前回は日本橋川沿いの一ツ橋門跡をご紹介させて頂きました。その数百メートル上流の橋で、こんな説明板を見つけました。
<雉子橋>きじばし
<説明板>
橋の説明かと思いきや見附?
一ツ橋門のすぐそばですが、どうやらこちらにも雉子橋門と呼ばれる城門があったようです。江戸城に近いだけあって、随分厳重に守りを固めていたのですね。城門が設けられたのは『1629年(寛永6年)』とありますから、江戸初期には既に城門があったわけですね。
名前のキジですが、これは『家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したこと』に由来するのこと。なるほど。キジがご馳走だったわけですね。当時の人が肉を食するイメージがなかったので意外ですが、鳥は比較的よく食べられていたようで、その中でもキジは上等な食材だったようです。そのキジで朝鮮の使節(朝鮮通信使)をもてなす。秀吉の朝鮮出兵を機に日本と朝鮮の関係は悪化していましたが、徳川家康が関係改善に力を注いでいた様子がうかがえる興味深い呼び名ですね。
江戸時代の雉子橋は、いまよりもうちょっと西側にあったそうです(ようするに日本橋川の流路がいまとは違うという意味です)。明治になると城門は撤去され、橋は鉄橋となりました。現在の橋は関東大震災後の大正14年(1925年)日に架けられたものとのこと。
一ツ橋門跡のように城門の石垣が残されている訳ではありませんが、説明板のお陰で足を止めることになり、いろんな想像をさせてもらいました。
<日本橋川の石垣>
見附そのものの痕跡はありませんが、この付近の日本橋川の護岸には、いまでも沢山の石垣が残されています。
■訪問:
雉子橋(雉子橋見附跡)
[東京都千代田区一ツ橋]
■参考資料:現地説明板
お城巡りランキング
-------追 記-------
実は雉子橋のすぐ近くでこんな光景と出会いました。
<街のなかの石垣>
枡形の石垣か?
かなり立派な石ばかりです。もしかしたら、雉子橋見附を取り壊した時の石を積み直したのかもしれません。本文に入れなかったのは、どうもそうらしいというだけで、はっきりしなかったからです(一応調べたのですが確証なく断念)。若干積み方に違和感もありましたが、迫力満点の石垣です。もし雉子橋見附のものなら、残してもらったことに感謝です。
2020年09月13日
2020年09月10日
高架下の城のなごり (一ツ橋門跡)
今回は日本橋川沿いを歩いていて偶然見つけた城のなごりの話です。
<一ツ橋門跡>
あの形はもしかして
高架下の目立たない所にありますが、明らかに城門の土台となる石垣です。こんなブログをやっていますが、意識して訪問したわけではなく、まったくの偶然でした。この日は真夏日で、江戸城の平川門跡に寄ったあと、強い日差しを避けて高速道路の日陰に逃げ込んだことが幸いしました。
<一ツ橋>ひとつばし
場所は日本橋川に架かる一ツ橋のたもと
<現地地図>
ここです。平川門から信号を渡って日本橋川に向かって歩けばすぐ。現地では川より高速道路の方が目立つので、そちらを目印にした方が良いかもしれません。
冒頭の石垣は一ツ橋を渡った先にあります。古地図などで確認すると、城門は橋とほぼセットで機能していたようです。
<橋の上から撮影>
ちょっと薄い・・・
桝形門という立派な構造だったようです。これだけで原型を想像するのはちょっと難しいので、同じく桝形門だった日比谷見附の石垣を参考までに貼っておきます。
<比較用:日比谷見附跡>
こちらは日比谷見附跡です。門そのものはありませんが、石垣の一部が残っている状態です。あくまで参考です。一ツ橋門の石垣も、きっとこれくらい重厚なものだったことでしょう。
ちなみに
桝形門とは、石垣などで周囲を囲まれた方形の区画を確保して、出入口に門を設ける構造をいいます。ちょっと説明が雑ですかね。城用語を説明した投稿がありますので、良かったら覗いてみて下さい。
桝形・桝形虎口・桝形門
『→記事へすすむ』
<護岸の一部>
桝形門の大半は取り壊されましたが、川に面した部分は護岸の一部として機能しているため、残されたわけですね(推定)。石垣が崩れないように反対側はコンクリで固められています。
橋を渡ってもうちょっと近づいてみました。
<隅石>
立派な隅石です。石垣の強度を保つ上で最も重要視されるのがこの隅っ子の石。比較的大きな石を綺麗な方形に加工し、長短を交互にして積み上げていきます。算木積み(さんぎづみ)という技法で、江戸城に限らず、近世城郭では決して珍しい技法ではありません。ただ、石垣全体がこのような姿になっているだけに、妙に愛おしく感じてしまいます。
後で調べて分かったのですが、残されている部分は枡形の櫓台のようです。さぞりっぱな石垣だったのでしょう。江戸城三十六見附(赤坂見附や虎ノ門といった江戸城の主要な出入口の総称)の一つに数えられる城門でした。その当時の石垣が、目立たない高架下に人知れず残っているわけですね。
さてさて
貴重な歴史の痕跡ではありますが、石垣に関する説明板は見当たりません。ただし一ツ橋についての説明板はありました。そこには『内濠川に架かる見附橋』と記されており、『徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていた』とありました。家康が江戸に入る以前から、一ツ橋と呼ばれていたわけですね。橋が『一つ』で一ツ橋。なるほど。これとは別に、橋の付近で二つの川が合流して『一つ』になる地点だったから一ツ橋と呼ばれたというお話もあります。まぁいずれにせよ、架かっていた橋の名はそのまま地名となり、のちには地名に由来して、徳川家の血縁が一ツ橋家と称しました。先ほどの地図の中央下に丸紅東京本社ビルとありますが、こちらは一橋徳川家の屋敷跡です。
<城門のなごり>
明治になって一ツ橋見附は撤去されました。取り除かれなかった石垣が、城門のなごりを留めています。
■訪問:江戸城一ツ橋門跡
[東京都千代田区一ツ橋]
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-------追 記-------
