2022年08月01日

関東郡代伊奈氏のなごり(中央区) 郡代屋敷跡

<郡代屋敷跡>ぐんだいやしき
Kantogundaiyashiki.JPG
神田川に架かる浅草橋の南側には『郡代屋敷跡』と記された説明板がたてられています。

郡代といえば関東郡代の伊奈一族(とは限りませんが伊奈氏が有名)。古くから徳川家康に仕えていた伊奈氏は、家康が江戸城に移ってからは、関東の治水や新田開発、あるいは幕府直割地からの年貢の徴収といった裏方仕事で徳川幕府を支え続けました。


<説明板>
Gundai-Yashiki-Explanation- Board.JPG
せっかくですので、中央区教育委員会さんの説明文を以下に引用させて頂きます。『』内は原文そのままです。

『江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代の役宅があった場所です。』
伊奈氏の活動範囲は関東の広範囲に及びますが、ここが江戸での拠点だったということですね。伊奈氏代々の本拠は現在の埼玉県でした。

つづいて関東郡代について
『関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。』
伊奈忠治を関東郡代として扱っている文献も多いことから、当ブログでもそう表現しています。中央区教育委員会さんの説明を厳密に読み解くと、関東諸代官の統括であるから『事実上』関東郡代ということで、正式な職となるのはのちの話のようです。まぁ理解はしましたが、今後もあまり厳密に区別することなく、関東郡代を役割として受け止めたいと思います。

ところで、伊奈忠治は二男となっていますね。忠治には忠政という兄がいました。伊奈家二代目として充分に活躍していましたが、34歳の若さで他界してしまいます。伊奈家本家の家督は幼い兄の子に継がせ、役割は忠治が引き継ぎました。その活躍は目覚ましく、子孫に受け継がれる伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。

さて
屋敷の話に戻します
『その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。』
伊奈氏の屋敷は当初別の場所にありましたが、明暦の大火の影響でこの地に移転となりました。元の場所は、現在の東京拘置所付近(葛飾区小菅)です。伊奈忠治が本拠となる埼玉県川口市の陣屋(赤山陣屋)を中心に整備した赤山街道のうち、千住道と呼ばれる道筋は小菅に繋がっていました。


そして最後に
『寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東群代を兼ねることとなり、この地に移住しました。文化三年(一八〇六)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した跡には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を長く群代屋敷と呼んでいました。』
文中にもあるように、忠尊(ただたか)が伊奈家最後の関東郡代となりました。

『事実上』伊奈忠治から始まる関東郡代を世襲した伊奈氏について、評価はいろいろあろうかとは思いますが、私個人は、総じて庶民思いの政策を掲げて、農政・民政に力を注いだ一族と感じています。

Gundai-Yashiki-Asakusabashi.JPG
関東群代が廃止され、屋敷も焼失しているのに、江戸庶民から郡代屋敷と呼ばれ続けた場所です。

■訪問:郡代屋敷跡
[中央区日本橋馬喰町]2丁目

■参考及び出典
現地説明板(中央区教育委員会)
Wikipedia:2022/8/1



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2022年07月31日

浅草見附のなごり

街道の要衝に設けられた見附跡を訪ねました。

<浅草見附跡>
asakusamitsuke-stone-monument.JPG
場所は浅草橋駅近く。神田川沿いです。いまでこそ石碑のみですが、かつては江戸城三十六見附の一つに数えられる見附が設けられていました。

<浅草橋>
ASAKUSABASHI.JPG
こちらは神田川にかかる浅草橋です。冒頭の石碑は、この橋のたもとといっても良い場所に設置されています。石碑はちょっと地味で、足を止める人はほとんどいません。わざわざ写真を撮っている私の方が目立ってしまいました。

<現地説明板>
asakusabashi-Explanation-Board.JPG
旧浅草橋と題した説明板です。見附と関係があるところを抜粋させて頂くと『江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見付といわれた。』とのこと。

この地は日本橋から北関東や東北地へ繋がる道筋でした。浅草観音方面も同じくここを経由したことから浅草御門と呼ばれたようです。そして警護のために人を配置。いかに重要な場所であったことが伝わってきますね。

その厳重さが裏目に出る悲劇もありました。江戸の大半を焼いたと伝わる明暦の大火(1657年)です。この時、囚人の逃亡を防ぐために門が閉められてしまい、避難しようとする一般庶民まで犠牲になるといったそうです。残念な事件ですね。

