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2023年09月17日

霞城三の丸跡の石碑(山形市)歌懸稲荷神社

山形市の歌懸稲荷神社の境内奥には、この地が山形城三の丸跡であることを記した石碑が建てられています。

<霞城三の丸跡の石碑>かじょう
Stone-monument-Kajo-sannomaruato.JPG
立派です。霞城三の丸跡と刻まれています。石碑は昭和36年に建てられました。

霞城は山形城の別称。城は大大名となった最上義光の時代に拡張され、全国有数の規模を誇る平城となりました。今回訪問の歌懸稲荷神社は、本丸跡などが整備されている霞城公園からけっこう離れていますが、広大な霞城(山形城)はこの付近にまで及んだということですね。

<三の丸土塁>
Revisit2023-Sannomaru-Yamagata.JPG
実は、この土塁を見るのは初めてではありません。前回は土塁の向こう側、細かいことを言うとかつての城内から眺めました。今回は城の外側からです。よくみると、土塁だけでなく、堀跡も確認できます。貴重な遺構です。


<歌懸稲荷神社>うたかけ
Utakakeinari-Gate.JPG
お邪魔させて頂いた歌懸稲荷神社についてですが、歌懸とは、そのむかし歌を短冊に書き奉納する風習に由来するそうです。何となく高尚な感じがして近寄りがたいし、短冊もありませんが、とりあえずは拝殿で手を合わせておきました。

<拝殿>
Utakakeinari-Yamagata.JPG

<本殿>
Utakakeinari-Honden-Yamagata.JPG

歌懸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、最上家初代にして山形城の築城者である斯波兼頼が、城の守り神として建立したと伝わります。また、最上義光は天童氏との開戦に際して勝利祈願したとも伝わります。最上家ゆかりの神社ということになりますね。

もともとは山形城内でしたが、最上家が改易されてあとの鳥居忠政の時代に、この地、三の丸堀の外側へ移転したようです。

山形城を築き、城下繁栄の礎を作った最上家ゆかりの神社が、城外へと追い出された感がありますね。
ただそれ以後、縁日である10日ごとに門前で市が開かれ、十日町の名の起こりとなり、城下の人たちとのつながりは深まったようです。それはそのまま多くの人たちの信仰にもつながるわけですよね。殿様の神社とは別の価値が、そこにあるように思えます(あくまで個人感想です)。

<市神>
Ichigami-Yamagata-Utakake.JPG
商の神が祀られています

ということで
霞城三の丸跡石碑と、最上家と深い関りのある歌懸稲荷神社のご紹介でした。

<土塁と石碑>
Stonemonument-Kajosannomaru.JPG
石碑は社殿の裏手になります。

■訪問:霞城三の丸跡碑
歌懸稲荷神社境内)
[山形県山形市十日町] 1-1-26


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■参考
・現地説明板「山形城跡」
(山形県教育委員会)
(山形市教育委員会)
・山形市十日町商店街HP

http://tokamachi.sunnyday.jp/uta.html
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2023年08月05日

近世米沢城のなごり 三の丸残存土塁

今回は米沢市の市街地に取り残された城のなごりの話です。

<市街地の土塁>
Remains-earthworks-Sannomaru.JPG
ここは米沢城三の丸跡です。開発でかつての遺構はほぼ取り除かれていますが、土塁が残されています。とても貴重な遺構ですね。

<粡町公園>あらまち
sannomaro-dorui-yonazawa.JPG
遺構は児童公園(粡町公園)の一部となっています。炎天下の訪問のためか、子供の姿もなく…

米沢城の歴史はかなり古いですが、本丸を中心に、二ノ丸・三ノ丸で囲う広大な城に改修されたのは近世になってからです(江戸時代初期)。改修者は上杉景勝の命を受けた直江兼続でした。石垣は使用せず、それぞれの曲輪を土塁で囲みました。

