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2024年11月17日

近世城郭忍城のなごり

つわものどもが夢の跡
行田市の忍城を訪ねました。

<忍城跡>おしじょう
Oshi-Castle-Gyoda.JPG
忍城址のシンボルとなっている御三階櫓

■ 戦国時代 ■
忍城を築城したのは地元豪族の成田氏(1478年頃)。扇谷上杉家に与する忍一族を滅ぼし、この地に城を築きました。成田氏は強大な勢力に翻弄されながらも、関東七名城のひとつに数えられる忍城を居城に、戦国の世を強かに生き残りました。しかし豊臣秀吉による小田原征伐の際(1590年)、北条氏に与していたことから領地を失うことになりました。要害堅固な忍城は、石田三成を総大将とする豊臣軍の水攻めにも屈しませんでしたが、頼りの小田原北条氏が豊臣秀吉に降伏。北条方で唯一落ちなかった忍城も開城となりました。

<現地説明板>
Oshijo-Explanation-Board.JPG
成田顕泰による築城から始まり、三成による水攻めにも耐えたことなどが紹介されています。そして江戸時代の改修など、明治維新を迎えるまでの歴史も記されていました。

■ 江戸時代 ■
徳川家康が関東へ移ると、忍城には家康四男・松平忠吉が10万石で入城しました。ただし忠吉は幼少であったことから、成人するまでの補佐役として徳川氏家臣の松平家忠が忍城へ移っています。城の補修といった土木技能に長けた家忠は、豊臣軍との戦いで荒れ果ててしまった城や城下の修復を行いました

その後、忍藩の藩庁となった忍城には、徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入りました。関東の要所となる城は、譜代大名や親藩の居城となることが多く、更に城主が幕府の要職に就く傾向にありますが、忍城は老中の排出数だと1です。忍城は佐倉城や川越城と並ぶ幕府のエリートコースでした。

■ 近世城郭 ■
1639年に老中であった阿部忠秋が5万石で城主となると、本格的な拡張工事が施され、忍城は近世に相応しい城郭へと生まれ変わりました。忠秋は、知恵伊豆と呼ばれる松平信綱と並ぶ幕府の中核中の中核で、江戸幕府初期の体制造りに働きのあった人物です。忍城の縄張りは、この時にほぼ完成形に至ったと考えられています。また、城下町の整備もすすみ、陸運・水運機能の向上によって大いに栄えました。
やがて忠秋の孫である正武(藩主在任27年:老中)のときに、忍藩は10万石となり、1702年には御三階櫓が完成しました。阿部氏が白河へ移ると(1823年)、桑名から松平忠堯が入り、以降は松平氏の城となります。

やがて明治となり、忍城も廃城。近世城郭として整備された城内の構造物はほとんど破壊、又は取り除かれました。現在はかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備され、江戸時代の雰囲気を醸し出す建物や石垣が復元されています。

<模擬御三階櫓>ごさんかいやぐら
Oshi-Castle-Restoration-Turret.JPG
城の天守に相当する御三階櫓です。阿部正武が築いた櫓は城の解体にともない破却されましたが、資料をもとに外観復元されています(内部は郷土博物館展示室)。本来は別の場所にあったようですが、いまは本丸跡に毅然と佇んでいます。三階櫓とは別に、かつての忍城には二階櫓が2棟あったようです。

<忍城址の表門>
OshiCastle-Main-Gate.JPG
郷土博物館の正面玄関です

<忍城の鐘の石柱>
Oshi-castle-Belltower.JPG
Oshijo-Belltower.JPG
松平氏が伊勢桑名藩から忍藩へ移った時(1823年)に、所有していた鐘も忍城へ移されました。鐘楼はもともと二の丸の東隅にありましたが、現在は諏訪曲輪の土塁上に佇んでいます。現在吊るされているのはレプレカで、市指定有形文化財となっているオリジナルの鐘は、郷土博物館に展示されています。

<郷土博物館裏手>
Oshi-Castle-Inside.JPG
管理が行き届いてとても綺麗な状態

<土塀>
Oshi-Castle-Wall.JPG
土塁といい城壁といい狭間(攻撃用の穴)といい美しい姿

<石垣>
Oshi-Castle-Stone-Wall.JPG
再建された石垣もかなり立派です

<藩校の表門>
Shinsyukan-Gate.JPG
こちらは郷土博物館の駐車場側に佇む門。城と馴染んでいて城門のようですが、もともと藩校の表門だったものが移築されたものと伝わります。

そして

<土塁跡>
Real-Earthwork-Oshi-Castle.JPG
こちらは復元ではなく遺構です。本丸の外周を囲んでいた土塁の跡。関東七名城のひとつに数えられる忍城のリアルな名残です。


■近世城郭忍城のなごり■
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
Oshijo-Chyokazu-Oshi-Suwa-Shrine.JPG
こちらは忍城址のお隣の忍諏訪神社で撮影しました。神社の境内もかつての城跡(諏訪曲輪)です。ご覧の通り、忍城は沼地に点在する島を曲輪として、橋でつないで城としました。明治以降、城の取り壊しのみならず、沼も埋められ曲輪は消滅しました。近代化を急ぐ時代でしたので、仕方のないことですね。

ただ、歴史的な価値が改めて認められるようになった結果、忍城址はかつての近世城郭を思わせる空間として整備されています。遺構は少なめですが、ひとの思いが造り上げた城のなごりが、充分に漂っていると感じました。

<近世城郭のなごり>
Oshi-Castle-Gyoda-Saitama.JPG
維持も大変かと思いますが、ここに10万石の城があったことの象徴であり続けて欲しいですね。

-------■ 忍 城 ■-------
別 名:浮き城 亀城
築城者:成田氏
築城年:15世紀後期
城 主:成田氏
    松平氏 阿部氏
改修者:阿部氏 他
廃城年:1871年(明治3)
[ 埼玉県行田市本丸 ]


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■参考
・現地説明板
(行田市教育委員会)
・市内高札風説明板Gyoda Story
「徳川幕府をささえたのは忍城主」
・Wikipedia:2024/11/17
・行田市HP

>歴史・文化財>指定文化財等>忍城跡
https://www.city.gyoda.lg.jp/soshiki/shougaigakusyubu/bunkazaihogo/gyomu/rekishi_bunkazai/1/2261.html
posted by Isuke at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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