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2023年08月13日

鷹山が設立した藩校のなごり(米沢市)興譲館跡地

米沢藩の藩校跡地を訪ねました。

<興譲館跡地>こうじょうかん
yonezawakojokan-monument.JPG
貫禄がある石碑です。比較的新しいようですね(建立2008年)。

この地はあの上杉鷹山が、藩の人材育成を目的に設立した藩校の跡地です。「興譲館」と名付けたのは細井平洲。鷹山の師ですね。細井平州は尾張国の出身の儒学者で、37歳のときに当時14歳の鷹山の師となり、教育にあたりました。鷹山は藩主となったのちも、平洲を生涯の師と仰ぎました。興譲館には、藩政改革を成し遂げた名君と、その師である儒学者の、両方の思いが込められているわけですね。

江戸時代初期に米沢藩の礎を築いたのは、初代藩主の上杉景勝、そして重臣の直江兼続です。会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となった当時、上杉家には財政的ゆとりはありませんでした。危機を脱するため、直江兼続は城下町の整備や治水、荒地の開墾などを精力的に行う一方で、本人の私財も投入し、学問所を創設しました。長い目で藩を繁栄させるには、人の育成が必要であると考えたからですね。
兼続の学問所「禅林文庫」はその後廃れてしまいすが、中興の祖となる上杉鷹山の登場で、100年以上の時を経て、また藩としての学問の場が再興されたことになります。


<興譲館の図>
site-of-yonezawakojokan.JPG
当時の藩校の様子です。2階建て?のようですね。全てがゼロからのスタートだったわけではなく、私塾を藩としての学問所として再建したようです。そして、医師も含めた多くの優秀な藩士を輩出しました。

現在の県立米沢興譲館高校は、この藩校の流れを継承しているとのこと。ということは、300年以上の歴史のある高校ということになります。凄いことですね。そして、とても羨ましいです。

<記念碑>
Yonezawa-Hankouato.JPG
苦しいからこそ、学びが必要。そして、具体的に実践する。あまり評価されていなかった直江兼続を手本とした上杉鷹山らしい足跡ですね。

■訪問:藩校興譲館跡地
[山形県米沢市中央]2丁目

■参考:米沢市HP
「藩校興譲館の跡地」

https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/5663.html


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2022年08月22日

上杉鷹山公をNHK大河ドラマに…賛成です!

上杉鷹山が祀られている神社に、こんな幟が掲げられていました。

<鳥居脇の幟>
Yozan-Uesugi-Matsugasakijinja-gate.JPG
上杉鷹山公をNHK大河ドラマに…?

賛成です!!!

以前からそんな思いはありましたが、ここ最近の世の中の具合を見ていると、いまこそ上杉鷹山が見直されるべき時なのではないでしょうか?

Uesugiyozanko-o-NHKtaigadoramani.JPG
それにしても、いつからこんな幟が…

私の訪問は2022年(令和4年)8月中旬です。昨年11月に訪問した時にはありませんでした。よくみれば『上杉鷹山公NHK大河ドラマ化をすすめる会』と記されています。鷹山を大河ドラマにという声はよく耳にするお話でしたが、こういう会が発足していることは知りませんでした。

<松岬神社>まつがさきじんじゃ
Yozan-Campaign-flag.JPG
ここ松岬神社には、米沢藩の礎を造った上杉景勝と直江兼続と並んで、のちに財政難で危機的状況に陥った藩を立て直した上杉鷹山も祀られています。そして鷹山が師と仰ぐ細井平洲、鷹山の改革に尽力した竹俣当綱と莅戸善政も。ここ米沢の地で、逆境に立ち向かった人たちばかりです。

<松が岬公園の鷹山像>
Yozan-Uesugi-Matsugasaki-Park.JPG
鷹山は米沢藩第9代藩主。いまの時代だからこそ、改めて評価されるべき人に思えてなりません。

■訪問:松岬神社
[山形県米沢市丸の内]1-1-38


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■当ブログ過去記事■
当ブログの『鷹山ゆかりの地』です。ご興味のあるところだけでも、覗いて頂けたら嬉しいです。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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鷹山の改革は江戸屋敷から

A晩秋の米沢城記事へすすむ
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米沢藩は破産寸前でした

B籍田の碑記事へすすむ
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藩主自ら農民たちを励ましました

C白子神社記事へすすむ
sirononagori172shirako (1).jpg
神罰を受ける覚悟でした

D原方衆屋敷跡記事へすすむ
sirononagori173 (1).JPG
下級武士とともに歩みました

E山中の塩田跡記事へすすむ
sirononagori174onogawa (1).jpg
多くの経済政策を試みました

F普門院記事へすすむ
sirononagori175Yozan (2).jpg
鷹山にも師と仰ぐ人がいました

G餐霞館跡記事へすすむ
sirononagori170yozan (2).jpg
隠居してからも戦いは続きました

H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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実子を失う悲しみを背負いました

