2022年07月23日

増上寺の土塀

<築地塀>ついじべい
Zojoji-temple-tsuijibei.JPG
こちらは芝増上寺の土塀です。土を厚く塗って固めた築地塀です

増上寺は何度も訪問していますが、壁に足を止めたのは初めてです。先日投稿させて頂いた熱田神社の「信長塀」を知ったことも影響しているのかもしれません。

こういった土壁は、江戸時代なら武家屋敷とか寺院などでよく見られたそうです。ただ明治以降は武家屋敷の多くが取り壊され、残った屋敷も震災や戦災の影響で姿を消しました。今となっては、街中でこういった塀を見られる場所は極めて少ないですね。増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで土壁を眺める人がいたら嬉しいです。

ということで
増上寺の土壁のご紹介でした。

Zojoji-tsuijibei.JPG

■訪問:増上寺
[東京都港区芝公園]4丁目


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■当ブログ過去記事のご紹介
下記は文中の『信長塀』に関する投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<信長塀>のぶながべい
Nobunagabei.JPG
投稿:2022年05月01日
→『記事へすすむ

2022年06月12日

村境の道切り(川越市笠幡)芳地戸のふせぎ

はやり病や悪霊などの侵入を防ぐために、村堺に縄を張ったり札を掲げたりする「道切り」という習慣。かつては日本各地で行われていましたが、いまではあまり見かけません。

今回はこの古き習慣が受け継がれている川越市笠幡を訪問しました。

<笠幡の道切り>
Village-border-Michikiri.JPG
水路沿いの道に設置された道切りの札。辻切りなどとも呼ばれますが、ここでは「ふせぎ」と呼ばれています。「防ぎ」ということですね。

<ふせぎの札>
Hōjidonofusegi-tsujifuda.JPG
村を守っているふせぎの札。ここがかつての村堺なのでしょう。いわば結界の類をはって、内と外を遮断するわけですね。

道切り(ふせぎ)の方法は地方によって異なり、注連縄を貼ったり草鞋をぶらさげたり、いろいろです。ここ笠幡では札(辻札)を掲げるわけですね。割った篠竹に御札を差し込み、ひもで縛りあげてあります。先端には藁を束ねて造った独特の飾り(と表現して失礼でしたらスミマセン)が備え付けられています。

別な場所も見てみますかね

<辻札>
Hōjido-no-fusegi-tsujifuda.JPG
ここは坂道の下に位置しています

Hōjidonofusegi-Village-border.JPG
言い換えると丘の麓。いかにも村の境という感じがします。丘の上に、ふせぎ行事が行われる神社があるということで、てくてくと登ることにしました。

<さざんか通り>
Hōjidonofusegi-sazanka-street.JPG
台地の隅であることを実感する坂道

<丘の上の神社>
Hōjidonofusegi-Shrine-on-hill.JPG
坂を登りきると鳥居が見えてきました。尾崎神社です。東征途上のヤマトタケルが、台地の先っぽで見晴らしの良いこの場所を「尾崎の宮」と称えて神を祀ったと伝えられています。

<尾崎神社参道>おさきじんじゃ
Hōjidonofusegi-Osaki-jinja.JPG
両脇に木々が生い茂る長い参道。鎮守の森といった感じでしょうか

<拝殿>
kawagoe-Osaki-jinja-Haiden.JPG

<本殿>
Osaki-Main-shrine.JPG

<境内>
Osaki-shrine-Woods.JPG
立派な神社です。全てご紹介できませんが、雰囲気は伝わるかと思います。ここでふせぎの行事が行われるわけですね

<説明板>
Explanation-board-Hōjidonofusegi.JPG
『芳地戸のふせぎ』と題して詳細が記されています。冒頭をそのまま転記させて頂くと『悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では毎年春の彼岸の中日に行っている』とのこと。ふせぎは悪魔払いの神事、そしてこれを春分の日に毎年行っているようです。芳地戸は「ほうじど」と読みます。ふせぎ行事は昔ながらの方法で執り行われ『神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る』とのこと。辻札については『村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本』とありますので、計9本ということですね。

<村境>
Village-border-Symbol.JPG

いまからおよそ3百年前、疫病が蔓延したことがあったそうです。そんな災いが芳地戸地区に入るのをふせぐために、ふせぎ行事が始まったそうです。こういった習慣には、はやり病に日本人がどう向き合ってきたが垣間見える気がします。それがいまでも伝承されいる。つまり日本人らしさが伝承されている。素敵なことですね。そして、現代人がそこから学ぶべきことがあるような気がします。

