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2020年12月01日

石川数正が岡崎三郎信康を祀った神社(岡崎市)若宮八幡神社

若くして亡くなった徳川家康の長男・信康ゆかりの地を訪ねました。

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囲いの中には信康の首塚があります。

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ここは愛知県岡崎市。信康が祀られた若宮八幡神社です。

■家康長男の切腹■
1579年、岡崎城主となっていた信康は、織田信長より武田内通の疑いをかけられ、切腹させられることになりました。まだ21歳です。家康の長男であり、信長の娘を嫁とし、将来を嘱望された武将だったはずなのですが・・・
この背景については諸説あります。専門の方々の研究結果ですので、それぞれ納得してしまいます。ただそれらの中で、私個人は「織田信長が将来を見据えて潰した」という説に重みを感じています。信康については、乱暴者であったという話もありますが、賢明にして勇猛果敢であったという話もあります。どちらかといえば後者を信じたいですね。そして、家康としても不本意であったと思いたいです。徳川と織田が同盟関係といっても、並列の関係ではありません。信長には逆らえなかった。そういうイメージが拭いきれません。

介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。しかし、鬼と呼ばれた男もこれを果たすことはできず、検死役が代わって介錯したそうです。

我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ

そう言い残し、信康はこの世を去りました。天道に逆うようなことはしていない。父にそれだけは分かって欲しい。まだ若く血気盛んな若武者です。無念だったことでしょう。

信康の遺体は切腹した城(二俣城)近くに葬られ、首級は織田信長の首実検を経てから、岡崎に戻されたそうです。一旦は別の場所(根石原観音堂)に葬られましたが、のちに今回訪問の若宮八幡宮へ移されました。

<若宮八幡宮>
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若宮八幡宮は、岡崎城代となっていた石川数正が、信康の霊を祀った神社です。石川数正は家康屈指の家臣であると同時に、信康の後見人でした。城主となったとはいえまだ若い信康に代わって政務を取り仕切りながら、信康がいつか徳川家の当主となるよう支援してきました。数正は人間味溢れる三河家臣団にあってはあまり感情を表に出さない男だったそうです。信康がいなくなった城を城代として守りながら、どんな思いで過ごしたのでしょうか。

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社殿の右横が信康の首塚です。訪問する前のイメージより質素な感じがしました

Wikiさんから引用させて頂くと
『1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲により、土蔵を残して全焼。社殿は再建されたが旧観はない』とのこと。そうですか。むかしはどんな感じだったのでしょう。

ただ、創建当時の雰囲気が失われても、石川数正の思いが、ここに引き継がれていることに変わりありません。そう受け止め、現地をあとにしました。

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当主となり、将軍になるはずだった戦国武将の首塚です。中も撮影できますが、遠慮させて頂きました。

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徳川家康の父である松平広忠と同じく、信康は岡崎三郎と名乗りました。跡取りに相応しい名前ですね。

■訪問:若宮八幡宮
[愛知県岡崎市朝日町]

■参考及び抜粋した資料
[Wikipedia2020/12/1]



---------(追 記)---------
文中に登場してもらった服部半蔵は、晩年信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。これについては別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2017年08月18日
■タイトル:半蔵の眠る丘(西念寺)
 →『記事へすすむ


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2020年11月03日

秀吉にとってもゆかりの地・浜松(元城町東照宮の銅像)

浜松城と聞いて思い出すのは徳川家康。そんな思いで訪問した現地で、こんな銅像と対面することとなりました。
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左は家康として右の少年は誰?

ここはかつての浜松城内に位置する元城町東照宮です。東照宮だから家康。これは想定していましたが、子供が家康と同等の位置にいることに非常に違和感がありました。

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豊臣秀吉公?!

なんと秀吉でした。いかにも若く、まだ風格が備わる前の姿ですね。ここ浜松は、後に天下人となる秀吉(木下藤吉郎)にとってもゆかりの地なのです。

家を出て奉公先を探していた秀吉は、まずここ浜松で、頭陀寺城(ずだじじょう)の城主だった松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えます。のちに織田信長に仕えて頭角を現す秀吉ですが、浜松での恩を忘れず、かつての主である松下之綱を、逆に家臣として召し抱え、所領を与えることになります。

