戦国武将・伊達政宗は米沢城で生まれました。
<伊達政宗公生誕の地>
米沢城本丸跡の伊達政宗生誕地の石碑。米沢はもともと伊達家の領地でした。
ところが…
最近では、伊達時代の「米沢城」は、現在の米沢城より西方の舘山城の近くに存在したのではないかといわれ始めています。ちょっと言い換えると、伊達政宗の生誕地が米沢城なのはいいとして、当時の米沢城はどっちなのかということになります。その結果、同じ米沢市で、現在の米山城と舘山城の双方が「伊達政宗生誕の地」をアピールしている状態になっています。
<説明板>
現在の米山城本丸跡の説明板です。上杉家御廟所・上杉家と伊達家の家紋に関する説明と並んで、舘山城の紹介も掲載されています。
<米沢城と舘山城>
右側です。私の主観が入らないようそのまま引用させて頂きます(『』内が原文)。
『米沢城跡(松が岬公園)から約3キロ西側の舘山地区に、山城と平城からなる舘山城跡があります。伊達家の正史「伊達治家記録」には、地元の有力者新田氏の居城であったり、伊達輝宗の隠居所、伊達政宗が地割した記載があります。また、平成25年の発掘調査で山城から石垣が発見されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の石積技術であることから、上杉景勝が築いた石垣とみられます。舘山城は、米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した重要な城と考えられます。米沢市はこのような歴史遺産が多く残るまちです。』
舘山城では石垣も見つかっていますが、これは上杉時代のものとのこと。伊達家・上杉家双方に関わりのある城ということですね。そして、見落とせないのは『米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した』という表現ですかね。つまり、本城はあくまで現在の米沢城ということになります。
<舘山城画像>
舘山城は南と北に川が流れる舌状丘陵の先端付近に築かれました。画像中央、山麓の平地に居館を配置し、平時はそこに居住していたと思われます。そして山には戦に備えた堀や曲輪。政宗出生地をめぐる論争とは別に、ごくごく普通に魅力的な、そして典型的な中世の山城だと思います。
ということで
政宗生誕の地とされる「米沢城」については、私なりにずっと気になってはいるのですが、今回の米沢再訪で改めて、「上杉家が居城とした米沢城と同じで良いかな…」などと思ったという内容でした。
<米沢城本丸跡>
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:
伊達政宗公生誕の地碑
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
2024年08月17日
竹に雀 類似した伊達家と上杉家の紋
<米沢城本丸跡>
ここ米沢城を居城とした伊達家と上杉家の紋は、どういう訳か似ています。両家ともに「竹に雀」の紋。歴史ファンにはよく知られていることですが、その経緯について、詳しい説明を記した説明板をみかけましたのでご紹介させて頂きます。
<説明板>
こちらです。上杉家廟所・米沢城と舘山城、そして上杉家と伊達家の紋について説明がなされています。
<よく似た「竹に雀」>
左側が家紋に関する説明です。一部を下記に転記させて頂き来ます(『』内は原文のまま)。
『上杉家と伊達家の紋はどちらも「竹に雀」。二羽の雀とともに上杉家は輪竹、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれます。そもそも「竹に雀」を最初に用いたのは藤原氏の一族・勧修寺家ですが上杉家の祖が勧修寺重房であることから、「竹に雀」の紋を使用しました。一方、伊達家は稙宗(政宗の曽祖父)の三男・時宗丸が越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子に決まり、越後上杉家から「竹に雀」の幕紋(陣幕に描かれる紋)が贈られたことに始まります。養子の幕紋は華やかにアレンジされ伊達家の紋として用いられるようになったのです。』
この説明だと、婚姻にともなう引出物のような形で上杉家から贈られ、受け取った伊達家では、これを原型とした紋を代々受け継いできたということですね。つまりそれ以前、政宗よりわずか三代前まで、伊達家の紋は別のものでした。婚姻の話そのものは、諸事情でなくなってしまいましたが、紋だけは残ったということのようです。
<両家の紋>
伊達家と上杉家。生命力が強い竹と雀の家紋です。
■訪問:米沢城本丸跡
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
ここ米沢城を居城とした伊達家と上杉家の紋は、どういう訳か似ています。両家ともに「竹に雀」の紋。歴史ファンにはよく知られていることですが、その経緯について、詳しい説明を記した説明板をみかけましたのでご紹介させて頂きます。
<説明板>
こちらです。上杉家廟所・米沢城と舘山城、そして上杉家と伊達家の紋について説明がなされています。
<よく似た「竹に雀」>
左側が家紋に関する説明です。一部を下記に転記させて頂き来ます(『』内は原文のまま)。
『上杉家と伊達家の紋はどちらも「竹に雀」。二羽の雀とともに上杉家は輪竹、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれます。そもそも「竹に雀」を最初に用いたのは藤原氏の一族・勧修寺家ですが上杉家の祖が勧修寺重房であることから、「竹に雀」の紋を使用しました。一方、伊達家は稙宗(政宗の曽祖父)の三男・時宗丸が越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子に決まり、越後上杉家から「竹に雀」の幕紋(陣幕に描かれる紋)が贈られたことに始まります。養子の幕紋は華やかにアレンジされ伊達家の紋として用いられるようになったのです。』
この説明だと、婚姻にともなう引出物のような形で上杉家から贈られ、受け取った伊達家では、これを原型とした紋を代々受け継いできたということですね。つまりそれ以前、政宗よりわずか三代前まで、伊達家の紋は別のものでした。婚姻の話そのものは、諸事情でなくなってしまいましたが、紋だけは残ったということのようです。
<両家の紋>
伊達家と上杉家。生命力が強い竹と雀の家紋です。
■訪問:米沢城本丸跡
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
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■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
2024年08月03日
失われた城の残存土塁(福島城)
遺構はほぼ無いと思っていた福島城跡で、見事な土塁跡を見ることができました。
<土塁跡>
福島城跡の大半はいま福島県庁になっています。この土塁は県庁西庁舎の南側。阿武隈川に面した駐車場付近です。ありがたいことに、説明板も設置されています。
<説明板>
説明文によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、この土塁跡はその一部のようです。