I松岬神社記事へすすむ
sirononagori178Yozan.jpg
今回訪問の松岬神社について

2020年01月01日

鷹山が向き合った上杉家の氏神 春日神社

今回は米沢市の春日神社と上杉鷹山の話です。

<春日神社>
shirononagori401k.jpg
場所は上杉神社の向かって左手になります。謙信を祀った上杉神社と比較して地味ではありますが、春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。

shirononagori401j.jpg
大正時代の火災で一旦社屋は失われましたが、昭和になって再建され、今に至ります。スケールより、この凛とした姿が印象的です。

■ 創 建 ■
上杉謙信が大和の春日大社より分霊して越後の春日山城に創設したことに始まります。謙信(当時は長尾影虎)が名を継ぐことになった上杉家は藤原家の家系で、その藤原家の氏神が春日神だったことが背景にあるようです。謙信本人はのちに改宗していますが、謙信亡き後、上杉家は越後から会津を経てここ米沢へ移ることになり、これにともなって春日神社も米沢へ移されました。当初、同じく越後から米沢へ移った林泉寺の境内に鎮座していたそうです。

■春日明神と鷹山■
米沢藩の財政難を立て直すことになる上杉鷹山(治憲)は、藩主となる際、決意表明を記した誓詞を春日神社に奉納しました。その内容は

民の父母の心構えを第一とする
学問・武術を怠らない
質素・倹約を忘れぬ
賞罰は正しく行う

この誓詞は鷹山が亡くなっただいぶあと、林泉寺の火災がきっかけで公になったそうです。つまり、政治家が民に対して掲げる公約ではなく、人知れず己に課したことです。

神社でお願い事をする人の話をよく耳にしますが、私個人にあまりそういう感覚が無く、どちらかというと「ありがとうございます」とか、感謝を伝えるだけです。しかし上杉鷹山の場合は、そのどちらでもないようです。

自分がなすべきことを誓う
その証人となってもらう

そんな場なのだと感じました。

上杉鷹山は養子です。親戚関係ではありますが、いわばよそ者です。

よそ者が名門上杉家を継ぐ

挑む覚悟の証として、敢えて上杉家の氏神に宣言をしたのかも知れませんね。

■訪問:春日神社
[山形県米沢市丸の内]


(補足)
当ブログは平凡な会社員が思うことを記しているだけです。なるべく下調べなどもしておりますが、所詮は素人ですので、内容の不適切はご容赦下さい。拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。


-------■ 追 記 ■-------

再訪した時の画像を追加で貼っておきます
Yonezawa-kasugajinja-Tori.JPG
Yonezawa-kasuga-jinja.JPG
Yonezawa-kasuga.JPG
Yonezawa-kasugajinja- Explanation- board.JPG
[撮影:2022年8月]

為せば成る 名君といわれる鷹山からのメッセージ

<松が岬公園の鷹山像>
shirononagori400 (2).JPG

為せば成る
為さねば成らぬ何事も


広く知られた上杉鷹山の言葉です。どなたでも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。ただこの言葉、実は続きにこそ深い意味が込められています。

為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり

つまり『ことが実現しないのは、人が成し得ようとしないからだ』とも受け止められます。名君といわれる鷹山の言葉、実は結構厳しいメッセージですね。もっと極端な言い方をすると『実は本気でやってないんだろ?』くらいにも感じられます。冒頭の『為せば成る』は、やればなんとかなるといった軽いものではなく、覚悟してことにあたれば成し得るという強い意味なのですね。

強くあらねばと思う時、励みになる名言です。
他人に強いる言葉ではなく、自分に問いかけるべき言葉と受け止めました。


■ゆかりの地訪問記■
以下は昨年の年末年始に連続してご紹介した『鷹山ゆかりの地』です。私と同じく、童門冬二さんの小説『上杉鷹山』に感銘を受けたという友人と二人で、米沢を旅した時の記録です。ご興味のあるところだけでも、覗いて頂けたら嬉しいです。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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改革は江戸屋敷から始まりました

A晩秋の米沢城記事へすすむ
sirononagori170yozan (1).jpg
米沢藩は破産寸前でした

B籍田の碑記事へすすむ
sirononagori171Yozan.jpg
苦難続きの農民たちを励ましました

C白子神社記事へすすむ
sirononagori172shirako (1).jpg
神罰を受ける覚悟でした

D原方衆屋敷跡記事へすすむ
sirononagori173 (1).JPG
半農の下級武士とともに歩みました

E山中の塩田跡記事へすすむ
sirononagori174onogawa (1).jpg
多くの経済政策を試みました

F普門院記事へすすむ
sirononagori175Yozan (2).jpg
鷹山にも師と仰ぐ人がいました

G餐霞館跡記事へすすむ
sirononagori170yozan (2).jpg
隠居してからも戦いました

H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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悲しみを背負って生きました

