<板橋宿脇本陣跡>
板橋宿の脇本陣跡です。脇本陣は、本陣の役割を補うための重要な施設。この地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。近藤勇がここへ連行された時、本陣には新政府軍が駐留していました。
現在は立派なマンションが建つのみで、かつての面影はありませんが、通り沿いに目印の碑と説明板が設置されています。
<平尾町脇本陣の碑>
<説明板>
板橋区教育委員会による説明文が記されています。全てご紹介致しませんが、脇本陣を務めた豊田家と、近藤勇に関するところだけ転記させて頂きます
まずは豊田家について
『豊田家は、板橋宿 の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。』
ここでいう平尾は、板橋宿のなかのひとつのエリアを指します。もう少し具体的に言うと、板橋宿は上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていて、平尾宿は下宿の別称です。その平尾宿は3つの宿場でもっとも南側に位置するため、日本橋から中山道を通って北上してきた場合、最初の宿場となります。
次に近藤勇について
『慶応四年(一八六九)四月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。』
脇本陣で拘束された近藤勇は、本陣で新政府軍による取り調べを受けました。平尾一里塚とは、ここから少し離れた宿場の入り口付近で、現在のJR板橋駅付近(北区滝野川)になります。
近藤に対する取り調べは20日間続き、脇本陣では牢に入り、昼夜を問わず見張り役がついていました。お役目を申しつけられた横倉喜三次は、旗本・岡田将監の家臣にして剣の達人。言い換えると、もともとは幕府直属家臣配下の武士。最終的には近藤勇の介錯を務めることになります。立場は違いますが、横倉喜三次は同じく剣の達人である近藤に敬意を持って接したと伝わります。脇本陣で過ごすあいだ、どんな言葉を交わしたのでしょうか。
横倉喜三次は、介錯を務めて受け取った報奨金を全て近藤の法要につぎ込みました。ここは二人の剣豪の思いが通じ合った場所なのかもしれませんね。
■訪問:板橋宿平尾脇本陣跡
(豊田家屋敷跡)
[東京都板橋区板橋]3-15
<補足>
現地は旧中山道沿いではなく脇道に入ってすぐのところです。
■参考及び出典
現地説明板
(板橋区教育委員会)
Wikipedia:2022/10/22
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