今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。
■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう
上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封されると、謙信の亡骸も米沢へと移されました。
上杉景勝の命により、米沢城の本丸に謙信公祠堂が創設されます。それ以降、謙信の遺骸を納めた御堂は、米沢城内の特別な場所であり続けました。
<上杉謙信公祠堂跡>
この階段の先ですね
<祠堂跡の石碑>
ありました。平城の米沢城としては最も高い場所です
<説明板>
亡くなった謙信の遺骸は『甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている』とのこと。甲冑姿のままカメに収められたようです。また『遺骸の左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ』たと記されています。謙信とともに祀られていたということですね。ひとつは、いわゆる長野の善光寺に由来する阿弥陀如来像。そして泥足毘沙門天像ですが、こちらは謙信ファンの方の間では有名な話に由来する仏像です。ある時、戦から帰って毘沙門堂へ上がった謙信が見たものは、毘沙門天像まで続く泥の足跡でした。謙信は毘沙門天が共に戦ってくれたと受け止め、その毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようになった。 幼少より深い信仰心を持っていた謙信らしい逸話です。御堂はなくなり、善光寺如来像と泥足毘沙門天像は、現在米沢市内の法音寺に祀られています。
<上杉謙信公祠堂跡>
城下を見渡せる場所に祀られていたわけですね。上杉謙信の遺骸は、江戸時代を通してここに安置されていました。ずっと上杉の町を見守っていた。そんな印象を受けました。
<高台>
城外から撮影。一番高い位置が御堂があった場所です。城に出入りする者たちにとって、特別な意味を持つ場所だったのでしょう。上杉謙信は最強の戦国武将であっただけでなく、死してなお長きに渡って上杉家臣団の心の支えであり続けたわけですね。
やがて明治になり、米沢城は廃城。謙信の遺骸は上杉家歴代の墓所に移されます。そして、ずっと米沢城とともにあった謙信の魂を祀るべく、上杉神社が建立されました。
<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
亡骸は米沢藩歴代藩主たちの墓所へ
<上杉神社>
謙信の魂が祀られています
上杉謙信は本来越後の人
でもここ米沢にいると受け止めています
■訪問:上杉謙信公祠堂跡
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
2019年12月13日
2018年11月08日
戸沢氏の居城 新庄城のなごり
つわものどもが夢の跡
山形県新庄市の城跡を訪ねました。出羽新庄藩主歴代の居城です。
<本丸表御門跡>
現在は石垣のみです。
■江戸初期の築城■
城が築かれたのは1624年。出羽新庄藩の初代藩主となった戸沢政盛が築城者ということになります。ただ縄張りは義兄にあたる山形城主の鳥居忠政。1622年に最上家が家中騒動の不始末を理由に改易されると、旧領は徳川幕府の重臣・鳥居忠政とその縁戚に与えられました。鳥居忠政は最上家が去ったあとに城下町山形の基礎を築いた人物です。そしてその妹が戸沢政盛の正室。まぁそういう関係です。最上家は57万石でしたから、鳥居忠政が如何に大物か伝わってきますね。
新庄藩6万石の藩主となった戸沢政盛は、はじめは最上氏の家臣・鮭延氏の居城(真室城または鮭延城)を居城としましたが、こちらは戦国時代の山城のため、統治には不向き。更に手狭ということもあって、新たに城を築くことになりました。これが新圧城の始まりです。
■縄張り■
方形の本丸の南側に二の丸を配置した上で、三の丸でそれらを取り囲む。構造としてはシンプルです。分類すると輪郭式の平城。当初は天守も築かれましたが、早い時期に火災で焼失。以降築かれることはありませんでした。
<水堀>
■名族戸沢氏■とざわし
戸沢氏の発祥については諸説ありますが、桓武平氏の流れを組む名門一族と考えられています。祖は平衡盛(ひらもり)。出羽国にて勢力を拡大しました。戦国期になると、戸沢氏は出羽角館城(現在の秋田県仙北市)を拠点とする小大名となっていましたが、18代当主・盛安の代で再び勢いを取り戻します。盛安は若くして没してしまいましたが、その子・政盛が関ヶ原の戦いで東軍に与していたことから、再び運気に恵まれました。やがて新庄藩初代藩主となった政盛は、新田開発などを積極的に推し進め、藩の基礎固めをしました。
その政盛の後を継いだ正誠(まさのぶ)ですが、新庄藩の第2代藩主として約60年にわたり統治に関わることになります。長期政権ならではの政策や城下町整備の推進などで藩政を安定させ、新庄藩の最盛期を迎えることとなりました。
その後も戸沢氏が代々藩主を務める新庄藩は、江戸を通して存続します。その間、他の藩に漏れず飢饉や財政難といった苦しい時代もあり、更に戊辰戦争にも巻き込まれましたが、藩そのものは廃藩置県で新庄県となるまで続きました。
新庄と戸沢氏は、きっても切れない関係という感じですね。
■新庄城焼失■
戊辰戦争の時、新庄藩の藩主は第11代の戸沢正実でした。奥州列藩同盟から離脱したことで庄内藩に攻め込まれ、新庄城の大半はこの時に焼失しています。城下も甚大な被害を受けました。ただ奥州列藩同盟からの離脱は、勝者となった新政府軍から評価され、功績として称えられています。
■つわものどもが夢の跡■
<戸澤神社>
戸澤神社の創建は明治になってから。旧領民の有志によって本丸跡に創られました。代々藩主を務めた戸沢氏の祖・戸田衡盛、中興の祖とされる新庄藩初代藩主・戸沢政盛、そして最後の藩主となった戸沢正実を祭神とする神社です。
戸沢氏で始まり、戸沢氏で幕を引いた城跡に鎮座する神社です。
-------■ 新庄城 ■-------
別 名: 沼田城
築城者: 戸沢政盛
築城年: 1624年
城 主: 戸沢氏
廃城年: 1868年
現 況:最上公園
[山形県新庄市堀端町]
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山形県新庄市の城跡を訪ねました。出羽新庄藩主歴代の居城です。
<本丸表御門跡>
現在は石垣のみです。
■江戸初期の築城■
城が築かれたのは1624年。出羽新庄藩の初代藩主となった戸沢政盛が築城者ということになります。ただ縄張りは義兄にあたる山形城主の鳥居忠政。1622年に最上家が家中騒動の不始末を理由に改易されると、旧領は徳川幕府の重臣・鳥居忠政とその縁戚に与えられました。鳥居忠政は最上家が去ったあとに城下町山形の基礎を築いた人物です。そしてその妹が戸沢政盛の正室。まぁそういう関係です。最上家は57万石でしたから、鳥居忠政が如何に大物か伝わってきますね。
新庄藩6万石の藩主となった戸沢政盛は、はじめは最上氏の家臣・鮭延氏の居城(真室城または鮭延城)を居城としましたが、こちらは戦国時代の山城のため、統治には不向き。更に手狭ということもあって、新たに城を築くことになりました。これが新圧城の始まりです。
■縄張り■
方形の本丸の南側に二の丸を配置した上で、三の丸でそれらを取り囲む。構造としてはシンプルです。分類すると輪郭式の平城。当初は天守も築かれましたが、早い時期に火災で焼失。以降築かれることはありませんでした。
<水堀>
■名族戸沢氏■とざわし
戸沢氏の発祥については諸説ありますが、桓武平氏の流れを組む名門一族と考えられています。祖は平衡盛(ひらもり)。出羽国にて勢力を拡大しました。戦国期になると、戸沢氏は出羽角館城(現在の秋田県仙北市)を拠点とする小大名となっていましたが、18代当主・盛安の代で再び勢いを取り戻します。盛安は若くして没してしまいましたが、その子・政盛が関ヶ原の戦いで東軍に与していたことから、再び運気に恵まれました。やがて新庄藩初代藩主となった政盛は、新田開発などを積極的に推し進め、藩の基礎固めをしました。
その政盛の後を継いだ正誠(まさのぶ)ですが、新庄藩の第2代藩主として約60年にわたり統治に関わることになります。長期政権ならではの政策や城下町整備の推進などで藩政を安定させ、新庄藩の最盛期を迎えることとなりました。
その後も戸沢氏が代々藩主を務める新庄藩は、江戸を通して存続します。その間、他の藩に漏れず飢饉や財政難といった苦しい時代もあり、更に戊辰戦争にも巻き込まれましたが、藩そのものは廃藩置県で新庄県となるまで続きました。
新庄と戸沢氏は、きっても切れない関係という感じですね。
■新庄城焼失■
戊辰戦争の時、新庄藩の藩主は第11代の戸沢正実でした。奥州列藩同盟から離脱したことで庄内藩に攻め込まれ、新庄城の大半はこの時に焼失しています。城下も甚大な被害を受けました。ただ奥州列藩同盟からの離脱は、勝者となった新政府軍から評価され、功績として称えられています。
■つわものどもが夢の跡■
<戸澤神社>
戸澤神社の創建は明治になってから。旧領民の有志によって本丸跡に創られました。代々藩主を務めた戸沢氏の祖・戸田衡盛、中興の祖とされる新庄藩初代藩主・戸沢政盛、そして最後の藩主となった戸沢正実を祭神とする神社です。
戸沢氏で始まり、戸沢氏で幕を引いた城跡に鎮座する神社です。
-------■ 新庄城 ■-------
別 名: 沼田城
築城者: 戸沢政盛
築城年: 1624年
城 主: 戸沢氏
廃城年: 1868年
現 況:最上公園
[山形県新庄市堀端町]
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2018年09月29日
荒城の月 若松城跡にて
若松城跡にて撮影しました。
土井晩翠が作詞した「荒城の月」はとても有名ですね。この歌の舞台となった城はどこなのか?実は論争になっています。今回訪問した若松城もその候補地の一つ。しかも、一般的にはかなり有力な候補となっています。
[候補地]
青葉城 宮城県仙台市
若松城 福島県会津若松市
九戸城 岩手県二戸市
岡 城 大分県竹田市
富山城 富山県富山市
それぞれ歌碑が設置されています。
ここからは個人ブログなのでお許し頂きたいのですが、私は「荒城の月」と聞けば「九戸城」を思い浮かべます。ただ、そうでなくてはいけないとも思っていません。
どこかより、どう心に響くか
一般人はそれで良いのではないでしょうか?その方が、晩翠が思いを込めて作った詩の可能性が広がります。
荒城の月
作詞:土井晩翠
作曲:滝廉太郎
.