I松岬神社記事へすすむ
sirononagori178Yozan.jpg
中興の祖として祀られています

以上です

最後に鷹山を尊敬した大統領の話をご紹介します。

■ケネディが尊敬した日本人■
かつてジョン・F・ケネディ大統領が、日本人記者から「もっとも尊敬する日本人は?」と聞かれ、鷹山の名前を挙げたという話はよく知られています。時を経て、駐日米大使となった長女のキャロライン・ケネディが山形県米沢市を訪問しています。

shirononagori400 (1).JPG
大使からのメッセージが記されています。以下に言葉を抜粋します。

『父が敬愛していた上杉鷹山は、領民に対し力を尽くし、教育に献身し、そして、一人一人に世の中を良くする力があるという信念を貫いたリーダーです。』
(中略)
『父は「人は一人でも世の中を変えることができる、皆やってみるべきだ」とよく言っておりました。しかし、鷹山ほど端的にそれを言い表した人はいません。「なせばなる」と・・・。』



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2018年01月02日

なせば成る 鷹山ゆかりの地(まとめ)

<米沢城址の石碑>
sirononagori170yozan (4).JPG
なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

■鷹山ゆかりの地(まとめ)■

上杉鷹山ゆかりの地を、10回に分けて投稿させて頂きました。宜しければ覗いてみて下さい。@だけが東京。他は山形県米沢市になります。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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A晩秋の米沢城記事へすすむ
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H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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I松岬神社記事へすすむ
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以上です。なるべく正しい(と一般的に言われている)情報を背景にブログを作成していますが、個人的な思い込みをふんだんに入れてありますので、どうぞご容赦下さい。歴史の専門家ではなく、下記の小説「上杉鷹山」を読んで涙する普通の会社員のブログです。それでも、共感してもらえたり、参考にしてもらえれば嬉しいです。


■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二



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2018年01月01日

松岬神社 鷹山ゆかりの地I

鷹山ゆかりの地
最後に鷹山が祀られている米沢市の神社をご紹介します。

■松岬神社■まつがさきじんじゃ
sirononagori178Yozan.jpg
[住所]米沢市丸の内
[祭神]上杉景勝・直江兼続
上杉鷹山・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政

派手さはありません。逆に、そこに上杉家らしさを感じずにはいられません。米沢藩の礎を造った景勝と兼続とともに、中興の祖・上杉鷹山も祀られています。
そして鷹山が師と仰いだ細井平洲。更に鷹山に抜擢された二人の家臣・竹俣当綱(たけのまたまさつな)と莅戸善政(のぞきよしまさ)も祀られています。

祀られているのは全て実在した人たち。共通していることは「逆境と向き合った」ということでしょうか。神がかり的な快進撃で、逆境を一気に跳ねのけたわけではありません。地道な努力と忍耐、そして挫折も繰り返しながら、長い年月を費やしてようやく事を成しました。

そういう姿にこそ、人は心惹かれるのかもしれませんね。

2017年12月31日

上杉顕孝の廟 鷹山ゆかりの地H

<上杉家御廟所>
sn177uesugike (2).jpg
[米沢市御廟]1丁目

この御廟所については、以前当ブログでもご紹介したさせて頂きました。
記事→『荘厳の廟所

今回は九代藩主鷹山、そして藩主になるはずだった鷹山の実子についてご紹介させて頂きます。

<歴代藩主の廟>
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廟が整然とならんでいます。初代藩主・景勝に始まり、以後12代までがこの地に埋葬されています。


<九代藩主・治憲(鷹山)>
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一番左が鷹山の廟です。右隣とは屋根の造りが違いますね。倹約のため簡素化し、材質も落としているそうです。

<小さな廟>
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その鷹山の廟の左側の奥。歴代藩主より一段下ったところに、やや小さな廟が設けられています。

これは鷹山の長男の廟。鷹山は、側室お豊の方との間に子を授かりました。名は顕孝(あきたか)。鷹山同様に細井平洲を師と仰ぎ、将来の藩主となることが期待されました。しかし病気のため若くして他界してしまいました。鷹山の名言「なせば成る・・・」は、顕孝に心構えを示した言葉とも言われています。

倹約質素を貫き、生涯を藩の改革に捧げた上杉鷹山。特別な待遇があるとしたら、この墓所だけかも知れません。鷹山は歴代藩主、そして息子・顕孝とともにこの地に眠っています。


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2017年12月30日

餐霞館跡 鷹山ゆかりの地G

つわものどもが夢の跡
上杉鷹山が隠居後に暮らした邸宅跡を訪問しました。

<餐霞館遺跡>さんかかん
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[米沢市城南]