松下之綱はもともと今川義元に仕えていましたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕えました。武田勝頼率いる軍勢が高天神城に押し寄せた際には、徳川側として籠城戦に加わっています(1574年:第一次高天神城の戦い)。この戦い、窮地に追い込まれた高天神城は浜松の徳川家康に助けを求めます。しかし援軍は来ませんでした。約2ケ月後、高天神城は落城。武田勝頼は敗軍の将たちの命を奪いませんでしたので、松下之綱も解放されています。その後、長浜城主となっていた秀吉に仕える道を選びました。

高天神城を救うことができなかった家康ですが、この時は浜松から動けない深い事情がありました。家康はのちに高天神城を奪回しています。

話をもどしますと
秀吉の出自や幼少の頃の話には不確実なものが多いですが、16歳〜18歳という多感な時期を、ここ浜松で過ごしたことは事実のようです。この地での下積みが、のちの大出世に繋がっていくわけですね。

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訪問した元城町東照宮

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大出世する二人が並んでいます

■訪問:浜松元城町東照宮
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年10月25日

畠山重忠ゆかりの地(旧与野市)武州与野銭洗弁天

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠ゆかりの地です。場所はさいたま市中央区、旧与野市です。

<銭洗弁天>ぜにあらいべんてん
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与野公園内の武州与野銭洗弁天です。武蔵国の与野の弁財天、しかも銭洗弁天が、どうして畠山重忠ゆかりの地なのでしょうか?

<祠と縁起>
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右手に説明板(縁起)があります。これによれば、畠山重忠が鎌倉へ向かう途中、霊験があると言われる弁天の霊泉で腰の名刀を洗い清めたところ武勲をあげたことから、商売繁盛、財宝の神として崇められているとのこと。

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いまは公園内の池として綺麗に設備されていますが、古くから湧水池だったのかもしれませんね。

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現在の埼玉県嵐山町に館を構えていた畠山重忠が、鎌倉へ向かう途上でここへ立ち寄り刀を清めた。重忠は戦での活躍もさることながら、清廉潔白で知られる武将です。その時どんな思いだったのでしょうね。

<開運橋>
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その後の畠山重忠の武勲にあやかって、いまでは商売繁盛の神とし崇められています。刀ではなく『銭を洗って』繁栄を祈願する銭洗い弁天です。

<神橋>
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この橋を渡ってお参りすることになります。ここは財宝の神が祀られた場所。そして「坂東武士の鑑」とまで称された畠山重忠ゆかりの地です。

■訪問:武州与野銭洗弁天
(与野公園)
[埼玉県さいたま市中央区本町西]


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--------------(追 記)--------------

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与野公園はバラ園で知られる人気スポットです。この日は秋の薔薇を楽しませてもらいました。
タグ:埼玉
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2020年10月10日

埼玉県にある島原の乱の供養塔(新座市)平林寺

埼玉県新座市に『島原の乱』の供養塔があります。まず天草四郎の名が思い浮かばれるこの乱、制圧した側(幕府側)の総大将が松平伊豆守ということはあまり知られてません。供養塔は伊豆守の菩提寺である平林寺境内。今回はそのご紹介です。
<島原の乱 供養塔>
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<説明板>
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こちらに『島原・天草の一揆供養塔』というタイトルで詳細が記されていますので、以下に抜粋します。

『寛永十四年から十五年(1637〜38)にかけて肥後国天草 の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

[出典:現地説明板]

島原の乱は江戸時代初期に起こった一揆ですね。内戦といっていいこの戦いには、幕府軍が十万人以上動員されています。反乱の背景については、過酷な年貢の取立てとか、宗教的な意味合いなど、まだ議論が続いていながらも、かなり世間の知るところとなっています。ただ、幕府を相手に戦った3万を越える者たちが、単なる百姓の集まりではなく、職を失った武士たちが多く含まれていたことはあまり知られていません。もともと武士だった者が指揮することで、組織だった戦いをしていたようです。

幕府側の当初の総大将は板倉重昌でしたが、九州の諸藩の統率がとれず苦戦(大大名が多いため板倉重昌では束ねられなかったようです)。長期化で幕府の権威が揺らぐことを避けるべく、討伐の切り札として次に送り込まれたのが、三代将軍家光公の信任の厚かった松平伊豆守信綱でした。

この内戦、幕府軍の死者は8千人とも言われています。一方制圧された側ですが、3万7千人が戦いに参加し、全滅と伝わります。

<平林寺>へいりんじ
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ここは老中であり、川越藩主だった松平伊豆守の菩提寺です。

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その境内にある島原の乱の供養塔。現地説明板の通り、松平伊豆守が収めた内戦によって『亡くなった人たちの霊をなぐさめるため』の供養塔です。


