今回は三春城近くの稲荷神社の話です。
<守城稲荷神社>
通りを歩いていて突然目に飛び込んできた光景
<鳥居と石碑>
城を守る神社か?
城好きなら誰でも立ち止まったでしょう。城を守護する神社?社号だけで吸い寄せられるように鳥居をくぐり、石段を登りました。
<本殿>
五穀豊穣の神を祀るいわゆる稲荷神社です
で…
<扁額>
そもそもこれはなんと読みますかね
しゅじょういなり?
帰宅してから調べたら
かみじょういなり
でした。
当然三春城と関連する由緒があると期待して訪問しましたが、実はあまりはっきりしないそうです。三春町のホームページによれば『三春藩主秋田家が信仰したとされ、当初三春城内の花畑(三春小学校校舎の辺り)にあったのを、現在に移したとされています。』とのこと。
秋田家はもともとは出羽国秋田地方に勢力を誇った戦国大名。常陸国を経たのち、1645年から1868年もの間、11代にわたって三春地方を領しました。守城稲荷神社は少なくともその頃には山の麓に鎮座していたことになります。
<稲荷神社の北側>
稲荷神社の北側に三春小学校の校舎が見えています。もともとはあの付近に鎮座していたわけですね。
ということで
守城稲荷神社の詳細は不明ながら、社号といい、鎮座する場所といい、三春城と深い関りがあったのだと受け止めました。
<守城稲荷>かみじょういなり
■訪問:守城稲荷神社
[福島県三春町大町]177
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/12
・三春町ホームページ
Web資料館 まちかど文化財10
https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/09inari.html
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2022年02月12日
2022年02月11日
晩秋の桜(三春町)お城坂枝垂れ桜
福島県の三春城跡を訪問した帰り道、こんな光景と出会いました
<お城坂枝垂れ桜>
春はさぞ見事なんだろうな
私の訪問は11月です。紅葉すら終わりを迎えて、あとは冬を待つのみ。そんな時季の桜ですから寂しくも映りますが、多少事情を知っていると、まんざら悪い光景ではありませんでした。
桜は春
それは当たり前ですが、葉が青々とした新緑の時期も魅力的ということもけっこう知れ渡っていますね。実はそのころ、既に来年咲くための蕾も作られています。やがて秋になって葉を落とすと、越冬のために蕾を芽で包み込み、春が来るのを待ちます。芽が冬に大きくなることはなく、気温の変化を感じとって活動を再開します。
つまり
この景色は既に準備の整った状態ということ。そして、冬を感じなければ春に花は咲きません。
そう思うと、咲き誇っている時とは別の、格好良さのようなものを感じたりしませんかね?樹齢は350年から500年と推定されています。ずっとずっと、冬を感じては春の花を咲かせてきたわけです。
ということで
三春城近くの坂道で晩秋の桜にしばし足を止めたというお話でした。
<お城坂>
三春城跡へと至る坂道
<城側から見た桜>
<下から見上げた桜>
こちら側は私有地と思われます。咲き誇っている時も配慮が必要ですね。
■訪問:お城坂枝垂れ桜
( 浪岡邸の桜 )
[福島県三春町字南町]
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<お城坂枝垂れ桜>
春はさぞ見事なんだろうな
私の訪問は11月です。紅葉すら終わりを迎えて、あとは冬を待つのみ。そんな時季の桜ですから寂しくも映りますが、多少事情を知っていると、まんざら悪い光景ではありませんでした。
桜は春
それは当たり前ですが、葉が青々とした新緑の時期も魅力的ということもけっこう知れ渡っていますね。実はそのころ、既に来年咲くための蕾も作られています。やがて秋になって葉を落とすと、越冬のために蕾を芽で包み込み、春が来るのを待ちます。芽が冬に大きくなることはなく、気温の変化を感じとって活動を再開します。
つまり
この景色は既に準備の整った状態ということ。そして、冬を感じなければ春に花は咲きません。
そう思うと、咲き誇っている時とは別の、格好良さのようなものを感じたりしませんかね?樹齢は350年から500年と推定されています。ずっとずっと、冬を感じては春の花を咲かせてきたわけです。
ということで
三春城近くの坂道で晩秋の桜にしばし足を止めたというお話でした。
<お城坂>
三春城跡へと至る坂道
<城側から見た桜>
<下から見上げた桜>
こちら側は私有地と思われます。咲き誇っている時も配慮が必要ですね。
■訪問:お城坂枝垂れ桜
( 浪岡邸の桜 )
[福島県三春町字南町]
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2021年12月07日
街の中の土塁跡 山形城三ノ丸のなごり
今回は山形市の市街地に取り残された城のなごりの話です。
<土塁>
立派な土塁です。それにしても、山形城址である霞城公園からはかなり遠いところです。出城の土塁でしょうか?