春 高楼の花の宴
巡る盃 影さして
千代の松が枝 分け出でし
昔の光 今いずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ
今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐
天上影は 変わらねど
栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月
栄枯は移る世の姿・・・
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土井晩翠が作詞した「荒城の月」はとても有名ですね。この歌の舞台となった城はどこなのか?実は論争になっています。今回訪問した若松城もその候補地の一つ。しかも、一般的にはかなり有力な候補となっています。
[候補地]
青葉城 宮城県仙台市
若松城 福島県会津若松市
九戸城 岩手県二戸市
岡 城 大分県竹田市
富山城 富山県富山市
それぞれ歌碑が設置されています。
ここからは個人ブログなのでお許し頂きたいのですが、私は「荒城の月」と聞けば「九戸城」を思い浮かべます。ただ、そうでなくてはいけないとも思っていません。
どこかより、どう心に響くか
一般人はそれで良いのではないでしょうか?その方が、晩翠が思いを込めて作った詩の可能性が広がります。
荒城の月
作詞:土井晩翠
作曲:滝廉太郎
.
春 高楼の花の宴
巡る盃 影さして
千代の松が枝 分け出でし
昔の光 今いずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ
今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐
天上影は 変わらねど
栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月
栄枯は移る世の姿・・・
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タグ:福島
東北屈指の名城 会津の若松城
つわものどもが夢の跡
東北屈指の名城を訪ねました。
<若松城>わかまつじょう
近世城郭のなごり
<天守閣>
再建された天守。深い歴史を刻んだ会津若松市のシンボルです
■黒川から若松へ■
歴史が長すぎて、どの時代を意識して城探索をして良いのかわかりません。私は戦国武将好きなので、意識としては主に黒川城時代ということになります。つまり会津の覇者・蘆名氏歴代の城。この印象が一番強いですね。第7代当主の直盛が東黒川館を築いたのが始まりと考えられています。
その蘆名氏を滅ぼした伊達政宗、そして秀吉の命を受けてこの地へやってきた蒲生氏郷の城。氏郷の時に城や城下町の整備が更にすすみ、地名が黒川から若松と改められました。
あとはやはり上杉ファンですので、徳川家康も警戒した会津120万石・上杉景勝の城ですかね。登場するのは大物ばかり。凄い城です。
ここまででもう充分歴史の重みがありますが、若松城は江戸時代を通じて存在。1643年(寛永20年)には幕府の中枢として活躍するあの保科正之が23万石で入封し、以降は正之の子孫である会津松平家の居城となります。幕府にとっての重要拠点であり続けたわけですね。保科正之は徳川秀忠の子(ストレートに言うと隠し子)ですが、自身を育てた保科家の名を変えることはありませんでした。保科から松平への改名は、正之の亡くなったあとの話になります。
<歴代城主>
これを見るのが一番早いですね
■戊辰戦争■1868年
歴史の長い若松城。江戸末期には戊辰戦争に巻き込まれます。会津は戦いの舞台となり(会津戦争)、城は新政府軍から激しい攻撃を受けました。惨劇ですから軽々しく言いたくありませんが、この戦いにより、若松城は後世に語り継がれ、全国的に知られる城となりました。
1868年10月、新政府軍の猛攻が開始されますが、若松城はひと月もち堪えました。そう簡単に落とせる城ではないということですね。しかし孤立した城内は食糧も絶たれ、負傷者や死者も多数。衛生面も含めて悲惨な状況でした。
壮絶な現実は城の外も同様です。白虎隊の悲劇は有名ですね。更には戦闘と関係ない人々、子供までも犠牲になりました。資料などを読むと、眉間にしわがよります。会津の地は、とてもこのような拙ブログでは表現できない惨劇の場と化しました。
粘っても、もはや勝ち目はありません。新政府軍からの勧告もあり、会津はついに降伏。1868年11月6日、若松城には白旗が掲げられました。
現地で撮影。明治5年頃の写真です
■現地訪問■
北出丸から城内に入りました。
<名称>
今回の訪問まで、私はずっと会津若松城と呼んでいました。公式名は若松城。会津の皆さんは鶴ヶ城と呼ぶようです。
<内堀>
<大手門跡>
いわゆる枡形の構造ですね
<枡形の内側>
<説明板>
石垣は加藤時代とあります。大手門が城の北側に移される時、もともとの馬出を出丸として整備したようです。この北出丸、仮に敵兵に占拠されても周囲から攻撃できるような構造になっています。別名は「みなごろし丸」というそうです。すごい呼び名ですね
<内側から見た石垣>
<城内各所の石垣>
石垣は近世城郭の魅力の一つ
<土塁>
城内の石垣があまりに立派なので、逆にこういう方に目がいきます。
<土塁の上>
外側は石垣
<横矢掛り>
死角を少なくするための工夫。敵を正面と横から攻撃できます
<天守閣>
幕末の姿に復元した5層の天守閣
<天守台>
この石垣は蒲生氏郷が築いたとされています。城内の他の石垣と比較して、自然な感じの石だと思いませんか?石をあまり加工せず、組み合わせを考えて積み上げる野面積みです。1611年の会津地震で天守が倒壊した時も、この石垣は崩れなかったそうです。ちょっと見どころですね。
<御三階跡>
戦火を逃れた建物は、市内の阿弥陀寺に移築されているそうです。
<武者走り>
言うまでも無く、兵が登り降りするためです。太鼓櫓門への移動用です。
<本丸から二の丸方面へ>
二の丸へ渡る手前。美しさに足が止まりました。勿論、過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・
<高石垣と堀>
<高石垣と廊下橋>
<廊下橋と堀>
橋を落とせば敵の侵入を防げますね。
<茶壺櫓跡から見た堀>
茶器類が納められていた櫓
<月見櫓跡>
櫓で月見?
