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2024年05月19日

地名に残る城門のなごり(内幸町)幸橋御門跡

<内幸町>うちさいわいちょう
Uchisaiwaicho-Station.JPG
こちらは都営三田線の内幸町駅。内幸町は港区の地名です。かつては大名屋敷が建ち並んでいたこの付近、江戸城幸橋御門の内側に位置していることが名の由来といわれています。

幸橋御門は、肥後国熊本藩主の細川忠利に築かれました(1636年)。将軍が増上寺に詣でる道筋にあたったため御成橋門ともいわれたそうです。

<幸橋御門跡>さいわいばしごもん
Saiwaibahigomonato.JPG
幸橋御門は1873年(明治6年)に取り壊され、遺構はありません。この付近(第一ホテル付近)と考えられています。手前側が城内。画像の左手へ進むと、幸橋の内側であることが地名となっている「内幸町」の1丁目になります。

遺構はない。

これが結論ですが、地名の他にもうひとつ、幸橋御門のなごりが漂う場所があります。

<幸橋ガード>
Plate-Saiwaibashi.JPG
幸橋御門とセットだった幸橋の名が、東海道線の架道橋に残されています。こちらも名前だけですが、消えてなお残る城のなごりと言えなくもないですね。

■訪問:幸橋御門跡
(第一ホテル付近)
[東京都港区新橋]1丁目


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■参考
千代田区HP
> 町名由来板:内幸町

https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/uchisaiwai.html
posted by Isuke at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2024年05月18日

山下門跡(江戸城)外日比谷御門と呼ばれた城門のなごり

江戸城の山下門跡を訪ねました。

<山下門跡>
Yamashita-Mon-Ato.JPG
この付近になります。山下門は江戸城の外濠に設けられた城門で、いわゆる江戸城三十六見附に数えられています。ただ現状はご覧の通りで、枡形の石垣など、ありし日を思わせるような遺構は存在しません。

ただし
ガード下に説明板が設置されています。

<山下門跡説明板>
Yamashitamon-Explanation-Board.JPG
こちらです。少し転記させて頂きます(『』内は原文)。
『山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。門に附属する山下橋は、現在の有楽町二丁目・内幸町一丁目と中央区の銀座五、六丁目を結んでいました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。また、門内に佐賀藩(現在の佐賀県)鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があったほか、外日比谷御門とも称されていました。』

山下町という地名がもともとあったわけですね。別名の由来となった佐賀藩鍋島家といえば、明治維新を推進させ、やがては侯爵となった家柄。山下門の近くの屋敷も、さぞ立派だったのでしょう(勝手な想像です)。

<説明板拡大>
Map-Yamashitamon.JPG
こちらは山下町付近の様子ですが、明治30年代のもの。まだ江戸城の濠は残っていますね。画像の右上、内堀付近には「日比谷門の文字。この位置関係から、山下門は外日比谷御門とも言われたわけですね。

<更に拡大>
Yamashitamon-Explanation-Map.JPG
右側・帝国ホテル前に「山下門」と記されています。門とセットの橋が山下橋、渡った先が山下町。納得です。

説明文の続きを読む限りでは、1873年(明治6年)に山下門が撤去された時点では、まだ橋と枡形の石垣は残されていたようです。ただ1900年(明治33年)に外濠が埋め立てられることになり、橋も撤去されたとのこと。枡形の石垣が撤去されたのもその時ですかね?

結局のところ
訪問したけど山下門の痕跡は何も残っていないのか?

はい
ただ、そのなごりを少しだけ感じることはできます。少しだけ…

<山下橋架道橋>かどうきょう
Yamashitahashi-Kadoukyo.JPG
電車が道路を跨ぐための架道橋。ここは山下橋架道橋と命名されているようです。山下門に附属する山下橋が確かにあったなごりです。

Plate-Yamashitahashi-Kadoukyo.JPG
説明板を除けば、これが唯一のなごり

もう橋はありませんが、改名しないで、このままにして欲しいですね。

■訪問:山下門跡
(山下橋架道橋)
[千代田区内幸町]1丁目


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■参考
・現地説明板(千代田区)
・千代田区の文化財HP
文化財サイン(標柱・説明板)旧江戸城関係 や行 山下門跡

https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/1/6/266.html
posted by Isuke at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2024年02月10日

将軍塚と久米川古戦場跡(東村山市)戦いの口火を切った新田義貞の足跡

つわものどもが夢の跡
新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。

<久米川古戦場碑>くめがわ
Old-Battlefield-Stone-Pillar.JPG

■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。

■現地訪問■
最寄り駅は西武鉄道の東村山。駅を出てまずは伝説となったヒーローにご挨拶

<志村けん銅像>
Great-Comedian-Ken-Shimura.JPG
新型コロナウイルスのため急逝した志村けんさん。背後のコメントの通りです。ありがとうございました。

