日本三名園のひとつとして名高い兼六園。情報はネットに溢れていますので、城跡ブログらしい目線でまとめさせて頂きます。
これは城に隣接する他の庭園にも言えることですが、優雅な庭園も、万が一の時は防衛施設になることを意識して造られていたという見方ができます。つまり二ノ丸・三ノ丸といった曲輪と同じ役割です。
金沢城は二本の川に挟まれた台地(厳密には段丘)の先端に築かれました。よって周辺とは高低差があります。ただ、台地の続いている側、金沢城の場合は城の南側は、地形上の有利さはありません。よって、何らかの手を加えて補強する必要があります。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
兼六園側から見た金沢城です。手前の低地はもともとあった谷ではなく、台地を断ち切るようにして設けた堀跡です。このように台地を遮断する方法は珍しいことではありませんが、金沢城の場合はスケールが違います。丘伝いに攻め込みやすい南側、つまり城とっては弱い部分を補うため、金沢城で最大の堀が設けられました。
堀の更に南側に位置しているのが兼六園です。始まりは第5代藩主・前田綱紀が築いた蓮池庭(1676年)。既に幕府が大名たちの城の修理を監視している時代ですが、あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。その辺りも考慮した上での補強だったのではないでしょうか。正式な曲輪ではありませんが、管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
起伏に富んだ園内
天然の川から引き込んだ新鮮な水の流れ
意識して設けた水のたまり場
庭園そのものが高台に位置している
いざとなれば・・・
ということで
城好きによる兼六園のご紹介でした。学術的に認められた見解ではありません。ただ、そういう見方をする人は少なくないという程度に受け止めて頂けると助かります。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:兼六園
[石川県金沢市兼六町]
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