■訪問:平林寺
[埼玉県新座市野火止]


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2020年06月09日

大岡忠光ゆかりの地 (龍門寺)9代将軍とともに生きた生涯

<龍門寺>
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岩槻の龍門寺です。3百石の旗本の家に生まれ、2万石の岩槻藩主となった大岡忠光のお墓があります。忠光は9代将軍徳川家重の難のある言葉を唯一理解できた側近で、信頼も厚かったとのこと。あの大岡越前の遠縁でもあります。

■大岡忠光■おおおかただみつ
忠光は旗本の長男として生まれました。徳川吉宗の後継者となる家重の小姓となったことで城詰めの侍となり、以後側近として長らく家重を支え続けた人物です。徳川家重はあまり体が丈夫ではない上に、話す言葉がはっきりせず、家臣たちに直接語り掛けることは困難でした。しかし幼少よりお仕えしている忠光は家重の発する言葉を聞き取り、趣旨も理解できたそうです。
公私ともにお手伝いをしてきたわけですからね。普通の人に難儀なことも、忠光にとっては慣れ切ったことなのかもしれません。
当然の流れですが、家重から全幅の信頼を得ることになり、結果として異例の出世となりました。

■時代劇での悪役■
上記のような史実から、時代劇では時々ヒール役として登場する場合もあります。将軍の言葉を唯一理解できる。将軍に代わってこれを家臣団に伝える。そこに私意を混ぜ込めば、確かに悪いこともできてしまいますよね。
でも実際にはそんなことはなく、大岡忠光は私欲どころか、政治そのものに口を挟むこともしなかったようです。ただただ家重のために尽くしました。当時、将軍の身の回りで起きる事がどの程度城外に伝わるのかわかりませんが、庶民からの評判も良かったようです。

■岩槻藩主■
徳川家重との出会いがなければ、大岡忠光は普通に江戸中期の普通の旗本で生涯を閉じたのかもしれません。しかし上総勝浦藩1万石の大名、そして最終的には2万石武蔵岩槻藩主となりました(1756年)。岩槻藩主の座は、忠光の子である忠喜に引き継がれ、以降明治まで大岡家が代々藩主を務めました。


■龍門寺訪問■
<龍門寺入り口>
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日光御成道に面した古い寺院です。

<山門(三解脱門)>
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<山門内側>
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<開期霊屋>
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<聖観世音菩薩>
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<鐘楼>
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<七福神>
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<境内>
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<本堂>
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宗派は曹洞宗です。龍門寺は忠光以降、大岡家の菩提寺となりました。

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■つわものどもが夢の跡■
<大岡忠光墓所>
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大岡忠光は岩槻藩主となった4年後(1760年6月9日)に没しています。9代将軍徳川家重は、その後まもなく長男(家治)に将軍職を譲っています。そして1761年7月13日に没しました。

■訪問:龍門寺
[埼玉県さいたま市岩槻区日の出町]


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2020年05月23日

岩槻城主太田氏資 反北条の父と北条の嫁

今回は、岩槻城主の長男として生まれ、自らも城主となりながら若くして亡くなった戦国武将の話です

<太田氏資像>うじすけ
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[撮影:芳林寺]
岩槻城主だった太田氏資の像です。あの有名な太田道灌の流れをくむ岩槻太田家の戦国武将です。諸説ありますが、岩槻太田家は道灌の甥で養子となった太田資家(すけいえ)から始まります。そのひ孫が氏資です。

■太田資正の嫡男■すけまさ
氏資は岩槻太田家の太田資正の嫡男としてこの世に生を受けました(1542年)。父・資正は武蔵で活動した勇猛果敢な武将で、当時関東で勢力を拡大していた小田原の北条家に抵抗し続けた男です。私見になりますが、その粘り強い抵抗ぶりから『反骨の戦国武将』というイメージです。氏資本人も武勇に優れた武将ではありましたが、北条に与する道を選び、悲劇の結末をむかえることになります。

■反北条の父と北条の嫁■
当時の小田原北条家の当主は3代目氏康です。上杉謙信や武田信玄と関東での覇権争いをしたつわものですね。北条氏康は娘を氏資に嫁がせて、岩槻太田家との関係強化を図ります。これに対し、岩槻城主であり太田家当主の資正は、様子をみながらも北条の息のかかった家臣を追い出すなど、反旗を翻さないまでも一定の緊張を保っていました。そして1560年、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東に兵を進めるとこれに呼応し、ついに反北条の態度を明確します。
さて、氏資の嫁は北条氏康の娘です。この時代の政略結婚にはありがちな事ですが、妻の実家と自分の家が争うという事態となってしまいました。義父が北条氏康なら次の当主となる北条氏政や氏照・氏邦といった大物が義兄弟。これはちょっと困りますね。更に氏資の見立てでは、現れては消えてしまう越後の上杉謙信より、小田原を拠点とする北条家と繋がっている方が、関東で生き残る道として有利と思えたのかもしれません(私の勝手な想像です)。いずれにせよ、氏資と父・資正の関係は険悪になっていきます。

