信州高遠城跡です。この城を拠点に、織田信長の侵攻に最後まで抵抗した武田の武将がいました。
■ 仁科盛信 ■にしなもりのぶ
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。勝頼の異母弟です。四男の勝頼が諏訪氏を継承して諏訪四郎勝頼を名乗ったの同じく、信濃国安曇郡の仁科氏を継承しました。信玄亡きあとは、本家に戻って当主となった勝頼に従い、武田親族衆として活躍しました。
長篠の戦いでの壊滅的な敗北を機に、武田の勢力は徐々に衰え始めます。追い打ちをかけるように、織田信長が甲斐・信濃・駿河など、武田の領内に侵攻(甲州征伐)。武田家臣団の離反や逃亡が相次ぎまました。明らかに旗色が悪いなか、仁科盛信は高遠城に籠城し、最後まで抵抗を続けました。
ここからは、現地説明板の一部を引用させて頂きます。『』内は原文の転記です。
「高遠城の戦い(古戦場跡)」と題した説明文
『伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。』
大軍を率いる織田信忠は、僧を使者にして降伏を促したようですが、籠城する武田軍には、まったくそのつもりはなかったようですね。その後も奮闘しますが、やはり数的不利は如何ともし難い状況でした。説明文の続きを引用させて頂くと『三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。』とのことです。
副将として入城していた小山田昌成を含め、多くの犠牲者を出しながら、高遠城は落城しました。そして盛信自身も自害。壮絶な最期です。
激しい戦いのあった城跡は、今では公園として整備され、桜の名所として知られています。高遠の桜が濃い色をしているのは、討ち死にした城兵の血を吸っているためとも伝えられています。
仁科盛信の自害に続き、兄の勝頼も天目山で自害となりました。これにより、戦国大名としての武田氏は滅びました。
高遠城は兄・勝頼が諏訪氏を継承した際に城主を務めた城でもあります。歴代城主に兄弟で名を連ねたわけですね。武田の勢力拡張期には攻めの城、逆に押し込まれた際には守りの城として機能しました。
説明板に記されていた『要害は必ず兵禍を被る』という言葉が忘れられません。この場合の「兵」はいくさのことですね。戦略の要となるような城は、決まって戦禍に巻き込まれる。そう受けとめました。
仁科盛信終焉の地です
■訪問:高遠城
(高遠城址公園)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考及び出典
・現地説明板(高遠城址公園)
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
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