実は、訪問は今回で二度目です。言い訳になりますが、あまり予習をしないで訪問したため、小学校の敷地で偶然みつけた土塁を、福島城唯一の遺構と受け止め退散してしまいました。最近になって今回訪問の土塁の存在を知り、改めて訪問しました。まぁ福島市内、他にも見どころはたくさんありますので、満足な再訪となりました。
<城だった証>
これも福島城のなごり
■訪問:福島城
(福島県庁西庁舎南側)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
お城巡りランキング
■参考:
・現地説明板
(福島市観光コンベンション協会)
・Wikipedia:2024/8/3
・福島市HP
地図から探る城下町・福島
>福島城下散策マップ
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-kyodo/fureai/jokamachi/fureai07-01/index.html
-----------( 追 記 )-----------
最初の訪問記です。とりあえず行ってみたという程度の内容ですが、よかったら覗いてみてください。
<福島城本丸跡>
■投稿:2018年09月04日
■タイトル:福島城のなごり
→『記事へすすむ』
<土塁跡>
福島城跡の大半はいま福島県庁になっています。この土塁は県庁西庁舎の南側。阿武隈川に面した駐車場付近です。ありがたいことに、説明板も設置されています。
<説明板>
説明文によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、この土塁跡はその一部のようです。
実は、訪問は今回で二度目です。言い訳になりますが、あまり予習をしないで訪問したため、小学校の敷地で偶然みつけた土塁を、福島城唯一の遺構と受け止め退散してしまいました。最近になって今回訪問の土塁の存在を知り、改めて訪問しました。まぁ福島市内、他にも見どころはたくさんありますので、満足な再訪となりました。
<城だった証>
これも福島城のなごり
■訪問:福島城
(福島県庁西庁舎南側)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
お城巡りランキング
■参考:
・現地説明板
(福島市観光コンベンション協会)
・Wikipedia:2024/8/3
・福島市HP
地図から探る城下町・福島
>福島城下散策マップ
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-kyodo/fureai/jokamachi/fureai07-01/index.html
-----------( 追 記 )-----------
最初の訪問記です。とりあえず行ってみたという程度の内容ですが、よかったら覗いてみてください。
<福島城本丸跡>
■投稿:2018年09月04日
■タイトル:福島城のなごり
→『記事へすすむ』
タグ:福島
2023年12月10日
小峰城の富士見櫓(白河市)富士山は見えたのだろうか
<小峰城富士見櫓跡>
富士見?福島県からも富士山は見えるのだろうか?
小峰城探索中の素朴な疑問です。遠くを眺めましたが、見える気配はなし。天候にもよると受け止め、現地ではあっさり諦めました。ただブログをまとめるにあたり、どうしても気になって、調べることにしました。
<縄張り図>
こつらは白河駅近くの歩行者トンネル内に展示されているパネルです。小峰城の復元図ですね。本丸には小峰城のシンボルである三重櫓、そして城の要所要所に櫓が設けられています。問題の富士見櫓は本丸の南西角(この画像だと本丸の左上隅)です。富士見櫓という名は江戸城をはじめ、多くの城郭で耳にしますが、ここは福島県ですからね。
<本丸の南西角>
ここを登ってすぐが富士見櫓跡
<櫓跡の下>
本丸より一段下の帯曲輪から見るとこの石垣の上あたり
方角的には分かるが…
結論を言うと、ここ白河市より更に北でも富士山は見えるそうです。WIKIさんによれば、富士山が見える最北端は、同じく福島県の川俣町と飯舘村の堺にある花塚山とのこと。ただし、これは辛うじて確認できるというレベルのようです。
ということで
福島県南端の白河市から富士が見えても何ら不思議ではないというお話でした。日記が如き内容にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<富士見櫓跡の石碑>
きっと見える、あるいは見えたのでしょう
■訪問:小峰城富士見櫓跡
[福島県白河市郭内]
■参考
・白河駅歩行者通路展示パネル
「復元図想定図(日本建築研究所蔵)」
・Wikipedia:2023/12/10
[補足]
今回はこちらの記事の追記として投稿しました。よかったら覗いてみて下さい。
『矢之門から帯曲輪へ』
(クリックで記事に移動します)
■当ブログ過去記事■
小峰城は2018年にも投稿しています。
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
富士見?福島県からも富士山は見えるのだろうか?
小峰城探索中の素朴な疑問です。遠くを眺めましたが、見える気配はなし。天候にもよると受け止め、現地ではあっさり諦めました。ただブログをまとめるにあたり、どうしても気になって、調べることにしました。
<縄張り図>
こつらは白河駅近くの歩行者トンネル内に展示されているパネルです。小峰城の復元図ですね。本丸には小峰城のシンボルである三重櫓、そして城の要所要所に櫓が設けられています。問題の富士見櫓は本丸の南西角(この画像だと本丸の左上隅)です。富士見櫓という名は江戸城をはじめ、多くの城郭で耳にしますが、ここは福島県ですからね。
<本丸の南西角>
ここを登ってすぐが富士見櫓跡
<櫓跡の下>
本丸より一段下の帯曲輪から見るとこの石垣の上あたり
方角的には分かるが…
結論を言うと、ここ白河市より更に北でも富士山は見えるそうです。WIKIさんによれば、富士山が見える最北端は、同じく福島県の川俣町と飯舘村の堺にある花塚山とのこと。ただし、これは辛うじて確認できるというレベルのようです。
ということで
福島県南端の白河市から富士が見えても何ら不思議ではないというお話でした。日記が如き内容にお付き合い頂き、ありがとうございました。
<富士見櫓跡の石碑>
きっと見える、あるいは見えたのでしょう
■訪問:小峰城富士見櫓跡
[福島県白河市郭内]
■参考
・白河駅歩行者通路展示パネル
「復元図想定図(日本建築研究所蔵)」
・Wikipedia:2023/12/10
[補足]
今回はこちらの記事の追記として投稿しました。よかったら覗いてみて下さい。
『矢之門から帯曲輪へ』
(クリックで記事に移動します)
■当ブログ過去記事■
小峰城は2018年にも投稿しています。
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
タグ:福島
矢之門から帯曲輪へ(白河市)小峰城
<小峰城>こみねじょう
■2023年再訪■
白河市の小峰城跡は、2011年の東日本大震災により、石垣崩壊やひび割れなど多大な被害を受けました。深い歴史が刻まれ、盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつとされる名城です。そしてなにより、白河市のシンボルです。本格的な復旧工事が2013年から始まり、2018年に完了しました。