<押し寄せる自然>
<二の丸跡>
<三の丸跡>
<八重の銅像>
新島八重の像。設置場所は三の丸跡になります。
■つわものども夢の跡■
ながいながい歴史の若松城ですが、現在の姿から連想されるのは、やはり戊辰戦争ではないでしょうか。そんなに昔の話ではありません。そして資料もある程度信憑性があります。歴史ロマンという言葉が似合わない、重みのある訪問となりました。
もっと自分の国の近代史を知らなくてはならない。そう痛感する城跡でした。
---------■ 若松城 ■---------
別 名:鶴ヶ城 会津城
旧名称:黒川城
築城主:蘆名直盛
築城年:1384年
改修者:蒲生氏郷 加藤明成
城 主:蘆名氏歴代 伊達政宗
蒲生氏 上杉景勝
加藤氏 保科氏
松平氏
廃城年:1874年(明治7)
[福島県会津若松市追手町]
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東北屈指の名城を訪ねました。
<若松城>わかまつじょう
近世城郭のなごり
<天守閣>
再建された天守。深い歴史を刻んだ会津若松市のシンボルです
■黒川から若松へ■
歴史が長すぎて、どの時代を意識して城探索をして良いのかわかりません。私は戦国武将好きなので、意識としては主に黒川城時代ということになります。つまり会津の覇者・蘆名氏歴代の城。この印象が一番強いですね。第7代当主の直盛が東黒川館を築いたのが始まりと考えられています。
その蘆名氏を滅ぼした伊達政宗、そして秀吉の命を受けてこの地へやってきた蒲生氏郷の城。氏郷の時に城や城下町の整備が更にすすみ、地名が黒川から若松と改められました。
あとはやはり上杉ファンですので、徳川家康も警戒した会津120万石・上杉景勝の城ですかね。登場するのは大物ばかり。凄い城です。
ここまででもう充分歴史の重みがありますが、若松城は江戸時代を通じて存在。1643年(寛永20年)には幕府の中枢として活躍するあの保科正之が23万石で入封し、以降は正之の子孫である会津松平家の居城となります。幕府にとっての重要拠点であり続けたわけですね。保科正之は徳川秀忠の子(ストレートに言うと隠し子)ですが、自身を育てた保科家の名を変えることはありませんでした。保科から松平への改名は、正之の亡くなったあとの話になります。
<歴代城主>
これを見るのが一番早いですね
■戊辰戦争■1868年
歴史の長い若松城。江戸末期には戊辰戦争に巻き込まれます。会津は戦いの舞台となり(会津戦争)、城は新政府軍から激しい攻撃を受けました。惨劇ですから軽々しく言いたくありませんが、この戦いにより、若松城は後世に語り継がれ、全国的に知られる城となりました。
1868年10月、新政府軍の猛攻が開始されますが、若松城はひと月もち堪えました。そう簡単に落とせる城ではないということですね。しかし孤立した城内は食糧も絶たれ、負傷者や死者も多数。衛生面も含めて悲惨な状況でした。
壮絶な現実は城の外も同様です。白虎隊の悲劇は有名ですね。更には戦闘と関係ない人々、子供までも犠牲になりました。資料などを読むと、眉間にしわがよります。会津の地は、とてもこのような拙ブログでは表現できない惨劇の場と化しました。
粘っても、もはや勝ち目はありません。新政府軍からの勧告もあり、会津はついに降伏。1868年11月6日、若松城には白旗が掲げられました。
現地で撮影。明治5年頃の写真です
■現地訪問■
北出丸から城内に入りました。
<名称>
今回の訪問まで、私はずっと会津若松城と呼んでいました。公式名は若松城。会津の皆さんは鶴ヶ城と呼ぶようです。
<内堀>
<大手門跡>
いわゆる枡形の構造ですね
<枡形の内側>
<説明板>
石垣は加藤時代とあります。大手門が城の北側に移される時、もともとの馬出を出丸として整備したようです。この北出丸、仮に敵兵に占拠されても周囲から攻撃できるような構造になっています。別名は「みなごろし丸」というそうです。すごい呼び名ですね
<内側から見た石垣>
<城内各所の石垣>
石垣は近世城郭の魅力の一つ
<土塁>
城内の石垣があまりに立派なので、逆にこういう方に目がいきます。
<土塁の上>
外側は石垣
<横矢掛り>
死角を少なくするための工夫。敵を正面と横から攻撃できます
<天守閣>
幕末の姿に復元した5層の天守閣
<天守台>
この石垣は蒲生氏郷が築いたとされています。城内の他の石垣と比較して、自然な感じの石だと思いませんか?石をあまり加工せず、組み合わせを考えて積み上げる野面積みです。1611年の会津地震で天守が倒壊した時も、この石垣は崩れなかったそうです。ちょっと見どころですね。
<御三階跡>
戦火を逃れた建物は、市内の阿弥陀寺に移築されているそうです。
<武者走り>
言うまでも無く、兵が登り降りするためです。太鼓櫓門への移動用です。
<本丸から二の丸方面へ>
二の丸へ渡る手前。美しさに足が止まりました。勿論、過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・
<高石垣と堀>
<高石垣と廊下橋>
<廊下橋と堀>
橋を落とせば敵の侵入を防げますね。
<茶壺櫓跡から見た堀>
茶器類が納められていた櫓
<月見櫓跡>
櫓で月見?
<押し寄せる自然>
<二の丸跡>
<三の丸跡>
<八重の銅像>
新島八重の像。設置場所は三の丸跡になります。
■つわものども夢の跡■
ながいながい歴史の若松城ですが、現在の姿から連想されるのは、やはり戊辰戦争ではないでしょうか。そんなに昔の話ではありません。そして資料もある程度信憑性があります。歴史ロマンという言葉が似合わない、重みのある訪問となりました。
もっと自分の国の近代史を知らなくてはならない。そう痛感する城跡でした。
---------■ 若松城 ■---------
別 名:鶴ヶ城 会津城
旧名称:黒川城
築城主:蘆名直盛
築城年:1384年
改修者:蒲生氏郷 加藤明成
城 主:蘆名氏歴代 伊達政宗
蒲生氏 上杉景勝
加藤氏 保科氏
松平氏
廃城年:1874年(明治7)
[福島県会津若松市追手町]
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2018年09月28日
緑の息吹 城郭に押し寄せる自然
会津の若松城にて
美しさに圧倒されました。過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・
人の造りし物と、歳月をかけて押し寄せる自然の力。たぶんその調和の具合に心ひかれるのでしょう。
圧倒されながら、美しさも感じる。
この感覚はどこから来るのでしょうか。
世界共通なのか、日本人独特なのか、私にはわかりません。ただ、命を謳歌する自然を、何となくそのまま受け入れる癖の如きものが、心の奥で作用しているような気がしてなりません。
また、城郭はいまもなお堂々たる佇まいですが、緑に覆われるさまは、方向性でいえば「朽ち」に向かっているのではないでしょうか。それを無意識に感じ取り、何となく受け入れている。ここでもやはり、朽ちることに価値を見出そうとする心の癖の如きものが作用しているような気がします。
自然を受け入れる。朽ちるものにも美を見出す。それらについて、どの程度を「心地よい」とするかは人それぞれかと思います。
ただ、心の根底で作用する癖の如きもの。これは多くの人が共有していることなのではないでしょうか。
<つわものどもが夢の跡>
心の奥まで揺さぶられる城跡でした。
■訪問:若松城
[福島県会津若松市追手町]
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美しさに圧倒されました。過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・
人の造りし物と、歳月をかけて押し寄せる自然の力。たぶんその調和の具合に心ひかれるのでしょう。
圧倒されながら、美しさも感じる。
この感覚はどこから来るのでしょうか。
世界共通なのか、日本人独特なのか、私にはわかりません。ただ、命を謳歌する自然を、何となくそのまま受け入れる癖の如きものが、心の奥で作用しているような気がしてなりません。
また、城郭はいまもなお堂々たる佇まいですが、緑に覆われるさまは、方向性でいえば「朽ち」に向かっているのではないでしょうか。それを無意識に感じ取り、何となく受け入れている。ここでもやはり、朽ちることに価値を見出そうとする心の癖の如きものが作用しているような気がします。
自然を受け入れる。朽ちるものにも美を見出す。それらについて、どの程度を「心地よい」とするかは人それぞれかと思います。
ただ、心の根底で作用する癖の如きもの。これは多くの人が共有していることなのではないでしょうか。
<つわものどもが夢の跡>
心の奥まで揺さぶられる城跡でした。
■訪問:若松城
[福島県会津若松市追手町]
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タグ:福島
2018年09月11日
伊達氏のなごり(伊達市)梁川城
つわものどもが夢の跡
政宗以前の伊達氏のなごりを求めて、福島県伊達市を訪問しました。
<梁川城跡>
■梁川城■やながわじょう
伊達氏の先祖は関東武士の伊佐氏。源頼朝の奥州征伐で功を立てて伊達郡を拝領し、地名の伊達を名乗るようになりました。今回訪問の梁川城ですが、正確な築城年はわかっていません。ただ掘調査の結果、伊達氏第3代または第4代当主の頃、既に拠点として使用されていたと推定されています。3代当主は伊達義広(1185年〜1256年)、4代当主は政依(まさより:1227年〜1301年)です。
ちなみに、初代の朝宗と第2代の宗村までは、伊達郡桑折郷の高子岡に築かれた城を本拠としていたようです。ですから、東北進出した伊達氏の最初の拠点はこの「高子岡城」であって、梁川城ではありません。ちょっと残念。ただ歴代当主の居城だった期間は、こちらの方がずっとずっと長いのです(約3百年)。この点において満足しますかね。また、伊達氏の伊達郡入りとともに朝宗によって築城されたという説もあるのです。
<とある坂道>
天然の堀として機能していた広瀬川を渡ってすぐ。目的地まであと少しです。この坂を登り切れば右手に高校、左手に目印と定めた浅間神社が見えてくるはずです。8月下旬の訪問。まだ夏まっさかりです。汗だくで歩き続けました。
<坂の途中>
梁川城は分類だと山城(平山城)です。微高地と言った方がピンときますかね。厳密に言うと、もう城跡の中にいます。この斜面の上が本丸跡、下側が三の丸跡です。ちなみに、二の丸は先ほどの坂を登り切ったところにある梁川高校です。
<説明板>
坂の途中で想定外の説明を目にしました。ここが大手門?ちょっと本丸から近すぎですね。川と逆側の北側が大手と思っていましたが・・・
これは松前藩の時代の話のようです。私は伊達氏の拠点として訪問していますが、梁川城は江戸時代も城として機能し、更に廃城後も一部が陣屋として使用されました。この位置が大手門跡というのは、そのなごりということですね。
<矢印>
分かり易い。あっちに行けば良いのですね。わかっていても安心する瞬間です。
ここが本丸跡か・・・
キョロキョロしながら歩いていたら、体操着姿の小学生男子から「こんにちは!」と挨拶されてしまいました。勿論これに応じましたが、大人のくせに一本とられた感じです。
この本丸跡の区画、実はずっと小学校の敷地として利用されていました。震災が原因で別の場所に移転したそうです。
<浅間神社>
到着しました。ここに限らず、この周辺が城の中心地です。
<境内>
落ち着いた雰囲気
<土塁>
城のなごり
<池>
雑草に邪魔されてどこから降りて良いのか迷いましたが、立ち入り禁止でもなさそうなのでとりあえず降りてみました。
<中世庭園>
普通の庭園と受け止めましたが、中世の庭園を再現した珍しい造りだそうです。
<心字池>
近世城郭となる以前、つまり伊達氏の時代には既に造られていたと考えられています。
■伊達氏の拠点■
伊達氏の本城はのちに桑折西山城へ移されます。さらにあとには米沢城へ。しかしここ梁川城は、領内の重要拠点という位置付けから、引き続き伊達の血縁者や有力な家臣が城主を務めました。大切な支城でありつづけたわけですね。この構図は、豊臣秀吉の奥州仕置まで続きます。
■伊達氏の去った梁川■
伊達氏が去った梁川の地は、蒲生氏や上杉氏支配を経たのち、徳川家の息のかかった領地となります。松平義昌の梁川藩3万石を立藩に始まり、その後には幕府の直轄地などを経て、松前藩領となったところで明治維新を迎えました。
梁川城ですが、米沢藩の上杉氏が伊達郡を没収されるタイミングで廃城となったようです。ただし、その後も城の一部は陣屋として使われました。
<お寺>
本丸跡から北側へ向かいます。画像はその途中で撮影した安養寺。このお寺より更に北側の遺構を目指しました。
<水堀>
ありました。水堀です。
<土塁>
そして土塁です。説明板だと、伊達氏と関係があるようですが・・・?