<三の丸土塁跡>
三の丸?こんなところまで城の内側だったということですね
あまり知られていませんが、山形城は全国でも屈指の広さを誇る平城でした。基本構造は本丸・二ノ丸・三ノ丸と外へ向かって広がる輪郭式。縄張りそのものは複雑ではありませんが、スケールが違います。三ノ丸は東西が約1.5q、南北約2qもの広さだったそうです。広々とした三ノ丸には、武家屋敷が立ち並んでいたようです。しかし明治の廃城令により城は取り壊され、堀も大半が埋められました。特にもっとも外側の曲輪となる三ノ丸は市街地化のため姿を消しました。
そんな状況でありながら
土塁がこうして残っている
街に埋もれながらも
取り除かれることなく今日まで残っている
素晴らしいですね!
山形城といえば、私にとっては最上義光の居城です。三ノ丸を含めた城の拡張は最上義光の時代になされました。そして最上家改易後、山形へ入った鳥居忠政らの手で近世らしい城郭となりました。復原工事によるものではなく、そのなごりが形となって残っているわけです。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:
山形城三ノ丸土塁跡
[山形県山形市十日町]
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------- ■ 追 記 ■-------
2023年に再訪した時の画像を貼っておきます
<三ノ丸土塁>
夏の訪問のため緑が濃いです
<現地説明板>
設置されている説明板の一部です。地図に記されているように、ここは広い三ノ丸の一番外側ですので、本丸からは遠いわけですよね
そして
<土塁跡と堀跡>
今回は土塁の向こう側(神社境内)からも撮影しました。つまり三ノ丸の外側から眺めていることになります。手前は堀のなごりです
<土塁>
立派な土塁です。それにしても、山形城址である霞城公園からはかなり遠いところです。出城の土塁でしょうか?
<三の丸土塁跡>
三の丸?こんなところまで城の内側だったということですね
あまり知られていませんが、山形城は全国でも屈指の広さを誇る平城でした。基本構造は本丸・二ノ丸・三ノ丸と外へ向かって広がる輪郭式。縄張りそのものは複雑ではありませんが、スケールが違います。三ノ丸は東西が約1.5q、南北約2qもの広さだったそうです。広々とした三ノ丸には、武家屋敷が立ち並んでいたようです。しかし明治の廃城令により城は取り壊され、堀も大半が埋められました。特にもっとも外側の曲輪となる三ノ丸は市街地化のため姿を消しました。
そんな状況でありながら
土塁がこうして残っている
街に埋もれながらも
取り除かれることなく今日まで残っている
素晴らしいですね!
