つわものどもが夢の跡
名だたる戦国武将が奪い合った上州の城跡を訪ねました。現在の姿は群馬県庁。
<土塁>
すごい光景ですね。
■本丸が県庁■
もっと駅から近いと思っていましたが、やや距離があります。歩けなくもないですが(25分程度?)、こちらを利用させてもらいました。
<マイバス>
かわいい小型バス。前橋市内を循環する「マイバス」です。駅前から県庁まで100円。たった100円ですよ!いろんなコースがありますが、私が乗ったのは南循環。本数に限りがあるので、駅前で時間調整してから現地へ向かいました。
<到着>
なんと立派な・・・凄いぞ群馬!
<高層ビル>
地上33階。高層建築の県庁です。
<旧庁舎>
こちらは昭和庁舎と呼ぶらしい。味があっていい建物ですね。右手奥の方、建物と建物の間に土塁が見えました。ということで、ここからはやや速足になりました。
<土塁>
思ったより高い・・・
<ギリギリ>
こんな近く。ここが職場だったらいいなぁ。羨ましいです。
かつてここにあった城。本丸跡は群馬県庁、二の丸跡には前橋市役所、そして三の丸跡には前橋地方裁判所が置かれています。いまも街の、そして群馬県の中心地なのですね。県庁と同じ敷地に群馬警察本部もあります。
■厩橋■まやばし
厩橋とは前橋の古い呼び名。そもそも「まや」は「うまや(駅)」からきています。道に一定の距離ごとに設けられた施設を駅(うまや)と呼びました。その施設のそばの川に架かる橋、つまり「うまやのはし」が厩橋(まやばし)の名の由来とされています。江戸初期に厩橋城主だった酒井氏により「前橋」と改められました。ということは、それより以前のお話の場合は、厩橋城と呼んだ方がいいのかもしれませんね。
■古い歴史■
厩橋城の始まりについては諸説あります。上州の西部を支配していた長野氏が、居城・箕輪城の支城として城を築いたのが始まりとする説が有力です(それ以前とする他の説より確かという意味です。ですから、もっと古い可能性もあります。最初と考えられている城は石倉城と呼ばれていました)。戦国期に突入すると、厩橋城はほかの上州の城同様、小田原北条・越後上杉・甲斐武田の三勢力により争奪戦に巻き込まれます。この巨大勢力と向き合っ武将が、知る人ぞ知る上州のつわもの・長野業正でした。
■長野業正■なりまさ
全国的にはややマイナー武将かもしれませんが、上州にて武田信玄の攻撃を何度も跳ね返した英雄的な存在です。居城としていた箕輪城(みのわじょう)の方が知名度では上かもしれませんね。日本100名城に選ばれている名城ですから。
箕輪城主・長野業正は、地元豪族を取りまとめる有力者。いわば「箕輪衆」のリーダーですね。武田信玄が上州に侵攻した時には、地元の諸勢力を集結させ、2万の兵でこれに対抗しました。
厩橋城は箕輪城の支城です。長野業正配下の城として、充分にその役割を果たしていました。
■名だたる戦国武将たち■
戦国期の詳細は省略するとして、個人的な関心事に絞らせて頂きますと、まずは上杉謙信が関東進出の際に拠点としていたこと、そして織田信長が関東に派遣した滝川一益もこの地を拠点としたこと、ですかね。まぁとにかく、関東の戦国史を語るには、省略することが難しい重要拠点。関東七名城の一つに数えられる立派な城でした。ただし、長野氏の築いた城、そして上杉謙信や滝川一益が拠点とした頃の城の姿はあまりよくわかっていません。
<石垣>
土塁は遺構に間違いありませんが、石垣はちょっと違う気がしますね(個人意見)。
■江戸時代■坂東太郎との戦い
滝川氏、小田原北条氏、そして徳川家康家臣の平岩氏を経た後、同じく家康家臣の酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入りました。この時、家康は酒井重忠に「関東の華(はな)をとらせる」と言ったそうです。厩橋城が如何に評価の高い城だったか、伺い知ることができますね。その酒井重忠(初代前橋藩主)の大改修により、城は近世城郭へと生まれ変わります。3層3階の天守も設けられていたそうです。さぞ立派な城郭だったのでしょうね。
さて、城そのものは「前橋城」として生まれ変わりましたが、ふるくから天然堀の役割を果たしていた利根川に悩まされ続けます。暴れ川だった利根川は容赦なく氾濫し、その度に城郭はダメージを受けました。
天険の要害という強みが、逆に災いとなって襲いかかってくるわけですね。
<前橋公園>
県庁の北側に公園が整備されています。画像は一段低くなったところ。利根川とほぼ同じ高さの敷地になります。
<前橋公園の土塁>
こちらは利根川よりは高台のエリア。城は結構広範囲だったようですね。
酒井氏が転封後に前橋に入った松平朝矩(とものり)の時には、本丸までも浸水。財政難という背景もあり、松平氏は修繕を断念して川越に居城を移すことを決めます(1767年)。前橋は川越藩の分領となり、城はまもなく取り壊され、廃城となりました(1769年)。守りの堅い城も、暴れ川「坂東太郎」には勝てなかったということですね。
ここでのんびり休憩
■江戸末期の再興■
利根川が原因で廃城となった城郭。それから約百年もあとの話になりますが、再び城郭として整備されることになります。背景には、暴れ川だった利根川の改修、そして地元領民の城再建への願いがありました。特産品である生糸により前橋領の財力が回復すると、領民の支援、そして川越藩主松平直克による幕府への働きかけにより、前橋城の再築が開始されました。1867年には直克が入城。前橋藩が再興しました。
この時代に造る城郭ですからね。広さはそのままとしても、ひとむかし前とは技術力が違います。前橋城は、砲台を含むハイレベルな軍事施設として生まれ変わったそうです。築城のコンセプトとして、万が一江戸が外国の脅威にさらされた場合は、利根川で移動できる前橋城が江戸城に代わる要塞となるといった壮大な構想があったようです。
ただ実際にはその出番は無く、明治維新後に城は取り潰されてしました。莫大な費用を掛けたのですが、先が読めない時代ならではの悲劇ですね。完成からわずか4年のことでした。
<石碑のある土塁>
土塁は原則登ってはいけません。ここだけは良いようです。行ってみますかね。
<前橋城跡の石碑>
光の関係で真っ黒(すみません)。実物は立派な石碑でした。ここは砲台だったようです。
<土塁の上>
せっかくですので、石碑付近から土塁の上部を撮影。
■つわものどもが夢の跡■
<遺構>
上杉謙信や滝川一益にとってもゆかりの地です。更には、江戸の改修どころか、幕末になって尚も手を加えられた城跡です。この圧倒的スケールの遺構、最初は「小田原の北条氏ならこれくらいするかも?」と思っていましたが、もしかしたら幕末の再整備のなごりかもしれませんね。
いずれにせよ、憧れの戦国武将たちと関わりのあった名城。とても満足な訪問となりました。
--------■ 前橋城 ■--------
別 名:厩橋城
築城年:詳細不明(1490頃)
築城者:長野方業
改修者:酒井重忠 他
城 主:長野氏 滝川氏
酒井氏 他
廃 城:1769年
再築城:1867年(完成)
再廃城:1871年
[ 群馬県前橋市大手町 ]
お城巡りランキング
2018年03月23日
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