私の前回の訪問は2018年です。戊辰戦争から150年という年であり、復旧作業にも目途がたったという情報を得て、現地を訪問しました。城は見事に復旧していました。ただ、ちょっと早すぎたのか、城の裏側(北側)はまだ立ち入り禁止の状態でした。その時の続きのつもりで、今年再訪しました。
<城山公園入口>
現地到着
<城内案内>
今回はまず矢之門方面へ
<堀跡>
この景色は前回も見ていますが、二の丸の外側の曲輪跡と勘違いしていました。あとから縄張り図を見てびっくり。埋められた堀の跡です。
そして
<城門跡>
堀が途切れるところに城門があります。本丸からみて西側の矢之門の跡です
■小峰城の帯曲輪■
<矢之門跡>やのもん
ここから探索スタートです
<矢之門説明板>
矢之門が『本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口』であることが記されています。右下に再現イメージがありますね。今は石垣だけですが、こういう櫓門が設けられていたようです。
<三重櫓と帯曲輪>おびくるわ
実質天守の三重櫓。正面から見た美しさとは別の魅力です。こちら側から見上げると、妙な迫力がありますね。右に広がるのが今回のお目当ての帯曲輪です。まぁ私が攻め手なら、ここから直接本丸を攻めようとは思いません。
<石垣の説明板>
一部の石垣が、不定形で粗く割った面が表面になっていることから、江戸時代開始前後に築かれたと考えられるとのこと。
<石垣>
石垣の裾野の部分ですね。なるほど。勉強になりました。
<高低差>
平面図で見ればお隣の曲輪同士ですが、実際は凄い高低差。小峰城は標高約370mの丘に築かれた城。本丸を頂点とする山城です。
<帯曲輪>
そして広い帯曲輪。一段低くなった位置から、大切な本丸をととり囲んでいます。帯曲輪というと、主たる曲輪の補助的な施設で、形状は細長いというイメージですが、ここは違うようです。独立した別の曲輪に思えます。
<石垣の再生>
凄いなぁ…壮大な帯曲輪と石垣。前回この景色は見られなかったので、再訪して良かったと思える瞬間でした。
<修復に関する説明板>
石垣崩落したの様子が記されています。写真を見る限りかなり広範囲です。石材の個数だと1201個になるとのこと。
積み上げるだけでも大変ですが、ここ小峰城の修復では、石材に番号をつけ、伝統的な工法に従って石垣を造り直しました。それって、かなり地道な作業になりますよね。その経験値は、熊本地震で石垣が崩落した熊本城の修復作業にも活かされています。
<西側>
この付近も幅にして21mの崩落があったそうですが、見事に修復されています。
<南西角>
城の南西角に設けられた富士見櫓付近です。角を曲がると城の大手側(南側)になります。
<帯曲輪門>
帯曲輪はここまでです。画像は帯曲輪から内部へ通じる虎口に設けられた帯曲輪門跡。
ということで
小峰城の裏側を中心に、帯曲輪をゆっくり見学したというお話でした。
<城の正面>
あいかわらず見事な前門と三重櫓
小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城のひとつにも選ばれています。
--------■ 小 峰 城 ■--------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏・丹羽氏
榊原氏・松平氏 他
廃城年:1871年
[福島県白河市郭内]
■参考及び抜粋
・現地説明板(白河市)
・Wikipedia:2023/12/10
お城巡りランキング
■当ブログ過去記事■
2018年に訪問した時の投稿です。よかったら覗いてみて下さい。
<小峰城>
『小峰城 戊辰150年の夏』
(クリックで記事に移動します)
■2023年再訪■
白河市の小峰城跡は、2011年の東日本大震災により、石垣崩壊やひび割れなど多大な被害を受けました。深い歴史が刻まれ、盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつとされる名城です。そしてなにより、白河市のシンボルです。本格的な復旧工事が2013年から始まり、2018年に完了しました。
私の前回の訪問は2018年です。戊辰戦争から150年という年であり、復旧作業にも目途がたったという情報を得て、現地を訪問しました。城は見事に復旧していました。ただ、ちょっと早すぎたのか、城の裏側(北側)はまだ立ち入り禁止の状態でした。その時の続きのつもりで、今年再訪しました。
<城山公園入口>
現地到着
<城内案内>
今回はまず矢之門方面へ
<堀跡>
この景色は前回も見ていますが、二の丸の外側の曲輪跡と勘違いしていました。あとから縄張り図を見てびっくり。埋められた堀の跡です。
そして
<城門跡>
堀が途切れるところに城門があります。本丸からみて西側の矢之門の跡です
■小峰城の帯曲輪■
<矢之門跡>やのもん
ここから探索スタートです
<矢之門説明板>
矢之門が『本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口』であることが記されています。右下に再現イメージがありますね。今は石垣だけですが、こういう櫓門が設けられていたようです。
<三重櫓と帯曲輪>おびくるわ
実質天守の三重櫓。正面から見た美しさとは別の魅力です。こちら側から見上げると、妙な迫力がありますね。右に広がるのが今回のお目当ての帯曲輪です。まぁ私が攻め手なら、ここから直接本丸を攻めようとは思いません。
<石垣の説明板>
一部の石垣が、不定形で粗く割った面が表面になっていることから、江戸時代開始前後に築かれたと考えられるとのこと。
<石垣>
石垣の裾野の部分ですね。なるほど。勉強になりました。
<高低差>
平面図で見ればお隣の曲輪同士ですが、実際は凄い高低差。小峰城は標高約370mの丘に築かれた城。本丸を頂点とする山城です。
<帯曲輪>
そして広い帯曲輪。一段低くなった位置から、大切な本丸をととり囲んでいます。帯曲輪というと、主たる曲輪の補助的な施設で、形状は細長いというイメージですが、ここは違うようです。独立した別の曲輪に思えます。
<石垣の再生>
凄いなぁ…壮大な帯曲輪と石垣。前回この景色は見られなかったので、再訪して良かったと思える瞬間でした。
<修復に関する説明板>
石垣崩落したの様子が記されています。写真を見る限りかなり広範囲です。石材の個数だと1201個になるとのこと。
積み上げるだけでも大変ですが、ここ小峰城の修復では、石材に番号をつけ、伝統的な工法に従って石垣を造り直しました。それって、かなり地道な作業になりますよね。その経験値は、熊本地震で石垣が崩落した熊本城の修復作業にも活かされています。
<西側>
この付近も幅にして21mの崩落があったそうですが、見事に修復されています。
<南西角>
城の南西角に設けられた富士見櫓付近です。角を曲がると城の大手側(南側)になります。
<帯曲輪門>
帯曲輪はここまでです。画像は帯曲輪から内部へ通じる虎口に設けられた帯曲輪門跡。
ということで
小峰城の裏側を中心に、帯曲輪をゆっくり見学したというお話でした。
<城の正面>
あいかわらず見事な前門と三重櫓
小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城のひとつにも選ばれています。
--------■ 小 峰 城 ■--------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏・丹羽氏
