三鷹市の龍源寺の門前で撮影しました。龍源寺は近藤勇の生家宮川家の菩提寺です。新選組局長・近藤勇(幼名宮川勝五郎)は、ここから徒歩数分のところで生まれました。生まれた家も龍源寺も、古くからある街道に面しています。
<龍源寺門前>りゅうげんじ
山門の左手には六地蔵、奥に冒頭の近藤勇像、縦長の石碑(石柱?)には「史跡近藤勇墓所碑」と記されています。
<天然理心流の碑と庚申塔>
「近藤勇と天然理心流の碑」と庚申塔などが並べられています。
「近藤勇と天然理心流の碑」は字が一部で読みにくいですが、鹿島神道流の修行を積んだ天然理心流創始者・近藤内蔵助長祐のことや、四代目を継承した近藤勇のことが紹介されています。全てはご紹介しませんが、総じて熱を帯びた文面となっており、近藤勇が剣豪の名に相応しいことが伝わってきます。『古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産』という言葉が印象に残りました。
<龍源寺参道>
両脇にはイチョウの大木。奥が龍源寺本堂です。
<龍源寺本堂>
御本尊は釈迦如来。曹洞宗の寺院です。近藤勇の墓はこちらの本堂裏手になります
<扁額>
龍源寺の山号は大沢山。ここは旧大沢村ですので地名由来ですね。創建は1644年とのことで、古くからこの地にあったお寺のようです。Wikiさんによれば、人見街道に面していることから、徳川将軍が鷹狩のための休憩所として立ち寄ったこともあるそうです。
<墓所>
複数の墓石が並んでいます。全て一族の墓。うち1基には「近藤勇墓」と刻まれています(この画像だと木の陰になっています)。養子勇五郎の墓もここにあります。近藤勇の墓は東京都指定文化財となっていますが、個人のお墓ですので、遠くからの撮影にさせて頂きました。墓所の雰囲気は伝わると思います。
<墓所内石碑>
墓所内に辞世の碑が設置されています。全て漢字で私には難解ですが、冒頭の「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流」は字の通り受け止めて良さそうです。援軍が絶えて孤立し、囚われの身となり、主君の恩を思うと涙が流れる。そんな感じだと思います(ちょっと雑ですみません)。
<説明板>
三鷹市教育委員会さんによる説明文です。多少補足しながら要約させて頂くと、まず近藤勇が天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の生まれであること、宮川久次郎の三男であること、そして15歳で天然理心流近藤周助に入門し、28歳で近藤家の養子となったことが記されています。近藤は近藤周助の後継者となり、天然理心流四代目を襲名しています。
次に、土方歳三らと京都に上ったのが文久3年(1863)で、慶応3年(1867)の大政奉還までの4年間が、新選組として活躍した期間であると記されています。板橋宿で処刑されたのは慶応4年4月25日(1868年5月17日)。享年35歳でした。
<新選組局長>
流山で捕らえられた近藤勇は、その時点で新政府軍の本陣が置かれていた板橋宿に連行され、連日取り調べの後に斬首刑。近藤勇の首は、京都の三条河原で晒し首とされましたが、その後の行方がはっきりしていません。遺体は遺族が引き取り、龍源寺に葬ったと伝わります。
近藤勇の墓については、ここ三鷹の他に、処刑された板橋など、複数存在しています。普通なら墓はひとつですが、時代背景やご本人の影響力からして、自然なことなのかもしれません。それぞれの場所で、幕末の動乱を生きた近藤勇に思いを馳せる人たちがいまもいる。どこが最も有力な墓であるかという議論より、そのことの方が尊いと個人的には思っています。
<龍源寺門柱>
現在の住所だと、龍源寺は三鷹市なのに対し、すぐ近くの近藤勇出生地は調布市になります。市境ですからあり得ることですが、生れ育った者にとってはこの付近全てが故郷。そういう意味で、今回は近藤勇本人の故郷の墓を訪ねたという思いがしました。
ということで
三鷹市の近藤勇墓所のご紹介でした。
■訪問:
近藤勇の墓(龍源寺)
[東京都三鷹市大沢] 6丁目
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■参考・出典
・近藤勇と天然理心流の碑
(三鷹市剣道連盟)
・現地説明板
(三鷹市教育委員会)
・Wikipedia:2024/8/23
・みたか都市観光協会HP
三鷹web観光案内>おすすめスポット
>大沢
https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2021111000015/
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