しかし浅草橋の交通の便の良さは変わりません。見附の周辺はその後も繁栄し、船宿などが建ち並ぶ賑やかな町であり続けたようです。

<現在の様子>
Asakusabashi-Kandagawa.JPG

ということで
奥州街道(日光街道)が通る地点にあった浅草見附跡のお話でした

■訪問:浅草見附跡
(浅草見附跡碑)
[東京都台東区浅草橋]1-1

■参考及び出典
現地説明板『旧浅草橋』
Wikipedia:2022/7/31


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2022年07月29日

浅草橋の福井町(台東区)福井松平藩邸のなごり

<石碑>
fukui-matsudaira-hantei-stone-monument.JPG
福井松平藩邸跡と刻まれています

この石碑は台東区浅草橋でみつけました。左側には福井中学校の文字。中学?そのなぞは石碑の下に記されている説明文ですぐに解けました。

fukui-junior-high-school.JPG
こちらによれば『この地はかつて越前福井藩邸が置かれたことに由来して福井町と呼ばれ、明治35年に福井尋常小学校が置かれ』たとのこと。大正時代の関東大震災で木造校舎が全焼したり、昭和になって学び舎が復興されたりといった学校の歴史が紹介されています。昭和22年に福井中学校となり、平成3年に蔵前中学校との統合により閉校とのこと(ここに記載はありませんが、合併して浅草中学校となったようです)。そして、最後に校章と校歌が記されています。

fukui-matsudaira-hantei-ato.JPG
この場所は、福井中学校跡地ということのようです。そして、古くは福井松平藩邸だった場所。藩邸は広範囲に及んだと思いますが、ここもその一部であったのでしょう。

説明文にもある通り、この付近は福井藩の江戸屋敷が置かれたことに由来して福井町と呼ばれていました。そう名付けられたのは江戸時代中期のようなので、地元にとっては、現在の浅草橋という住所名より、もしかしたら馴染み深い名前なのかもしれません(勝手な推定)。

福井藩といえば、徳川家康の次男であり、二代将軍秀忠の兄である結城秀康が藩祖です。秀康は名門結城家の養子となり結城を名乗りましたが、越前を与えられたのちに松平性に改め、越前松平家を興しました。越前松平家は御三家に次ぐ家格ということになりますが、秀康の石高は御三家より上です。幼少期から家康に冷遇されていたという話もありますが、やはり格別の扱いであったことは間違いないですね。

武勇の誉れも高い松平秀康が藩祖である福井藩の江戸屋敷がこの地にあった。昭和の住居表示の実施で福井町は浅草橋一丁目に編入となり消滅しましたが、板橋区に前田家の屋敷があったことで加賀という地名が残っているように、ここも何とか『福井』の名は残せませんでしたかね(これも勝手な意見)。

私は通りすがりのよそ者ではありますが、目にした石碑のおかげで、ここがかつて福井町と呼ばれていたことを知りました。伝えたいという思いが形となっていることで、その機会を得たことになります。

monument-fukui.JPG
歴史を記してくれてありがとうございます

■訪問:福井松平藩邸跡
 (区立福井中学校跡地)
[東京都台東区浅草橋]1丁目22

■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/7/29
福井中学校跡地説明文



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2022年07月26日

神田橋門のなごり(千代田区)高架下の石垣

今回は高速の高架下で見かけた石垣と江戸城の城門の話です。

<石垣>
KANDABASHIMON-NAGORI.JPG
城好きとしてはなんとなくいとおしい光景です

<神田橋>
KANDABASHI.JPG
場所は千代田区の神田橋付近。冒頭の画像は日本橋川に架かるこの橋の上から撮影しました。かつてここには神田橋御門と呼ばれる江戸城の門がありました。いわゆる江戸城三十六見附の一つです。

<橋の近く>
KANDABASHI-SMALLPARK.JPG
橋のすぐそばの小さな公園に千代田区による説明板が設置されていました。

<説明板>
KANDABASHIMON-EXPLANATION-BOARD.JPG
説明文によれば、ここは『芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野の寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした』とのこと。寛永寺は増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺ですね。さらに、この道は将軍家が日光東照宮へ向かう時の通り道でもあったので、警備が厳しいは当然かもしれません。芝崎と神田は地名由来として、大炊殿橋門?これは土井大炊頭(おおいのかみ)の屋敷が近くにあったことと関係があるようです。古河藩主、そして大老にまでなった土井利勝のことです。