こいつではダメだ

資正はそう思ったのでしょう。家督を次男(養子となって梶原家を継いだ梶原政景)に継がせようと考えたようです。氏資はこれを知り、一時出家してしまいました。

■父と弟を追い出す■
氏資にとっての転機は、父・資正の戦での敗北といっていいでしょう。1564年の第二次国府台合戦(北条vs里見[上杉と同盟関係])において、父である資正が里見氏と共に敗退します。資正は落ち延びますが、この太田家の混乱期に出家したはずの氏資は密かに還俗。北条氏康と謀って父と弟を岩槻城から追放し、家督を継いでしまいます。氏資が北条家の家臣となったことで、北条氏康は武蔵の大半を平定するに至りました。

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氏資の元の名は資房。北条氏康から氏の一字を与えられて改名しました

■殿■しんがり
小田原北条家の配下となった太田氏資は、1567年の三船山の戦い(北条vs里見)において、激しい戦闘の末に敗走せざるをえなかった北条軍の殿を務めます。殿、つまり退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目であり、最も危険な仕事ですね。北条軍を敗走させるのですから、この時の里見軍は勢いがありました。

岩槻城主・太田氏資
この戦いで討ち死にとなりました
まだ25歳という若さです

太田氏資の殿は自ら志願したものと言われています。諸説ありますが、父であり当主である太田資正を追放して北条の家臣となっていることから、『裏切者』といったレッテルが付きまとい、氏資はこれを払拭すべく殿を願い出たとされています。北条家の家臣団において、そこまで負い目を感じる立場に追い込まれていたのでしょうか。また、一説によれば氏資は、このとき岩槻城主に相応しいだけの兵を率いていなかったとされています。氏資はこの合戦のために岩槻城を出たわけではなく、別な理由で小田原城に滞在している時に戦が始まってしまったのです。僅かな手勢のまま参戦し、行った先で討ち死に。氏資の死後、岩槻城に北条家の身内が入ることを考えると、いろいろと想像せざるを得ません。

■芳林寺にて■ほうりんじ
<山門>
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<道灌と氏資に関する説明>
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<太田道灌像>
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<太田氏資像>
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最後に
氏資の妻・長林院は、氏資との間に授かった娘とともに江戸に移り住みます。しばらくの時を経て岩槻城に北条氏政の四男・氏房が入城する際、岩槻太田氏の血を引く娘は氏房の妻となり、長林院も再び岩槻へ戻りました。

氏資の父・太田資正は、1590年の豊臣秀吉による北条征伐の際、小田原に参陣しています。つまり、息子が寝返り、命まで捧げた関東覇者が滅ぶ様子を見届けていたわけですね。その翌年亡くなりました。

■訪問:芳林寺
[埼玉県さいたま市岩槻区本町] 1-7-10



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-------------(追 記)-------------
芳林寺については太田道灌ゆかりの寺として別途投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
■投稿:2018年01月06日
■タイトル:道灌ゆかりの寺 芳林寺
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タグ:埼玉
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2019年08月25日

東京国際フォーラムの太田道灌像

文武ともに一流、そして江戸城築城者としても知られる太田道灌が、主に裏切られ暗殺されたのが1486年8月25日。つまり今日です。何となく意識して、道灌の銅像がある場所を訪ねてみました。

<太田道灌像>
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東京国際フォーラムの太田道灌像です。室外ではなく、近代的なガラス張りの建物の中にあります。

<展示スペース>
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銅像とともに道灌のプロフィールや戦績などを紹介するパネル、そして江戸城の模型が展示されています。

<江戸城天守模型>
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84分の1大に作られた模型

<道灌時代の江戸城>
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これは興味深いですね。家康により拡張される前の江戸城です。日比谷の入り江が城近くまで迫っています。扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が江戸城を築いたのは長禄元年(1457年)。道灌は当時25歳でした。