土塁とセットの堀の掘削も同時に行われました。現在はその姿は確認できませんが、位置的にこの画像の向こう側が水堀だったことになります。


<稲荷神社の鳥居>
Yonezawa-Gokokuinari-Torii.JPG
土塁の上に鳥居が見えます

<五穀稲荷神社>
Yonezawa-Gokokuinari.JPG
土塁上の五穀稲荷のお堂です。推定ですが、神様が祀られているから、土塁も取り除けなかったのではないかと思います。本丸からみて北東に位置していることから、鬼門の守り神として神社が建てられたとも考えられています。


<土塁滑り台>
Playground-slid.JPG
あれ、これはもしかしたら

<コンクリート滑り台>
Yonezawa-Castle-Playground-slid.JPG
土塁を利用した滑り台です。かなり頑丈そうですね。ここは土塁跡にして神社の境内、そして児童公園でもあるので、相応しい光景なのかもしれません。

滑り降りてみたかったですが、ヘンなオジサンがいると思われること100%のため、やめておきました。


<石碑>
stone-monument-sannonarudorui.JPG
比較的新しい石碑が設置されています。刻まれた文字は、米沢城三の丸土塁…竹?何で竹?

説明を呼んで納得しました。
『土居の崩壊を防ぐために植えられた矢竹は約四百年の風雪に耐え…』と刻まれています。土塁だけでなく矢竹を含めて、貴重な遺跡を残してくれた先人を偲ぶためにこの碑は造られたようです。

<矢竹>
Yadake.JPG
ただの笹かと思いきや、矢の材料にもなる矢竹だったようです。

<現存土塁>
Third-compartment-Yonezawa-Castle.JPG
直江兼続により築かれた三の丸土塁の総延長は約4kmだったと伝わります。今はそのほとんどが失われましたが、これは造り直しではなく、当時の土塁がそのまま残っているわけです。

まさに近世の城として生まれ変わった時の米沢城のなごりです。

■訪問:
米沢城三の丸残存土塁
(五穀稲荷神社)
[山形県米沢市中央]4丁目

■参考及び出典
米沢城三の丸土塁・竹碑




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タグ:山形への旅
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2022年08月27日

菱門橋(米沢城)藩主が渡った本丸の橋

今回は米沢城本丸跡の堀に架かる橋の話です。

<菱門橋>ひしもんばし
Secret-Gate-bridge-Yonezawa-Castle.JPG
本丸の堀に架かる菱門橋。今でこそ誰でも気軽に渡ることができますが、かつては藩主が渡る橋とあって、警備も厳重だったそうです。

現地の説明板をそのまま抜粋させて頂くと『米沢城本丸跡の南側堀にかかる太鼓橋で、あざやかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。橋名は、江戸時代は本丸内の城主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その交通は厳重に取り締まったことから、「秘し門」と称されたことにに由来する』とのこと。

<菱門橋の親柱>
Hishimonbashi-Yonezawajo.JPG

秘し門→ひしもん→菱門

私でも理解できる由来で良かったです。

<水堀>
Hishimonbashi-Hori.JPG
菱門橋は本丸跡南側の堀に架けられています。ちなみに、本丸へのメインの入り口(大手口)は東側です。

<本丸側>
Hishimonbashi-Kasugasha.JPG
本丸側へ向かって渡りきると、春日神社が待っています

<春日神社>
Yonezawa-kasugajinja-Tori.JPG
こちらが春日神社です。春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。

そして、更に奥へ進むと、上杉謙信を祀る上杉神社が待っています。

<上杉神社>
uesugijinja202208.JPG
藩祖謙信を祀る上杉神社です。本丸へ渡る橋は複数ありますが、菱門橋は上杉神社に最も近い橋です。それもそのはず。ここが藩主の御殿跡なのです。


<朱色の太鼓橋>
Hishimonbashi-Yonezawa-Castle.JPG
菱門橋の見事な朱色は、比較的地味な米沢城跡に彩りを添えているようにも映ります。私の訪問は夏ですが、桜の名所として人気の場所です。

ということで
今回は米沢城の中でも、特別な意味を持っていた橋のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:菱門橋
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]1丁目

■参考及び出典
現地説明板



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タグ:山形への旅
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2022年03月12日