文中にあった平川門付近の画像を貼っておきます。こちらは今でも有名な江戸城の出入り口。一ツ橋門見附のご紹介はちょっとマニアックなので、まずはこちらを目当てに訪問されることをお勧めします。
<平川橋>
一橋徳川家の登城口でもありました
<一ツ橋門跡>
あの形はもしかして
高架下の目立たない所にありますが、明らかに城門の土台となる石垣です。こんなブログをやっていますが、意識して訪問したわけではなく、まったくの偶然でした。この日は真夏日で、江戸城の平川門跡に寄ったあと、強い日差しを避けて高速道路の日陰に逃げ込んだことが幸いしました。
<一ツ橋>ひとつばし
場所は日本橋川に架かる一ツ橋のたもと
<現地地図>
ここです。平川門から信号を渡って日本橋川に向かって歩けばすぐ。現地では川より高速道路の方が目立つので、そちらを目印にした方が良いかもしれません。
冒頭の石垣は一ツ橋を渡った先にあります。古地図などで確認すると、城門は橋とほぼセットで機能していたようです。
<橋の上から撮影>
ちょっと薄い・・・
桝形門という立派な構造だったようです。これだけで原型を想像するのはちょっと難しいので、同じく桝形門だった日比谷見附の石垣を参考までに貼っておきます。
<比較用:日比谷見附跡>
こちらは日比谷見附跡です。門そのものはありませんが、石垣の一部が残っている状態です。あくまで参考です。一ツ橋門の石垣も、きっとこれくらい重厚なものだったことでしょう。
ちなみに
桝形門とは、石垣などで周囲を囲まれた方形の区画を確保して、出入口に門を設ける構造をいいます。ちょっと説明が雑ですかね。城用語を説明した投稿がありますので、良かったら覗いてみて下さい。
桝形・桝形虎口・桝形門
『→記事へすすむ』
<護岸の一部>
桝形門の大半は取り壊されましたが、川に面した部分は護岸の一部として機能しているため、残されたわけですね(推定)。石垣が崩れないように反対側はコンクリで固められています。
橋を渡ってもうちょっと近づいてみました。
<隅石>
立派な隅石です。石垣の強度を保つ上で最も重要視されるのがこの隅っ子の石。比較的大きな石を綺麗な方形に加工し、長短を交互にして積み上げていきます。算木積み(さんぎづみ)という技法で、江戸城に限らず、近世城郭では決して珍しい技法ではありません。ただ、石垣全体がこのような姿になっているだけに、妙に愛おしく感じてしまいます。
後で調べて分かったのですが、残されている部分は枡形の櫓台のようです。さぞりっぱな石垣だったのでしょう。江戸城三十六見附(赤坂見附や虎ノ門といった江戸城の主要な出入口の総称)の一つに数えられる城門でした。その当時の石垣が、目立たない高架下に人知れず残っているわけですね。
さてさて
貴重な歴史の痕跡ではありますが、石垣に関する説明板は見当たりません。ただし一ツ橋についての説明板はありました。そこには『内濠川に架かる見附橋』と記されており、『徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていた』とありました。家康が江戸に入る以前から、一ツ橋と呼ばれていたわけですね。橋が『一つ』で一ツ橋。なるほど。これとは別に、橋の付近で二つの川が合流して『一つ』になる地点だったから一ツ橋と呼ばれたというお話もあります。まぁいずれにせよ、架かっていた橋の名はそのまま地名となり、のちには地名に由来して、徳川家の血縁が一ツ橋家と称しました。先ほどの地図の中央下に丸紅東京本社ビルとありますが、こちらは一橋徳川家の屋敷跡です。
<城門のなごり>
明治になって一ツ橋見附は撤去されました。取り除かれなかった石垣が、城門のなごりを留めています。
■訪問:江戸城一ツ橋門跡
[東京都千代田区一ツ橋]
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-------追 記-------
文中にあった平川門付近の画像を貼っておきます。こちらは今でも有名な江戸城の出入り口。一ツ橋門見附のご紹介はちょっとマニアックなので、まずはこちらを目当てに訪問されることをお勧めします。
<平川橋>
一橋徳川家の登城口でもありました
2020年07月23日
城跡として訪ねる豪徳寺(世田谷城)
今回の訪問は世田谷区の豪徳寺です。大名井伊家の菩提寺として知られている一方で、招き猫発祥の地としても知られ、縁起の良いスポットとして人気です。
■豪徳寺の概要■ごうとくじ
曹洞宗の寺院です。当地は戦国時代には吉良家の居城・世田谷城でした。城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提のために創建した臨済宗弘徳院が豪徳寺の前身と言われています。江戸時代に井伊家菩提寺となり、豪徳寺と改号されました。
<井伊家菩提寺>
<井伊家墓所>
この先が彦根藩主井伊家墓所です。なかの撮影は遠慮させて頂きました。13 代藩主・井伊直弼のお墓もこちらです。
<鐘楼>
<三重塔>
そして人気のスポット
<松福庵(招福庵)>
はい
詳細は省略しますが境内はだいたいこんな感じです。
■城跡として訪ねる豪徳寺■
では
ここからは城跡目線で
まず参道です。世田谷城は丘の上に築かれたほぼ単郭(主郭のみ)の城です。現在の豪徳寺の境内がほぼそのまま主郭と思って間違いないです。ここは曲輪の南側の虎口(入口)です。両脇の黒松も見事ですが、土が盛ってあることを意識すると、いかにも城への侵入口であること感じることができます。ちょっと思い込みも必要ですが
塀でわかりにくいですが、土塁のなごり
塀の向こう側はもっと分かりやすい。主郭の虎口(入口)へ向かう道の両側に土塁があり、たぶんその途中に門が設けられていたのでしょう。
境内ギリギリまで土塁
次に境内
境内の起伏ですが『首塚碑』がありましてので参考程度に
では
城の外周も見て回りますかね
豪徳寺東門です。正確にこの位置かどうか分かりませんが、この付近にも城への侵入口があったと思われます。
東門を入った左手。整備されて境内に溶け込んでいますが、石は別として、これがかつての土塁のラインであろうと受け止めました。つまりここより右手(北側)が主郭であろうと。あくまで個人的見解です。
次に北側へ