山形城といえば、私にとっては最上義光の居城です。三ノ丸を含めた城の拡張は最上義光の時代になされました。そして最上家改易後、山形へ入った鳥居忠政らの手で近世らしい城郭となりました。復原工事によるものではなく、そのなごりが形となって残っているわけです。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:
山形城三ノ丸土塁跡
[山形県山形市十日町]
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------- ■ 追 記 ■-------
2023年に再訪した時の画像を貼っておきます
<三ノ丸土塁>
夏の訪問のため緑が濃いです
<現地説明板>
設置されている説明板の一部です。地図に記されているように、ここは広い三ノ丸の一番外側ですので、本丸からは遠いわけですよね
そして
<土塁跡と堀跡>
今回は土塁の向こう側(神社境内)からも撮影しました。つまり三ノ丸の外側から眺めていることになります。手前は堀のなごりです
タグ:山形への旅
2021年12月06日
山形城のなごり(霞城公園)進化し続ける城址公園
<晩秋の山形城跡>
久しぶりに訪問しました
■霞城公園■ かじょう
山形駅から徒歩圏内の山形城跡。かつての本丸・二ノ丸が城址公園として整備されています。久しぶりに訪問してみると、内部へ行くほど様子が変わっており、着々と進む復原工事や、丁寧な説明板の設置に驚かされました。
<二ノ丸南大手門>
<城門跡の石垣>
<本丸の堀>
<本丸枡形虎口の石垣>
<本丸一文字門大手橋>
<二ノ丸東大手門>
山形城は明治の廃城後、建物の取り壊しだけでなく、本丸の堀も埋められました。山形市により整備された城址公園内は、一部で遺構と呼べるものもありますが、目をひくものの大半は復原です。国指定の史跡ですので、これらはしっかりとした調査・研究の裏付けがあってのこと。この辺りが、城郭ファンをも魅了するポイントなのかもしれませんね。
山形城跡は市民のための公園でもあるので、城郭ファンのみならず、お城入門者にも楽しんでもらえる工夫が随所に施されています。
<説明板と展示物>
城にほぼ無関心でも、とくつろげる場所です
<二ノ丸曲輪>
市民の憩いの場です
■東北最大の城■
最上家初代となる斯波兼頼が山形城を築いたのが1357年(延文2年)。最上家の勢力は第11代当主の義光の時にピークとなり、江戸時代初期には57万石の大大名にまで上り詰め、居城の山形城も東北最大の城に拡張されました。
<最上義光公騎馬像>
山形城は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。そして、のちに山形へ入った鳥居忠政により改修がなされ、近世城郭として完成されたと考えられています。
<山形藩の藩主に関する説明板>
最上家57万石から始まり、鳥居忠政の時は22万石です。その後少しずつ石高は減り続け、江戸末期の水野家の時は5万石だったようです。最上義光が拡張した山形城は、5万石の居城としては広すぎます。説明文の最後には、三ノ丸の一部は田畑として利用されていたと記されています。
その三ノ丸も、今ではすっかり市街地化されています。城の中心だった二ノ丸堀の内側が、かつての姿を今に伝える城址公園となっており、日本100名城にも選定されています。今後さらに復原工事が進められるとのことですので、ますます魅力的な城跡となることでしょう。
<石垣>
復原は江戸期の城郭をイメージしているようです。城の原形を築いたのは最上義光の時には石垣はまだなく、いわゆる『土の城』でした。
<二ノ丸外周の堀と土塁>
最上時代はこんな感じだったのかもしれませんね(勝手な想像です)。
-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(かじょう)
築城年:1357年
築城者:斯波(最上)兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上代・鳥居氏・水野氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]
■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/12/6
■当ブログ過去記事■
山形城については別途投稿したことがあります。よかったら覗いてみて下さい
最上家歴代当主の居城 山形城
『→記事へすすむ』
山形城追記
出羽の虎将 最上義光
『→記事へすすむ』
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久しぶりに訪問しました
■霞城公園■ かじょう
山形駅から徒歩圏内の山形城跡。かつての本丸・二ノ丸が城址公園として整備されています。久しぶりに訪問してみると、内部へ行くほど様子が変わっており、着々と進む復原工事や、丁寧な説明板の設置に驚かされました。
<二ノ丸南大手門>
<城門跡の石垣>
<本丸の堀>