三春城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は福島県田村郡三春町の山城の話です。
<三春城>
Miharujo-Honmaru.JPG
比高の約百メートルの山に築かれた山城です

■田村氏の居城■
三春城はいつ築かれたのか?正確にはわかっていません。16世紀初頭に戦国大名である田村義顕が城を構えたことに始まる。この説が一般的です。義顕は田村氏の23代当主ごく普通の国人領主だった田村氏を大名にまで押し上げ、居城も現在の郡山市から今回訪問の三春町へ移しました。

<山頂>
Mountaintop-Miharu-castle.JPG
三春城はまず中世の土の城から始まり、のちに近世城郭に発展した城です

陸奥国の田村郡を支配していた田村氏。全国的にはあまり知られていませんが、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。義顕が三春に拠点を移す前の田村氏の居城(守山城)は、田村麻呂が征夷の際に築いたことに始まるとされています。


■田村氏と伊達氏■
戦国大名の仲間入りをした田村氏ですが、周辺には相馬氏や蘆名氏、佐竹氏といった手ごわい相手が勢ぞろいしています。苦しい駆け引きや攻防戦の全てをご紹介はできませんが、伊達氏との繋がりにより、田村氏は一定の地位を維持することに成功しています。24代当主・田村隆顕の側室は伊達稙宗の娘25代当主・清顕の娘・愛姫伊達政宗の正室です。ただ、当時の伊達氏はまだまだ不安定な発展途上の段階でしたので、田村氏も決して安泰というわけにはいきませんでした。

<東館跡>ひがしだて
Miharu-castle-Higashi-D.JPG
こちらは先ほどの山頂とは別の峰の東館跡。現地説明板だと三ノ丸という位置づけになってはいますが、本体との往来が容易ではなく、出丸としては位置が不自然。個人的には、もともとは城本体とは別の何らかの施設だったと受け止めています。ちなみに、田村氏を訪ねて三春城に入城した伊達政宗は、滞在期間中ここに何度も足を運んだとのこと。伊達家から田村家に嫁いだ政宗の大叔母がここで暮らしていたそうです。


■奥州仕置■
1590年の秀吉による小田原征伐の際に、伊達政宗が遅れて参陣したことは有名ですね。その政宗に従っていた26代当主・田村宗顕(むねあき)は、参陣しなかったことを秀吉に咎められて所領没収となりました。

宗顕は家督相続問題で家中が混乱に陥った際に、伊達政宗の力で当主となった人物。当初は顕季を名乗っていましたが、政宗から「宗」の偏諱を与えられ宗顕と名乗りました。没収された田村領は政宗のものとなりましたが、宗顕は支援を辞退して三春城を去りました。一説によれば、名を定顕と改め、政宗家臣の片倉氏のもとで隠棲したとのこと。子らは片倉氏を称し、子孫は片倉氏として現在に至るそうです。

<搦手門跡>
Miharu-castle-Karametemon.JPG
本丸の北側の搦手門跡


■秋田氏の城■
田村氏以後、三春の支配者は伊達・蒲生・上杉等めまぐるしく変わりました。蒲生氏に代わって会津に加藤嘉明が入ると、三春城には三男の加藤明利が入り、翌年にはその孫にあたる松下長綱が二本松城から入ります(1628年)。城はこの時に大改修がなされ、近世らしい城郭へ生まれ変わりました

<堀切>
Miharu-castle-Horkiri.JPG
山頂から西北に伸びる尾根を削った堀切。右手は近世城郭時代の二ノ丸

松下氏が改易となった翌年(1645年)、常陸国宍戸から秋田俊季が三春に入り、三春城は更に改修され、現在の縄張りとなりました。

<説明板>
Miharujo-Direction-Board.JPG
山頂の説明板。不勉強なまま訪問したので大変助かりました

<説明板拡大>
Miharujo-Direction-Board-zoom.JPG
主な三春城主として「田村氏・松下氏・秋田氏」の家紋が紹介されています

この説明板からそのまま抜粋させて頂くと『秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷:いやしき)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。』とのこと。三春城の基本は戦国時代の山城。高低差は攻防戦には有利ですが、何ごとないときはちょっと不便ということですね。