ということで
川越市笠幡の道切り行事のお話でした。芳地戸のふせぎは市の無形民俗文化財に指定されています。

■訪問:尾崎神社
(芳地戸のふせぎ)
[川越市笠幡]1280

■参考
Wikipedia:2022/6/12
現地説明板(川越市教育委員会)
猫の足あと
・尾崎神社の概要

https://tesshow.jp/saitama/kawagoe/shrine_kasa_ozaki.html


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タグ:道切り

2022年06月09日

的場という地名(川越市)

<的場>まとば
matoma-Staion.JPG
埼玉県川越市の的場駅で撮影しました

的場といえば、弓や鉄砲を練習する所。的を狙って矢を射る、あるいは鉄砲を撃つところですね。そんな地名が残るのですから、そこにかつて「的場があった」と思うのが自然ですね。

では誰の為の的場なのか?

ここ川越市の的場は、小田原北条氏の家臣・大道寺政繁と関係があると言われています。大道寺政繁は北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた重臣です。政繁がここからそう遠くない上戸の城にある時、的場を設けたと伝わります。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
こちらは川越市上戸の常楽寺です。かつての城跡の一角に位置するこの寺院には、大道寺政繁の供養塔があります。小田原北条氏が豊臣軍との戦いに敗れたあと、政繁はこの地で自害しました。

現在の川越市的場は範囲が広く、具体的にどこが「的場」だったかはわかりません。ただ、川越を任されていた大道寺政繁は、戦での活躍だけでなく、城下の整備にも力を入れていた武将だったので、的場を整備したという話もごくごく自然な感じがします。

<霞ヶ関駅>
kasumigaseki-Staion.JPG
こちらは常楽寺(城跡)の最寄り駅の霞ヶ関駅。直線距離なら1キロ未満です。ちなみに、開業した時(1916年)の駅名は的場駅で、のちに(1930年)霞ヶ関駅に改称されました。冒頭のJR川越線・的場駅の周辺も、ここ東武東上線・霞ヶ関駅周辺も的場なのです。弓や鉄砲の修練場跡は、どっちの駅が最寄り駅なのでしょうね。

ということで
川越の的場のご紹介でした。

■訪問地:川越市的場

■参考
Wikipedia:2022/6/9
猫の足あと
(的場八幡神社の由緒)

https://tesshow.jp/saitama/kawagoe/shrine_matoba_hachi.html



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2022年06月01日

ビルに囲まれた城の痕跡(溜池櫓台跡)

<溜池櫓台跡>ためいけやぐらだいあと
Tameike-yaguradai-ato.JPG
銀座線の虎ノ門駅近くを歩いていると、こんな光景と出会えます。

ここにはかつて江戸城外堀の櫓台がありました。まぁ外敵に備えての見張り台とご理解下さい。名称にある通りで「溜池」方面を見張るための施設でした。

現地説明板によれば『1636年(寛永13年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築された』という記録が残っているとのこと。、岡山藩の池田家と同族という表現の方が伝わり安いですかね(ここは個人的な感覚です)

外堀の役割を果たしていた溜池も、周辺の堀も明治時代に埋められました。ビルが建ち並び、いまの街並みでは想像しにくいですが、江戸城の西側にひろがる大きな溜池全体を見張らせる櫓だったようです。

江戸城は現在の皇居周辺にしか遺構がなさそうにも思われますが、実は街のあちらこちらに痕跡が残されています。大半は失われたとしても、それらひとつひとつが城のなごり。当ブログがきっかけで、消えてなお残る城の余韻を感じてくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:溜池櫓台跡
[千代田区霞が関]3丁目

■参考
現地説明板


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2022年05月28日

分梅の地名碑(府中市)分倍・分陪・分配・分梅

府中市の分倍河原駅は以前から知っていましたが、分梅という地名があることを初めて知りました。

<分梅碑>
Monument-Bubai.JPG
府中市分梅町に設置されている地名碑です。遠くからでも目立つかなり立派なものです

<説明文>
Monument-Explanatory- Text-Bubai.JPG
分梅に関する長い説明文が刻まれています。以下に転記しますが、一部読み取れなかった点はご容赦下さい。

『分梅(ぶばい)は現在の分梅町・・・の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新・・・風土記稿」(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分梅河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ「ぶんばい」と呼ばれていたこともあります。近世以降には「分梅」が多用されています。
地名の起こりは不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために口分田を倍に給した所であったという説もあります。』

注〕・・・は読めずに省略

ハケは地形を表す言葉で、低地に面した台地や崖状の場所のことですね。分梅の集落の中心はもともと台地上にあったが、多摩川の流路が南に移ったことで、低いところにも広がっていったと理解しました。むかしの多摩川は、この付近にまで迫っていたことが伝わってきます。そして、それが分倍河原の「河原」の由来なのでしょう(想像です)。