<本丸枡形虎口の石垣>
<本丸一文字門大手橋>
<二ノ丸東大手門>
山形城は明治の廃城後、建物の取り壊しだけでなく、本丸の堀も埋められました。山形市により整備された城址公園内は、一部で遺構と呼べるものもありますが、目をひくものの大半は復原です。国指定の史跡ですので、これらはしっかりとした調査・研究の裏付けがあってのこと。この辺りが、城郭ファンをも魅了するポイントなのかもしれませんね。
山形城跡は市民のための公園でもあるので、城郭ファンのみならず、お城入門者にも楽しんでもらえる工夫が随所に施されています。
<説明板と展示物>
城にほぼ無関心でも、とくつろげる場所です
<二ノ丸曲輪>
市民の憩いの場です
■東北最大の城■
最上家初代となる斯波兼頼が山形城を築いたのが1357年(延文2年)。最上家の勢力は第11代当主の義光の時にピークとなり、江戸時代初期には57万石の大大名にまで上り詰め、居城の山形城も東北最大の城に拡張されました。
<最上義光公騎馬像>
山形城は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。そして、のちに山形へ入った鳥居忠政により改修がなされ、近世城郭として完成されたと考えられています。
<山形藩の藩主に関する説明板>
最上家57万石から始まり、鳥居忠政の時は22万石です。その後少しずつ石高は減り続け、江戸末期の水野家の時は5万石だったようです。最上義光が拡張した山形城は、5万石の居城としては広すぎます。説明文の最後には、三ノ丸の一部は田畑として利用されていたと記されています。
その三ノ丸も、今ではすっかり市街地化されています。城の中心だった二ノ丸堀の内側が、かつての姿を今に伝える城址公園となっており、日本100名城にも選定されています。今後さらに復原工事が進められるとのことですので、ますます魅力的な城跡となることでしょう。
<石垣>
復原は江戸期の城郭をイメージしているようです。城の原形を築いたのは最上義光の時には石垣はまだなく、いわゆる『土の城』でした。
<二ノ丸外周の堀と土塁>
最上時代はこんな感じだったのかもしれませんね(勝手な想像です)。
-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(かじょう)
築城年:1357年
築城者:斯波(最上)兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上代・鳥居氏・水野氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]
■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/12/6
■当ブログ過去記事■
山形城については別途投稿したことがあります。よかったら覗いてみて下さい
最上家歴代当主の居城 山形城
『→記事へすすむ』
山形城追記
出羽の虎将 最上義光
『→記事へすすむ』
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タグ:山形への旅
2021年11月28日
街なかの斯波兼頼像(山形市)羽州探題最上氏の祖となった武将
今回は山形駅から山形城へ向かう途上で出会った武将の話です。
<山形市内>
雰囲気からしてどこそかの文化人?かと思いましたが違いました
<斯波兼頼>しばかねより
えっ!あの斯波兼頼ですか
山形城の築城者です。そして羽州探題最上氏の祖となった武将。何度文献を読んでもそれ以上は頭に入りませんが、それだけは確かです。そんな武将との予期せぬ出会いに感謝しました。
ただ…
私にとって山形城といえばまず最上義光。そして最上家といえばまず最上義光。そんな感覚で漠然と想像する斯波兼頼つまり最上兼頼は、もっと勇ましくなくてはならない?のですが、あまりにも優しそうな雰囲気なので、ちょっと拍子抜けしました。
<最上義光像>もがみよしあき
山形城の最上義光像です。厳しい戦国時代を生き抜いた出羽の虎将。最上家第11代当主です。
まぁ最上家歴代当主がみんなこんなイメージなわけないですね。はい。
<最上家初代>
最上家初代の兼頼は、源氏の名族である足利家の血筋で、南北朝時代に北朝方として活躍した武将です。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奥州管領家の大崎氏の祖となった直持です。山形城を築いたのは1356年。それ以降、山形城は最上家代々の居城となりました。
<晩秋の山形城>
いつも最上義光を意識して訪問していますが、城の始まりは羽州探題として山形に入った斯波兼頼ということですね。街なかで銅像に偶然出会ったおかげで、再確認する機会を得ました。
■訪問:
斯波兼頼公像
(すずらん通り)
[山形県山形市香澄町]
山形城
(霞城公園)
[山形県山形市霞城町]
■参考:
・Wikipedia:2021/11/28
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<山形市内>