豪徳寺裏門です。南側・東側に続き、この付近にも城への侵入口があったと思われます。しかも主郭に直結する虎口だったと思います。また個人的に
ではちょっと豪徳寺を離れて
南側へもう一度戻って坂を下ります。繰り返しますが世田谷城の主郭(豪徳寺)は丘の上ですので、谷へ移動することになります。そんなことも実感しながら移動すると
世田谷城阯公園です。
二重堀の跡でしょうか。いわゆる城の遺構です。ここだけが城跡と思っている方も多いようですね。主郭は丘の上の豪徳寺として、ここは麓の出城のような存在だったのでしょう。
説明板に地図があります。ちょっと拡大してみてみますかね
北側の高台が豪徳寺。現在位置の世田谷城阯公園は南側の麓。こういう構造です。
地図をよく見ると、世田谷城阯公園より更に南側に緑色の線が入っていますね。これはかつての川で、現在は緑道となっています。この川(緑道)が、ここで一旦ゆるやかに南側へ蛇行しているのは、豪徳寺がある高台が南側の低地へ向かって突き出ているから。いわゆる舌状台地ということですね。
城にとっての川
天然堀ということです
どうせここまで来たのですから、この城にとっての『地の利』までも味わうことをお勧めします!
ということで川跡へ
烏山川の跡です。緑道となっていますが、かつての川です。ここには『城下橋』と名付けられた橋が架かっていたようです。
ここには『城向橋』という橋が架かっていたようです。川がないので橋もなくなりましたが、こうやって記してくれることが嬉しいですね。
正確に言うと、烏山川はなくなったのではなく、地下に埋設されただけ。地上からは姿を消しましたが、見方を変えると現役の川なのです。蓋をされた川。いわゆる暗渠ですね。
以上です
こんな風な目線で豪徳寺を訪ねる人もいる。城好きの人と、それが共有できれば幸いです。
■世田谷城について■
世田谷城の築城については詳細不明ながら、吉良治家が1366年に築城したと考えられています。足利一門の名族だけに、周囲からは一目置かれる存在だったそうです。15世紀後半には、あの太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄しました。やがて小田原の北条氏が関東の覇者として君臨しますが、吉良頼康の代に北条氏と縁戚関係をもち、実質は配下でありながら、他とは異なる待遇だったようです。
1590年の秀吉による北条征伐後、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。
つわものどもが夢の跡
------■世田谷城■------
築城主:詳細不明(吉良治家)
築城年:詳細不明(1366年)
城 主:吉良氏
廃城年:1590年頃
現 況:豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]2丁目
豪徳寺駅からは徒歩で10分程度です。世田谷線の宮の坂駅が最寄り駅で徒歩5分程度。今回は城の北側の地形も見たかったので豪徳寺駅を利用しました。
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■豪徳寺の概要■ごうとくじ
曹洞宗の寺院です。当地は戦国時代には吉良家の居城・世田谷城でした。城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提のために創建した臨済宗弘徳院が豪徳寺の前身と言われています。江戸時代に井伊家菩提寺となり、豪徳寺と改号されました。
<井伊家菩提寺>
<井伊家墓所>
この先が彦根藩主井伊家墓所です。なかの撮影は遠慮させて頂きました。13 代藩主・井伊直弼のお墓もこちらです。
<鐘楼>
<三重塔>
そして人気のスポット
<松福庵(招福庵)>
はい
詳細は省略しますが境内はだいたいこんな感じです。
■城跡として訪ねる豪徳寺■
では
ここからは城跡目線で
まず参道です。世田谷城は丘の上に築かれたほぼ単郭(主郭のみ)の城です。現在の豪徳寺の境内がほぼそのまま主郭と思って間違いないです。ここは曲輪の南側の虎口(入口)です。両脇の黒松も見事ですが、土が盛ってあることを意識すると、いかにも城への侵入口であること感じることができます。ちょっと思い込みも必要ですが
塀でわかりにくいですが、土塁のなごり
塀の向こう側はもっと分かりやすい。主郭の虎口(入口)へ向かう道の両側に土塁があり、たぶんその途中に門が設けられていたのでしょう。
境内ギリギリまで土塁
次に境内
境内の起伏ですが『首塚碑』がありましてので参考程度に
では
城の外周も見て回りますかね
豪徳寺東門です。正確にこの位置かどうか分かりませんが、この付近にも城への侵入口があったと思われます。
東門を入った左手。整備されて境内に溶け込んでいますが、石は別として、これがかつての土塁のラインであろうと受け止めました。つまりここより右手(北側)が主郭であろうと。あくまで個人的見解です。
次に北側へ
豪徳寺裏門です。南側・東側に続き、この付近にも城への侵入口があったと思われます。しかも主郭に直結する虎口だったと思います。また個人的に
ではちょっと豪徳寺を離れて
南側へもう一度戻って坂を下ります。繰り返しますが世田谷城の主郭(豪徳寺)は丘の上ですので、谷へ移動することになります。そんなことも実感しながら移動すると
世田谷城阯公園です。
二重堀の跡でしょうか。いわゆる城の遺構です。ここだけが城跡と思っている方も多いようですね。主郭は丘の上の豪徳寺として、ここは麓の出城のような存在だったのでしょう。
説明板に地図があります。ちょっと拡大してみてみますかね
北側の高台が豪徳寺。現在位置の世田谷城阯公園は南側の麓。こういう構造です。
地図をよく見ると、世田谷城阯公園より更に南側に緑色の線が入っていますね。これはかつての川で、現在は緑道となっています。この川(緑道)が、ここで一旦ゆるやかに南側へ蛇行しているのは、豪徳寺がある高台が南側の低地へ向かって突き出ているから。いわゆる舌状台地ということですね。
城にとっての川
天然堀ということです
どうせここまで来たのですから、この城にとっての『地の利』までも味わうことをお勧めします!
