木曽義仲四天王の一人が砦を築いたと伝わる場所を訪ねました。
<現地>
こちらが今井四郎が砦を築いたと伝わる場所です。現在は氷川神社となっており、こちらは境内社の鳥居です。
■赤坂氷川神社■ひかわじんじゃ
<現地到着>
ここですね。私は東側の入口からお邪魔させて頂きました。
<入口付近の説明板>
歴史ある神社です
なんと見事な!
8代将軍吉宗とも関わりのある神社
ちょっと立派すぎて、根拠が不確かなまま砦跡としてご紹介するのも気が引けます。でもせっかく訪問したので、失礼のない程度にご紹介を続けます。東京十社のひとつで、とても有名な神社なのです。
<鳥居付近>
付近には末社が祀られています。冒頭の画像はそのうちの一社・西行稲荷の鳥居でした。ほかもありますが、とりあえず鳥居奥の石段を登った先を引き続きご紹介します。
<境内>
素敵な境内です。結構な広さです。
<楼門>
この門の奥、土塀に囲まれた中がいよいよ社殿です。
<社殿>
祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)・大己貴命(おおなむちのみこと)です。先の説明板にもありましたが、将軍吉宗が老中の水野忠之に命じて、現在の社殿を建立したとのこと(1729年)。
その時の社殿がいまも受け継がれているのです。とても貴重ですね。そして『安政の大地震・関東大震災・東京大空襲の被災を奇跡的に免れました。江戸時代当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定をされています。』とのこと[出典:赤坂氷川神社オフィシャルサイト]。それ以前は『浅野内匠頭の夫人、瑶泉院の実家・浅野土佐守邸跡』というのも興味深い話です。
<浅野土佐守邸跡の説明板>
現在の赤坂四丁目から氷川神社が遷宮される前は、浅野内匠頭夫人の実家の屋敷があったということですね。
<氷川神社のイチョウ>
説明板によれば、この大イチョウは氷川神社がこの地に建立された時には既に樹齢百年を超えていたとのこと。ということは、瑶泉院も見上げたイチョウなのかも知れませんね。いろいろと考えさせられます。
ただ
今井四郎のなごりは特に感じません
■今井兼平の砦?■ いまいかねひら
私はあくまで今井四郎兼平が築いた砦跡として訪問しています。ただ、それも伝承にすぎず、遺構も確かな文献もないそうです。
では何で行くの?
まぁ不確かであっても、自分の中で熱いものがあれば、とりあえず行ってみる。趣味の世界はそれで良いかと。自分にとっての今井四郎は、すなわち平家物語の「木曾殿最期」の世界だけですが、若い時にインパクトを受けたせいか、その勇ましさへの憧れは消えることはありません。
追い詰められ、主に名誉ある自害を促すも敵に討たれてしまいそれも叶わず。最後は自ら太刀を口に含み、馬上から飛び降りて自害。
東国の殿ばら
日本一の剛の者の自害する手本よ
東国の武士どもよ
日本一の剛の者の自害を見よ!
それはともかく
今井四郎兼平は兄の兼光と共に木曽義仲に仕えた武将。あくまでイメージですが、活躍の場は信濃国やその周辺のような気もします。越後や越中には今井四郎が築いたと伝わる城跡があるそうですが武蔵に?必要があったのでしょうか?ちょっと想像できません(私には)。
強いて言うなら、主である義仲は、父が館を構えていた武蔵国の生まれではないかとされていますので、何らかの繋がりを期待できなくもありません。ちなみに、武蔵国と言っても現在の埼玉県比企郡嵐山町ですので、ちょっと港区赤坂からは遠いですね。
<境内へ登る途中に撮影>
<境内より撮影>
周囲と多少の高低差は実感できます。
ちょっとした丘の上ですので、むかしはある程度遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。訪問したことで、何らかの砦が築かれたとしても不思議ではないことだけは実感しました。
今井四郎との関係はあくまで伝承に過ぎません。ただ、この地が古くは今井村と呼ばれていたことに僅かな期待を込めたいと思います。江戸末期の古地図にも、今井台や今井谷といった文字が確認できます。
今井四郎のなごりを感ることはできませんでしたが、素晴らしい神社で、貴重な文化財とも出会えました。足を運んだ甲斐は充分ありました。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
お邪魔しました。
■訪問:赤坂氷川神社
[東京都港区赤坂]6丁目
お城巡りランキング
タグ:23区