雰囲気からしてどこそかの文化人?かと思いましたが違いました
<斯波兼頼>しばかねより
えっ!あの斯波兼頼ですか
山形城の築城者です。そして羽州探題最上氏の祖となった武将。何度文献を読んでもそれ以上は頭に入りませんが、それだけは確かです。そんな武将との予期せぬ出会いに感謝しました。
ただ…
私にとって山形城といえばまず最上義光。そして最上家といえばまず最上義光。そんな感覚で漠然と想像する斯波兼頼つまり最上兼頼は、もっと勇ましくなくてはならない?のですが、あまりにも優しそうな雰囲気なので、ちょっと拍子抜けしました。
<最上義光像>もがみよしあき
山形城の最上義光像です。厳しい戦国時代を生き抜いた出羽の虎将。最上家第11代当主です。
まぁ最上家歴代当主がみんなこんなイメージなわけないですね。はい。
<最上家初代>
最上家初代の兼頼は、源氏の名族である足利家の血筋で、南北朝時代に北朝方として活躍した武将です。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奥州管領家の大崎氏の祖となった直持です。山形城を築いたのは1356年。それ以降、山形城は最上家代々の居城となりました。
<晩秋の山形城>
いつも最上義光を意識して訪問していますが、城の始まりは羽州探題として山形に入った斯波兼頼ということですね。街なかで銅像に偶然出会ったおかげで、再確認する機会を得ました。
■訪問:
斯波兼頼公像
(すずらん通り)
[山形県山形市香澄町]
山形城
(霞城公園)
[山形県山形市霞城町]
■参考:
・Wikipedia:2021/11/28
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タグ:山形への旅
2020年01月02日
上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
今回は戦国最強の武将と言われる上杉謙信の軍旗についてです。
毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。
■毘沙門天■
毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方の守護神、そして戦の神様。いかにも越後の上杉謙信らしいですね。謙信が毘沙門天を深く崇拝していたことはとても有名な話です。
■不動明王■
さて、一方の不動明王ですが、まず『正しい智恵により迷いの世界から煩悩を絶ち切る道を示してくれる神』と受け止めて良いかと思います。仏像の多くが穏やかな姿をしているのに対し、不動明王は龍が巻きついた剣を持ち、恐ろしい表情をしている場合が多いですね。闘神?まぁ戦う姿ではあると思いますが、仏の道に導き救済することありきであって、そのために悪を絶つ姿をされていると受け止めたいと思います。
ざっくりではありますが、個別の旗が意味するところはそんな感じです。ここでちょっと興味深い点は、毘と龍の軍旗は常に対で掲げられていたことでしょうか。各々に充分な意味が込められていると思われます。しかし、上杉謙信にとってはセットでなければいけなかった。諸説あるようですが、私にはなるほどと思えるものがなく、いまだに謎を抱えたままです。
<米沢城址>松が岬公園
こちらは米沢城本丸跡への入り口、そして上杉謙信を祀る上杉神社の参道でもあります。いつ訪れても、左右に掲げられた毘と龍の軍旗が出迎えてくれます。
この毘と龍の軍旗、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わります。ちょっと別な見方をすれば、全軍が総がかりで敵と激突する場面というのはそうそうあるものではないので、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になっかたのかもしれませんね。
<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
謙信は米沢藩歴代当主たちとともにここにいます。
■訪問:米沢城本丸跡
[山形県米沢市丸の内]
:上杉家廟所
[山形県米沢市御廟]
毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。
■毘沙門天■
毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方の守護神、そして戦の神様。いかにも越後の上杉謙信らしいですね。謙信が毘沙門天を深く崇拝していたことはとても有名な話です。
■不動明王■
さて、一方の不動明王ですが、まず『正しい智恵により迷いの世界から煩悩を絶ち切る道を示してくれる神』と受け止めて良いかと思います。仏像の多くが穏やかな姿をしているのに対し、不動明王は龍が巻きついた剣を持ち、恐ろしい表情をしている場合が多いですね。闘神?まぁ戦う姿ではあると思いますが、仏の道に導き救済することありきであって、そのために悪を絶つ姿をされていると受け止めたいと思います。