<長い土塁>
土塁が約2百メートル続きます。これはきっと近世城郭として整備された頃のものでしょうかね。蒲生氏、あるいは上杉氏による改修のなごりかもしれません(はっきりとわからず)。
ここ北側もそうですが、梁川城は東側も西側も城外に劇的な要害性があるわけではありません。よって、人の手により念入りに堀や土塁が設けられました。南側ですが、低地に広瀬川が流れ、これはこれで城の「地の利」であったと思われます。東西南北、これで一通り守りが固められていたわけですね。
ただ、戦国の世が長引き、武器や戦い方まで変わると、城の防衛能力の評価も変わらざるを得ません。伊達氏は長年拠点としてきた梁川城を放棄し、地形の険しい山城(桑折西山城)に本拠を移しました。
■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡の土塁>
かつての城そのものを想像するのは困難ですが、その名残りが漂う場所でした。私には遺構がいつの時代のものか正確には判りませんが、立派に残っています。
ここは武士の拠点として営みがあった場所。関東から旅立った伊達一族が、基盤を築いて奥州における政治的な地位を高めていった場所なのです。そう思うだけで満足。来た甲斐がありました。
---------■ 梁川城 ■---------
別 名:鶴ヶ城
築城年:不明(鎌倉初期)
築城者:伊達氏
城 主:伊達氏歴代当主
蒲生氏・上杉氏
改修者:須田長義(上杉家臣)
廃城年:1664年
(松前藩時代除く)
[福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡]
お城巡りランキング
政宗以前の伊達氏のなごりを求めて、福島県伊達市を訪問しました。
<梁川城跡>
■梁川城■やながわじょう
伊達氏の先祖は関東武士の伊佐氏。源頼朝の奥州征伐で功を立てて伊達郡を拝領し、地名の伊達を名乗るようになりました。今回訪問の梁川城ですが、正確な築城年はわかっていません。ただ掘調査の結果、伊達氏第3代または第4代当主の頃、既に拠点として使用されていたと推定されています。3代当主は伊達義広(1185年〜1256年)、4代当主は政依(まさより:1227年〜1301年)です。
ちなみに、初代の朝宗と第2代の宗村までは、伊達郡桑折郷の高子岡に築かれた城を本拠としていたようです。ですから、東北進出した伊達氏の最初の拠点はこの「高子岡城」であって、梁川城ではありません。ちょっと残念。ただ歴代当主の居城だった期間は、こちらの方がずっとずっと長いのです(約3百年)。この点において満足しますかね。また、伊達氏の伊達郡入りとともに朝宗によって築城されたという説もあるのです。
<とある坂道>
天然の堀として機能していた広瀬川を渡ってすぐ。目的地まであと少しです。この坂を登り切れば右手に高校、左手に目印と定めた浅間神社が見えてくるはずです。8月下旬の訪問。まだ夏まっさかりです。汗だくで歩き続けました。
<坂の途中>
梁川城は分類だと山城(平山城)です。微高地と言った方がピンときますかね。厳密に言うと、もう城跡の中にいます。この斜面の上が本丸跡、下側が三の丸跡です。ちなみに、二の丸は先ほどの坂を登り切ったところにある梁川高校です。
<説明板>
坂の途中で想定外の説明を目にしました。ここが大手門?ちょっと本丸から近すぎですね。川と逆側の北側が大手と思っていましたが・・・
これは松前藩の時代の話のようです。私は伊達氏の拠点として訪問していますが、梁川城は江戸時代も城として機能し、更に廃城後も一部が陣屋として使用されました。この位置が大手門跡というのは、そのなごりということですね。
<矢印>
分かり易い。あっちに行けば良いのですね。わかっていても安心する瞬間です。
ここが本丸跡か・・・
キョロキョロしながら歩いていたら、体操着姿の小学生男子から「こんにちは!」と挨拶されてしまいました。勿論これに応じましたが、大人のくせに一本とられた感じです。
この本丸跡の区画、実はずっと小学校の敷地として利用されていました。震災が原因で別の場所に移転したそうです。
<浅間神社>
到着しました。ここに限らず、この周辺が城の中心地です。
<境内>
落ち着いた雰囲気
<土塁>
城のなごり
<池>
雑草に邪魔されてどこから降りて良いのか迷いましたが、立ち入り禁止でもなさそうなのでとりあえず降りてみました。
<中世庭園>
普通の庭園と受け止めましたが、中世の庭園を再現した珍しい造りだそうです。
<心字池>
近世城郭となる以前、つまり伊達氏の時代には既に造られていたと考えられています。
■伊達氏の拠点■
伊達氏の本城はのちに桑折西山城へ移されます。さらにあとには米沢城へ。しかしここ梁川城は、領内の重要拠点という位置付けから、引き続き伊達の血縁者や有力な家臣が城主を務めました。大切な支城でありつづけたわけですね。この構図は、豊臣秀吉の奥州仕置まで続きます。
■伊達氏の去った梁川■
伊達氏が去った梁川の地は、蒲生氏や上杉氏支配を経たのち、徳川家の息のかかった領地となります。松平義昌の梁川藩3万石を立藩に始まり、その後には幕府の直轄地などを経て、松前藩領となったところで明治維新を迎えました。
梁川城ですが、米沢藩の上杉氏が伊達郡を没収されるタイミングで廃城となったようです。ただし、その後も城の一部は陣屋として使われました。
<お寺>
本丸跡から北側へ向かいます。画像はその途中で撮影した安養寺。このお寺より更に北側の遺構を目指しました。
<水堀>
ありました。水堀です。
<土塁>
そして土塁です。説明板だと、伊達氏と関係があるようですが・・・?