<銅像>
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制作者:朝倉文夫

<開都五百年記念>
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この銅像は江戸城築城500年(開都500年)を記念して旧東京都庁の敷地内に建てられたものです(1956年)。都庁の新宿移転に伴い、跡地に建てられた東京国際フォーラムに設置し直されました。

城下町江戸といえば徳川時代をイメージしますよね。ただスケールこそ違えど、道灌の時代にも城下に庶民は暮らしていました。道灌がこの地に一定規模の城を完成させた。その基盤があったからこそ、関東に入った家康もこの地を拠点にできた訳ですね。そういう意味で、道灌による江戸城築城をもって開都と呼ぶのは分かる気がしますね。江戸の基礎を築いた男。それが太田道灌ということですね。

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道灌の目線の先は江戸城です。

ということで
旧都庁の敷地に建つ太田道灌像のご紹介でした。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる人がいたら嬉しいです。

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太田道灌像はフォーラムの1階。東京駅側の入り口付近です。

■訪問:東京国際フォーラム
[東京都千代田区丸の内]3丁目


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2019年08月19日

秩父神社の社殿 代官・成瀬正一のなごり

とても有名な神社を訪ねました。

<秩父神社>
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JR秩父駅からは徒歩圏内。宝登山神社、三峯神社とならび秩父三社のひとつです。

創建は紀元前と伝わる秩父神社。こんな関東屈指の歴史を誇る神社を、拙ブログでご紹介なんてとんでもないのですが、現存する社殿徳川家康寄進ということで、その部分だけ触れさせて頂きます。


■家康により再建された社殿■
家康の時代の社殿が現役で活躍している。これだけでも凄いことですよね。勿論、たいへんなメンテナンスを施しているのでしょう(1970年には解体復元)。当時の建築様式を留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。

<社殿正面>
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<社殿の彫刻>
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当時の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)により施された豪華な彫刻が目をひきます。日光東照宮の眠り猫も甚五郎によるもの。ちなみに、名の由来は左利きであったためともいわれています。

戦国末期、秩父は小田原北条氏の支配下でした。実質的には鉢形城を拠点とする北条氏配下ですかね。しかし豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると(1590年)、関東に入った徳川家康の支配下となります。そして1592年、徳川家康は社領57石を秩父神社に寄進し、代官・成瀬吉右衛門に社殿を建造させました。


■成瀬正一■ なるせまさかず
家康の命を受けて秩父神社の本殿再建を行った成瀬正一、通称・吉右衛門は、古くから徳川に仕える三河武士。出奔して武田氏に仕えたこともありますが、再び徳川に戻り、数々の有名な合戦で活躍しています。

家康が武田軍に完敗した三方ヶ原の戦いにも参加。この時、兄である成瀬正義は家康本陣を守り、武田軍屈指の武将・馬場信春が迫ると正一に家康の警護を託し、自らは主が逃げる時間を稼ぐために討死。正一は浜松まで逃げ帰る家康に同行し、のちに成瀬の家督を継ぐことになりました。

武田勝頼に奪われた高天神城を家康が奪回した戦(1580年)においては、正一は日下部定好と共に各砦の包囲網強化で勝利に大きく貢献。また、武田滅亡後の信長の『武田狩り』に対しては、旧武田家臣を匿い、のちには家康に働きかけて徳川氏への取り込みを図っています。更には、徳川の軍法を知り尽くした家康の側近中の側近である石川数正が豊臣秀吉の元へ出奔すると、正一には武田式の軍法を取り入れる大きな役割が回ってきます。かなり省略しましたが、いかに家康から信頼されたかご理解頂けるかと思います。

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やがて鉢形城の代官になった成瀬正一は、家康から秩父神社の本殿再建を命じられます。その時に完成したのが、現存する秩父神社の本殿。代官・成瀬正一のなごりです。

ちなみに、一般には正一の長男・正成の方が有名かもしれません。鉄砲隊を率いて活躍し、家康に認められ、やがては犬山城主となります。そう、明治どころか平成まで城主だった(城を私有していたという意味)成瀬氏の祖となった人物です。今回ご紹介の成瀬正一は、息子らが家康から充分過ぎるほど認められていることを理由に、敢えて大名にはならなかったと言われています。