続いて現地へ向かう途中に通った道

<旧鎌倉古道>
Kamakurakodo- Higashimurayama.JPG
この何気ない道は古道だったようです。鎌倉街道に沿って南下した新田義貞も通った道かもしれません

<勝陣場橋>かつじんばばし
Unique-Name-Bridge-Old-Battlefield-SyoujinbaBashi.JPG
いい名前の橋ですね

<将陣場橋>しょうじんばばし
Katsujinbabashi-Old-Battlefield.JPG
こんな橋も

<諏訪神社>
Suwajinjya-Higashimurayama.JPG
地名の由来となった神社です

<丘陵地帯>
Hilly-Area-Sayama.JPG

ここまで平らな道を歩いてきましたが、低層の山が見えてきました。古戦場跡の石碑まであと少しです。

<久米川古戦場跡>
Old-Battlefield-Kumegawa.JPG

目的地に到着です。公園の隅に石碑と説明板が設置されています。

<説明板>
Old-Battlefield-Explanation-Board.JPG

一部を抜粋させて頂きます(『』内は原文転記)。
まず『北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた』とのこと。そして『上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった』と記されていいます。群馬で挙兵し、鎌倉を目指す新田軍にとって、この地は通るべくして通った場所ということですね。

新田義貞率いる軍が利根川を越えたところで、足利尊氏の嫡子である千寿王が合流します。こういう言い方もなんですが、足利家は当時の新田家より明らかに格上です。有力者の加勢によりますます兵が集まり、新田軍は数万規模になったとされています。

これを迎撃したい幕府軍は、現在の所沢市北野(手指ヶ原)で新田軍と激突しますが敗退。
今回訪問の東村山市諏訪で、再び新田軍に襲い掛かりました。新田軍は奇襲に失敗して苦戦となりましたが、高台に陣を構えて態勢を整えます。

<八国山>
Hachikokuyama.JPG
八国山は狭山丘陵の東端に位置し、東村山市と所沢市にまたがる山です。説明板の表現をそのまま引用させて頂くと『駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山』が見渡せたことが名の由来となっています。

新田軍は高低差を味方につけたわけですね。地理的優位を背景に、新田軍の反撃が始まりました。鎌倉幕府軍の激しい抵抗にあいましたが、最後は新田軍が攻めきり、ここでの勝負を決めました。

久米川の戦い
反幕府軍である新田軍の勝利です

これにより、反鎌倉幕府の機運はますます高まりました。次の戦いの場となる分倍河原(府中市)で、鎌倉幕府は実質滅亡しています。

<八国山登山道>
hachikoku- mountain-trail.JPG
登ってみました

<低層の山中>
hachikokuyama-higashimurayama.JPG
森の道を更に奥へ

<将軍塚>
Shogun-Zuka.JPG
新田義貞ゆかりの将軍塚です。元々ここにあった塚に義貞が旗を立てたことから、将軍塚と呼ばれるようになったといわれています。

鎌倉幕府を倒すことを目標に掲げた新田義貞にとって、久米川の戦いはまだまだ夢の途上での出来事です。最終的には幕府の本隊を滅ぼすことになりますが、この地で勝利を得た夜、どんな思いで次に備えていたのでしょうね。

<将軍塚の石碑>
Shouguntsuka-on-hill.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:
久米川古戦場碑

[東京都東村山市諏訪町]
将軍塚
[埼玉県所沢市松が丘]


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■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2024/2/10


タグ:東京
posted by Isuke at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

徳蔵寺塁(東村山市)

東村山市の久米川古戦場跡を訪問した際、すぐ近くに砦跡と関係がありそうな場所があることを知り、足を伸ばしてみました。

<徳蔵寺山門>とくぞうじ
Temple-Gate-Tokuzouji.JPG
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門

事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…

<高低差>
Tokuzoji-Surrounding-Terrain.JPG
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。

<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
Tokuzouji-Bridge-Maekawa.JPG
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。

帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。

ということで
城跡巡りとしては以上です。


せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。

<徳蔵寺>
Tokuzoji-Temple-Main-Hall.JPG
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。

<板碑保存館>
Tokuzoji-Temple-Museum.JPG
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。

拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。

■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目


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■参考
・徳蔵寺HP

http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」

http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
タグ:東京
posted by Isuke at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

勝陣場橋(東村山市)古戦場に架かる橋

<勝陣場橋>かつじんばばし
Katsujinbabashi-Old-Battlefield.JPG
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です

ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。


<久米川古戦場碑>
Old-Battlefield-Stone-Pillar.JPG
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。

<古戦場跡の橋>
Katsujinbabashi-Unique-Name-Bridge.JPG
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。

以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。

■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5


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■参考
・徳蔵寺HP

http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
タグ:東京
posted by Isuke at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2023年03月29日

喰違見附のなごり(千代田区)

今回は見附の土塁を意図的に前後にずらして築いた虎口のなごりの話です。

<喰違見附跡>くいちがいみつけ
Kuichigai-Mitsuke.JPG
ただの道?まぁそうなんでが、奥の土塁が江戸城外郭門のなごりです。もうちょっと接近してみますかね。