<長い土塁>
土塁が約2百メートル続きます。これはきっと近世城郭として整備された頃のものでしょうかね。蒲生氏、あるいは上杉氏による改修のなごりかもしれません(はっきりとわからず)。
ここ北側もそうですが、梁川城は東側も西側も城外に劇的な要害性があるわけではありません。よって、人の手により念入りに堀や土塁が設けられました。南側ですが、低地に広瀬川が流れ、これはこれで城の「地の利」であったと思われます。東西南北、これで一通り守りが固められていたわけですね。
ただ、戦国の世が長引き、武器や戦い方まで変わると、城の防衛能力の評価も変わらざるを得ません。伊達氏は長年拠点としてきた梁川城を放棄し、地形の険しい山城(桑折西山城)に本拠を移しました。
■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡の土塁>
かつての城そのものを想像するのは困難ですが、その名残りが漂う場所でした。私には遺構がいつの時代のものか正確には判りませんが、立派に残っています。
ここは武士の拠点として営みがあった場所。関東から旅立った伊達一族が、基盤を築いて奥州における政治的な地位を高めていった場所なのです。そう思うだけで満足。来た甲斐がありました。
---------■ 梁川城 ■---------
別 名:鶴ヶ城
築城年:不明(鎌倉初期)
築城者:伊達氏
城 主:伊達氏歴代当主
蒲生氏・上杉氏
改修者:須田長義(上杉家臣)
廃城年:1664年
(松前藩時代除く)
[福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡]
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タグ:福島
2018年09月04日
福島城のなごり
つわものどもが夢の跡
福島県庁を訪ねました。伊達氏や上杉氏ゆかりの城跡です。
<福島城本丸跡の石柱>
これだけでもありがたいですね。かつてここに城があった。その目印になります。
■ 伊達氏ゆかりの城 ■
詳細は不確かながら歴史は古く、かつては大仏城、あるいは杉目城とも呼ばれていました。1413年に、伊達持宗(第11代当主)が鎌倉公方(足利持氏)に反乱を起こし、この地に立て籠ったという記録が残っています(大仏城合戦)。その後の伊達氏との関りだと、伊達晴宗(第15代当主)が拠点を米沢城へ移し、家督を息子の輝宗(第16代当主)に譲ったのち、この地(当時の呼び名は杉目城)に隠居したとされています。
こうやって経緯を省略しながらまとめると、父から子へ家督がスムーズに引き継がれているような印象となりますね。実際には、隠居したはずの晴宗がなかなか実権を輝宗に渡さなかったりで揉めています。晴宗自身も父と対立しました。第17代当主となる伊達政宗は、そんな祖父と父を持つ人物。ということですね。
東北へ進出した伊達氏の拠点は、ながらく(約3百年)梁川城だったことから、ここ杉目城(福島城)は領内の拠点の一つと考えるのが妥当と思われます。
■ 上杉ゆかりの城 ■
秀吉の奥州仕置により、会津には蒲生氏郷がやってきました。城は蒲生氏配下の木村吉清が支配するところとなります。この頃に杉目城から福島城と改められ、城下も整備されていったようです。
やがて豊臣政権下で五大老の一人だった上杉景勝が、会津120万石を領することに。福島城には家臣の水原親憲が入りました。
上杉家臣 水原親憲
好きな戦国武将の一人です。これで「すいばら」と読みます。猪苗代城を任されたのは知っていましたが、福島城のことはちょっと初耳です。順番を整理すると、まず福島城を任され、のちに猪苗代城主の今井源右衛門の死により城替えとなったようです。水原親憲は上杉家屈指の武将。つわものです。親憲の後は、上杉家重臣の本庄繁長が城代となりました。拠点として重要視される城だったのですね。その背景には、旧領の奪回を目論む伊達政宗の存在がありました。
■ 江戸初期も上杉 ■
関ケ原で西軍に与した上杉家は、会津120万石から米沢30万石に減封となりますが、福島城は引き続き上杉の支配下でした。しかし後継者問題から米沢藩が15万石になる際、福島は上杉の手を離れ天領(幕府直轄領)となります。
ああ
ここで終わってしまうのですね。上杉との関係は…
■ 幕末まで続く城 ■
1679年に本多忠国が15万石で入封。福島藩が成立しますが、3年後の1682年には再び天領となります(本多氏は姫路へ)。1686年から堀田正仲が入るものの、その後また幕領に(堀田氏は藩主二代で終わり)。1702年に板倉氏3万石で入り、これ以降は明治まで板倉氏が藩主を務めます。そして第12代藩主・板倉勝達が戊辰戦争で新政府軍に降伏。こののち、福島城は破却されました。
<福島県庁>
現在の福島県庁一帯が、かつての城跡だったと考えられます。
<県庁入口>
本丸の馬場跡と推定されています。
<県庁裏手>
遺構と思ってよろしいでしょうか?
<庭園跡>
現在は紅葉山公園となっているこの付近はかつての二の丸。城内の庭園があった場所らしいので、目的はともかく、土が盛ってあるところはかつての城のなごりということになります。
<阿武隈川>あぶくまがわ
城にとっての天然堀ですね。福島城は分類すると平城ですが、河岸段丘上に築かれており、地の利を活かした城でした。更に城の南側の内堀には、この川の水を引き入れ水堀としました。
<東北第2位>
東北では北上川に次いで2番目に長い(239km)川です。舟運という恩恵もあり、特に江戸時代には、この付近に設けられた船着場は物流の重要な役割を担いました。
遺構に恵まれた城跡ではないですが、歴史は確か。歴史的に重要な意味を持つ城ということですね。そんなことを感じながらの帰り道、県庁向かいの小学校で嬉しい説明板をみつけました。
<説明板>
城の内堀を埋めて学校が建設されたようです。堀跡の正確な位置は分かりませんが、この小学校の東側はかつての大手門であり、城の中核であったことは間違いなさそうです。掲載されている写真には内堀土塁と松並木が。いいですね。
<土塁跡>
あの土の盛り上がりも、土塁のなごりと思って良さそうですね。縄張り図を参考に推定すると、説明板にあった土塁は、現在の校庭を横切ってから南へ折れ曲がるように造られていたので、そのなごりでしょう。もうちょっと近づきたかったのですが、ここは福島第一小学校敷地内。入るわけにはいきませんのでここまでにしました。
ということで
やや速足でしたが探索終了です。
拙ブログを最後までお読み頂き、ありがとうございました。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
--------■ 福島城 ■--------
別 称:大仏城
杉妻城 杉目城
築城者:不明(伊達氏?)
築城年:不明
城 主:伊達晴宗 木村吉清
上杉氏 板倉氏
廃 城:1869年(明治2)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
お城巡りランキング
---------( 追 記 )---------
2024年7月に再訪し、もっとはっきりとした遺構を確認してきました。
<土塁跡>
場所は福島県庁西庁舎南側。阿武隈川に面した駐車場にかつての土塁のなごりが確認できます。福島教育委員会監修の説明板によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、その一部だそうです。本文では、福島第一小学校の土塁が唯一の遺構かのようにご紹介しましたが、ここにもちゃんとありました。福島城のなごりです。
福島県庁を訪ねました。伊達氏や上杉氏ゆかりの城跡です。
<福島城本丸跡の石柱>
これだけでもありがたいですね。かつてここに城があった。その目印になります。
■ 伊達氏ゆかりの城 ■
詳細は不確かながら歴史は古く、かつては大仏城、あるいは杉目城とも呼ばれていました。1413年に、伊達持宗(第11代当主)が鎌倉公方(足利持氏)に反乱を起こし、この地に立て籠ったという記録が残っています(大仏城合戦)。その後の伊達氏との関りだと、伊達晴宗(第15代当主)が拠点を米沢城へ移し、家督を息子の輝宗(第16代当主)に譲ったのち、この地(当時の呼び名は杉目城)に隠居したとされています。
こうやって経緯を省略しながらまとめると、父から子へ家督がスムーズに引き継がれているような印象となりますね。実際には、隠居したはずの晴宗がなかなか実権を輝宗に渡さなかったりで揉めています。晴宗自身も父と対立しました。第17代当主となる伊達政宗は、そんな祖父と父を持つ人物。ということですね。
東北へ進出した伊達氏の拠点は、ながらく(約3百年)梁川城だったことから、ここ杉目城(福島城)は領内の拠点の一つと考えるのが妥当と思われます。
■ 上杉ゆかりの城 ■
秀吉の奥州仕置により、会津には蒲生氏郷がやってきました。城は蒲生氏配下の木村吉清が支配するところとなります。この頃に杉目城から福島城と改められ、城下も整備されていったようです。
やがて豊臣政権下で五大老の一人だった上杉景勝が、会津120万石を領することに。福島城には家臣の水原親憲が入りました。
上杉家臣 水原親憲
好きな戦国武将の一人です。これで「すいばら」と読みます。猪苗代城を任されたのは知っていましたが、福島城のことはちょっと初耳です。順番を整理すると、まず福島城を任され、のちに猪苗代城主の今井源右衛門の死により城替えとなったようです。水原親憲は上杉家屈指の武将。つわものです。親憲の後は、上杉家重臣の本庄繁長が城代となりました。拠点として重要視される城だったのですね。その背景には、旧領の奪回を目論む伊達政宗の存在がありました。
■ 江戸初期も上杉 ■
関ケ原で西軍に与した上杉家は、会津120万石から米沢30万石に減封となりますが、福島城は引き続き上杉の支配下でした。しかし後継者問題から米沢藩が15万石になる際、福島は上杉の手を離れ天領(幕府直轄領)となります。
ああ
ここで終わってしまうのですね。上杉との関係は…
■ 幕末まで続く城 ■
1679年に本多忠国が15万石で入封。福島藩が成立しますが、3年後の1682年には再び天領となります(本多氏は姫路へ)。1686年から堀田正仲が入るものの、その後また幕領に(堀田氏は藩主二代で終わり)。1702年に板倉氏3万石で入り、これ以降は明治まで板倉氏が藩主を務めます。そして第12代藩主・板倉勝達が戊辰戦争で新政府軍に降伏。こののち、福島城は破却されました。
<福島県庁>
現在の福島県庁一帯が、かつての城跡だったと考えられます。
<県庁入口>
本丸の馬場跡と推定されています。
<県庁裏手>
遺構と思ってよろしいでしょうか?
