岩槻の龍門寺です。3百石の旗本の家に生まれ、2万石の岩槻藩主となった大岡忠光のお墓があります。忠光は9代将軍徳川家重の難のある言葉を唯一理解できた側近で、信頼も厚かったとのこと。あの大岡越前の遠縁でもあります。
■大岡忠光■おおおかただみつ
忠光は旗本の長男として生まれました。徳川吉宗の後継者となる家重の小姓となったことで城詰めの侍となり、以後側近として長らく家重を支え続けた人物です。徳川家重はあまり体が丈夫ではない上に、話す言葉がはっきりせず、家臣たちに直接語り掛けることは困難でした。しかし幼少よりお仕えしている忠光は家重の発する言葉を聞き取り、趣旨も理解できたそうです。
公私ともにお手伝いをしてきたわけですからね。普通の人に難儀なことも、忠光にとっては慣れ切ったことなのかもしれません。
当然の流れですが、家重から全幅の信頼を得ることになり、結果として異例の出世となりました。
■時代劇での悪役■
上記のような史実から、時代劇では時々ヒール役として登場する場合もあります。将軍の言葉を唯一理解できる。将軍に代わってこれを家臣団に伝える。そこに私意を混ぜ込めば、確かに悪いこともできてしまいますよね。
でも実際にはそんなことはなく、大岡忠光は私欲どころか、政治そのものに口を挟むこともしなかったようです。ただただ家重のために尽くしました。当時、将軍の身の回りで起きる事がどの程度城外に伝わるのかわかりませんが、庶民からの評判も良かったようです。
■岩槻藩主■
徳川家重との出会いがなければ、大岡忠光は普通に江戸中期の普通の旗本で生涯を閉じたのかもしれません。しかし上総勝浦藩1万石の大名、そして最終的には2万石の武蔵岩槻藩主となりました(1756年)。岩槻藩主の座は、忠光の子である忠喜に引き継がれ、以降明治まで大岡家が代々藩主を務めました。
■龍門寺訪問■
<龍門寺入り口>
日光御成道に面した古い寺院です。
<山門(三解脱門)>
<山門内側>
<開期霊屋>
<聖観世音菩薩>
<鐘楼>
<七福神>
<境内>
<本堂>
宗派は曹洞宗です。龍門寺は忠光以降、大岡家の菩提寺となりました。
■つわものどもが夢の跡■
<大岡忠光墓所>
大岡忠光は岩槻藩主となった4年後(1760年6月9日)に没しています。9代将軍徳川家重は、その後まもなく長男(家治)に将軍職を譲っています。そして1761年7月13日に没しました。
■訪問:龍門寺
[埼玉県さいたま市岩槻区日の出町]
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