<喰違虎口>くいちがこぐち
Kuichigai-Koguchi.JPG
虎口とは入口のことで、ここは江戸城の内側へ進むための入口ということになります。左手前の土塁と右奥の土塁が前後にズレて築かれていること、伝わりますでしょうか?通り道をジクザクにすることで、直進を阻む効果があります。江戸城は近世城郭として完成しますが、このように道を「食い違い」にする方法は戦国時代の城でも多くみられます。


Kuichigai-Koguchi-Dorui.JPG
土塁の上から撮影しました。道の向こう側とは土塁がズレていますね。

<真田濠>さなだぼり
Kuichigai-Mitsuke-Sanadabori.JPG
喰違見附の場所は真田濠(現在は上智大学がグラウンドとして使用)の南側です。喰違見附は真田濠や反対側の弁慶濠とセットで機能しますが、これらの堀が整備されるより前に、既に築かれていました。江戸城にとって、重要な場所だったことが伝わってきますね。城門としては、赤坂見附と四谷見附の間に位置しています。

■訪問:喰違見附
[東京都千代田区紀尾井町]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2023/3/29



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posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

見附跡の春(千代田区)牛込見附

<牛込見附跡>うしごめみつけ
cherryblossoms-Ushigomemitsuke.JPG
牛込見附はいわゆる「江戸城三十六見附」のひとつ。江戸城から神楽坂などを経由して板橋方面に向かう道筋に目を光らせる役割を担いました。

<石垣>
Stone-Wall-Iidabashi-Station.JPG
Ushigome-MItsuke-ato.JPG
石垣はそのなごりということですね

<説明板>
Ushi-gome-MItsuke.JPG
親切な説明がなされています。石垣に関するところを抜粋させて頂くと『江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。 江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のように二つの門を直角に配置した「枡形門」という形式をとっています。』と記されています。

<桜と石垣>
castle-cherry-blossoms.JPG
私の訪問は3月中旬の日曜日です。東京の桜のピークはまだ先ですが、ここだけ桜が見頃となっていることを知り、外出ついでに立ち寄りました。予想以上に人が多く、人の姿を避けて撮るのに苦労しました。先ほどの説明板によれば、むかしは周辺に楓が植えられ、秋になると紅葉が見事だったようです。

<牛込橋>
Ushigomebashi.JPG
見附前の橋は見附とセットと言って過言ではありません。かつての牛込橋はその役割を担っていました。

<神楽坂>
kagurazaka-dori.JPG
牛込橋を渡って坂を下れば神楽坂です。人気の街ですので、人通りも多い訳ですね

江戸城牛込見附は、徳島藩主であった蜂須賀忠英によって建設されました(1636年)。蜂須賀?そう、ひいじいさんは秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。元服に際し、忠英は松平の称号を受けています。見附解体の際、石垣の角石に蜂須賀忠英を示す松平阿波守の文字が見つかったとのこと。石垣そのものが何よりの証拠となったわけですね。

<駅前>
MItsuke-Stone-Wall-Ushi-gome.JPG
牛込見附跡は飯田橋駅から徒歩0分

<ホーム>
MItsuke-Stone-Wall.JPG
ホームからも石垣が見えています

■訪問:牛込見附跡
[東京都千代田区富士見]2丁目

■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/29



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posted by Isuke at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2023年03月26日

小石川橋(千代田区)江戸城外郭門のなごり

今回は神田川に架かる橋の話です。
<小石川橋>
Koishikawa-bridge.JPG
ただの橋?ではありますが、ここはもともと江戸城の城門が設けられていた地点です。

<説明板>
Koishikawamon-Explanation-board.JPG
こちらに詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。

『江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、1636年(寛永13年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は1872年(明治5年)に取り壊され、その石材を利用して1877年(明治10年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。1895年(明治28年)に甲武鉄道飯田町駅が近くにできると、橋も修繕されました。この橋は関東大震災で被災し、1927年(昭和2年)に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化のため2012年(平成24年)に改修されました。』

江戸城外郭とは、外壕で囲まれた区域をさします。工事を請け負ったのは岡山藩の初代藩主池田光政。江戸城内濠の名だたる城門と同じく、外濠の場合も構造はいわゆる枡形門で、橋は城門とともに架けられました。


<説明板写真>
Koishikawamon-Explanation-board -Pic.JPG
こんな外観だったのですね。説明板には『旧江戸城写真帖1871(明治4年)撮影』と記されています。橋は奥の枡形門とセットで見附としての役割を担っていました。

<現在の橋>
Koishikawabashi.JPG
現在の橋は2012年に改修されたと記されていましたので、まだ新しいですね。現代の街並みにすっかり溶け込んでいますが、深い歴史を今に継承する橋と言えます。

■訪問:小石川橋
[東京都千代田区飯田橋]3丁目
[東京都文京区後楽]1丁目

■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/26
posted by Isuke at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]
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