ということで川跡へ
烏山川の跡です。緑道となっていますが、かつての川です。ここには『城下橋』と名付けられた橋が架かっていたようです。
ここには『城向橋』という橋が架かっていたようです。川がないので橋もなくなりましたが、こうやって記してくれることが嬉しいですね。
正確に言うと、烏山川はなくなったのではなく、地下に埋設されただけ。地上からは姿を消しましたが、見方を変えると現役の川なのです。蓋をされた川。いわゆる暗渠ですね。
以上です
こんな風な目線で豪徳寺を訪ねる人もいる。城好きの人と、それが共有できれば幸いです。
■世田谷城について■
世田谷城の築城については詳細不明ながら、吉良治家が1366年に築城したと考えられています。足利一門の名族だけに、周囲からは一目置かれる存在だったそうです。15世紀後半には、あの太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄しました。やがて小田原の北条氏が関東の覇者として君臨しますが、吉良頼康の代に北条氏と縁戚関係をもち、実質は配下でありながら、他とは異なる待遇だったようです。
1590年の秀吉による北条征伐後、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。
つわものどもが夢の跡
------■世田谷城■------
築城主:詳細不明(吉良治家)
築城年:詳細不明(1366年)
城 主:吉良氏
廃城年:1590年頃
現 況:豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]2丁目
豪徳寺駅からは徒歩で10分程度です。世田谷線の宮の坂駅が最寄り駅で徒歩5分程度。今回は城の北側の地形も見たかったので豪徳寺駅を利用しました。
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2020年05月03日
加賀藩前田家上屋敷のなごり:赤門(御守殿門)
<赤門>
東京大学を象徴する存在ですね。そしてこの敷地が、もともとは前田家の屋敷跡ということも比較的有名なお話。今回はその辺りをもうちょっとだけ詳しくご紹介したいと思います。
■大名の屋敷■
前田家の場合、上屋敷がここ本郷、中屋敷は本駒込、そして下屋敷は板橋に設けられました。屋敷の上中下ですが、位置的に江戸城に近い順で上屋敷・中屋敷・下屋敷と思って良いです(大筋)。大名にも大小ありますので、どの家でも必ず上中下の屋敷があった訳ではありません。今回主役の前田家は、加賀百万石ですからね。これに仕える家臣も沢山いました。一番郊外にある板橋の屋敷は、なんと約21万7千坪もありました。
■赤門■
この門の誕生は江戸時代後期。11代将軍の徳川家斉(いえなり)の娘である溶姫(ようひめ)が、前田家当主の斉泰に輿入れするに際し朱色の門が造設されました。
これは大名が将軍家から嫁を迎える際のしきたり、つまり基本ルールだったようです。そのお住まいは御守殿(ごしゅでん)と呼ばれ、出入り口には朱塗りの門が設けられ、御守殿門と呼ばれたそうです。
そういうことなら、他にも赤門がたくさん残っていそうな気もしますよね?
しかし現存するのがここ東京大学の赤門だけのようです。もともとは現在の位置より15メートルほど奥に建っていましたが、1903年(明治36)に大学建設のためいまの位置に移されたそうです。
<御守殿門>ごしゅでんもん
当時15歳だった溶姫が、17歳の加賀藩主に嫁いだ時の門です。かつての大名屋敷の貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されています。あくまで東京大学の門ですので、訪問される方は学生の皆さんの迷惑にならないよう見学して下さい。
■訪問:
東京大学赤門(御守殿門)
[東京都文京区本郷] 7丁目
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東京大学を象徴する存在ですね。そしてこの敷地が、もともとは前田家の屋敷跡ということも比較的有名なお話。今回はその辺りをもうちょっとだけ詳しくご紹介したいと思います。
■大名の屋敷■
前田家の場合、上屋敷がここ本郷、中屋敷は本駒込、そして下屋敷は板橋に設けられました。屋敷の上中下ですが、位置的に江戸城に近い順で上屋敷・中屋敷・下屋敷と思って良いです(大筋)。大名にも大小ありますので、どの家でも必ず上中下の屋敷があった訳ではありません。今回主役の前田家は、加賀百万石ですからね。これに仕える家臣も沢山いました。一番郊外にある板橋の屋敷は、なんと約21万7千坪もありました。
■赤門■
この門の誕生は江戸時代後期。11代将軍の徳川家斉(いえなり)の娘である溶姫(ようひめ)が、前田家当主の斉泰に輿入れするに際し朱色の門が造設されました。
これは大名が将軍家から嫁を迎える際のしきたり、つまり基本ルールだったようです。そのお住まいは御守殿(ごしゅでん)と呼ばれ、出入り口には朱塗りの門が設けられ、御守殿門と呼ばれたそうです。
そういうことなら、他にも赤門がたくさん残っていそうな気もしますよね?