<三春小学校正門>
Meitokumon-Miharu-Fukushima.JPG
こちらは山の麓の小学校の正門。藩主はこの付近に御殿を設けて、日々の政務にあたっていたわけですね。この門は秋田氏が設けた藩校の表門が移設されたものです。


■登城記録■
<お城坂>
Oshirozaka-Oshirozaka-Miharu-Fukushima.JPG
麓から城跡へ至る坂道です

<二之門跡>
Miharu-Castlegate-Ninomon.JPG
登り始めて最初に目にする城跡らしいて光景でした

<二之門跡付近の案内板>
Miharu-castle-guide.JPG
かつての城は姿を消していますが、土の形は残されています

<ありし日の姿>
Miharu-castle-guide-zoom.JPG
三春城の「ありし日の姿」ですか。城としてピーク時の姿ということですね。そのなごりを感じるべく、てくてくと歩き続けました

<外周>
Miharu-castle-Perimeter.JPG
山頂へ向かう登山道もありますが、散策路を歩くことに

<城側から見た桜>
Oshirozaka-Late-Autumn.JPG
三春と言えば桜。三春城跡もその名所ではありますが、晩秋の訪問となりました

<山の中腹>
Miharujo-Perimeter.JPG
本丸に行くには遠回りになりますが、先ほどご紹介させて頂いた東館(三ノ丸とされる曲輪)へは近道です

<東館の丘>
Miharu-castle-Higashidate-Hill.JPG
散策路をそれて城の外側へ向かう小径を進むと、東館跡が見えてきます。登った先は平らに区画となっています

<南西から東へ>
Miharu-castle-Mountain.JPG
東館(三ノ丸)跡付近を通過して山の東側へ

<東側の斜面>
Miharu-jo-Perimeter.JPG
山の東側の斜面です。視界が開けて、自分が歩いている場所と本丸がある山頂との高低差を思い知らされた瞬間でした

<階段>
Miharu-castle-Buried-Stairs.JPG
斜面に階段をみつけました。ここで作戦変更です。外周歩きはこのヘンにして、直接頂上を目指すことにしました

<埋もれた石垣>
Miharu-castle-Buried-Stone.JPG
途中こんな光景と出会う

<急斜面>
Miharu-castle-Mountain-slope.JPG
登れば登るほど急斜面に

<石垣跡>
Miharu-castle-stone-wall.JPG
山頂の周りに石垣のなごりを発見。諸説ありますが蒲生時代のものと思われます

<休憩>
Miharu-castle-Steep-slope.JPG
一気に登ってきたら足がもつれたのでひと休み

<本丸の下>
Miharu-castle-chikei.JPG
あの先端も何らかの役割を果たしていたのでしょう。左手の斜面のすぐ上は本丸です。ということは腰曲輪でしょうか?休んだからこそ見つけられた城のなごりです

そして山頂

<本丸跡>
Miharu-castle-Honmaru-Trace.JPG

Miharu-jo-Honmaru-Trace.JPG

Miharujo-Honmaru.JPG
石壇の上は秋田家祖先尊霊の石碑

<段差>
Miharujo-Honmaru-Ninomaru.JPG
降った先は旧二ノ丸

<旧二ノ丸>
Miharu-castle-Nonomaru-Trace.JPG
二ノ丸跡と記された標識がありますが、正確に言うと中世の二ノ丸です。近世城郭に生まれ変わってからは、段差こそあるものの、本丸と一体になりました。かつて城のシンボルだった御三階櫓が建っていた場所です

以上です


最後に
戊辰戦争について

三春藩はいわゆる奥羽列藩同盟に参加こそしましたが、これは周辺諸藩との関係を考慮したものでした。もともとの立ち位置は尊皇に近かく、新政府軍との対立も望むところではなかったようです。ただ、二本松戦争の直前に新政府軍に降伏したことから、その後の二本松藩の苦闘との対比で、どうしても裏切りのイメージがついてまわります。難しい問題なので、こんなブログでどうこう言うつもりはありませんが、小さな藩ならではの苦しい立場で、最後の最後は藩内に戦火が及ぶことを避けたという評価もあることをご紹介して終わりにしたいと思います。

