われた男の娘ですね。
大河ドラマではここまででしたが、小松姫は自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、その期待に応えたそうです。与えられた立場での筋を通し、人情もある。素晴らしいですね。おんな城主が務まるのではないでしょうか。

<現在の沼田城>
numata (12).JPG

昌幸の夢の続きは・・・
真田昌幸は、徳川家康の三男・秀忠が率いる三万八千の軍を上田城で迎え撃ちます。真田軍の兵は僅か三千。しかし結果は真田軍の勝利。昌幸はここでも負けませんでした。ただ、肝心の関ヶ原にて石田三成が敗北。上田城は徳川からの開城要請に応じました。
東軍についた長男信幸や義父の本多忠勝の嘆願により何とか助命されますが、昌幸は紀州九度山に蟄居させられ、その地で生涯を終えました。武田滅亡後の波乱万丈の人生。晩年はやや残念ですが、父から受け継ぎ、先に死んだ兄達の代わりに守り続けた真田の家は、長男である信幸へと引き継がれました(真田家は明治まで続きます)。そしてもう一つ、果たせなかった昌幸本人の思いは、同じく九度山に幽閉されていた次男幸村へと引き継がれます。

昌幸にとっての主
真田昌幸。タテにして書けば左右対称、真ん中に筋が通ってバランスのとれた良い名前ですね。表裏比興の者と呼ばれたこの人、私は長らく嫌いでした。主をめまぐるしく代えることに、嫌悪感すらありました。ただまぁ自分も多少は人生経験を重ねて、歴史をちょっとは深読みできるようになったせいでしょうか、最近はその行動が分かる気がします。

真田昌幸にとって
おやかた様は武田信玄のみだった

そう仮定すると、全ての行動が納得できます。心から御館様と思える信玄公以外は、昌幸にしてみればどうでも良く、都合で頭を下げてるだけ。むしろ一本筋が通っており、内面に隠されたその思いこそが、本当の意味で武士たる者の「忠義」なのではないでしょうか。そう思えます。真田昌幸、今では好きな戦国武将の一人です。

<つわものどもが夢の跡>
sanadayukariSANO (5).jpg

■訪問:新町薬師堂
[栃木県佐野市犬伏新町]2060


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タグ:栃木
posted by Isuke at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2017年04月22日

山吹の里(越生町)若き日の道灌の逸話

春の季語でもあるヤマブキ
花の時季をねらって山吹伝説の地を訪問しました。

■ 現地訪問 ■
<山吹の里公園>
ogose (8).JPG
ここは埼玉県です。「山吹の里」に関する史跡は都内(高田馬場ほか)を含め複数ありますが、私は道灌の出身地であるこの地が最も相応しいと思っています。

<越生駅>
ogose (3).JPG
「おごせ」と読みます。埼玉県の中央に位置する人口1万強の町で、梅林がとても有名です。
山吹の里公園は駅から徒歩圏内(10分程度)。タクシー乗り場やお土産屋さんのあるのとは逆側になります。駅を出て左手に進んでトイレを通過すると踏切が見えます。そこを渡りましょう。
※おカネに余裕のある方はそのままタクシーで!

<山吹大橋と越辺川>
ogose (5).JPG
この橋を渡ればまもなく到着。この川は「おっぺがわ」と読みます。なんかかわいい名前ですね。おっぺは「おごせの辺り」からきていると思われますが、アイヌ語に由来するとする説もあるそうです。

<公園入口>
ogose (7).JPG
茅葺き屋根の水車小屋が目印。目の前は大きな道路ですが、ここだけ日本昔話のような空間となっています。裏の低い山もいい感じです。


■ 山吹伝説 ■
<歌の石碑>
ogose (28).JPG
一枝のヤマブキに込められて歌ですね

七重八重 花は咲けども山吹の 
実の一つだに なきぞ悲しき


※山吹の花は七重八重に咲くのに 実が一つも結ばないのは不思議です

逸 話
これはまだ若い道灌が、鷹狩りに出かけた時の逸話です。
突然の雨にうたれ、農家で蓑を借りようとしたところ、出てきた娘が山吹の花を黙って差し出しました。蓑を借りたかった道灌は怒ってその場を去りますが、この話を聞いた家臣から、それが有名な歌に掛け『山間の茅葺きの家で貧しく蓑(実の)ひとつ無い』ことを奥ゆかしく答えたのだと教わります。
歌は後拾遺和歌集の兼明親王のものでした。
(※醍醐天皇子息)

道灌は己の無学を恥じ
この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。

<ヤマブキ>
ogose (15).JPG
裏山で咲き誇るヤマブキ。実がならない事から、蓑が無いの言葉とかけあわせたわけですね

あくまで逸話ですが、そのように伝わるということ自体が、太田道灌の人としての魅力だと思います。武将として有名ですが、歌人でもある太田道灌。鮮やかなヤマブキにも負けない新緑のような、清々しい話です。

<公園内>
ogose (21).JPG
公園内に約三千本といわれるヤマブキの花。4月中旬から5月いっぱいくらいまで花が楽しめるようです。いつ訪れても素敵な場所ですが、どうせならこの季節に訪問してみては如何でしょうか。

■訪問:山吹の里公園
[埼玉県入間郡越生町西和田]‎


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タグ:埼玉
posted by Isuke at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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