上杉家の劇的ドラマの舞台である米沢藩上杉家の江戸屋敷跡を訪ねました。
城跡じゃない?
はい。
今回は上杉ファンが「ゆかりの地」を訪ねたというお話です。越後でも米沢でもなく東京都内。何かのついでにふと思い出して、立ち寄ってもらえたら嬉しいです。
■現地訪問■
<記念碑>
[東京都千代田区霞が関]
屋敷らしい痕跡はなく、このモニュメントだけ。場所は法務省の敷地内です。どこだろうと思って歩いていたら、植え込みの中から突然現れました。私はウロウロと迷って多少時間を要しましたが、有楽町線桜田門駅から歩いて数分で来られる場所です。
仕事が東京の方でも、あまり馴染みのないエリアですよね。警視庁もすぐそば。この付近、テレビでは良く見かけますが、ゆっくりと散歩するのは初めてかもしれません。近くの「桜田門」までなら何度か来てるはずですがね(城跡として)。そこから道を渡って、わざわざこっちまで来ることはありませんでした。
<法務省の旧館>
法務省の旧館赤レンガ。こんなに近づいて見たのは初めてです。立派ですね。
<上杉家の家紋>
ここは東京のどまん中。なんとなく感慨深いものがあります。
よく「藩邸」という言葉が使われますが、厳密には「藩」ではなく「家」に対して敷地が与えられたようです。つまりこの場所も、米沢藩にではなく、上杉家に与えられた敷地ということですね。
■上杉家上屋敷■
こんなブログをやっているわりに、江戸の歴史にあまり詳しくありません。ただし上杉ファンの端くれです。江戸時代の上杉家上屋敷と聞くと。2つの出来事を思い出します。ひとつは『赤穂事件』、そして『上杉鷹山の改革』ですね。この二つ、時期は異なるものの繋がりがあります。
■赤穂事件と上杉家■ 忠臣蔵
元赤穂藩士47人が、主君の仇討ちのために高家旗本の吉良家を襲撃した事件。有名なお話ですね。討たれる側の吉良上野介、この実子(長男)が米沢藩4代当主の上杉綱憲です。3代藩主が後継者を定めないまま急死し、上杉家はお取り潰しの危機に。吉良家から養子を迎えることでなんとか存続しました。ただし、30万石の所領は15万石に半減。ペナルティですね。そして綱憲の舵取りにより、藩の財政はますます悪化したと伝わります。
さて、その上杉綱憲にしてみれば、実家が浪人たちに襲撃されている訳です。兵を率いて屋敷を飛び出し、吉良邸まで助けに行きたいところですね。しかし、もうそれができる立場ではありません。映画やラマなどでは、まだ若い藩主を家老が必死に止めに入るなど、この屋敷でのやりとりがちょっとした見せ場となっています。これと別に、幕府の命令で止められたという話もありますね。まぁ史実はわかりません。とにかく、赤穂浪士の討ち入りについては、藩主の個人的な思いは別として、藩そのものが巻き込まれることを誰も良しとは思わなかった。上杉家の屋敷内は、そういう雰囲気だったようです。
■鷹山の改革■
上記のような経緯で、米沢藩15万石の財政は最悪。この破産寸前の藩で改革を成功させたのが、9代藩主の上杉治憲(はるのり)。のちの鷹山です。
先述の綱憲同様、鷹山も名門家に養子で入った人物。その改革は、米沢本国に入る以前、つまりここ江戸屋敷で始まりました。財政そのものの以前に、まず人の心を変えなくてはならない。当主となった鷹山は、名門の家臣団ならではの「意識の壁」に立ち向かいました。鷹山の改革を補佐する竹俣当綱(たけのまたまさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)とは、ここ江戸屋敷で出会っています。
上杉鷹山を題材にした書籍はたくさんあります。私が一番感動した作品は童門冬二さんの小説『上杉鷹山』。この本との出会いは、自分の会社員人生にも大きく影響したと思っています。特に前半は涙なくして読めませんでした(今よりずっと若い私としては)。今回この地を訪問したのも、むかし感動した本のことを思い出し、改めて鷹山と向き合いたいと思ったからです。
童門冬二さんの小説から言葉を頂くなら、『火種』をもらいに来た。そんな感じですかね。
ということで、米沢藩上杉家跡のご紹介でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
■参考にした文献■
小説 上杉鷹山(集英社文庫)
著者:童門冬二
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タグ:上杉鷹山