<続日本100名城>
Miharu-castle-flag.JPG
三春城の廃城は1871年(明治4年)です。中世から明治まで、深い深い歴史の刻まれた三春城は、続日本100名城に選ばれています。

--------■三春城■--------
別 名:舞鶴城
築城年:(16世紀初頭)
築城者:(田村義顕)
改修者:松下長綱 他
城 主:田村氏・松下氏
    加藤氏・秋田氏
廃城年:1871年(明治4)
[福島県田村郡三春町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/12
・現地説明板
・三春町ホームページWeb資料館
 (政宗の三春城入城)

https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/05-masamune.html


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2022年02月27日

三春城東館 一城別郭を連想させる曲輪跡

三春城は明治まで存続した城ですが、始まりは中世の山城です。現地を訪問してみて、気になった曲輪跡があったのでご紹介させて頂きます。
<三春城東館跡>ひがしだて
Miharu-castle-Higashi-D.JPG
こちらになります

<曲輪>
Miharu-castle-Higashi-E.JPG
この画像だとただの平らな区画ですね

多くの山城は山頂に本丸を築き、斜面の適所に曲輪を配置します。それは三春城も同じで、本丸・二ノ丸を山頂に設け、周辺に帯曲輪や腰曲輪など小規模な区画を配置して守りを固めています。ただ、この東館だけは異質です。配置された場所といい曲輪の高さといい、変則的な感じがします。

<三春城の案内板>
Miharu-castle-guidance.JPG

<三春城跡概略図>拡大
Guidance-Map.JPG
東館は本体のある山の東南(地図右下)に位置する別の峰

<東館へつながる道>
Miharu-castle-Higashi-C.JPG
構造的に明らかに独立しています

<曲輪と虎口>
Miharu-castle-Higashi-B (1).JPG
三春城は16世紀初頭に戦国大名の田村氏が城を構えたことに始まるという説が一般的ですが、実はそれ以前から何らかの砦として使用されていたとする説もあります。東館は近世城郭の主要な曲輪と比較すると広いとは言えませんが、戦闘の時にのみ立て籠る中世の山城の曲輪としては、充分な広さです。山城の初期段階においては、主郭と同等の役割を果たす郭が、お隣の山頂に築かれていたなんてことは考えにくいですかね?つまり一城別郭の構造だったとか…?

Miharu-castle-Higashi-G.JPG

まぁこれは現地でそんな気がしたというだけで、文献で確認できたわけではありません。素人会社員が縄張り図を見ながら妄想した内容に過ぎませんので、その点はご理解をお願い致します。

ただ、当初は小勢力に過ぎなかった中世豪族の山城の地形を、似たような視点で眺める方と共有できれば幸いです。

■訪問:三春城
[福島県三春町字大町]

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/27
・現地説明板



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2022年02月12日

三春藩講所表門(明徳門) いまに受け継がれる藩校の門

今回は三春藩の藩校のなごりです。

<藩講所表門>はんこうしょおもてもん
Meitokumon-Miharu-Fukushima.JPG
三春小学校の校門となっています

三春藩は1645年から1868年の間、秋田家が11代にわたって治めていました。この門は7代藩主の倩季(よしすえ)が、藩士の子供たちの教育のために設けた藩校の表門です。

<扁額>
Meitokumon.JPG
秋田倩季の筆による明徳堂の文字。これにより明徳門とも呼ばれています。

秋田倩季は40年に渡って藩政を指揮した藩主。その間、天明の大飢饉や城下町の焼失など、財政問題に直結する災難にあいながら、対策を施して藩を守りました。質素倹約を重んじながらも、教育には力を注ぎ、藩校を設けました。

<三春小学校>
Hankosyo-Omotemon.JPG
その門がこうして現在の学校に受け継がれている。素晴らしいですね。歴史的建造物である門は、三春町指定有形文化財に指定されています。

