<絵島囲み屋敷>
綺麗に管理された屋敷ですが、これは大奥女中筆頭だった絵島が長きに渡って幽閉された建物。見取り図を基に復元したものです。
幽閉に至る理由は?
■ 江島生島事件 ■えじまいくしま
事件が起きたのは1714年。将軍が第7代・徳川家継の時代です。家継の生母・月光院に仕えていた絵島(江島)は、主人の名代として前将軍・家宣の墓参りの帰りに、人気歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を見物。これだけなら問題にならなかったかもしれませんが、役者を交えての宴会、そして大奥の門限を破ってしまい、大問題となってしまいました。
これにより、旗本だった兄には死罪の処分が下され、役者を含めて流罪も多数、処分された関係者は千数百名にも及ぶことになりました。
現代人の感覚ではちょっと厳し過ぎますが、大奥の風紀を乱すということは、当時それくらい大問題だったのでしょう。絵島は人気役者である生島新五郎との密会を幕府から疑われ、拷問も受けています。いま風に言えば大スキャンダルだったようです。
絵島は本来なら死罪のところを、減じての島流しとされ、更に月光院の嘆願により、高遠藩へのお預けで落ち着いたそうです。時の将軍の生母をもってしても、そこまでが精一杯だった。それくらい大奥を揺るがす問題だったのですね。この時絵島は34歳。以降27年間、高遠城下の屋敷に幽閉されました。
<屋敷>
屋敷そのものはある程度の広さです。ただ、常に藩の監視下におかれ、絵島は屋敷内の一室に閉じ込められていたそうです。現地での説明(音声ガイダンス)を聞く限りでは、絵島の食事は朝夕二度で一汁一菜、着る物は木綿のみだったようです。他にも、いろんなことが制約だらけのなかで暮らしていたようです。
喰うには困らない?
とも言えますが、旗本の家に生まれ、大奥の筆頭女中にまでなった方ですからね…
<絵島の間>
絵島が過ごした部屋です。格子は現在の住宅なら防犯用ですが、これは逃亡防止用。牢と言えなくもない。高遠藩の措置が厳しいというより、逃げられてしまっては、幕府に面目が立たないということなのでしょう。
絵島は大奥のことを語ることもなく、お経などを読んで時を過ごしたとされています。その清らかな態度により、高遠藩主からも一目置かれたとのことです。
私は大奥について詳しくはないのですが、小説やドラマの影響からか、嫉妬やら内部の権力争いが激しいというイメージです。絵島の背負った罪、真実はどうだったのでしょうね?
<屋敷入口>
しばらくののち(1722年)、藩主・内藤頼卿による幕府への赦免嘆願により、絵島は屋敷周辺の散歩などは認められるようになったそうです。監視されていることに変わりはありませんが、少しだけよかったですね。また、高遠城へ登城し、城内の女性たちにしつけの指導をする機会も与えられたとのこと。しっかりとした、信用される女性だったのでしょうね。
■訪問:絵島囲み屋敷
(高遠歴史博物館)
[長野県伊那市高遠町東高遠]457
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■参考
・現地音声ガイダンス
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠に残る絵島囲み屋敷)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=900
タグ:長野