榊原氏・松平氏 他
廃城年:1871年
[福島県白河市郭内]
■参考及び抜粋
・現地説明板(白河市)
・Wikipedia:2023/12/10
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■当ブログ過去記事■
2018年に訪問した時の投稿です。よかったら覗いてみて下さい。
<小峰城>
『小峰城 戊辰150年の夏』
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2023年09月17日
霞城三の丸跡の石碑(山形市)歌懸稲荷神社
山形市の歌懸稲荷神社の境内奥には、この地が山形城三の丸跡であることを記した石碑が建てられています。
<霞城三の丸跡の石碑>かじょう
立派です。霞城三の丸跡と刻まれています。石碑は昭和36年に建てられました。
霞城は山形城の別称。城は大大名となった最上義光の時代に拡張され、全国有数の規模を誇る平城となりました。今回訪問の歌懸稲荷神社は、本丸跡などが整備されている霞城公園からけっこう離れていますが、広大な霞城(山形城)はこの付近にまで及んだということですね。
<三の丸土塁>
実は、この土塁を見るのは初めてではありません。前回は土塁の向こう側、細かいことを言うとかつての城内から眺めました。今回は城の外側からです。よくみると、土塁だけでなく、堀跡も確認できます。貴重な遺構です。
<歌懸稲荷神社>うたかけ
お邪魔させて頂いた歌懸稲荷神社についてですが、歌懸とは、そのむかし歌を短冊に書き奉納する風習に由来するそうです。何となく高尚な感じがして近寄りがたいし、短冊もありませんが、とりあえずは拝殿で手を合わせておきました。
<拝殿>
<本殿>
歌懸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、最上家初代にして山形城の築城者である斯波兼頼が、城の守り神として建立したと伝わります。また、最上義光は天童氏との開戦に際して勝利祈願したとも伝わります。最上家ゆかりの神社ということになりますね。
もともとは山形城内でしたが、最上家が改易されてあとの鳥居忠政の時代に、この地、三の丸堀の外側へ移転したようです。
山形城を築き、城下繁栄の礎を作った最上家ゆかりの神社が、城外へと追い出された感がありますね。
ただそれ以後、縁日である10日ごとに門前で市が開かれ、十日町の名の起こりとなり、城下の人たちとのつながりは深まったようです。それはそのまま多くの人たちの信仰にもつながるわけですよね。殿様の神社とは別の価値が、そこにあるように思えます(あくまで個人感想です)。
<市神>
商の神が祀られています
ということで
霞城三の丸跡石碑と、最上家と深い関りのある歌懸稲荷神社のご紹介でした。
<土塁と石碑>
石碑は社殿の裏手になります。
■訪問:霞城三の丸跡碑
(歌懸稲荷神社境内)
[山形県山形市十日町] 1-1-26
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板「山形城跡」
(山形県教育委員会)
(山形市教育委員会)
・山形市十日町商店街HP
http://tokamachi.sunnyday.jp/uta.html
<霞城三の丸跡の石碑>かじょう
立派です。霞城三の丸跡と刻まれています。石碑は昭和36年に建てられました。
霞城は山形城の別称。城は大大名となった最上義光の時代に拡張され、全国有数の規模を誇る平城となりました。今回訪問の歌懸稲荷神社は、本丸跡などが整備されている霞城公園からけっこう離れていますが、広大な霞城(山形城)はこの付近にまで及んだということですね。
<三の丸土塁>
実は、この土塁を見るのは初めてではありません。前回は土塁の向こう側、細かいことを言うとかつての城内から眺めました。今回は城の外側からです。よくみると、土塁だけでなく、堀跡も確認できます。貴重な遺構です。
<歌懸稲荷神社>うたかけ
お邪魔させて頂いた歌懸稲荷神社についてですが、歌懸とは、そのむかし歌を短冊に書き奉納する風習に由来するそうです。何となく高尚な感じがして近寄りがたいし、短冊もありませんが、とりあえずは拝殿で手を合わせておきました。
<拝殿>
<本殿>
歌懸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、最上家初代にして山形城の築城者である斯波兼頼が、城の守り神として建立したと伝わります。また、最上義光は天童氏との開戦に際して勝利祈願したとも伝わります。最上家ゆかりの神社ということになりますね。
もともとは山形城内でしたが、最上家が改易されてあとの鳥居忠政の時代に、この地、三の丸堀の外側へ移転したようです。
山形城を築き、城下繁栄の礎を作った最上家ゆかりの神社が、城外へと追い出された感がありますね。
ただそれ以後、縁日である10日ごとに門前で市が開かれ、十日町の名の起こりとなり、城下の人たちとのつながりは深まったようです。それはそのまま多くの人たちの信仰にもつながるわけですよね。殿様の神社とは別の価値が、そこにあるように思えます(あくまで個人感想です)。
<市神>
商の神が祀られています
ということで
霞城三の丸跡石碑と、最上家と深い関りのある歌懸稲荷神社のご紹介でした。
<土塁と石碑>
石碑は社殿の裏手になります。
■訪問:霞城三の丸跡碑
(歌懸稲荷神社境内)
[山形県山形市十日町] 1-1-26
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■参考
・現地説明板「山形城跡」
(山形県教育委員会)
(山形市教育委員会)
・山形市十日町商店街HP
http://tokamachi.sunnyday.jp/uta.html
2023年08月05日
近世米沢城のなごり 三の丸残存土塁
今回は米沢市の市街地に取り残された城のなごりの話です。
<市街地の土塁>
ここは米沢城三の丸跡です。開発でかつての遺構はほぼ取り除かれていますが、土塁が残されています。とても貴重な遺構ですね。
<粡町公園>あらまち
遺構は児童公園(粡町公園)の一部となっています。炎天下の訪問のためか、子供の姿もなく…
米沢城の歴史はかなり古いですが、本丸を中心に、二ノ丸・三ノ丸で囲う広大な城に改修されたのは近世になってからです(江戸時代初期)。改修者は上杉景勝の命を受けた直江兼続でした。石垣は使用せず、それぞれの曲輪を土塁で囲みました。
土塁とセットの堀の掘削も同時に行われました。現在はその姿は確認できませんが、位置的にこの画像の向こう側が水堀だったことになります。
<稲荷神社の鳥居>
土塁の上に鳥居が見えます
<五穀稲荷神社>
土塁上の五穀稲荷のお堂です。推定ですが、神様が祀られているから、土塁も取り除けなかったのではないかと思います。本丸からみて北東に位置していることから、鬼門の守り神として神社が建てられたとも考えられています。
<土塁滑り台>
あれ、これはもしかしたら
<コンクリート滑り台>
土塁を利用した滑り台です。かなり頑丈そうですね。ここは土塁跡にして神社の境内、そして児童公園でもあるので、相応しい光景なのかもしれません。
滑り降りてみたかったですが、ヘンなオジサンがいると思われること100%のため、やめておきました。
<石碑>
比較的新しい石碑が設置されています。刻まれた文字は、米沢城三の丸土塁…竹?何で竹?
