<高岡城跡>
晩秋の高岡城を訪ねました。
■ 現地訪問 ■
水堀に囲まれた城跡は、市民のための公園として整備されています。
<高岡古城公園入口>
私は城の南側のこの橋を渡って城内に入りました。
<現地説明板>
地図と歴史が記された説明板です。先ほどの橋(駐春橋)を渡ったところに設置されていました。左中央が現在地ですので、南外堀を渡って、いま二の丸にいることになります。この平面図だけだと、関東平野によくある沼地の城を連想してしまいますが、全て人が掘った堀です。城の規模は長辺648m,短辺416m。敷地の3割が水郷となっています。
<説明板拡大>
曲輪が本丸を取り囲むように配置されていますね。ただ、本丸の西側(この図だと上)だけは曲輪を配置することなく、水堀のみです。現地では想像できませんでしたが、後で調べると、こちら側は段丘となっており、その先の低地は沼を含む湿地帯だったようです。
天然の地の利を背にして、残りの方角の守りは厚くする。この縄張りは、前田家に客将として招かれていた築城の名手・高山右近と言われています。
<城内の土橋>
二の丸と本丸を結ぶ土橋です。この土橋の両側の石垣は、築城当時のものとのこと。つまり江戸時代初期のものということですね。
<石段>
土橋の袂(本丸側)から下へ降りられます。下からの方が土橋も石垣も良く見えます。
<江戸初期の石垣>
廃城になっても残された貴重な遺構です。最近は石垣を復元している城跡も多いですが(それはそれで魅力ですが)、当時のままというのはやはり感慨深いですね。
<野面積み>のづらづみ
自然の石をほぼそのまま積み上げています。いわゆる「野面積み」です。
石垣のみならず、高岡城は二の丸や三の丸といった曲輪が、ほぼ築城時のまま残り、それらを取り囲む堀も、むかしの姿を維持しています。この保存率の高さが、専門家から評価されている理由なのかもしれませんね。
ところで
<西内堀>
案内図だと城内の堀は全て水堀ですが、外堀と比較すると、ここはやや雰囲気が異なりますね。
<外堀>
満々と水が張られた外堀。幅は一番広いところでは約50mにもなるそうです。
城巡りをしていると「昔はもっと水があった」という例は珍しくありません。地下水の水位が下がってしまったとか、付近の川が整備されて伏流水が減ったとか、理由はいろいろです。高岡城の事情は分かりませんが、内堀は外堀と繋がっていますし、少なくとも昔は、土橋の近くまで水があったのかもしれませんね。
<相撲場>
本丸西側の土塁の内側が土俵になっています。
<力士像>
高岡は相撲熱が高いようですね
<土塁跡>
こちらにも土塁跡。左手土塁の向こう側は先ほどの内堀になります。分類すると平城ですが、曲輪は周囲より高い印象です。巨大な堀を掘ったわけですから、残土は土塁のみならず、城内に盛られたことでしょう。
<射水神社>いみずじんじゃ
こちらは明治になって本丸跡に遷座された射水神社です。創建は奈良時代という歴史ある神社です。
<本丸広場>
広々とした本丸跡。
<自然な雰囲気の堀>
のどかです。ただ、これはもともとの地形ではなく、あくまで人の手による城の防衛施設です。
<晩秋の古城公園>
高岡城は桜の名所でもありますが、残念ながら私の訪問は11月。それでも、残された紅葉に癒される思いがしました。それぞれの季節で、自然の美しさを満喫できる城跡なのでしょう。
■ 前田利長の城 ■
築城者の前田利長は、前田利家の長男です。豊臣・徳川の双方に配慮せねばならない難しい環境下で、加賀藩の礎を築きました。利長は跡継ぎがいなかったため、弟の利常を養子としたあと家督を譲って隠居しますが、その後も藩政に深く関わりました。徳川政権下で外様の前田家が高い地位を確立できたことは、利長・利常の兄弟藩主(形の上では親子)の功績と言っても過言ではありません。
高岡城築城のきっかけは、隠居した利長が居城としていた富山城の焼失です。新たな居城として築いたのが高岡城でした。隠居のための城ということになりますが、まだまだ情勢が不安定な時期の築城です。戦いに耐えうる念入りな構造の城を完成させました。利長の死後間もなく、徳川幕府が一国一城令を発したため、高岡城は廃城となりました(1615年)。
<瑞龍前田公遺徳碑>ずいりゅう
本丸広場の北側のこの石碑は、前田利長の遺徳を偲ぶものです。瑞龍は利長の法名です。
<石碑のレリーフ>
鷹狩りの最中でしょうか?腕に鷹を止まらせた利長の姿が描かれています。
<前田利長像>
高岡城の設計は高山右近と一般的には言われていますが、築城者である利長本人が場所を選び、縄張りの指示も出していたという話もあります。
<つわものどもが夢の跡>
高岡城は築城から6年にも満たないで廃城となりましたが、実際は奉行所管理下で米蔵や火薬蔵などとして利用されたようです。つまり間接的には加賀藩の軍事拠点としての機能し続けたわけですね。保存状態の良い城跡は日本100名城に選ばれるとともに、古城公園として市民の憩いの場として活かされています。
--------■ 高岡城 ■--------
築城者:前田利長
築城年:1609年(慶長14)
城 主:前田利長
廃城年:1615年(元和元)
現 況:高岡古城公園
[富山県高岡市古城] 1-1
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■参考
・現地説明板
・Wikipedia:2024/1/12
・とやま観光ナビ
「高岡古城公園(高岡城跡)」
https://www.info-toyama.com/attractions/21103
[補足]
とても参考になるコメントを頂きました。コメント欄も見て頂けると嬉しいです。
2024年01月12日
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コメントありがとうございます。あれは馬出ですか。ちょっと経験値不足で、曲輪という解釈しかできませんでした。あと石垣がある程度加工されていることは分かっていましたが、粗いので野面積みに分類しました。「粗加工石積み」という分類があるのですね。勉強になります。
利長の四男は恥ずかしいので長男に訂正しておきますw利常が四男ですね。
拙ブログに訪問頂きありがとうごいました。
「前田利長は、前田利家の四男です。」とありますが、長男ですね(;^ω^)
そして、高岡城の最大の特徴は水堀・郭の形状がほぼ完全に残されていることであり、しかもその縄張(最近は右近説は否定的)は当時の最適解とされる「馬出」を連ねた連続(重ね)馬出であることが、千田嘉博先生ら専門家に高く評価されています。
また、石垣は野面積みではなく、粗い加工ですがほぼ同じ大きさに成形されている、「粗加工石積み」ですね。