■鷹山の隠居■闘いはつづく
17歳の若さで藩主となった鷹山。35歳で隠居し、家督は前の藩主にして養父の重定の次男・治広に譲りました。改革はまだ道半ば。この隠居には諸説あります。

⇒天明の大飢饉
これは凶作が続いたことにより、特に東北地方が大打撃を受けた飢饉です。江戸にも影響、近代で最大の飢饉でした(日本全国の餓死者は百万と推定される大飢饉です)。当然米沢藩にも影響。倹約に取り組んでいた鷹山ですが、ここで新潟や酒田から米を買い集め、領民に分け与えます。この英断により、米沢藩の領内では餓死者が出ませんでした。ただ、あまりにも大きな代償。凶作で収入が半減している一方での臨時の支出です。再び借金が膨らみました。この責任という形で、藩主の座を降りたとする考え方があります。
良いことをして、なんでそこまでする必要が?と思いますが、鷹山はまだ家臣団全員から支持されていたわけではありません。抵抗勢力に対し、筋を通したのかも知れませんね。

⇒養父の実子
鷹山が重定の養子となったのが1760年。次の藩主・治広は1764年生まれです。鷹山は、養父が存命中にその実子へ家督を譲ることで安心させたかった・・・という見方もあります。

⇒実務に専念
これは現代の会社や役所でもあることかも知れません。ポストにはやたらと形式的な手間が付いて回るので、実務に集中できない。まぁ何事ないときはそれでも良いですが、改革を急ぎたい鷹山にとって、藩主の身分はかえって不便。敢えて影に回ったとする説があります。

いずれにせよ、隠居後も重定、そして治広の要望により、鷹山は藩政に関与し続けます。

■霞を食べる■
餐霞館の意味は「霞を食べる住処」、つまり世俗を離れ清貧の生活を営む館ということです。その意味を知った上で餐霞館遺跡の小ささを目の当たりにすると、鷹山は狭くて質素な空間で仙人のように暮らしたのか?などと思ってしまいますが、実際は違うようです。

今の雰囲気とは異なり、当時の餐霞館は土地の広さ約3千坪の大きな平屋。相変わらず暮らしそのものは質素だったようですが、本丸を出でここ(当時の三の丸)へ移ったのちも、のんびり暮らせたわけではなく、生涯を藩の改革に捧げました。この地はいわば執務室を兼ねた住処。「第2ステージ」始まりの場所だったわけですね。

■側室の存在■
鷹山の正室は幸姫 (ゆきひめ)。重定の次女です。日向高鍋藩の次男として生まれた鷹山は、この幸姫と生涯をともにすることを前提にして上杉家の養子となりました。ただ幸姫は健康に難があり、例えて言えば、心身ともにずっと幼女のままだったようです。三十歳で亡くなるまで、鷹山がこの幸姫を大切にしたことはとても有名です。 また、江戸藩邸で暮らす娘の事情を、米沢で隠居していた重定は遺品で知ることとなり、改めて鷹山に感謝したと伝わります。

さて、このような事情もあり、家臣は側室を持つことを鷹山に勧めます。拒んでいたようですが、結果としては米沢で一人の側室を迎え入れました。この『お豊の方』、活躍のわりには幸姫ほどは知られていません。幸姫の話があまりに有名だからでしょうか。
お豊の方は鷹山より10歳年上、遠縁にあたります。鷹山が自ら鍬を手にしたように、ここ餐霞館で絹を織ったり・・・活動的でありながら、陰に回って鷹山を支え続けました。そして何より、孤立しそうな改革者の良き理解者であり続けました。お豊の方は一般的な呼び方で、名は浄鏡院(じょうきょういん)。鷹山との間に子供をもうけています。

総じて苦難の多い上杉鷹山。ここ餐霞館では、妻と子と過ごす時間もあったわけですね。


■晩年の鷹山■
上杉治憲(はるのり)。これがもとの名です。米沢城東北に位置する白鷹山(しらたかやま)にちなみ、鷹山と号したと伝わります。この時52歳。もうそろそろ本当に隠居しても許されそうですが、鷹山は最後まで藩政に関わりました。

1822年、上杉家の中興の祖・鷹山は72歳で没します。側室であるお豊の方の死から4ヶ月後のことでした。

もともと幕府への領地返上が検討されるほど財政危機だった米沢藩。かなりの時間は要しましたが、改革者鷹山の死後まもなく、藩の借金は返済し終わったそうです。

<餐霞館跡の石碑>
sirononagori176.JPG

なせば成る
なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の
なさぬなりけり

この有名な言葉は、ここ餐霞館の一室に掲げた壁書の一部でした。米沢城三の丸。鷹山が人生の半分以上拠点とした場所です。


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