また『門は1629年(寛永6年)に下野真岡藩藩主稲葉正勝により構築され』たと記されています。稲葉正勝はのちに小田原藩主、そして老中を務めた大名です。母である春日局の方が有名ですかね?この縁もあり、正勝は幼少期より、のちに3代将軍となる徳川家光に仕えていました。


<説明板の地図>
KANDABASHIMON-MAP.JPG
神田橋は赤丸の位置です。日本橋川は下流で隅田川と合流するため、江戸城築城の際には、建築材料などの荷揚げが橋のすぐそばでおこなわれました。いかに重要な門であったか伝わってきます。あと、ちょっと話がそれますが、この地図は高低差が色分けされていて見やすいですね。平地の城と思われがちな江戸城ですが、実は山城であることが見てとれます。

<説明板の写真>
KANDABASHIMON-PHOTO.JPG
1871年(明治4年)の神田橋門。現地の説明文には『1873年(明治6年)に櫓門が撤去され』と記されていましたので、その直前の様子ということになります。「旧江戸城写真帖」とありますので、これは当時の写真師が絵師の協力を得て完成させたものです。少し筆が入っているのがわかりますね。

いまはこういった雰囲気は漂いませんが、橋は姿を変えて今でも現役であり、石垣の一部はそのまま残されています。

<高速の下>
kandabashi-bridge.JPG
首都高速道路の高架下であるため目立ちませんが

<日比谷通り>
KANDABASHI-NOW.JPG
日比谷通りの一部であり、重要な役割を担う橋です

<古い護岸>
river-bulkhead-kandabashi.JPG

<むかしの石垣>
KANDABASHIMON-ISHIGAKI.JPG
いいですね

ということで
都市に埋もれている神田橋門のなごりのご紹介でした。

■訪問:神田橋
[千代田区大手町]1丁目
[ 〃 神田錦町]1丁目

■参考及び出典
現地説明板(千代田区)



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2022年06月19日

東京ガス本社の石垣

今回は東京ガス本社の敷地に佇む石垣の話です。

Rock-Wall-Tokyo-Gas.JPG
立派です!


Tokyo-Gas- Building.JPG
場所は港区海岸。浜松町駅から徒歩で5分程度と言った方が伝わり安いでしょうか。道路から既に石垣が見えています。

Tokyo-Gas-Garden-Entrance.JPG
あくまで会社の敷地ですので、正面入り口は「関係者以外立ち入り禁止」となっています。ただ石垣がある辺りはこんな感じになっていて、来る者を拒んでいる雰囲気はありません。東京ガスさんのご厚意と思われますので、訪問する方はぜひ節度を守って頂きたいと思います。

さてさて

Relocated-Wall.JPG
むかしの石垣の石材が積んであると聞いて訪問しましたが、正直に言うと、もう少しラフな状態で積んであるのかと思っていました。専門家ではありませんが、石垣について多少の知識はあるので、モンクの言いようがない積み方に驚かされました。

Wall-Stone-Base.JPG
根石からしっかりと

Stone-Wall-Sumi-Ishi.JPG
隅石はもちろん、隅脇石もしっかりと

なんだか最初からここにあったかのような堂々とした佇まいです。


Tokyo-Gas-Ishigaki.JPG
石垣の前に説明板が設置されています。少ない情報のまま来てしまったので大変助かりました。

Stone-Wall-Information.JPG
管理者は東京ガスさんですが、港区教育委員会さんにより解説がなされています。単なる展示物ではなく史跡ですね。せっかくですので、文をそのままご紹介させて頂きます。
『ここに復原されている石垣は海岸1丁目特定街区建設工事の際に発堀された石垣を保存のために移築したものです。石垣が発堀されたこの地は、旧芝離宮恩賜庭園に南接し、江戸時代前半(17世紀の後半)に埋立てられた築地で、永井佐渡守や丹波左京太夫の屋敷あるいは松平越前守陣屋として用いられたものです。保存された築地石は、築地の北側と東側の護岸用に使われていました。』

江戸時代に屋敷などが建ち並んでいた埋め立て地の「護岸用の石垣」だったわけですね。そして発掘された石材を保存のためにここに移築した。丁寧な説明に納得して現地を去りました。