しかし現存するのがここ東京大学の赤門だけのようです。もともとは現在の位置より15メートルほど奥に建っていましたが、1903年(明治36)に大学建設のためいまの位置に移されたそうです。
<御守殿門>ごしゅでんもん
当時15歳だった溶姫が、17歳の加賀藩主に嫁いだ時の門です。かつての大名屋敷の貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されています。あくまで東京大学の門ですので、訪問される方は学生の皆さんの迷惑にならないよう見学して下さい。
■訪問:
東京大学赤門(御守殿門)
[東京都文京区本郷] 7丁目
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2020年04月11日
荏原氏館のなごり
つわものどもが夢の跡
今回は源氏の末裔のとされる豪族の館跡を訪ねた時の記録です。場所は品川区旗の台。東急大井町線の荏原町駅の北側です。
■法蓮寺■ほうれんじ
<荏原氏館跡>えばら
館跡の一部と推定されている日蓮宗の法蓮寺です。
こちらの寺院は、この地の豪族であった『荏原氏』の館を寺としたのが始まりとされています。
●徳川将軍ゆかりの寺
江戸時代の話になりますが、法蓮寺の住職が11代将軍の徳川家斉と相撲を取ったとあります。住職は天下の将軍に手加減はせず、逆に気に入られたそうです。住職の人柄、そして普段の信頼関係があってのことですね。
法蓮寺の境内にいわゆる遺構の類はありません。ただ、隣接する八幡神社が小高い台地となっていると聞き及んでいましたので、そちらへ向かうこととしました。
ということで
何となく高低差を感じながら八幡神社へ
■旗岡八幡神社■はたがおかはちまん
旗岡八幡神社です。先ほどの法蓮寺を含むこの付近一帯が館跡と推定されています。
●源氏ゆかりの神社
旗岡という呼び名、そして当地の地名である旗の台についてですが、平安時代(1030年)に下総で起きた乱を制圧すべく、源頼信がこの地に陣を張って源氏の白旗を掲げたことに由来します。そして源氏の氏神である八幡神を奉って戦勝を祈願した。これが旗岡八幡神社の発祥とされています。
やがて鎌倉時代中期にこの地の領主となった荏原左衛門尉義宗が、八幡神社を建立。いまに至ります。
だいたいこんな感じです
■つわものどもが夢の跡■
荏原氏を名乗る地元豪族の館跡を訪ねてみたら、河内源氏の祖である源頼信、それから徳川11代将軍にとってもゆかりの地だった。そうそうたる顔ぶれです。遺構はありませんが雰囲気も良く、訪問した甲斐がありました。
------■荏原氏館■------
別 名:荏原館
築城主:荏原氏
築城年:不明(鎌倉時代)
城 主:荏原氏
廃城年:不明
現 況:法蓮寺・旗岡八幡神社
[東京都品川区旗の台]
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今回は源氏の末裔のとされる豪族の館跡を訪ねた時の記録です。場所は品川区旗の台。東急大井町線の荏原町駅の北側です。
■法蓮寺■ほうれんじ
<荏原氏館跡>えばら
館跡の一部と推定されている日蓮宗の法蓮寺です。
こちらの寺院は、この地の豪族であった『荏原氏』の館を寺としたのが始まりとされています。
●徳川将軍ゆかりの寺
江戸時代の話になりますが、法蓮寺の住職が11代将軍の徳川家斉と相撲を取ったとあります。住職は天下の将軍に手加減はせず、逆に気に入られたそうです。住職の人柄、そして普段の信頼関係があってのことですね。
法蓮寺の境内にいわゆる遺構の類はありません。ただ、隣接する八幡神社が小高い台地となっていると聞き及んでいましたので、そちらへ向かうこととしました。
ということで
何となく高低差を感じながら八幡神社へ
■旗岡八幡神社■はたがおかはちまん
旗岡八幡神社です。先ほどの法蓮寺を含むこの付近一帯が館跡と推定されています。
●源氏ゆかりの神社
旗岡という呼び名、そして当地の地名である旗の台についてですが、平安時代(1030年)に下総で起きた乱を制圧すべく、源頼信がこの地に陣を張って源氏の白旗を掲げたことに由来します。そして源氏の氏神である八幡神を奉って戦勝を祈願した。これが旗岡八幡神社の発祥とされています。
やがて鎌倉時代中期にこの地の領主となった荏原左衛門尉義宗が、八幡神社を建立。いまに至ります。
だいたいこんな感じです
■つわものどもが夢の跡■
荏原氏を名乗る地元豪族の館跡を訪ねてみたら、河内源氏の祖である源頼信、それから徳川11代将軍にとってもゆかりの地だった。そうそうたる顔ぶれです。遺構はありませんが雰囲気も良く、訪問した甲斐がありました。
------■荏原氏館■------
別 名:荏原館
築城主:荏原氏
築城年:不明(鎌倉時代)
城 主:荏原氏
廃城年:不明
現 況:法蓮寺・旗岡八幡神社
[東京都品川区旗の台]
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2020年03月20日
新井宿城のなごり
つわものどもが夢の跡
前回の『馬込城跡』に引き続き、今回も小田原北条氏家臣・梶原氏によって築かれたと伝わる城跡です。
<新井宿城跡>あらいじゅく
低地に面した急斜面
■訪問記■
訪問したのは大田区山王の熊野神社。JR大森駅から徒歩で10程度の距離です。
<熊野神社>