<庭園跡>
現在は紅葉山公園となっているこの付近はかつての二の丸。城内の庭園があった場所らしいので、目的はともかく、土が盛ってあるところはかつての城のなごりということになります。
<阿武隈川>あぶくまがわ
城にとっての天然堀ですね。福島城は分類すると平城ですが、河岸段丘上に築かれており、地の利を活かした城でした。更に城の南側の内堀には、この川の水を引き入れ水堀としました。
<東北第2位>
東北では北上川に次いで2番目に長い(239km)川です。舟運という恩恵もあり、特に江戸時代には、この付近に設けられた船着場は物流の重要な役割を担いました。
遺構に恵まれた城跡ではないですが、歴史は確か。歴史的に重要な意味を持つ城ということですね。そんなことを感じながらの帰り道、県庁向かいの小学校で嬉しい説明板をみつけました。
<説明板>
城の内堀を埋めて学校が建設されたようです。堀跡の正確な位置は分かりませんが、この小学校の東側はかつての大手門であり、城の中核であったことは間違いなさそうです。掲載されている写真には内堀土塁と松並木が。いいですね。
<土塁跡>
あの土の盛り上がりも、土塁のなごりと思って良さそうですね。縄張り図を参考に推定すると、説明板にあった土塁は、現在の校庭を横切ってから南へ折れ曲がるように造られていたので、そのなごりでしょう。もうちょっと近づきたかったのですが、ここは福島第一小学校敷地内。入るわけにはいきませんのでここまでにしました。
ということで
やや速足でしたが探索終了です。
拙ブログを最後までお読み頂き、ありがとうございました。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
--------■ 福島城 ■--------
別 称:大仏城
杉妻城 杉目城
築城者:不明(伊達氏?)
築城年:不明
城 主:伊達晴宗 木村吉清
上杉氏 板倉氏
廃 城:1869年(明治2)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
お城巡りランキング
---------( 追 記 )---------
2024年7月に再訪し、もっとはっきりとした遺構を確認してきました。
<土塁跡>
場所は福島県庁西庁舎南側。阿武隈川に面した駐車場にかつての土塁のなごりが確認できます。福島教育委員会監修の説明板によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、その一部だそうです。本文では、福島第一小学校の土塁が唯一の遺構かのようにご紹介しましたが、ここにもちゃんとありました。福島城のなごりです。
タグ:福島
2018年08月31日
小峰城 戊辰150年の夏
つわものどもが夢の跡
南北朝時代における名門家の築城から始まり、幕末の動乱においても重要な役割を担った城を訪ねました。
<小峰城>こみねじょう
盛岡城・若松城とともに「東北三名城」と賞される名城です。
■現地訪問■
最寄り駅は白河駅。新幹線が停車する新白河のお隣です。そこから徒歩圏内。
<ホームから撮影>
ホームから小峰城のシンボル・三重櫓が見えています。
<白河駅>
駅の出口は南側、城は逆方向の北側になります。「反対側かぁ」と一瞬思いましたが、線路を潜る通路に満足しました。城に関する説明がぎっしりです。
<通路の壁>
これはごく一部。歴史などについても説明がなされており、全部目を通すと、結構時間を要します。有難いですね。
<石垣の説明>
石垣の積み方についても解説あり。帰り道も足を止めてしまいました。通路内なのでちょっと画像が暗くて申し訳ありません。
<通路の出口>
通路を抜けるとこんな感じです。これは城郭の一部ではなく駅の付属施設。徐々に雰囲気が盛り上がります。
<現地到着>
城の手前はかつての二の丸。公園として整備されています。厳密なことを言うと、先ほどの白河駅付近はかつての三の丸なので、既に城跡の中にいたとも言えますね。
■小峰城■
<二の丸の石碑>
東北では珍しい総石垣造りの城郭。左手に見える石垣が途切れている部分が、本丸への入口「清水門」跡です。ここから入りますかね。
<清水門跡説明板>
二の丸と本丸をつなぐ重要な門でした。
<内堀と石垣>
清水門から見て右手の堀。2011年3月の東日本大震災により、この付近の石垣は崩壊し、しばらく一般の立ち入りは出来ませんでした。現在はこの姿。2015年4月に復興式が開催されたそうです。
<逆側>
堀を通り過ぎて左手。ずっと奥が月見櫓跡。
<桜之門跡>
いい感じです。ここから登ります。
<桜之門内側より>
<三重櫓>さんじゅうやぐら
字の通り、三重の屋根を持つ櫓(やぐら)です。ちなみに、二重なら二重櫓。一重なら平櫓といいます。
<三重御櫓絵図>
現地の説明板です。
■戦略要地■
ここ白河は関東との境界に位置する奥州街道沿いの要地。いわば東北の入口です。古くから白河関(しらかわのせき)が置かれ、重視されてきました。
<駅前で撮影した地図>
小峰城はそんな重要拠点の砦として、阿武隈川と谷津田川の間に位置する丘陵に築かれました。
■名門結城氏の城■
1340年に結城親朝が小峰ヶ岡に城を築き、小峰城と名づけたのが始まりとされています。結城氏といえば、下総(茨城県西部)の名門家ですね。白河の結城氏も祖は同じです。一族の祖・結城朝光が白河庄に領地を得て、その子孫が移り住んだ。これが白河結城氏の始まりでした。親朝はこの白河結城氏の当主の嫡男。しかし家督は息子に継がせ、本人は別家として小峰氏を創設しています。
■奥州仕置■
その後も白河結城氏と小峰氏はおおむね良好な関係を保ち、互いに繁栄しました。しかし戦国期に入る頃にはその関係も悪化。いわゆる内紛が起きていました。更に外部からの侵攻も重なり、名門家は徐々に衰退していきます。そして1590年の秀吉による奥州仕置。小田原征伐に参加しなかった白河結城氏は、領地を失うこととなりました。白河は蒲生氏の所領となります。
■近世城郭へ■
江戸時代(1627年)に丹羽長重が10万石で入城。ここに白河藩が成立し、4年を費やして城は大改築され、近世らしい城に生まれ変わりました。
<三重櫓と前門>
美しい佇まい。ともに1990年代の復元です。
丹羽氏?そうです。長重は、かつて織田信長に仕えた丹羽長秀の長男。秀吉の小田原征伐でも活躍しました。
しかし関ヶ原の戦いでは西軍に与したため失脚。徳川の世で、西軍はちょっとまずいですね。でも、それで終わらないのが丹羽長重の凄いところです。1万石の大名に復帰後、大坂の陣で活躍して徳川家に認められ、再び出世しました。小峰城の大改修は、領土なしから10万石にまでなった不死鳥の如き武将によってなされたわけですね。
<おとめ桜と石碑>
城の改修の際、積み上げた本丸の石垣が何度も壊れました。そこで、なんと人柱を立てることに。その当日、最初に城に来た者という取り決めに従い、作事奉行の娘が人柱となりました。娘が埋められた所には桜の木が植えられ、「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。
近世城郭へ変貌した大改修に付随して、そんな人柱伝説が語り継がれています。
<二の丸方向の眺め>
分類は山城(平山城)でよいかと思います。
<逆側>
城の裏手では、まだ修復作業が続けられていました。
■戊辰戦争■
江戸時代に多くの城主交代があった小峰城。歴代城主には、「寛政の改革」で知られる松平定信も名を連ねます。ただ全部ご紹介できないので、ちょっと(かなり)とばして幕末に話を移します。
諸事情(老中も務める藩主の失脚)により白河藩は幕領となっており、空き城となっていた小峰城は、二本松藩主の丹羽長国が預かっていました。そして1868年、丹羽長国は奥羽越列藩同盟として新政府軍と戦うことに。小峰城もその舞台となります。両軍は奥州街道の要衝だった小峰城をめぐって激突し、この時に城の大半は焼失してしまいました。
<本丸周辺の石垣>
白河における両軍の戦いは、約百日にも及びました(1868年6月10日から8 月31日)。死者は千人を上回りました。この「白河口の戦い」は戊辰戦争全体のなかでも最大級の戦いであり、その後の両軍の運命に大きく影響したとされています。
<鎮護神山>
本丸の東の鎮護神山。登った先には「戊辰薩藩戦死者墓」がありました。つまり戊辰戦争における敵方の墓ということですね。各地で戦死し、散在していた薩摩藩士の墓を合葬したものです。
<城内から撮影>
会津藩・仙台藩を中心とした奥羽列藩同盟と、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が激突した地です。
■つわものどもが夢の跡■
<木造による復元>
実質は天守閣の三重櫓。オリジナルは150年前の戊辰戦争によって焼失。これを鉄筋は使わず、かつての建築様式に従って木造により復元した貴重な建築物です。
激しい歴史を刻み、後世の人の手によって蘇った城郭。日本100名城に名を連ねる素晴らしい城でした。
-------■ 小 峰 城 ■-------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏 丹羽氏
榊原氏 松平氏 他
廃城年:1871年
[ 福島県白河市郭内 ]
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南北朝時代における名門家の築城から始まり、幕末の動乱においても重要な役割を担った城を訪ねました。
<小峰城>こみねじょう
盛岡城・若松城とともに「東北三名城」と賞される名城です。
■現地訪問■