説明を呼んで納得しました。
『土居の崩壊を防ぐために植えられた矢竹は約四百年の風雪に耐え…』と刻まれています。土塁だけでなく矢竹を含めて、貴重な遺跡を残してくれた先人を偲ぶためにこの碑は造られたようです。
<矢竹>
ただの笹かと思いきや、矢の材料にもなる矢竹だったようです。
<現存土塁>
直江兼続により築かれた三の丸土塁の総延長は約4kmだったと伝わります。今はそのほとんどが失われましたが、これは造り直しではなく、当時の土塁がそのまま残っているわけです。
まさに近世の城として生まれ変わった時の米沢城のなごりです。
■訪問:
米沢城三の丸残存土塁
(五穀稲荷神社)
[山形県米沢市中央]4丁目
■参考及び出典
現地石碑(米沢城三の丸土塁・竹碑)
お城巡りランキング
<市街地の土塁>
ここは米沢城三の丸跡です。開発でかつての遺構はほぼ取り除かれていますが、土塁が残されています。とても貴重な遺構ですね。
<粡町公園>あらまち
遺構は児童公園(粡町公園)の一部となっています。炎天下の訪問のためか、子供の姿もなく…
米沢城の歴史はかなり古いですが、本丸を中心に、二ノ丸・三ノ丸で囲う広大な城に改修されたのは近世になってからです(江戸時代初期)。改修者は上杉景勝の命を受けた直江兼続でした。石垣は使用せず、それぞれの曲輪を土塁で囲みました。
土塁とセットの堀の掘削も同時に行われました。現在はその姿は確認できませんが、位置的にこの画像の向こう側が水堀だったことになります。
<稲荷神社の鳥居>
土塁の上に鳥居が見えます
<五穀稲荷神社>
土塁上の五穀稲荷のお堂です。推定ですが、神様が祀られているから、土塁も取り除けなかったのではないかと思います。本丸からみて北東に位置していることから、鬼門の守り神として神社が建てられたとも考えられています。
<土塁滑り台>
あれ、これはもしかしたら
<コンクリート滑り台>
土塁を利用した滑り台です。かなり頑丈そうですね。ここは土塁跡にして神社の境内、そして児童公園でもあるので、相応しい光景なのかもしれません。
滑り降りてみたかったですが、ヘンなオジサンがいると思われること100%のため、やめておきました。
<石碑>
比較的新しい石碑が設置されています。刻まれた文字は、米沢城三の丸土塁…竹?何で竹?
説明を呼んで納得しました。
『土居の崩壊を防ぐために植えられた矢竹は約四百年の風雪に耐え…』と刻まれています。土塁だけでなく矢竹を含めて、貴重な遺跡を残してくれた先人を偲ぶためにこの碑は造られたようです。
<矢竹>
ただの笹かと思いきや、矢の材料にもなる矢竹だったようです。
<現存土塁>
直江兼続により築かれた三の丸土塁の総延長は約4kmだったと伝わります。今はそのほとんどが失われましたが、これは造り直しではなく、当時の土塁がそのまま残っているわけです。
まさに近世の城として生まれ変わった時の米沢城のなごりです。
■訪問:
米沢城三の丸残存土塁
(五穀稲荷神社)
[山形県米沢市中央]4丁目
■参考及び出典
現地石碑(米沢城三の丸土塁・竹碑)
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2022年08月27日
舞鶴橋(米沢城)本丸正面に架かる橋
米沢城本丸跡の正面入り口に架かる橋の話です。
<舞鶴橋>
この橋は過去に何度も渡っているのですが、橋の名はあまり意識しませんでした。舞鶴橋という名は米沢城の別称「舞鶴城」に由来します。
<アーチ式石橋>
現地には橋に関する説明板もちゃんと設置されていました。以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『米沢城本丸跡の堀に架かるアーチ式の石橋で、上杉神社の参道として明治19年(1886)に完成した。江戸時代は米沢城の正面にあたり、木製の太鼓橋が架けられていた。舞鶴橋の名称は米沢城の別称「舞鶴城」に由来する。平成10年に国の登録有形文化財に指定された。』
江戸時代は木製の太鼓橋だったわけですね。そして明治に架けられたこの橋は有形文化財。またひとつ勉強になりました。せっかくですので、横から撮った過去画像も貼っておきます。
<撮影2018年>
よく見ると重厚感がありますね
<撮影2014年>
本丸跡玄関口の橋です
■訪問:舞鶴橋
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]1丁目
■参考及び出典
現地説明板
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<舞鶴橋>
この橋は過去に何度も渡っているのですが、橋の名はあまり意識しませんでした。舞鶴橋という名は米沢城の別称「舞鶴城」に由来します。
<アーチ式石橋>
現地には橋に関する説明板もちゃんと設置されていました。以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『米沢城本丸跡の堀に架かるアーチ式の石橋で、上杉神社の参道として明治19年(1886)に完成した。江戸時代は米沢城の正面にあたり、木製の太鼓橋が架けられていた。舞鶴橋の名称は米沢城の別称「舞鶴城」に由来する。平成10年に国の登録有形文化財に指定された。』
江戸時代は木製の太鼓橋だったわけですね。そして明治に架けられたこの橋は有形文化財。またひとつ勉強になりました。せっかくですので、横から撮った過去画像も貼っておきます。
<撮影2018年>
よく見ると重厚感がありますね
<撮影2014年>
本丸跡玄関口の橋です
■訪問:舞鶴橋
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]1丁目
■参考及び出典
現地説明板
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菱門橋(米沢城)藩主が渡った本丸の橋
今回は米沢城本丸跡の堀に架かる橋の話です。
<菱門橋>ひしもんばし
本丸の堀に架かる菱門橋。今でこそ誰でも気軽に渡ることができますが、かつては藩主が渡る橋とあって、警備も厳重だったそうです。