この熊野神社付近が城跡ではないかと推定されています。遺構は無いと聞いていましたので、恒例によって地形を楽しむことにしました。神社は台地上にあり、南側は崖状になっています。
低地へ向かう斜面。わりと急です。遺構はなくとも、要害性は納得です。
階段はありますが、足がデカイ人には不利
だいたいこんな感じですかね
ちなみに
斜面を下った先(この画像だと左手)には、戦国末期開創と伝わる善慶寺があります。城跡からやや話がそれますが、善慶寺には江戸時代に村の窮状を将軍に直訴しようとして領主(旗本・木原氏)に処刑された六人衆の墓があることでも知られています。切実な願いは叶いませんでしたが、新井宿義民六人衆として語り継がれています。
<境内社>
こちらの稲荷社は、もともとは善慶寺の稲荷堂であったとのこと
城のなごりに話を戻します
北条早雲から始まる北条氏が、既に関東一円を支配していた頃、その家臣である梶原氏がこの付近を治め、今回訪問の大田区山王にも拠点を築いていた。全体をざっくりとまとめるとそんな感じの説明になりますかね。今回訪問した場所は低地に面した山王台地の隅。急な斜面と高低差から、それらしい『地の利』を実感することができました。遺構はありませんが、城跡と推定されるのに相応しい場所だと思います。
つわものどもが夢の跡
梶原氏居城跡と伝わる場所は複数ありますが、他は疑わしいとか思わず、一族が分散して拠点を構えていたと受けとめることにします。その方が楽しいですからね
------■新井宿城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明(戦国時代)
城 主:梶原氏
廃城年:不明
現 況:山王熊野神社ほか
[東京都大田区山王]
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前回の『馬込城跡』に引き続き、今回も小田原北条氏家臣・梶原氏によって築かれたと伝わる城跡です。
<新井宿城跡>あらいじゅく
低地に面した急斜面
■訪問記■
訪問したのは大田区山王の熊野神社。JR大森駅から徒歩で10程度の距離です。
<熊野神社>
この熊野神社付近が城跡ではないかと推定されています。遺構は無いと聞いていましたので、恒例によって地形を楽しむことにしました。神社は台地上にあり、南側は崖状になっています。
低地へ向かう斜面。わりと急です。遺構はなくとも、要害性は納得です。
階段はありますが、足がデカイ人には不利
だいたいこんな感じですかね
ちなみに
斜面を下った先(この画像だと左手)には、戦国末期開創と伝わる善慶寺があります。城跡からやや話がそれますが、善慶寺には江戸時代に村の窮状を将軍に直訴しようとして領主(旗本・木原氏)に処刑された六人衆の墓があることでも知られています。切実な願いは叶いませんでしたが、新井宿義民六人衆として語り継がれています。
<境内社>
こちらの稲荷社は、もともとは善慶寺の稲荷堂であったとのこと
城のなごりに話を戻します
北条早雲から始まる北条氏が、既に関東一円を支配していた頃、その家臣である梶原氏がこの付近を治め、今回訪問の大田区山王にも拠点を築いていた。全体をざっくりとまとめるとそんな感じの説明になりますかね。今回訪問した場所は低地に面した山王台地の隅。急な斜面と高低差から、それらしい『地の利』を実感することができました。遺構はありませんが、城跡と推定されるのに相応しい場所だと思います。
つわものどもが夢の跡
梶原氏居城跡と伝わる場所は複数ありますが、他は疑わしいとか思わず、一族が分散して拠点を構えていたと受けとめることにします。その方が楽しいですからね
------■新井宿城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明(戦国時代)
城 主:梶原氏
廃城年:不明
現 況:山王熊野神社ほか
[東京都大田区山王]
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馬込城のなごり
つわものどもが夢の跡
小田原北条氏の家臣の城跡とされる場所を訪ねました。
<馬込城跡>
画像は大田区南馬込の湯殿神社。この付近一帯が小田原北条氏家臣・梶原助五郎(三河守)の所領で、その居城については諸説あるなか、この地も候補とされています。
湯殿神社は周囲と比較して一段高い台地上に位置しています。遺構はありませんが、所領を与えられた梶原氏は、この地形を利用して統治の拠点としたのかもしれませんね。
梶原助五郎の主は北条氏直のようなので、時代としては戦国末期といった感じでしょうか。氏直が第5代当主となったのが1580年、豊臣秀吉によって北条氏が滅びるのが1590年ですから、梶原助五郎が馬込村に所領を与えられて居城を構えていたのは、だいたいそのあたりですかね。
広範囲に及んだとされる梶原氏の所領も、いまはそのほとんどが都市化の波にのみこまれ、当時の姿を偲ぶことはちょっと難しいです。ただ、高低差に富んだ地形は嘘をつきません。谷地にはかつて沼なども存在したとのこと。現地を実際に訪ね、そういったことを肌で感じられた。それだけで満足です。
<つわものどもが夢の跡>
梶原助五郎については、鎌倉幕府の有力な御家人・梶原景時の末裔とする説もあるようですが、無関係とする説もあり、事実は定かではないようです。関東をほぼ制覇した小田原北条氏配下の拠点が、ここ湯殿神社付近にもあった。そして梶原氏を名乗っていた。そう受け止め、探索を終了しました。