さて、古くは「ぶんばい」と呼ばれ、これが口分田を倍に給したことに由来するという説はとても興味深いですね。口分田とは民に支給された農地のこと。川や土壌の具合を考慮して、一般的な基準の倍の広さの土地を支給した。その状況に漢字をあてはめると分倍・分陪・分配。納得です。

ただ、これもひとつの説に過ぎず、地名の起こりはあくまで不明。やがて分梅となった理由もわかりませんでした。

これ以上深く考えるより、むかしは呼び名にどの漢字をあてはめるかが今ほど厳格ではなく、比較的流動的だったと受け止めることにしました。

<分倍河原駅前>
Nitta-Yoshisada-Statue-Fuchu-City.JPG
ここは新田義貞ゆかりの地です。

分梅という漢字を目にして、新田義貞と梅にまつわる風流な言い伝えでもあるかと思って調べたが、あまり関係がなかった。そういうお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

<分倍河原古戦場へ>
For-Bubaigawara-Battle-Ground.JPG
いろいろと寄り道をしながら、この日の目的地へ向かいました

■訪問:分梅碑
( 分梅の地名碑 )
[府中市分梅町]2丁目25-6


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2022年03月19日

街のなかの石垣石(芝公園)お台場の石垣石 第5台場のなごり

港区の芝公園付近を散策中に、こんな光景と出会いました

Stonewall-Nagori.JPG

どこかの石垣の石か?

Stone-Explanatory-Text.JPG
説明板のタイトルで、これが黒船来航時に江戸幕府が築いた砲台(いわゆるお台場)の石だとすぐに分かりました。詳細については、港区教育委員会さんの丁寧な説明を以下に転記させて頂きます。

『お台場の石垣石
 お台場(内海御台場)は、嘉永六年(一八五三)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め七基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第三と第六の二基を残して、その他は解体、埋め立てられました。
 この石は、その時、第五台場(現・港南五丁目)から移されたといわれています。
 伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。
 -文化財を大切にしましょう-』


お台場というと今ではすっかりレジャースポットとして有名ですが、もともとは砲台を設けた場所。ペリー来航後、再び来るであろう黒船を迎え撃つため、台場を築いて防衛拠点となりました。今でも砲台跡が残されていますが、それらは大半が解体された残りということですね。そして解体された第5台場の石垣の石が、こうして展示されている。

結果的には、お台場から黒船への砲撃はありませんでしたが、その当時として一大事であったことは伝わってきますね。

Stonewall-Stone.JPG
歴史を刻んだ石垣石。説明文を引用させて頂くと約百年のあいだ波に洗われた跡をとどめる石

第5台場のなごりです

ところで
なんでここなのか?ちょっと分かりませんでした。

場所は芝公園に隣接する港区立みなと図書館の道路沿いです。当ブログがきっかけで、足を止める人がいたら嬉しいです。

■訪問:みなと図書館
(お台場の石垣石)
[東京都港区芝公園]3丁目2-25

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/19
・現地説明板
 (港区教育委員会)



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2021年03月09日

旧江戸城大手門のなごり 増上寺大門

今回は増上寺表門である『大門』の話です。

城の話ではないのか?

まぁ今となってはそうなりますが、古い江戸城の城門と関係あると知ったら、多少は見え方が変わるかもしれません。そんな思いも込めてご紹介させて頂きます。

<大門>だいもん
Daimon-Gate.JPG
この付近の地名の由来にもなっている門です。浜松町方面から増上寺へ向かう途中にあります。鉄筋コンクリート製ですが、あまりそれを感じさせない出で立ちです。門の形でいうと高麗門ですね。

■江戸城からの移設■
かつて日比谷にあった増上寺は、江戸城の拡張工事に伴って芝へ移転しました。これが1598年(慶長3年)のお話。この時、旧江戸城の大手門だった高麗門が、徳川家康のはからいで増上寺表門として移設されたそうです。つまり、芝増上寺の大門の歴史は、江戸城からの移設から始まるということです。城門が寺院に転用される話はよく耳にしますよね。江戸城の大手門というあたりが、いかにも徳川家菩提寺に相応しいお話です。

<徳川家菩提寺の表門>
Shiba-Daimon.JPG
そういわれて見るとそう見えなくもない

残念ながらその当時の門はもう残っていません。老朽化に伴い大門が再建される際に、別な場所に移されていましたが、その後戦火で失われたそうです。一方、鉄筋に生まれ変わった大門は戦火にもめげず、いまも健在です。再建に際しては、もともとの大門の形状や色彩を充分に考慮したうえで、サイズを1.5倍にして造られたそうです(1937年)。鉄筋コンクリートでありながら、周囲と調和し、何となく昔の雰囲気が漂うのは、そういう工夫があってのことなのですね。