以上です。
見どころ沢山の秩父神社で、家康とその家臣・成瀬正一のことを思い出してくれたら嬉しいです。

■訪問:秩父神社
[埼玉県秩父市番場町]1-1


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2019年05月05日

仙波東照宮 日光へ向かう途上の大法要

今回は川越の東照宮の話です。

<仙波東照宮>
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■仙波東照宮■ せんばとうしょうぐう
言うまでもなく家康を祀る東照宮。神格化された徳川家康、つまり東照大権現を祀る神社のことですね。一時期その数は五百を越えたそうです。凄いですね。大名が将軍家に気を使い、競うように建立したことも影響しているようです。ちなみに、現存は約130社とのこと。それでも多いですね。今回訪問の東照宮もそのうちの一つではありますが、深い歴史があることを、ちょっとだけご紹介させて頂きます。

<随身門>
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ここ仙波東照宮は、喜多院の住職となった天海僧正が家康を祀ったものです。徳川家康は駿府城で亡くなりました。遺言に従い、一旦は久能山(静岡)に葬られましたが、日光山(栃木)に改葬の途中(つまり移送する途上)、天海は家康の遺骸を喜多院(埼玉)に4日間留め、大法要を営んだそうです。そのことから、喜多院の境内に東照宮が祀られることになりました。久能山から日光まで19日を要したようですが、そのうち4日は喜多院に留まっていたということですね。

<石段>
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重要文化財の鳥居を通過すると石段

日光・久能山・仙波を「日本三大東照宮」と呼ぶそうです。まぁ日光と久能山に自社を加えて「三大」とする例は、ほかの東照宮でも見聞きしますが、せっかく来たのだし、歴史の重みも感じたので、しばらくそう思うことにします。

<東照宮拝殿・幣殿>
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更に奥に見えているのが本殿です。

<説明板>
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歴代川越城主が奉納した石灯籠の配置

<平唐門と本殿>
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国指定重要文化財です。1638年(寛永15年)におきた川越の大火災で一旦は消失したものの、3代将軍家光の指示ですぐに再建されました。現在に至るこの社殿は、その時(1640年)に完成したものです。

明治初期の神仏分離令により、仙波東照宮は喜多院から切り離され、川越八幡宮の管理するところとなりました。とはいえ同じ敷地内です。喜多院訪問の際には、家康のブレーン的な存在だった天海が大法要を営んだことなどを思い浮かべながら、そのなごりを感じてみては如何でしょうか。

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■訪問:仙波東照宮
[埼玉県川越市小仙波町] 1-21-1


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2019年02月27日

浦和にもある戦国武将ゆかりの地(廓信寺)浦和郷と高力清長

岩槻や川越と比べると、戦国武将との縁が少ないめの浦和。いわゆる城下町だった訳ではなく、中山道の宿場として発展した町ですからね。今回はそんな浦和で、家康の有力家臣だった高力清長と関係のあるお寺を訪ねました。

<廓信寺>かくしんじ
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北浦和の浄土宗寺院。 由緒ある古い寺として知られています。1609年、浦和郷の代官だった中村弥右衛門吉照により創建されました。

<仁王門>
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<金剛力士像(阿形・吽形)>
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さいたま市の有形文化財です

■高力清長と浦和■こうりき きよなが
高力清長は徳川家康の三河時代からの側近です。活躍を上げたらきりがありませんが、家康最大級のピンチだった伊賀越えに随行していたと言えば、その存在の重みが伝わるのではないでしょうか。更に、かなりの「正直者」だったそうで、家康からの信頼も絶大なものがありました。

浦和と何が関係あるのか?

家康に従って戦乱の世を駆け抜けてきた清長は、小田原北条氏滅亡後、岩槻に2万石の所領を与えられます。この時、浦和郷1万石も預けられました。

預かる?

これは正式な所領とは異なり、幕府の土地(蔵入地)を預かるという意味です。預り地は、実質領地のように扱われ、年貢も管理者が役得としてもらっても問題なかったようですが、浦和郷を預かった清長はこれを良しとせず、年貢は全て江戸へ運ばせたそうです。

戦国武将・高力清長は、役人としても立派だったわけですね。

清長が浦和郷の統治のために代官に任命したのが中村弥右衛門。浦和に陣屋(針ヶ谷陣屋)を構えて、その任務にあたりました。清長を慕っていた中村弥右衛門は、清長が亡くなるとその冥福を祈るため、今回訪問の廓信寺を創建しました。これが江戸初期のお話。廓信寺の長い長い歴史はここから始まります。

<廓信寺山門>
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立派な寺院。そして浦和郷を預かった高力清長のなごりです。

ということで
浦和にもある戦国武将ゆかりの地のご紹介でした。


最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■訪問:超勝院 廓信寺
[埼玉県さいたま市浦和区北浦和]3丁目


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