福島県庁を訪ねました。伊達氏や上杉氏ゆかりの城跡です。
<本丸跡の石柱>
これだけでもありがたいですね。かつてここに城があった。その目印になります。
■伊達氏ゆかりの城■
詳細は不確かながら歴史は古く、かつては大仏城、あるいは杉目城とも呼ばれていました。1413年に、伊達持宗(第11代当主)が鎌倉公方(足利持氏)に反乱を起こし、この地に立て籠ったという記録が残っています(大仏城合戦)。その後の伊達氏との関りだと、伊達晴宗(第15代当主)が拠点を米沢城へ移し、家督を息子の輝宗(第16代当主)に譲ったのち、この地(当時の呼び名は杉目城)に隠居したとされています。
こうやって経緯を省略しながらまとめると、父から子へ家督がスムーズに引き継がれているような印象となりますね。実際には、隠居したはずの晴宗がなかなか実権を輝宗に渡さなかったりで揉めています。晴宗自身も父と対立しました。第17代当主となる伊達政宗は、そんな祖父と父を持つ人物。ということですね。
東北へ進出した伊達氏の拠点は、ながらく(約3百年)梁川城だったことから、ここ杉目城(福島城)は領内の拠点の一つと考えるのが妥当と思われます。
■上杉ゆかりの城■
秀吉の奥州仕置により、会津には蒲生氏郷がやってきました。城は蒲生氏配下の木村吉清が支配するところとなります。この頃に杉目城から福島城と改められ、城下も整備されていったようです。
やがて豊臣政権下で五大老の一人だった上杉景勝が、会津120万石を領することに。福島城には家臣の水原親憲が入りました。
上杉家臣 水原親憲
好きな戦国武将の一人です。これで「すいばら」と読みます。猪苗代城を任されたのは知っていましたが、福島城のことはちょっと初耳です。順番を整理すると、まず福島城を任され、のちに猪苗代城主の今井源右衛門の死により城替えとなったようです。水原親憲は上杉家屈指の武将。つわものです。親憲の後は、上杉家重臣の本庄繁長が城代となりました。拠点として重要視される城だったのですね。その背景には、旧領の奪回を目論む伊達政宗の存在がありました。
■江戸初期も上杉■
関ケ原で西軍に与した上杉家は、会津120万石から米沢30万石に減封となりますが、福島城は引き続き上杉の支配下でした。しかし後継者問題から米沢藩が15万石になる際、福島は上杉の手を離れ天領(幕府直轄領)となります。
ああ、ここで終わってしまうのですね。上杉との関係は・・・
■幕末まで続く城■
1679年に本多忠国が15万石で入封。福島藩が成立しますが、3年後の1682年には再び天領となります(本多氏は姫路へ)。1686年から堀田正仲が入るものの、その後また幕領に(堀田氏は藩主二代で終わり)。1702年に板倉氏3万石で入り、これ以降は明治まで板倉氏が藩主を務めます。そして第12代藩主・板倉勝達が戊辰戦争で新政府軍に降伏。こののち、福島城は破却されました。
<福島県庁>
現在の福島県庁一帯が、かつての城跡だったと考えられます。
<県庁入口>
本丸の馬場跡と推定されています。
<県庁裏手>
遺構と思ってよろしいでしょうか?
<庭園跡>
現在は紅葉山公園となっているこの付近、かつての二の丸と思われます。
<阿武隈川>あぶくまがわ
城にとっての天然堀ですね。福島城は分類すると平城ですが、地の利のある場所に築かれていました。更に城の南側の内堀には、この川の水を引き入れ水堀としたようです。
<東北第2位>
東北では北上川に次いで2番目に長い(239km)川です。舟運という恩恵もあったのでしょうね。
遺構に恵まれた城跡ではないですが、歴史は確か。歴史的に重要な意味を持つ城ということですね。そんなことを感じながらの帰り道、県庁向かいの小学校で嬉しい説明板をみつけました。
<説明板>
城の内堀を埋めて小学校が建設されたようですね。当時の写真には内堀の土塁と松並木が。いいですね。
<土塁跡>
あの土の盛り上がりも土塁と思って良いのですかね。福島第一小学校敷地内。これ以上は入れないのでここまでです。
ということで、探索終了です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
-----■福島城■-----
別 称:大仏城・杉妻城・杉目城
築城者:不明(伊達氏?)
築城年:不明
城 主:伊達晴宗・木村吉清
上杉氏・板倉氏
廃 城:1869年(明治2)
[福島県福島市杉妻町]
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