Hydrangea-and-Stonewall.JPG
ちょうど紫陽花も見ごろでした

■訪問:江戸時代の石垣
(東京ガス本社の石垣)
[東京都港区海岸]1-5-20

■参考及び出典
現地説明板(設置:東京ガス)
・東京都港区教育委員会

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2021年05月12日

天神山城のなごり(三鷹市)

つわものどもが夢の跡
今回は三鷹市の川沿いの丘に残る城のなごりの話です。
<天神山城>てんじんやまじょう
Tenjinyamajo.JPG
こちらです。斜面を下った先には川が流れています。城に関する詳細は不明ですが、深大寺城の支城として築かれたとする説、小田原北条氏が築いたとする説などがあります。

<仙川>せんかわ
Sengawa-River.JPG
こちらは城跡の麓をかすめるように流れる仙川。今でこそ護岸をコンクリで固められ、まるで人工の水路のようですが、古くからあった自然の川です。

<仙川と天神山城跡>
Riverside-Small-mountain.JPG
仙川を挟んで撮影するとこんな感じです。川が奥でカーブしているとこ、伝わりますでしょうか。

<地図>
Tenjinyama-Map.JPG
こちらの地図で見れば一目瞭然ですね。現在位置(新川天神山青少年広場)が城跡。川は地形に合わせて蛇行し、城は川に向かって突き出た丘陵に築かれました。

<公園入口>
Tenjinyamajo-Mitaka.JPG
天神山は公園として整備されています。先ほどの地図はここで撮影したものです。

<土塁>
Tenjinyamajo-dorui.JPG
これは土塁跡とみなしてよさそうですね。向こう側(右手奥)は逆に掘り下げられたような跡がありました。

<曲輪>
Tenjinyama-Bailey.JPG
ここ全体がひとつの曲輪と思われます。ただ、エリアによって微妙な高低差があるので、もともとは複数の曲輪が設けられていたものの、のちの時代に平らにされてしまったのか?などなど、勝手に想像して楽しみました。

<堀切?>
Tenjinyama-River.JPG
再び仙川を挟んだ画像です。白い塀が見えているお隣(左手)との間は丘が窪んでいます。人の手で削られたのかもしれません。堀切でしょうか?あそこが城の端だと仮定して、小規模な単郭式の砦だったのだろうとか、あるいは城跡らしきところは主郭に過ぎないとか、勝手に想像するのも楽しみ方のひとつです。


さて
冒頭にも触れさせて頂きましたが、あくまで天神山城の詳細は不明です。ただ深大寺城の支城あるいは小田原北条氏の築城だとすれば、時期的には1537年頃と推定するのが妥当ではないでしょうか。というのも、河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原の北条氏の進軍に備えるべく、配下の難波田広宗に深大寺城を整備させたのがだいたいその頃。この時、攻め手の北条氏綱は直接深大寺城を攻撃することなく、けん制しながら通り過ぎてしまいました。いわばスルーした訳ですね。この「けん制」のために築いた陣城が今回訪問の天神山城だとしたら、やはり築城は同じ頃ということになりますね。

当時の北条氏は、早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱が、相模から関東全体へ勢力を拡大していた時期です。深大寺城を通過した氏綱は、そのまま北上して河越城を見事攻め落としました。これが1537年の出来事です。これにより、既に陰りの見えていた扇谷上杉家は、更に北の松山城(埼玉県吉見町)へ逃れることになりました。

<つわものどもが夢の跡>
Tenjinyama-Castle.JPG
北条氏綱の陣城と仮定すると、大きな結果に繋がる重要な役割を担った城跡ということになりますね。伝わる話に素人会社員が仮説を立てて妄想しているだけですが、そんな楽しみ方もあることを共有できれば幸いです。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

------■ 天神山城 ■------
別 名:天神山砦
築城主:不明(北条?扇谷上杉?)
築城年:不明(1537年頃?)
城 主:不明(北条?扇谷上杉?)
現 状:新川天神山青少年広場
[東京都三鷹市新川]2丁目


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2021年05月04日

島屋敷跡と柴田勝家ゆかりの勝淵神社(三鷹市)

つわものどもが夢の跡
今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
Shima-Yashiki.JPG
こちらです

<新川団地>
Housing-complex.JPG
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています

あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。

<島屋敷遺跡>
Shima-Yashiki-Explanation-Board.JPG
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。