------■馬込城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明
城 主:梶原助五郎
廃城年:不明
現 況:湯殿神社ほか
[大田区南馬込]5丁目
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小田原北条氏の家臣の城跡とされる場所を訪ねました。
<馬込城跡>
画像は大田区南馬込の湯殿神社。この付近一帯が小田原北条氏家臣・梶原助五郎(三河守)の所領で、その居城については諸説あるなか、この地も候補とされています。
湯殿神社は周囲と比較して一段高い台地上に位置しています。遺構はありませんが、所領を与えられた梶原氏は、この地形を利用して統治の拠点としたのかもしれませんね。
梶原助五郎の主は北条氏直のようなので、時代としては戦国末期といった感じでしょうか。氏直が第5代当主となったのが1580年、豊臣秀吉によって北条氏が滅びるのが1590年ですから、梶原助五郎が馬込村に所領を与えられて居城を構えていたのは、だいたいそのあたりですかね。
広範囲に及んだとされる梶原氏の所領も、いまはそのほとんどが都市化の波にのみこまれ、当時の姿を偲ぶことはちょっと難しいです。ただ、高低差に富んだ地形は嘘をつきません。谷地にはかつて沼なども存在したとのこと。現地を実際に訪ね、そういったことを肌で感じられた。それだけで満足です。
<つわものどもが夢の跡>
梶原助五郎については、鎌倉幕府の有力な御家人・梶原景時の末裔とする説もあるようですが、無関係とする説もあり、事実は定かではないようです。関東をほぼ制覇した小田原北条氏配下の拠点が、ここ湯殿神社付近にもあった。そして梶原氏を名乗っていた。そう受け止め、探索を終了しました。
------■馬込城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明
城 主:梶原助五郎
廃城年:不明
現 況:湯殿神社ほか
[大田区南馬込]5丁目
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2019年12月29日
今井城のなごり 赤坂氷川神社
つわものどもが夢の跡
木曽義仲四天王の一人が砦を築いたと伝わる場所を訪ねました。
<現地>
こちらが今井四郎が砦を築いたと伝わる場所です。現在は氷川神社となっており、こちらは境内社の鳥居です。
■赤坂氷川神社■ひかわじんじゃ
<現地到着>
ここですね。私は東側の入口からお邪魔させて頂きました。
<入口付近の説明板>
歴史ある神社です
なんと見事な!
8代将軍吉宗とも関わりのある神社
ちょっと立派すぎて、根拠が不確かなまま砦跡としてご紹介するのも気が引けます。でもせっかく訪問したので、失礼のない程度にご紹介を続けます。東京十社のひとつで、とても有名な神社なのです。
<鳥居付近>
付近には末社が祀られています。冒頭の画像はそのうちの一社・西行稲荷の鳥居でした。ほかもありますが、とりあえず鳥居奥の石段を登った先を引き続きご紹介します。
<境内>
素敵な境内です。結構な広さです。
<楼門>
この門の奥、土塀に囲まれた中がいよいよ社殿です。
<社殿>
祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)・大己貴命(おおなむちのみこと)です。先の説明板にもありましたが、将軍吉宗が老中の水野忠之に命じて、現在の社殿を建立したとのこと(1729年)。
その時の社殿がいまも受け継がれているのです。とても貴重ですね。そして『安政の大地震・関東大震災・東京大空襲の被災を奇跡的に免れました。江戸時代当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定をされています。』とのこと[出典:赤坂氷川神社オフィシャルサイト]。それ以前は『浅野内匠頭の夫人、瑶泉院の実家・浅野土佐守邸跡』というのも興味深い話です。
<浅野土佐守邸跡の説明板>
現在の赤坂四丁目から氷川神社が遷宮される前は、浅野内匠頭夫人の実家の屋敷があったということですね。
<氷川神社のイチョウ>
説明板によれば、この大イチョウは氷川神社がこの地に建立された時には既に樹齢百年を超えていたとのこと。ということは、瑶泉院も見上げたイチョウなのかも知れませんね。いろいろと考えさせられます。
ただ
今井四郎のなごりは特に感じません
■今井兼平の砦?■ いまいかねひら
私はあくまで今井四郎兼平が築いた砦跡として訪問しています。ただ、それも伝承にすぎず、遺構も確かな文献もないそうです。
では何で行くの?
まぁ不確かであっても、自分の中で熱いものがあれば、とりあえず行ってみる。趣味の世界はそれで良いかと。自分にとっての今井四郎は、すなわち平家物語の「木曾殿最期」の世界だけですが、若い時にインパクトを受けたせいか、その勇ましさへの憧れは消えることはありません。
追い詰められ、主に名誉ある自害を促すも敵に討たれてしまいそれも叶わず。最後は自ら太刀を口に含み、馬上から飛び降りて自害。
東国の殿ばら
日本一の剛の者の自害する手本よ
東国の武士どもよ
日本一の剛の者の自害を見よ!
