今回の訪問は増上寺。いわずと知れた徳川家の菩提寺です。春の訪れを告げる桜が開花し始めました。
■咲き始め■まだまだこれから
<大梵鐘>だいぼんしょう
数日前の雪が嘘のような穏やかな春の日。桜が急に勢いを増してきました。境内の桜は約200本。まだ満開とまではいきませんが、場所によっては見応えがあります。
<三解脱門と桜>さんげだつもん
歴史ある建造物と桜のコントラスト。景色として深みがありますね。この「三解脱門(さんげだつもん)」は国の重要文化財。戦争で多大な被害のあった増上寺ですが、難を逃れた貴重な門です。
■徳川家菩提寺■
江戸に入った家康が徳川家菩提寺と定めた増上寺。徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。戦前まであったという国宝級の霊廟は焼失してしまいましたが、全体として今でも立派。そして深い歴史の刻まれたお寺です。
<三解脱門(正面)>
威風堂々。この画像、人がいっぱいだったので下の方は避けて撮影してます。 手前は日比谷通り。
三解脱門はその名が示すとおり、3つの煩悩(むさぼり・いかり・おろかさ)を解脱する門。私も門をくぐりましたので、もう何も悩みがなくスッキリしてます・・・(そんな安易なものではありません)。
<三つ葉葵>
その紋所、目に入っております
<大殿と桜と東京タワー>
浄土宗の寺院。立派な本堂です。こちらは1975年に再建されたものです。
■もうひとつの菩提寺■
実は徳川家菩提寺と呼ばれるお寺はもう一つあります。寛永寺(かんえいじ)です。当初は徳川家の祈祷寺という位置づけで、菩提寺ではありませんでした。しかし徳川将軍15代のうち、6人が葬られています。人数だと増上寺と同じですね。
増上寺は家康が江戸へ入る以前から存在した寺院。前身である光明寺が、空海の弟子により建立されたのが9世紀というからそうとう古いですね。これに対し、寛永寺は江戸時代になってから新たに建立された寺院。この背景には家康に側近として仕えた天台宗の僧『天海』の存在がありました。天海の進言により、江戸城の鬼門にあたる上野に天台宗の寺院が建立された。これが寛永寺の始まりです。よく京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺に例えられますね。寛永寺も徳川家の手厚い保護を受けたお寺ですが、菩提寺となるのは家康の死後の話。家康にとっては、徳川家菩提寺は増上寺のままだったということですね。
■歴代将軍6人とは■
ここ増上寺は秀忠を筆頭に6人の墓所となります。
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)
先述の寛永寺は家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)。初代と三代は特別で、家康が日光東照宮、家光は日光山輪王寺。それから最後の将軍となった慶喜ですが、増上寺でも寛永寺でもなく、台東区の谷中霊園に眠ります。この経緯はちょっとわからないのですが、慶喜は大政奉還で将軍という職を辞したからというお話もありますが、一方で仏式ではなく神式で葬儀を行なうよう遺言したという話もあります。
■御 廟 所■ ごびょうしょ
<安国殿>あんこくでん
大殿となりの安国殿。この右側に廟所への入り口があります。
<入口>
分りやすくしてもらっています。
<千躰地蔵尊>せんたいじぞうそん
このお地蔵さんの脇を通って進みます。ここに限らず、境内には多数のお地蔵さんが並んでいます。赤い帽子と風車。総じてかわいい顔が多いですね。それもそのはず。子供に幸多きことを願うための地蔵尊です。
さて、いよいよ
<徳川家廟所>
こちらになります。徳川秀忠を含む6人の将軍が眠る場所。
<鋳抜門>いぬきもん
正室・側室ほかも、この門の奥に埋葬されているそうです。特別期間は中へ入ることもできますが、私はここまででした。
■他を散策■
せっかく来たので、あとは目的もなくてくてくと
<黒門>
三代将軍家光が増上寺に寄進した門。正面の門(解脱門)の向かって左手のほうにあります。現在は通用門的な使われ方となっていますが、かつて増上寺の方丈の表門であったことから方丈門と呼ばれたそうです。個人的に地味好みなので、やや老朽化しているところも含め、魅力的に感じてしまいます。
<台徳院霊廟惣門>たいとくいんれいびょう
もともとは秀忠の霊廟の表門。霊廟は戦災で大半が失われました。焼失を免れた惣門が現在ここに移設されています。左右には金剛力士像、そして見た目はご覧の通り。門だけでもこれだけの立派さなのです。現在の廟所はやや地味で、個人的には好きですが、本来もっと豪華だったことが伝わってきますね。
<大門>
こちらはいわゆる大門(現在は鉄筋)。浜松町方面から増上寺へ向かう途中にあります。お店も多いので、この付近で飲んだ経験のある方も多いのではないでしょうか(私も時々)。
■つわものどもが夢の跡■
徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を樹立したのが1603年。徳川慶喜が政権返上を決意した大政奉還が1867年。江戸時代の定義にもいろいろあるようですが、いずれにしても250年以上ですね。
故郷を離れ、新天地でみつけた増上寺を菩提寺と定めた家康。子孫の安泰を夢見たことは間違いありませんが、250年も先まで見据えていたでしょうか。徳川家代々でつないだ歴史は、家康本人の夢を越えたのかもしれませんね。
■訪問: 増上寺
[東京都港区芝公園]
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