武田勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城跡を訪ねました。
<高天神城本丸>たかてんじんじょう
■三方が断崖絶壁■
高天神城は三方が断崖絶壁という天然の要害です。麓からの比高約100m強の山に築かれたこの城は、激戦を繰り返すごとに進化を遂げ、最終的には東西二つのエリアに分かれた一城別格(中核となる曲輪が二か所ある)の構造となりました。
<高天神城の全体図>
[現地撮影:高天神城想像図]
東側の峰がもともとの高天神城で、本丸が配置されています。西側の峰がどの時代にどの程度利用されたかはわかりませんが、武田勝頼が城を拡張した時に、ひとつの城として完成したようです。大きな山城ではありませんが、とにかく斜面が垂直に近い急こう配となっており、比較的緩やかな西側には堀切や横堀が設けられています。
<平面図>縄張り
[現地撮影]
城好きの人がこの平面図だけを見たら、普通の縄張りと思うでしょうね。でも現地で実感するそれぞれの高低差を加味して眺めると、巧みな配置と思えます。
■今川から徳川■
城の始まりについては定かではありません。鎌倉時代に地頭の砦が築かれたという説もありますが、一般的は駿河の守護・今川家が遠江攻略のために城を築いたのが始まりとされています。今川家の勢力は駿河・遠江・三河の三ヶ国に及びましたが、桶狭間の戦い(1560年)で当主・今川義元が討たれて以降、徐々に衰えていきます。1568年には武田信玄が駿河に進攻、同時期に徳川家康が遠江に進攻して高天神城を占領しました。家康は今川に服従していた城主・小笠原長忠をそのまま家臣とし、今後は対武田の前線基地となるであろう高天神城を守らせました。
駿河と遠江の国境に位置する高天神城。城主・小笠原長忠の守りは堅く、1571年には武田信玄が大軍で攻めかかりましたが、僅かな兵で籠城し、これを凌いでいます。あの武田信玄でも落とせなかった城ということですね。高天神城は難攻不落の城として世に知られるようになります。
<高天神城からの眺め>
■武田勝頼対徳川家康の争奪戦■
いわゆる『高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。
(1574年:第一次高天神城の戦い)
武田信玄が1573年に没したのち、今度は跡を継いだ勝頼が高天神城を攻めます。勝頼はこの城の攻略の為に拠点として諏訪原城を築いたうえで、2万5千の大軍で高天神城をとり囲みました。城主の小笠原長忠は籠城で耐えながら、浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍は来ませんでした。その間にも武田勢の力攻めにより、曲輪は次々に落とされていきます。残すは本丸のみとなった長忠は、城兵の助命と引き換えに降伏しました。
勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許され、去る者の身柄が拘束されることもありませんでした。城主の長忠は、助けに来なかった徳川を見限り、武田へ降る道を選びました。
武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しました。高天神城は武田の手により改修され、旧今川家臣の岡部元信が城将として入りました。
さて
ここまでは勢いのあった武田勝頼ですが、1575年の長篠の戦いで織田徳川連合軍に大敗。優秀な家臣たちをまとめて失った上に、とりまく環境(上杉や北条との外交関係)も変化し、勢いを失っています。
(1581年:第二次高天神城の戦い)
勢いを失った武田に対し、徳川の反撃が始まります。守りの堅い高天神城に対し、徳川勢は力攻めはせず、兵糧攻めを行います。周囲に砦を築いて包囲し、補給路を断ちました。城は本国の武田勝頼に救援を求めますが、援軍は来ません。多く城兵が餓死し、最後は城将の岡部元信らが城から討って出て、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。
援軍を送れなかった
徳川家康にも事情があったように、武田勝頼にも苦しい事情がありました。しかし奪ったはずの城を奪い返され、更に援軍を送れなかったことは、武田の威信を失墜させました。その後の家臣団離反の一因になったとも考えられています。高天神城は城そのものの機能だけでなく、それくらい重要な意味を持つ拠点でした。
家康が奪還後、高天神城は城としての役割を終えました。
■現地訪問■
<石碑>
城の北側から登りました
<搦手門跡> からめてもん
大手とは逆側です
<登山道>
ひたすら登る
<三日月井戸>
いわゆる井戸というより岩肌から水が湧き出て溜まるところなのでしょう。これも貴重な水の手。なぜか金魚が泳いでいました。
<もうすぐ曲輪>
曲輪への入り口が見えました
<井戸曲輪>
名の通りで貴重な水を確保している区画です。籠城の際、飲み水を供給できる井戸曲輪は生き残りをかけた生命線となります。
<井戸>
『かな井戸』と呼ばれる井戸。『かな』は鉄分と関係がありそうです
<西の丸への階段>
二つの峰の西側へ、登った先は高天神社です
<高天神社>たかてんじんじゃ
西の丸付近に鎮座している天神社。もともとは別の曲輪(御前曲輪)に鎮座していましたが、江戸時代にこちらへ移されました。高い所にある天神さまということで高天神と呼ばれています。
<西の丸>
西側の峰の頂上です
<堀切>ほりきり
西の丸から馬場平へ向かう途中の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。
<馬場平>
ここは険しい山城の上層に位置しています。見張番所があったと考えられています。
<細い尾根道>
犬戻り・猿戻りと言われる難所です。本国の武田勝頼に敗戦を知らせるべく、家臣が駆け抜けたと伝わります
<二の丸ほか>
以下は西側の峰の周辺の画像です。改修により補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。
東側へ移動
<的場曲輪>
<本丸虎口と土塁>
<本丸>
高天神城の本丸。東側の峰の頂上です
<元天神社>もとてんじんしゃ
天神社は元々こちらにありました
<御前曲輪>
本丸の南側の区画です
<三の丸と土塁>
以上です
■つわものどもが夢の跡■
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。ここで勝つか負けるかは、武田勝頼と徳川家康のその後の運命にも大きく影響しました。
<元天神社>
--------■ 高天神城 ■--------
別 名:鶴舞城
築城主:福島氏
築城年:詳細不明
(16世紀初頭)
改修者:武田勝頼
城 主:小笠原氏 岡部氏
廃城年:1581年(天正9)
[静岡県掛川市上土方]
〜 下土方
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