<増上寺所有の門>
ZOJOJI-GATE.JPG
ちなみに、諸事情で長らく東京都の所有となっていましたが、最近になって増上寺へ譲渡され、それを機に補修作業が施されたそうです。そういえば、何となく新しい。


<夜の大門>
Daimon-at-night.jpeg
江戸城の大手門から始まる増上寺の表門です。当ブログがきっかけで、城門をイメージしながら眺めてくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:増上寺大門
[東京都港区芝公園]


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-------追記-------
大門のすぐそばでこんなバネルを見かけましたので画像を貼っておきます。
<浮世絵>
DAI-Mon.JPG
広重の浮世絵です。タイトルは『東海道名所之内 芝増上寺』。増上寺を正面から描いた作品ですね

<拡大>
Shibadaimon.JPG
増上寺大門はこんな感じだったのですね

以上です

2021年02月27日

真間の手児奈(市川市)かつての入江に伝わる悲話

今回は市川市真間につたわる手児奈伝説の話です。

<手児奈霊神堂>
kakona-reido-ichikawa (1).JPG
手児奈の霊が祀られています

■手児奈の伝説■てこな
手児奈とは女性の名前です。姫様?ではなく里の娘です。身なりは粗末でありながら清く美しく、その噂は里にとどまらず国府の役人にまで響き渡っていました。当然のごとく言い寄る者が多かったものの、手児奈がこれに応じることはなく、思い患うものや、男同士の争いの種もなりました。このことに悩んでいだ手児奈は、自分さえいなければ、争い事もなくなると思い、真間の入り江に身を投げて亡くなりました。浜にうちあげられた手児奈のなきがらは、不憫に思った里の人たちにより手厚く葬られました。

もっと素敵な言い回しで語り継がれているお話ですが、大まかに説明するとそんな感じです。

<現地説明板>
kakona-reido-ichikawa (3).JPG
[市川市教育委員会]
こちらの説明文によれば、手児奈は万葉集にも登場するようですね。山部赤人の歌が紹介されています。ちょっと和歌にも歌人にも詳しくないの解説はしませんが、山部赤人といえば小倉百人一首の「田子の浦にうちいでてみれば」の歌人。真間の手児奈の言い伝えは、著名な歌人の心をもふるわせるお話ということですね。

説明文にもありますが、手児奈の伝説はいろいろと形を変えながら伝わったため、設定が異なるさまざまなものがあるようです。以下はそのうちの一つです。

手児奈は地方官職の娘で、近隣の国へ嫁いだものの国同士が争いとなり、仕方なく真間へ戻ることになった。手児奈は実家に戻れぬまま、我が子を育てながら静かに暮らしたが、再び手児奈を巡る争いが起きてしまう。これを憂いて、手児奈は真間の入り江に身を投げてしまった。

美貌ゆえの気苦労と、優しさ故に真間の入江に身を沈めてしまうことは共通していますね。

<真間山弘法寺>ぐほうじ
Mama-Ichikawa-Guhouji-Gate.JPG
Mama-Ichikawa-Guhouji.JPG
こちらは市川市真間の弘法寺です。奈良時代に真間に立ち寄った行基が手児奈の話を聞き、その心情を哀れい、霊を慰めるために求法寺というお寺を建てたことに始まります(のちに弘法大師の尽力で真間山弘法寺となる)。

<真間山弘法寺の石段>
Mama-Ichikawa (8).JPG
弘法寺は高台にあります。この石段を降りた先がかつての真間の里。手児奈はそこに祀られています。

<手児奈霊神堂境内>
kakona-reido-ichikawa (4).JPG
手児奈霊神堂は安産・子育に霊験があるとされ、多くの人が訪れるそうです

ということで
真間の手児奈のお話でした。

コレ城跡ブログじゃないの?
そうでない時もございます

<真間川>ままがわ
mama-river.JPG
こちらは江戸川から分かれて東京湾に注ぐ真間川です。かつての入り江の跡とされています。そう、手児奈が身を沈めた真間の入り江です。いまではその面影はありませんが、低地と高台の高低差は昔も今も変わりません。地形とともに、昔の景色やそこで暮らした人たちに思いを馳せてみる。それってちょっと城跡の楽しみ方と似てませんかね?そんな感覚を共有できれば幸いです。

<真間山と真間の里>
Guhouji-Map.JPG
[出典:弘法寺説明板]

■訪問:
真間山弘法寺
手児奈霊~堂
[千葉県市川市真間]4丁目

■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/2/27
現地説明板:市川市教育委員会
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