<新川・島屋敷通り>
Shima-Yashiki-Street.JPG
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。

柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。

あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。

<周辺>
Yashiki (1).JPG
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。

<説明板>
Yashiki-Explanation-Board.JPG
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう

<仙川>せんかわ
Sengawa-River.JPG
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。

<丸池公園>
Maruike-Park.JPG
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園

<丸池>
Maruike.JPG
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。

そして
<低地から見た台地>
Katsubuchi-hiii.JPG
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります

<勝淵神社>かつぶち
Katsubuchi-Jinja-Gate.JPG
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。

<柴田勝家の兜>
Explanation-Board.JPG
Katsubuchi-Jinja.JPG
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。

<つわものどもが夢の跡>
Katsubuchi-Shrine.JPG

■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20

■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板



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2021年05月03日

砦があったとされる調布市柴崎の丘(柴崎陣屋)

つわものどもが夢の跡
かつて武士の砦があったと伝わる調布市の丘を訪ねました。
<柴崎稲荷神社>しばさき
Shrine-on-the-hill.JPG
最寄り駅は京王線の柴崎駅。徒歩圏内の住宅地の小高い丘に鎮座するこの稲荷神社周辺が、砦跡ではないかと言われています。

■現地訪問■
<柴崎稲荷神社参道>
Approach-Shibasakijinja.JPG
ここから入ります

<坂道>
ShibasakiJinya-Slope.JPG
左手側に見えている鳥居が今回の目的地。それにしとも右側の道はかなりの急こう配です。

<急こう配>
Steep-Slope.JPG
横からみるとこんな感じです。徒歩以外で登るのはちょっと厳しいですね。神社の境内がそのまま砦跡だと仮定すると、丘の中腹を造成して築かれた?そんな感じになりますかね

<鳥居>
Shibasaki-Shrine-Gate.JPG
砦跡のつもりで訪問していますが、当然一礼して潜らせて頂きました。旧柴崎村の鎮守です。よそ者がお邪魔致します。

<稲荷神社>
Shibasaki-Inari- Shrine.JPG
稲荷神社です。祭神は倉稲魂命ですね。高台に鎮座しています。

<拝殿>
Shibasaki-Inari- Shrine-Main.JPG
大きすぎず小さすぎず。綺麗に管理されていて、凛とした空気が漂います。創建年代は不詳ですが、小田原北条氏の時代に社地の寄進を受けていたとのこと(参考サイト『猫の足あと』)。つまり戦国時代には既に存在していたわけですね。では砦だったというお話は、それよりもっと以前ということでしょうか…

<周囲との高低差>
difference-of-elevation.JPG
まぁ砦であってもおかしくない地形ですが…なんとも言えません

現地に城に関する説明板などはありません。武蔵七党のひとつ、与野党の柴崎氏(地名のままですね)の砦跡、あるいは江戸氏一族で、太田道灌に追われて現在の世田谷区喜多見に逃れた木田見(喜多見)の砦跡ではないかと言われています。

調布市と言えば深大寺城が有名ですね。ここから比較的近いのですが、支城?だったとか、何となく関係がありそうですがはっきりしません。

<丘の麓>
Jinya-Shibasaki.JPG
鳥居の手前は一段と低くなっています

<暗渠>あんきょ
ShibasakiJinya-Ankyo.JPG
蓋をされていますが水路ですね。かつての堀のなごり?という期待を込めて眺めましたが、開発途上で造られた用水路のなごりですね(たぶん)。

通りから奥に入った場所ですが、思いのほか人目につきます。階段を登ったり降りたり、はたまた水路に入り込んだりと、どう考えても怪しい行動をしているので、早々に立ち去りました。

かつてこの丘に何らかの砦があったのだろう

確証はないのですが、地形だけは納得ししました。少なくとも、むかしは見晴らしが良く、低地を遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。それを実感できただけで満足です。

------■ 柴崎陣屋 ■------
別 名:柴崎城・柴崎館
築城主:不明(柴崎氏?)
築城年:不明(柴崎氏?)
城 主:不明(柴崎氏?)
現 状:柴崎稲荷神社
[東京都調布市柴崎]2-11-4

■参考■
・Wikipedia:2021/5/3
・猫の足あと

https://tesshow.jp/tama/chofukomae/shrine_chofu_shibasaki.html


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