■訪問:
藩講所表門
<明徳門>
 ( 三春小学校 )
[福島県田村郡三春町大町]157-2

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/12
・三春町ホームページ
歴民コラム 三春の文化財10
 藩講所明徳堂表門

https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/rekimincolumn20.html



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守城稲荷神社(三春町)三春秋田家ゆかりの神社

今回は三春城近くの稲荷神社の話です。

<守城稲荷神社>
Kamijoinari-Shrine-Gate.JPG
通りを歩いていて突然目に飛び込んできた光景

<鳥居と石碑>
Kamijoinari-Shrine-Stairs.JPG
城を守る神社か?

城好きなら誰でも立ち止まったでしょう。城を守護する神社?社号だけで吸い寄せられるように鳥居をくぐり、石段を登りました。

<本殿>
Kamijoinari-Main-Shrine.JPG
五穀豊穣の神を祀るいわゆる稲荷神社です

で…

<扁額>
Kamijoinarijinja.JPG
そもそもこれはなんと読みますかね

しゅじょういなり?

帰宅してから調べたら
かみじょういなり
でした。

当然三春城と関連する由緒があると期待して訪問しましたが、実はあまりはっきりしないそうです。三春町のホームページによれば『三春藩主秋田家が信仰したとされ、当初三春城内の花畑(三春小学校校舎の辺り)にあったのを、現在に移したとされています。』とのこと。

秋田家はもともとは出羽国秋田地方に勢力を誇った戦国大名。常陸国を経たのち、1645年から1868年もの間、11代にわたって三春地方を領しました。守城稲荷神社は少なくともその頃には山の麓に鎮座していたことになります。

<稲荷神社の北側>
Kamijoinarijinja-View-Other-Side.JPG
稲荷神社の北側に三春小学校の校舎が見えています。もともとはあの付近に鎮座していたわけですね。

ということで
守城稲荷神社の詳細は不明ながら、社号といい、鎮座する場所といい、三春城と深い関りがあったのだと受け止めました。

<守城稲荷>かみじょういなり
Kamijoinari.JPG

■訪問:守城稲荷神社
[福島県三春町大町]177

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/12
・三春町ホームページ
Web資料館 まちかど文化財10

https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/09inari.html



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2022年02月11日

晩秋の桜(三春町)お城坂枝垂れ桜

福島県の三春城跡を訪問した帰り道、こんな光景と出会いました

<お城坂枝垂れ桜>
Sakura-Late-Autumn.JPG
春はさぞ見事なんだろうな

私の訪問は11月です。紅葉すら終わりを迎えて、あとは冬を待つのみ。そんな時季の桜ですから寂しくも映りますが、多少事情を知っていると、まんざら悪い光景ではありませんでした。

桜は春
それは当たり前ですが、葉が青々とした新緑の時期も魅力的ということもけっこう知れ渡っていますね。実はそのころ、既に来年咲くための蕾も作られています。やがて秋になって葉を落とすと、越冬のために蕾を芽で包み込み、春が来るのを待ちます。芽が冬に大きくなることはなく、気温の変化を感じとって活動を再開します。

つまり
この景色は既に準備の整った状態ということ。そして、冬を感じなければ春に花は咲きません。
Oshirozaka-Weeping-Cherry-Tree.JPG
そう思うと、咲き誇っている時とは別の、格好良さのようなものを感じたりしませんかね?樹齢は350年から500年と推定されています。ずっとずっと、冬を感じては春の花を咲かせてきたわけです。


ということで
三春城近くの坂道で晩秋の桜にしばし足を止めたというお話でした。

<お城坂>
Oshirozaka-Oshirozaka-Miharu-Fukushima.JPG
三春城跡へと至る坂道

<城側から見た桜>
Oshirozaka-Late-Autumn.JPG

<下から見上げた桜>
Namiokatei-Weeping-Cherry-Tree.JPG
こちら側は私有地と思われます。咲き誇っている時も配慮が必要ですね。

■訪問:お城坂枝垂れ桜
( 浪岡邸の桜 )
[福島県三春町字南町]


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