現地の説明板をそのまま抜粋させて頂くと『米沢城本丸跡の南側堀にかかる太鼓橋で、あざやかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。橋名は、江戸時代は本丸内の城主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その交通は厳重に取り締まったことから、「秘し門」と称されたことにに由来する』とのこと。
<菱門橋の親柱>
秘し門→ひしもん→菱門
私でも理解できる由来で良かったです。
<水堀>
菱門橋は本丸跡南側の堀に架けられています。ちなみに、本丸へのメインの入り口(大手口)は東側です。
<本丸側>
本丸側へ向かって渡りきると、春日神社が待っています
<春日神社>
こちらが春日神社です。春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。
そして、更に奥へ進むと、上杉謙信を祀る上杉神社が待っています。
<上杉神社>
藩祖謙信を祀る上杉神社です。本丸へ渡る橋は複数ありますが、菱門橋は上杉神社に最も近い橋です。それもそのはず。ここが藩主の御殿跡なのです。
<朱色の太鼓橋>
菱門橋の見事な朱色は、比較的地味な米沢城跡に彩りを添えているようにも映ります。私の訪問は夏ですが、桜の名所として人気の場所です。
ということで
今回は米沢城の中でも、特別な意味を持っていた橋のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:菱門橋
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]1丁目
■参考及び出典
現地説明板
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<菱門橋>ひしもんばし
本丸の堀に架かる菱門橋。今でこそ誰でも気軽に渡ることができますが、かつては藩主が渡る橋とあって、警備も厳重だったそうです。
現地の説明板をそのまま抜粋させて頂くと『米沢城本丸跡の南側堀にかかる太鼓橋で、あざやかな朱塗りの橋は写真の好スポットとなっている。橋名は、江戸時代は本丸内の城主が住んだ「御殿」からの南出入口にあたり、その交通は厳重に取り締まったことから、「秘し門」と称されたことにに由来する』とのこと。
<菱門橋の親柱>
秘し門→ひしもん→菱門
私でも理解できる由来で良かったです。
<水堀>
菱門橋は本丸跡南側の堀に架けられています。ちなみに、本丸へのメインの入り口(大手口)は東側です。
<本丸側>
本丸側へ向かって渡りきると、春日神社が待っています
<春日神社>
こちらが春日神社です。春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。
そして、更に奥へ進むと、上杉謙信を祀る上杉神社が待っています。
<上杉神社>
藩祖謙信を祀る上杉神社です。本丸へ渡る橋は複数ありますが、菱門橋は上杉神社に最も近い橋です。それもそのはず。ここが藩主の御殿跡なのです。
<朱色の太鼓橋>
菱門橋の見事な朱色は、比較的地味な米沢城跡に彩りを添えているようにも映ります。私の訪問は夏ですが、桜の名所として人気の場所です。
ということで
今回は米沢城の中でも、特別な意味を持っていた橋のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:菱門橋
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]1丁目
■参考及び出典
現地説明板
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2022年03月12日
三春城のなごり
つわものどもが夢の跡
今回は福島県田村郡三春町の山城の話です。
<三春城>
比高の約百メートルの山に築かれた山城です
■田村氏の居城■
三春城はいつ築かれたのか?正確にはわかっていません。16世紀初頭に戦国大名である田村義顕が城を構えたことに始まる。この説が一般的です。義顕は田村氏の23代当主。ごく普通の国人領主だった田村氏を大名にまで押し上げ、居城も現在の郡山市から今回訪問の三春町へ移しました。
<山頂>
三春城はまず中世の土の城から始まり、のちに近世城郭に発展した城です
陸奥国の田村郡を支配していた田村氏。全国的にはあまり知られていませんが、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。義顕が三春に拠点を移す前の田村氏の居城(守山城)は、田村麻呂が征夷の際に築いたことに始まるとされています。
■田村氏と伊達氏■
戦国大名の仲間入りをした田村氏ですが、周辺には相馬氏や蘆名氏、佐竹氏といった手ごわい相手が勢ぞろいしています。苦しい駆け引きや攻防戦の全てをご紹介はできませんが、伊達氏との繋がりにより、田村氏は一定の地位を維持することに成功しています。24代当主・田村隆顕の側室は伊達稙宗の娘、25代当主・清顕の娘・愛姫は伊達政宗の正室です。ただ、当時の伊達氏はまだまだ不安定な発展途上の段階でしたので、田村氏も決して安泰というわけにはいきませんでした。
<東館跡>ひがしだて
こちらは先ほどの山頂とは別の峰の東館跡。現地説明板だと三ノ丸という位置づけになってはいますが、本体との往来が容易ではなく、出丸としては位置が不自然。個人的には、もともとは城本体とは別の何らかの施設だったと受け止めています。ちなみに、田村氏を訪ねて三春城に入城した伊達政宗は、滞在期間中ここに何度も足を運んだとのこと。伊達家から田村家に嫁いだ政宗の大叔母がここで暮らしていたそうです。
■奥州仕置■
1590年の秀吉による小田原征伐の際に、伊達政宗が遅れて参陣したことは有名ですね。その政宗に従っていた26代当主・田村宗顕(むねあき)は、参陣しなかったことを秀吉に咎められて所領没収となりました。
宗顕は家督相続問題で家中が混乱に陥った際に、伊達政宗の力で当主となった人物。当初は顕季を名乗っていましたが、政宗から「宗」の偏諱を与えられ宗顕と名乗りました。没収された田村領は政宗のものとなりましたが、宗顕は支援を辞退して三春城を去りました。一説によれば、名を定顕と改め、政宗家臣の片倉氏のもとで隠棲したとのこと。子らは片倉氏を称し、子孫は片倉氏として現在に至るそうです。
<搦手門跡>
本丸の北側の搦手門跡