それはともかく
今井四郎兼平は兄の兼光と共に木曽義仲に仕えた武将。あくまでイメージですが、活躍の場は信濃国やその周辺のような気もします。越後や越中には今井四郎が築いたと伝わる城跡があるそうですが武蔵に?必要があったのでしょうか?ちょっと想像できません(私には)。
強いて言うなら、主である義仲は、父が館を構えていた武蔵国の生まれではないかとされていますので、何らかの繋がりを期待できなくもありません。ちなみに、武蔵国と言っても現在の埼玉県比企郡嵐山町ですので、ちょっと港区赤坂からは遠いですね。
<境内へ登る途中に撮影>
<境内より撮影>
周囲と多少の高低差は実感できます。
ちょっとした丘の上ですので、むかしはある程度遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。訪問したことで、何らかの砦が築かれたとしても不思議ではないことだけは実感しました。
今井四郎との関係はあくまで伝承に過ぎません。ただ、この地が古くは今井村と呼ばれていたことに僅かな期待を込めたいと思います。江戸末期の古地図にも、今井台や今井谷といった文字が確認できます。
今井四郎のなごりを感ることはできませんでしたが、素晴らしい神社で、貴重な文化財とも出会えました。足を運んだ甲斐は充分ありました。
お邪魔しました。
■訪問:赤坂氷川神社
[東京都港区赤坂]6丁目
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木曽義仲四天王の一人が砦を築いたと伝わる場所を訪ねました。
<現地>
こちらが今井四郎が砦を築いたと伝わる場所です。現在は氷川神社となっており、こちらは境内社の鳥居です。
■赤坂氷川神社■ひかわじんじゃ
<現地到着>
ここですね。私は東側の入口からお邪魔させて頂きました。
<入口付近の説明板>
歴史ある神社です
なんと見事な!
8代将軍吉宗とも関わりのある神社
ちょっと立派すぎて、根拠が不確かなまま砦跡としてご紹介するのも気が引けます。でもせっかく訪問したので、失礼のない程度にご紹介を続けます。東京十社のひとつで、とても有名な神社なのです。
<鳥居付近>
付近には末社が祀られています。冒頭の画像はそのうちの一社・西行稲荷の鳥居でした。ほかもありますが、とりあえず鳥居奥の石段を登った先を引き続きご紹介します。
<境内>
素敵な境内です。結構な広さです。
<楼門>
この門の奥、土塀に囲まれた中がいよいよ社殿です。
<社殿>
祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)・大己貴命(おおなむちのみこと)です。先の説明板にもありましたが、将軍吉宗が老中の水野忠之に命じて、現在の社殿を建立したとのこと(1729年)。
その時の社殿がいまも受け継がれているのです。とても貴重ですね。そして『安政の大地震・関東大震災・東京大空襲の被災を奇跡的に免れました。江戸時代当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定をされています。』とのこと[出典:赤坂氷川神社オフィシャルサイト]。それ以前は『浅野内匠頭の夫人、瑶泉院の実家・浅野土佐守邸跡』というのも興味深い話です。
<浅野土佐守邸跡の説明板>
現在の赤坂四丁目から氷川神社が遷宮される前は、浅野内匠頭夫人の実家の屋敷があったということですね。
<氷川神社のイチョウ>
説明板によれば、この大イチョウは氷川神社がこの地に建立された時には既に樹齢百年を超えていたとのこと。ということは、瑶泉院も見上げたイチョウなのかも知れませんね。いろいろと考えさせられます。
ただ
今井四郎のなごりは特に感じません
■今井兼平の砦?■ いまいかねひら
私はあくまで今井四郎兼平が築いた砦跡として訪問しています。ただ、それも伝承にすぎず、遺構も確かな文献もないそうです。
では何で行くの?
まぁ不確かであっても、自分の中で熱いものがあれば、とりあえず行ってみる。趣味の世界はそれで良いかと。自分にとっての今井四郎は、すなわち平家物語の「木曾殿最期」の世界だけですが、若い時にインパクトを受けたせいか、その勇ましさへの憧れは消えることはありません。
追い詰められ、主に名誉ある自害を促すも敵に討たれてしまいそれも叶わず。最後は自ら太刀を口に含み、馬上から飛び降りて自害。
東国の殿ばら
日本一の剛の者の自害する手本よ
東国の武士どもよ
日本一の剛の者の自害を見よ!
それはともかく
今井四郎兼平は兄の兼光と共に木曽義仲に仕えた武将。あくまでイメージですが、活躍の場は信濃国やその周辺のような気もします。越後や越中には今井四郎が築いたと伝わる城跡があるそうですが武蔵に?必要があったのでしょうか?ちょっと想像できません(私には)。
強いて言うなら、主である義仲は、父が館を構えていた武蔵国の生まれではないかとされていますので、何らかの繋がりを期待できなくもありません。ちなみに、武蔵国と言っても現在の埼玉県比企郡嵐山町ですので、ちょっと港区赤坂からは遠いですね。
<境内へ登る途中に撮影>
<境内より撮影>
周囲と多少の高低差は実感できます。
ちょっとした丘の上ですので、むかしはある程度遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。訪問したことで、何らかの砦が築かれたとしても不思議ではないことだけは実感しました。
今井四郎との関係はあくまで伝承に過ぎません。ただ、この地が古くは今井村と呼ばれていたことに僅かな期待を込めたいと思います。江戸末期の古地図にも、今井台や今井谷といった文字が確認できます。
今井四郎のなごりを感ることはできませんでしたが、素晴らしい神社で、貴重な文化財とも出会えました。足を運んだ甲斐は充分ありました。
お邪魔しました。
■訪問:赤坂氷川神社
[東京都港区赤坂]6丁目
お城巡りランキング