ざっくりではありますが、個別の旗が意味するところはそんな感じです。ここでちょっと興味深い点は、毘と龍の軍旗は常に対で掲げられていたことでしょうか。各々に充分な意味が込められていると思われます。しかし、上杉謙信にとってはセットでなければいけなかった。諸説あるようですが、私にはなるほどと思えるものがなく、いまだに謎を抱えたままです。
<米沢城址>松が岬公園
こちらは米沢城本丸跡への入り口、そして上杉謙信を祀る上杉神社の参道でもあります。いつ訪れても、左右に掲げられた毘と龍の軍旗が出迎えてくれます。
この毘と龍の軍旗、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わります。ちょっと別な見方をすれば、全軍が総がかりで敵と激突する場面というのはそうそうあるものではないので、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になっかたのかもしれませんね。
<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
謙信は米沢藩歴代当主たちとともにここにいます。
■訪問:米沢城本丸跡
[山形県米沢市丸の内]
:上杉家廟所
[山形県米沢市御廟]
2019年12月14日
赤穂事件殉難追悼碑 上杉家にとっての赤穂事件
本日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日
ということで
今回は米沢城本丸跡にある目立たない石碑をご紹介します。
誰も足を止めない石碑
場所は上杉家と関連する刀や甲冑が展示されている人気スポット・上杉神社稽照殿のすぐ近くです。
正直、現地ですらすらとは読めません。碑文の文字そのものは綺麗です。ただ光の関係で見えにくいのと、文そのものが難しい(私には)。キーワードを途切れ途切れに拾うと『元禄15年(1702)12月15日黎明・浅野内匠頭家臣数十人・吉良・本所邸・狼藉・急変不意・老中下知・上杉家の不幸後年に及ぶ・・・』などなどと。
吉良と上杉?
吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘でした。そして赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、上野介の実子が上杉家に養子入りして藩主となっていたのです。この石碑がどんなメッセージを込めて設けられたか分からないものの、赤穂事件について、上杉家側にもそうとう苦悩があったことは伝わってきますね。個人的には、吉良上野介の実子である上杉綱憲に対し、あまり良いイメージがありません。ただ、この人物を藩主として支えねばならなかった家臣団の苦悩、これはちょっと想像できます。碑文後半の『上杉家の不幸後年に及ぶ』が、全てを表しているような気がします。
当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。
■訪問:赤穂事件殉難追悼碑
[山形県米沢市丸の内]
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ということで
今回は米沢城本丸跡にある目立たない石碑をご紹介します。
誰も足を止めない石碑
場所は上杉家と関連する刀や甲冑が展示されている人気スポット・上杉神社稽照殿のすぐ近くです。
正直、現地ですらすらとは読めません。碑文の文字そのものは綺麗です。ただ光の関係で見えにくいのと、文そのものが難しい(私には)。キーワードを途切れ途切れに拾うと『元禄15年(1702)12月15日黎明・浅野内匠頭家臣数十人・吉良・本所邸・狼藉・急変不意・老中下知・上杉家の不幸後年に及ぶ・・・』などなどと。
吉良と上杉?
吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘でした。そして赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、上野介の実子が上杉家に養子入りして藩主となっていたのです。この石碑がどんなメッセージを込めて設けられたか分からないものの、赤穂事件について、上杉家側にもそうとう苦悩があったことは伝わってきますね。個人的には、吉良上野介の実子である上杉綱憲に対し、あまり良いイメージがありません。ただ、この人物を藩主として支えねばならなかった家臣団の苦悩、これはちょっと想像できます。碑文後半の『上杉家の不幸後年に及ぶ』が、全てを表しているような気がします。
当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。
■訪問:赤穂事件殉難追悼碑
[山形県米沢市丸の内]
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タグ:山形への旅
上杉の町の武田武士のなごり 屋代町
米沢城本丸跡からの帰り道
小さな標柱に足が止まりました。
屋代町?