■秋田氏の城■
田村氏以後、三春の支配者は伊達・蒲生・上杉等めまぐるしく変わりました。蒲生氏に代わって会津に加藤嘉明が入ると、三春城には三男の加藤明利が入り、翌年にはその孫にあたる松下長綱が二本松城から入ります(1628年)。城はこの時に大改修がなされ、近世らしい城郭へ生まれ変わりました。
<堀切>
山頂から西北に伸びる尾根を削った堀切。右手は近世城郭時代の二ノ丸
松下氏が改易となった翌年(1645年)、常陸国宍戸から秋田俊季が三春に入り、三春城は更に改修され、現在の縄張りとなりました。
<説明板>
山頂の説明板。不勉強なまま訪問したので大変助かりました
<説明板拡大>
主な三春城主として「田村氏・松下氏・秋田氏」の家紋が紹介されています
この説明板からそのまま抜粋させて頂くと『秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷:いやしき)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。』とのこと。三春城の基本は戦国時代の山城。高低差は攻防戦には有利ですが、何ごとないときはちょっと不便ということですね。
<三春小学校正門>
こちらは山の麓の小学校の正門。藩主はこの付近に御殿を設けて、日々の政務にあたっていたわけですね。この門は秋田氏が設けた藩校の表門が移設されたものです。
■登城記録■
<お城坂>
麓から城跡へ至る坂道です
<二之門跡>
登り始めて最初に目にする城跡らしいて光景でした
<二之門跡付近の案内板>
かつての城は姿を消していますが、土の形は残されています
<ありし日の姿>
三春城の「ありし日の姿」ですか。城としてピーク時の姿ということですね。そのなごりを感じるべく、てくてくと歩き続けました
<外周>
山頂へ向かう登山道もありますが、散策路を歩くことに
<城側から見た桜>
三春と言えば桜。三春城跡もその名所ではありますが、晩秋の訪問となりました
<山の中腹>
本丸に行くには遠回りになりますが、先ほどご紹介させて頂いた東館(三ノ丸とされる曲輪)へは近道です
<東館の丘>
散策路をそれて城の外側へ向かう小径を進むと、東館跡が見えてきます。登った先は平らに区画となっています
<南西から東へ>
東館(三ノ丸)跡付近を通過して山の東側へ
<東側の斜面>
山の東側の斜面です。視界が開けて、自分が歩いている場所と本丸がある山頂との高低差を思い知らされた瞬間でした
<階段>
斜面に階段をみつけました。ここで作戦変更です。外周歩きはこのヘンにして、直接頂上を目指すことにしました
<埋もれた石垣>
途中こんな光景と出会う
<急斜面>
登れば登るほど急斜面に
<石垣跡>
山頂の周りに石垣のなごりを発見。諸説ありますが蒲生時代のものと思われます
<休憩>
一気に登ってきたら足がもつれたのでひと休み
<本丸の下>
あの先端も何らかの役割を果たしていたのでしょう。左手の斜面のすぐ上は本丸です。ということは腰曲輪でしょうか?休んだからこそ見つけられた城のなごりです
そして山頂
<本丸跡>
石壇の上は秋田家祖先尊霊の石碑
<段差>
降った先は旧二ノ丸
<旧二ノ丸>
二ノ丸跡と記された標識がありますが、正確に言うと中世の二ノ丸です。近世城郭に生まれ変わってからは、段差こそあるものの、本丸と一体になりました。かつて城のシンボルだった御三階櫓が建っていた場所です
以上です
最後に
戊辰戦争について
三春藩はいわゆる奥羽列藩同盟に参加こそしましたが、これは周辺諸藩との関係を考慮したものでした。もともとの立ち位置は尊皇に近かく、新政府軍との対立も望むところではなかったようです。ただ、二本松戦争の直前に新政府軍に降伏したことから、その後の二本松藩の苦闘との対比で、どうしても裏切りのイメージがついてまわります。難しい問題なので、こんなブログでどうこう言うつもりはありませんが、小さな藩ならではの苦しい立場で、最後の最後は藩内に戦火が及ぶことを避けたという評価もあることをご紹介して終わりにしたいと思います。
<続日本100名城>
三春城の廃城は1871年(明治4年)です。中世から明治まで、深い深い歴史の刻まれた三春城は、続日本100名城に選ばれています。
--------■ 三春城 ■--------
別 名:舞鶴城
築城年:(16世紀初頭)
築城者:(田村義顕)
改修者:松下長綱 他
城 主:田村氏 松下氏
加藤氏 秋田氏
廃城年:1871年(明治4)
[ 福島県田村郡三春町 ]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/12
・現地説明板
・三春町ホームページWeb資料館
(政宗の三春城入城)
https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/05-masamune.html
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今回は福島県田村郡三春町の山城の話です。
<三春城>
比高の約百メートルの山に築かれた山城です
■田村氏の居城■
三春城はいつ築かれたのか?正確にはわかっていません。16世紀初頭に戦国大名である田村義顕が城を構えたことに始まる。この説が一般的です。義顕は田村氏の23代当主。ごく普通の国人領主だった田村氏を大名にまで押し上げ、居城も現在の郡山市から今回訪問の三春町へ移しました。
<山頂>
三春城はまず中世の土の城から始まり、のちに近世城郭に発展した城です
陸奥国の田村郡を支配していた田村氏。全国的にはあまり知られていませんが、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。義顕が三春に拠点を移す前の田村氏の居城(守山城)は、田村麻呂が征夷の際に築いたことに始まるとされています。
■田村氏と伊達氏■
戦国大名の仲間入りをした田村氏ですが、周辺には相馬氏や蘆名氏、佐竹氏といった手ごわい相手が勢ぞろいしています。苦しい駆け引きや攻防戦の全てをご紹介はできませんが、伊達氏との繋がりにより、田村氏は一定の地位を維持することに成功しています。24代当主・田村隆顕の側室は伊達稙宗の娘、25代当主・清顕の娘・愛姫は伊達政宗の正室です。ただ、当時の伊達氏はまだまだ不安定な発展途上の段階でしたので、田村氏も決して安泰というわけにはいきませんでした。
