極寒の冬に富山城から北アルプスを越えて浜松城までたどり着く。そんなことがあり得るのか。佐々成政は何でそこまでしたのか。
<富山城跡>
現在の富山県富山市
<北アルプス>
富山から見た山々。3千m級の山々が連なります。撮影は11月中旬です。このあともっと白く色づくことでしょう。どう考えても挑むのは無謀と思えます
しかし
佐々成政はあの山の塊を越えて行きました。
<浜松城跡>
現在の静岡県浜松市
<徳川家康像>
この人物に会うために
そこまでやるには、それ相応の経緯があります。どこまで遡れば良いか分かりませんが、絶対的な存在だった織田信長の死が、佐々成政のその後の人生を大きく狂わせたことは間違いありません。
信長亡きあと、その後継者として織田信雄を推す徳川家康と、それを良しとしない羽柴秀吉の対立がありました。この関係がそのまま小牧・長久手の戦い(1584年)となり、小牧山城や犬山城を中心に、半年以上に渡って全国各地で武力衝突が繰り返されました。この間、反秀吉の佐々成政は、秀吉に味方する前田利家支配下の末森城(能登国)を攻めています。城主奥村永福の抵抗により、末森城を奪いとることはできませんでしたが、佐々成政が精力的に動き出していたことは伺えます。
それにしても、前田利家といえば加賀の覇者であり、越中を領する佐々成政にとってはお隣さんです。逆側(東側)のお隣さんである上杉とも良好な関係ではありません。相当自信があったのでしょうか。
小牧・長久手の戦いは長期化しましたが、最終的には秀吉が条件付きで織田信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾します。これにより家康は大義を失い、その後まもなく、秀吉と和睦します。
えっ
終わっちゃうのかよ!
佐々成政は納得できません。そこで家康を説得することにしました。ただ、越中は北が海で東と西は敵対勢力という状況です。まともには動けません。そこで、南の山岳地帯を経由して家康のもとに向かうことにしました。厳冬期の北アルプス、ザラ峠を越えてです。これがいわゆる「さらさら越え」です。
繰り返しになりますが、真冬で積雪の多い時期の北アルプスです。現在の防寒具があったとしても、常人にできることではありません。「さらさら越え」は今から400年以上も前の話ですから、仮に獣の毛皮をまとったとしても、生身の人間が成し得ることとは思えません。
それでも
成政なんとか浜松の家康と対面を果たしました。
そして挙兵を促します。
どうする?家康!
2023年の大河ドラマではありませんが、そんな問いかけだったのでしょう。どうするもなにも、苦労に苦労を重ねてきた家康は、かなり思慮深い武将になっています。佐々成政の意見は聞き入れられませんでした。
うぁ
何のためここまで来たのか…
そんな感じでしょうか。成政は織田信雄からも良い返事は得られず、失意のまま来た道を戻ったと伝わります。また厳冬の北アルプスを越えたということですね。ちなみに、60名で出発しながら、帰ってきた時は7名だったそうです。
ただ、その後も成政が反秀吉の姿勢を崩すことはありませんでした。どこまでも意志を貫く男ですね。この結果、居城の富山城は秀吉率いる10万の大軍に取り囲まれることになりました。ここでついに成政は秀吉に降伏。「さらさら越え」の翌年の夏のことでした。
ということで
佐々成政の「さらさら越え」のご紹介でした。今回もまた個人的な雑感が混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。
最後に
「さらさら越え」はあくまで伝説ですが、孤立していた富山城主・佐々成政が、浜松で家康と対面したということは事実のようです。道中敵ばかりのなか、どうやって辿りついたのですかね。
拙ブログにおつきあい頂きありがとうございました。
■参考
Wikipedia:2022/12/13
お城巡りランキング
2022年12月13日
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