ここは現在の住所だと米沢市丸の内です。どうやら旧町名が記されているようです。わざわざ記してあるには理由があるのだろう。そう思って側面の説明文を読んでみると、なるほど、納得でした。
抜粋すると『信濃の屋代から移ってきた侍が住んでいたとされている』とのこと。その補足説明としてしっかりと『武田氏滅亡後、信玄の6男信清をはじめとして上杉氏に帰属した侍が多くいた』と記されています。地名の由来として他の諸説も記載されていましたが、もう冒頭のこの説明だけで満足してしまいました。
まず
武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝の正室となり、武田滅亡後にはその弟・信清が姉の縁を頼って上杉氏に属した。ここまでは有名なお話ですね。直江兼続のお墓があることで知られる林泉寺を訪ねると、境内には武田信清のお墓もあります。信清は甲斐武田家のあとは上杉家の家臣となり、越後・会津を経てここ米沢で没しました。はい。
では標柱の何が満足なのか
武田信清がたった一人でやって来るわけないですよね。仕える者も多かったでしょう。また、信清を頼って集ってくる旧武田武士もいたでしょう。なんといっても、あの武田信玄の血族ですからね。そんな当たり前のことを考えたこともなかったので、妙に新鮮でした。武田信清は明治まで(そして現在も)続く米沢武田家の祖です。それに従う旧武田武士たちが米沢城下で暮らしていた。ごく自然なことです。
場所は米沢城本丸跡の南側です。本丸に近いこんな場所に住んでいたのですから、上杉家臣団のなかでも重要な役割を担っていたのでしょうね。
お城巡りランキング
---------参考画像---------
<武田信清の墓>
こちらは林泉寺武田家墓所の画像です。気持ち遠くから撮影させて頂きました。中央奥(五輪塔が目印)が武田信清のお墓です。
[山形県米沢市林泉寺]1丁目
小さな標柱に足が止まりました。
屋代町?
ここは現在の住所だと米沢市丸の内です。どうやら旧町名が記されているようです。わざわざ記してあるには理由があるのだろう。そう思って側面の説明文を読んでみると、なるほど、納得でした。
抜粋すると『信濃の屋代から移ってきた侍が住んでいたとされている』とのこと。その補足説明としてしっかりと『武田氏滅亡後、信玄の6男信清をはじめとして上杉氏に帰属した侍が多くいた』と記されています。地名の由来として他の諸説も記載されていましたが、もう冒頭のこの説明だけで満足してしまいました。
まず
武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝の正室となり、武田滅亡後にはその弟・信清が姉の縁を頼って上杉氏に属した。ここまでは有名なお話ですね。直江兼続のお墓があることで知られる林泉寺を訪ねると、境内には武田信清のお墓もあります。信清は甲斐武田家のあとは上杉家の家臣となり、越後・会津を経てここ米沢で没しました。はい。
では標柱の何が満足なのか
武田信清がたった一人でやって来るわけないですよね。仕える者も多かったでしょう。また、信清を頼って集ってくる旧武田武士もいたでしょう。なんといっても、あの武田信玄の血族ですからね。そんな当たり前のことを考えたこともなかったので、妙に新鮮でした。武田信清は明治まで(そして現在も)続く米沢武田家の祖です。それに従う旧武田武士たちが米沢城下で暮らしていた。ごく自然なことです。
場所は米沢城本丸跡の南側です。本丸に近いこんな場所に住んでいたのですから、上杉家臣団のなかでも重要な役割を担っていたのでしょうね。
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---------参考画像---------
<武田信清の墓>
こちらは林泉寺武田家墓所の画像です。気持ち遠くから撮影させて頂きました。中央奥(五輪塔が目印)が武田信清のお墓です。
[山形県米沢市林泉寺]1丁目
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