<東館跡>ひがしだて
こちらは先ほどの山頂とは別の峰の東館跡。現地説明板だと三ノ丸という位置づけになってはいますが、本体との往来が容易ではなく、出丸としては位置が不自然。個人的には、もともとは城本体とは別の何らかの施設だったと受け止めています。ちなみに、田村氏を訪ねて三春城に入城した伊達政宗は、滞在期間中ここに何度も足を運んだとのこと。伊達家から田村家に嫁いだ政宗の大叔母がここで暮らしていたそうです。
■奥州仕置■
1590年の秀吉による小田原征伐の際に、伊達政宗が遅れて参陣したことは有名ですね。その政宗に従っていた26代当主・田村宗顕(むねあき)は、参陣しなかったことを秀吉に咎められて所領没収となりました。
宗顕は家督相続問題で家中が混乱に陥った際に、伊達政宗の力で当主となった人物。当初は顕季を名乗っていましたが、政宗から「宗」の偏諱を与えられ宗顕と名乗りました。没収された田村領は政宗のものとなりましたが、宗顕は支援を辞退して三春城を去りました。一説によれば、名を定顕と改め、政宗家臣の片倉氏のもとで隠棲したとのこと。子らは片倉氏を称し、子孫は片倉氏として現在に至るそうです。
<搦手門跡>
本丸の北側の搦手門跡
■秋田氏の城■
田村氏以後、三春の支配者は伊達・蒲生・上杉等めまぐるしく変わりました。蒲生氏に代わって会津に加藤嘉明が入ると、三春城には三男の加藤明利が入り、翌年にはその孫にあたる松下長綱が二本松城から入ります(1628年)。城はこの時に大改修がなされ、近世らしい城郭へ生まれ変わりました。
<堀切>
山頂から西北に伸びる尾根を削った堀切。右手は近世城郭時代の二ノ丸
松下氏が改易となった翌年(1645年)、常陸国宍戸から秋田俊季が三春に入り、三春城は更に改修され、現在の縄張りとなりました。
<説明板>
山頂の説明板。不勉強なまま訪問したので大変助かりました
<説明板拡大>
主な三春城主として「田村氏・松下氏・秋田氏」の家紋が紹介されています
この説明板からそのまま抜粋させて頂くと『秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷:いやしき)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。』とのこと。三春城の基本は戦国時代の山城。高低差は攻防戦には有利ですが、何ごとないときはちょっと不便ということですね。
<三春小学校正門>
こちらは山の麓の小学校の正門。藩主はこの付近に御殿を設けて、日々の政務にあたっていたわけですね。この門は秋田氏が設けた藩校の表門が移設されたものです。
■登城記録■
<お城坂>
麓から城跡へ至る坂道です
<二之門跡>
登り始めて最初に目にする城跡らしいて光景でした
<二之門跡付近の案内板>
かつての城は姿を消していますが、土の形は残されています
<ありし日の姿>
三春城の「ありし日の姿」ですか。城としてピーク時の姿ということですね。そのなごりを感じるべく、てくてくと歩き続けました
<外周>
山頂へ向かう登山道もありますが、散策路を歩くことに
<城側から見た桜>
三春と言えば桜。三春城跡もその名所ではありますが、晩秋の訪問となりました
<山の中腹>
本丸に行くには遠回りになりますが、先ほどご紹介させて頂いた東館(三ノ丸とされる曲輪)へは近道です
<東館の丘>
散策路をそれて城の外側へ向かう小径を進むと、東館跡が見えてきます。登った先は平らに区画となっています
<南西から東へ>
東館(三ノ丸)跡付近を通過して山の東側へ
<東側の斜面>
山の東側の斜面です。視界が開けて、自分が歩いている場所と本丸がある山頂との高低差を思い知らされた瞬間でした
<階段>
斜面に階段をみつけました。ここで作戦変更です。外周歩きはこのヘンにして、直接頂上を目指すことにしました
<埋もれた石垣>
途中こんな光景と出会う
<急斜面>
登れば登るほど急斜面に
<石垣跡>
山頂の周りに石垣のなごりを発見。諸説ありますが蒲生時代のものと思われます
<休憩>
一気に登ってきたら足がもつれたのでひと休み
<本丸の下>
あの先端も何らかの役割を果たしていたのでしょう。左手の斜面のすぐ上は本丸です。ということは腰曲輪でしょうか?休んだからこそ見つけられた城のなごりです
そして山頂
<本丸跡>
石壇の上は秋田家祖先尊霊の石碑
<段差>
降った先は旧二ノ丸
<旧二ノ丸>
二ノ丸跡と記された標識がありますが、正確に言うと中世の二ノ丸です。近世城郭に生まれ変わってからは、段差こそあるものの、本丸と一体になりました。かつて城のシンボルだった御三階櫓が建っていた場所です
以上です
最後に
戊辰戦争について
三春藩はいわゆる奥羽列藩同盟に参加こそしましたが、これは周辺諸藩との関係を考慮したものでした。もともとの立ち位置は尊皇に近かく、新政府軍との対立も望むところではなかったようです。ただ、二本松戦争の直前に新政府軍に降伏したことから、その後の二本松藩の苦闘との対比で、どうしても裏切りのイメージがついてまわります。難しい問題なので、こんなブログでどうこう言うつもりはありませんが、小さな藩ならではの苦しい立場で、最後の最後は藩内に戦火が及ぶことを避けたという評価もあることをご紹介して終わりにしたいと思います。
<続日本100名城>
三春城の廃城は1871年(明治4年)です。中世から明治まで、深い深い歴史の刻まれた三春城は、続日本100名城に選ばれています。
--------■ 三春城 ■--------
別 名:舞鶴城
築城年:(16世紀初頭)
築城者:(田村義顕)
改修者:松下長綱 他
城 主:田村氏 松下氏
加藤氏 秋田氏
廃城年:1871年(明治4)
[ 福島県田村郡三春町 ]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/12
・現地説明板
・三春町ホームページWeb資料館
(政宗の三春城入城)
https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/05-masamune.html
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