最寄り駅は白河駅。新幹線が停車する新白河のお隣です。そこから徒歩圏内。
<ホームから撮影>
ホームから小峰城のシンボル・三重櫓が見えています。
<白河駅>
駅の出口は南側、城は逆方向の北側になります。「反対側かぁ」と一瞬思いましたが、線路を潜る通路に満足しました。城に関する説明がぎっしりです。
<通路の壁>
これはごく一部。歴史などについても説明がなされており、全部目を通すと、結構時間を要します。有難いですね。
<石垣の説明>
石垣の積み方についても解説あり。帰り道も足を止めてしまいました。通路内なのでちょっと画像が暗くて申し訳ありません。
<通路の出口>
通路を抜けるとこんな感じです。これは城郭の一部ではなく駅の付属施設。徐々に雰囲気が盛り上がります。
<現地到着>
城の手前はかつての二の丸。公園として整備されています。厳密なことを言うと、先ほどの白河駅付近はかつての三の丸なので、既に城跡の中にいたとも言えますね。
■小峰城■
<二の丸の石碑>
東北では珍しい総石垣造りの城郭。左手に見える石垣が途切れている部分が、本丸への入口「清水門」跡です。ここから入りますかね。
<清水門跡説明板>
二の丸と本丸をつなぐ重要な門でした。
<内堀と石垣>
清水門から見て右手の堀。2011年3月の東日本大震災により、この付近の石垣は崩壊し、しばらく一般の立ち入りは出来ませんでした。現在はこの姿。2015年4月に復興式が開催されたそうです。
<逆側>
堀を通り過ぎて左手。ずっと奥が月見櫓跡。
<桜之門跡>
いい感じです。ここから登ります。
<桜之門内側より>
<三重櫓>さんじゅうやぐら
字の通り、三重の屋根を持つ櫓(やぐら)です。ちなみに、二重なら二重櫓。一重なら平櫓といいます。
<三重御櫓絵図>
現地の説明板です。
■戦略要地■
ここ白河は関東との境界に位置する奥州街道沿いの要地。いわば東北の入口です。古くから白河関(しらかわのせき)が置かれ、重視されてきました。
<駅前で撮影した地図>
小峰城はそんな重要拠点の砦として、阿武隈川と谷津田川の間に位置する丘陵に築かれました。
■名門結城氏の城■
1340年に結城親朝が小峰ヶ岡に城を築き、小峰城と名づけたのが始まりとされています。結城氏といえば、下総(茨城県西部)の名門家ですね。白河の結城氏も祖は同じです。一族の祖・結城朝光が白河庄に領地を得て、その子孫が移り住んだ。これが白河結城氏の始まりでした。親朝はこの白河結城氏の当主の嫡男。しかし家督は息子に継がせ、本人は別家として小峰氏を創設しています。
■奥州仕置■
その後も白河結城氏と小峰氏はおおむね良好な関係を保ち、互いに繁栄しました。しかし戦国期に入る頃にはその関係も悪化。いわゆる内紛が起きていました。更に外部からの侵攻も重なり、名門家は徐々に衰退していきます。そして1590年の秀吉による奥州仕置。小田原征伐に参加しなかった白河結城氏は、領地を失うこととなりました。白河は蒲生氏の所領となります。
■近世城郭へ■
江戸時代(1627年)に丹羽長重が10万石で入城。ここに白河藩が成立し、4年を費やして城は大改築され、近世らしい城に生まれ変わりました。
<三重櫓と前門>
美しい佇まい。ともに1990年代の復元です。
丹羽氏?そうです。長重は、かつて織田信長に仕えた丹羽長秀の長男。秀吉の小田原征伐でも活躍しました。
しかし関ヶ原の戦いでは西軍に与したため失脚。徳川の世で、西軍はちょっとまずいですね。でも、それで終わらないのが丹羽長重の凄いところです。1万石の大名に復帰後、大坂の陣で活躍して徳川家に認められ、再び出世しました。小峰城の大改修は、領土なしから10万石にまでなった不死鳥の如き武将によってなされたわけですね。
<おとめ桜と石碑>
城の改修の際、積み上げた本丸の石垣が何度も壊れました。そこで、なんと人柱を立てることに。その当日、最初に城に来た者という取り決めに従い、作事奉行の娘が人柱となりました。娘が埋められた所には桜の木が植えられ、「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。
近世城郭へ変貌した大改修に付随して、そんな人柱伝説が語り継がれています。
<二の丸方向の眺め>
分類は山城(平山城)でよいかと思います。
<逆側>
城の裏手では、まだ修復作業が続けられていました。
■戊辰戦争■
江戸時代に多くの城主交代があった小峰城。歴代城主には、「寛政の改革」で知られる松平定信も名を連ねます。ただ全部ご紹介できないので、ちょっと(かなり)とばして幕末に話を移します。
諸事情(老中も務める藩主の失脚)により白河藩は幕領となっており、空き城となっていた小峰城は、二本松藩主の丹羽長国が預かっていました。そして1868年、丹羽長国は奥羽越列藩同盟として新政府軍と戦うことに。小峰城もその舞台となります。両軍は奥州街道の要衝だった小峰城をめぐって激突し、この時に城の大半は焼失してしまいました。
<本丸周辺の石垣>
白河における両軍の戦いは、約百日にも及びました(1868年6月10日から8 月31日)。死者は千人を上回りました。この「白河口の戦い」は戊辰戦争全体のなかでも最大級の戦いであり、その後の両軍の運命に大きく影響したとされています。
<鎮護神山>
本丸の東の鎮護神山。登った先には「戊辰薩藩戦死者墓」がありました。つまり戊辰戦争における敵方の墓ということですね。各地で戦死し、散在していた薩摩藩士の墓を合葬したものです。
<城内から撮影>
会津藩・仙台藩を中心とした奥羽列藩同盟と、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が激突した地です。
■つわものどもが夢の跡■
<木造による復元>
実質は天守閣の三重櫓。オリジナルは150年前の戊辰戦争によって焼失。これを鉄筋は使わず、かつての建築様式に従って木造により復元した貴重な建築物です。
激しい歴史を刻み、後世の人の手によって蘇った城郭。日本100名城に名を連ねる素晴らしい城でした。
-------■ 小 峰 城 ■-------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏 丹羽氏
榊原氏 松平氏 他
廃城年:1871年
[ 福島県白河市郭内 ]
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2018年08月22日
福島復興の城跡(白河小峰城)名城の石垣
白河の小峰城にて
<小峰城の石垣>
2011年3月の東日本大震災により、城の正面に位置するこの付近の石垣は崩れ落ちました。画像は震災前のものではなく、本日の姿です。立入禁止の期間を経て、2015年4月に復興式が行われたそうです。
まだ新しさが漂いますが、これから適度に自然が押し寄せ、深味を増してゆくのでしょう。東北を旅した帰り道、訪問することができて良かったです。とても感慨深い石垣でした。
<日本100名城>
素晴らしい城郭。日本100名城に選ばれています。そしてまだ修復中。ということは、もっともっと魅力的にしてもらえるのですね。
ということで、メモ代わりの投稿でした。
折角ですので、ちゃんと調べ直して再投稿させて頂きます。
2018年8月22日
■訪問:小峰城
[福島県白河市郭内]
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<小峰城の石垣>
2011年3月の東日本大震災により、城の正面に位置するこの付近の石垣は崩れ落ちました。画像は震災前のものではなく、本日の姿です。立入禁止の期間を経て、2015年4月に復興式が行われたそうです。
まだ新しさが漂いますが、これから適度に自然が押し寄せ、深味を増してゆくのでしょう。東北を旅した帰り道、訪問することができて良かったです。とても感慨深い石垣でした。
<日本100名城>
素晴らしい城郭。日本100名城に選ばれています。そしてまだ修復中。ということは、もっともっと魅力的にしてもらえるのですね。
ということで、メモ代わりの投稿でした。
折角ですので、ちゃんと調べ直して再投稿させて頂きます。
2018年8月22日
■訪問:小峰城
[福島県白河市郭内]
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タグ:福島
2018年07月29日
二本松城のなごり 伊達政宗も板垣退助も攻めた城
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は二本松城です。戦国武将好きなので、伊達輝宗・政宗父子と争った二本松氏の居城として訪問しました。しかし、そんな「中世のなごり」などは残っていません。江戸を通じて存続した二本松城は立派な近世城郭。日本100名城にも選ばれています。
<箕輪門>
二本松城のシンボル的な門です。
■ 室町時代中期の築城 ■
奥州探題を命じられた畠山氏がこの地に入り、畠山満泰が当主となった時に現在の場所に城が築かれたようです。畠山氏が二本松氏を名のったのもこの頃ではないかと考えられています。満泰以降、二本松氏当主歴代の居城として約140年も続きました。長い歴史ですね。小説などの影響もあり、私のイメージする二本松城はこの時代の山城です。
■ 二本松氏と伊達氏 ■
二本松氏、つまり畠山氏は、足利氏の支流ですから名門家です。しかし奥州におけるその後の地位確立という意味では、伊達氏や蘆名氏にはちょっと及ばなかったようですね。
伊達氏の当主が輝宗の頃、二本松氏との関係は悪いものではありませんでした。まぁ適度に距離を置いて、お互いに出過ぎたことはしないという感じでしょうか。しかし若い政宗が家督を継ぐと、伊達氏と二本松氏の微妙な関係は崩れてしまいます。
