江戸城の山下門跡を訪ねました。
<山下門跡>
この付近になります。山下門は江戸城の外濠に設けられた城門で、いわゆる江戸城三十六見附に数えられています。ただ現状はご覧の通りで、枡形の石垣など、ありし日を思わせるような遺構は存在しません。
ただし
ガード下に説明板が設置されています。
<山下門跡説明板>
こちらです。少し転記させて頂きます(『』内は原文)。
『山下門は、1636年(寛永13年)に高松藩(現在の香川県)藩主生駒高俊によって築造されました。門に附属する山下橋は、現在の有楽町二丁目・内幸町一丁目と中央区の銀座五、六丁目を結んでいました。名称は、京橋側の門前の町名が山下町(現中央区銀座五、六丁目)であったことに由来しています。また、門内に佐賀藩(現在の佐賀県)鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があったほか、外日比谷御門とも称されていました。』
山下町という地名がもともとあったわけですね。別名の由来となった佐賀藩鍋島家といえば、明治維新を推進させ、やがては侯爵となった家柄。山下門の近くの屋敷も、さぞ立派だったのでしょう(勝手な想像です)。
<説明板拡大>
こちらは山下町付近の様子ですが、明治30年代のもの。まだ江戸城の濠は残っていますね。画像の右上、内堀付近には「日比谷門」の文字。この位置関係から、山下門は外日比谷御門とも言われたわけですね。
<更に拡大>
右側・帝国ホテル前に「山下門」と記されています。門とセットの橋が山下橋、渡った先が山下町。納得です。
説明文の続きを読む限りでは、1873年(明治6年)に山下門が撤去された時点では、まだ橋と枡形の石垣は残されていたようです。ただ1900年(明治33年)に外濠が埋め立てられることになり、橋も撤去されたとのこと。枡形の石垣が撤去されたのもその時ですかね?
結局のところ
訪問したけど山下門の痕跡は何も残っていないのか?
はい
ただ、そのなごりを少しだけ感じることはできます。少しだけ…
<山下橋架道橋>かどうきょう
電車が道路を跨ぐための架道橋。ここは山下橋架道橋と命名されているようです。山下門に附属する山下橋が確かにあったなごりです。
説明板を除けば、これが唯一のなごり
もう橋はありませんが、改名しないで、このままにして欲しいですね。
■訪問:山下門跡
(山下橋架道橋)
[千代田区内幸町]1丁目
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■参考
・現地説明板(千代田区)
・千代田区の文化財HP
文化財サイン(標柱・説明板)旧江戸城関係 や行 山下門跡
https://www.edo-chiyoda.jp/knainobunkazai/bunkazaisign_hyochu_setsumeiban/1/6/266.html
2024年05月18日
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