この頃、米沢を拠点とする伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏の3勢力による争いが激化しつつありました。どれも大大名クラスです。周辺の小大名にしてみれば、この三大勢力のどこと組むかで、命運が左右されます。血気盛んな伊達政宗は、ライバルの蘆名氏や佐竹氏に良い顔をする小大名を許さず、容赦なく滅ぼしました。
これに脅威を感じとった二本松義継は、昔から交流のあった政宗の父に歩み寄る姿勢を示し、交渉に訪れます。面会ば実現しますが、義継はなんと輝宗を拉致してしまいました。そのまま人質として二本松城へ連れ帰ろうとしますが、これを知った政宗に追い付かれ、二本松城に駆け込む寸前で戦闘となってしまいます。伊達輝宗は政宗に向かって「わしもろとも撃て!」と叫んだそうです。政宗は躊躇したものの、義継たちに向かって発砲を開始。両軍による激しい戦闘となり、万策尽きた二本松義継は、伊達輝宗を殺害し、自害して果てたそうです(粟ノ巣の変)。
この話には諸説ありますが、どれも壮絶な話です。この戦いのあと、二本松城は政宗に攻められ開城。一旦は難を逃れた嫡流もやがて命を奪われ、名門二本松氏は滅亡しました。
その後、伊達政宗はここ二本松城に片倉景綱(=小十郎)や伊達成実といった伊達家の実力者を城代として配置しています。重要拠点という証ですね。しかし秀吉の「奥州仕置」により、伊達の支配は終焉をむかえます。
<城内>
歴史が長いので、いつの時代かわからない遺構をたくさん見かけました。
■ 戦国期以降の二本松城 ■
戦国の混乱期から江戸初期にかけては、蒲生氏・上杉氏・加藤氏と、支配者は次々に変わります。しかし1643年に二本松藩が成立し、初代藩主として丹羽光重が入城すると、丹羽氏10代による統治が幕末まで約220年続きました。戊辰戦争の難局に際しても城主は丹羽氏です。丹羽長国でした。新政府軍に攻められ、1868年9月15日(慶応4年7月29日)に落城しました。
<二本松少年隊群像>
戊辰戦争で藩のために戦った少年兵の像です。こちらについては別途記事を投稿しましたので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へ進む』
<説明板>
二本松氏が築いた山城は、江戸時代にはそうとう広い城郭となっていたようですね。現在の市街地の北側に位置しています。標高345mの「白旗が峰」に築かれ、別名・白旗城とも呼ばれています。手前の大手門からの比高は100m強です。
城そのものの廃城は明治になってから。この時、残っていた建物も全て破却されました。
■ 霞ヶ城公園 ■
長年かけて門や石垣が復元され、美しい城址公園となっています。
<箕輪門と附櫓>
1982年に復元されました。
<高石垣>
<隅石>
<土の遺構>
<水の豊かな城内>
もともと水に恵まれていたと思われます。
<城内の用水路>
しかしここまで充実しているのは、丹羽光重が城内に水を引くために築かせた水路によるものです。光重は10年かけてこの城を改修しました。
ざっとですが城内はこんな感じです。実際に天守閣があったのか不明ですが、現在天守台も復元され、見どころとなっています。
■ つわものどもが夢の跡 ■
独眼竜こと伊達政宗が攻めた城。そして、板垣退助率いる新政府軍が攻めた城です。交通の要衝に位置する城には、深くて長い、そして壮絶な歴史が刻まれています。
--------■ 二本松城 ■--------
別 名:霞ヶ城 白旗城
築城年:室町(1441年頃)
築城者:畠山満泰
改修者:丹羽光重
城 主:二本松氏 伊達氏
蒲生氏 上杉氏
丹羽氏 他
廃城年:1872年(明治5)
現 状 : 霞ヶ城公園
[福島県二本松市郭内]3丁目
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--------(追 記)--------
<二本松神社>
二本松駅の近くです。
二本松藩の総鎮守として信仰されていました。
--------(おまけ)--------
<駅前の交番>
なんとなく心が和みました
<明日は仕事>
ぼちぼち、帰りますかね
今回の訪問は二本松城です。戦国武将好きなので、伊達輝宗・政宗父子と争った二本松氏の居城として訪問しました。しかし、そんな「中世のなごり」などは残っていません。江戸を通じて存続した二本松城は立派な近世城郭。日本100名城にも選ばれています。
<箕輪門>
二本松城のシンボル的な門です。
■ 室町時代中期の築城 ■
奥州探題を命じられた畠山氏がこの地に入り、畠山満泰が当主となった時に現在の場所に城が築かれたようです。畠山氏が二本松氏を名のったのもこの頃ではないかと考えられています。満泰以降、二本松氏当主歴代の居城として約140年も続きました。長い歴史ですね。小説などの影響もあり、私のイメージする二本松城はこの時代の山城です。
■ 二本松氏と伊達氏 ■
二本松氏、つまり畠山氏は、足利氏の支流ですから名門家です。しかし奥州におけるその後の地位確立という意味では、伊達氏や蘆名氏にはちょっと及ばなかったようですね。
伊達氏の当主が輝宗の頃、二本松氏との関係は悪いものではありませんでした。まぁ適度に距離を置いて、お互いに出過ぎたことはしないという感じでしょうか。しかし若い政宗が家督を継ぐと、伊達氏と二本松氏の微妙な関係は崩れてしまいます。
この頃、米沢を拠点とする伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏の3勢力による争いが激化しつつありました。どれも大大名クラスです。周辺の小大名にしてみれば、この三大勢力のどこと組むかで、命運が左右されます。血気盛んな伊達政宗は、ライバルの蘆名氏や佐竹氏に良い顔をする小大名を許さず、容赦なく滅ぼしました。
これに脅威を感じとった二本松義継は、昔から交流のあった政宗の父に歩み寄る姿勢を示し、交渉に訪れます。面会ば実現しますが、義継はなんと輝宗を拉致してしまいました。そのまま人質として二本松城へ連れ帰ろうとしますが、これを知った政宗に追い付かれ、二本松城に駆け込む寸前で戦闘となってしまいます。伊達輝宗は政宗に向かって「わしもろとも撃て!」と叫んだそうです。政宗は躊躇したものの、義継たちに向かって発砲を開始。両軍による激しい戦闘となり、万策尽きた二本松義継は、伊達輝宗を殺害し、自害して果てたそうです(粟ノ巣の変)。
この話には諸説ありますが、どれも壮絶な話です。この戦いのあと、二本松城は政宗に攻められ開城。一旦は難を逃れた嫡流もやがて命を奪われ、名門二本松氏は滅亡しました。
その後、伊達政宗はここ二本松城に片倉景綱(=小十郎)や伊達成実といった伊達家の実力者を城代として配置しています。重要拠点という証ですね。しかし秀吉の「奥州仕置」により、伊達の支配は終焉をむかえます。
<城内>
歴史が長いので、いつの時代かわからない遺構をたくさん見かけました。
■ 戦国期以降の二本松城 ■
戦国の混乱期から江戸初期にかけては、蒲生氏・上杉氏・加藤氏と、支配者は次々に変わります。しかし1643年に二本松藩が成立し、初代藩主として丹羽光重が入城すると、丹羽氏10代による統治が幕末まで約220年続きました。戊辰戦争の難局に際しても城主は丹羽氏です。丹羽長国でした。新政府軍に攻められ、1868年9月15日(慶応4年7月29日)に落城しました。
<二本松少年隊群像>
戊辰戦争で藩のために戦った少年兵の像です。こちらについては別途記事を投稿しましたので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へ進む』
<説明板>
二本松氏が築いた山城は、江戸時代にはそうとう広い城郭となっていたようですね。現在の市街地の北側に位置しています。標高345mの「白旗が峰」に築かれ、別名・白旗城とも呼ばれています。手前の大手門からの比高は100m強です。
城そのものの廃城は明治になってから。この時、残っていた建物も全て破却されました。
■ 霞ヶ城公園 ■
長年かけて門や石垣が復元され、美しい城址公園となっています。
<箕輪門と附櫓>
1982年に復元されました。
<高石垣>
<隅石>
<土の遺構>
<水の豊かな城内>
もともと水に恵まれていたと思われます。
<城内の用水路>
しかしここまで充実しているのは、丹羽光重が城内に水を引くために築かせた水路によるものです。光重は10年かけてこの城を改修しました。
ざっとですが城内はこんな感じです。実際に天守閣があったのか不明ですが、現在天守台も復元され、見どころとなっています。
■ つわものどもが夢の跡 ■
独眼竜こと伊達政宗が攻めた城。そして、板垣退助率いる新政府軍が攻めた城です。交通の要衝に位置する城には、深くて長い、そして壮絶な歴史が刻まれています。
--------■ 二本松城 ■--------
別 名:霞ヶ城 白旗城
築城年:室町(1441年頃)
築城者:畠山満泰
改修者:丹羽光重
城 主:二本松氏 伊達氏
蒲生氏 上杉氏
丹羽氏 他
廃城年:1872年(明治5)
現 状 : 霞ヶ城公園
[福島県二本松市郭内]3丁目
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--------(追 記)--------
<二本松神社>
二本松駅の近くです。
二本松藩の総鎮守として信仰されていました。
--------(おまけ)--------
<駅前の交番>
なんとなく心が和みました
<明日は仕事>
ぼちぼち、帰りますかね