武蔵国進出を目論む北条氏綱が、扇谷上杉軍と激突した高輪原の戦い。高輪原、つまり現在の港区高輪です。高級な街として知られていますが、起伏も多く、地形的に興味深い街です。大筋では、北西一帯が台地上、南東は海に向かって低地となっています。今回はそんな街を訪ねてみたという内容です。
■品川駅から高輪方面へ■
この日は品川駅から高輪方面を目指して歩きました。理由はシンプルで、武蔵野台地上の高輪と、海に面していた低地の高低差を実感するためです。スタート地点の品川駅一帯は、もともとは海辺でした。
<高山稲荷神社>
まずはこちらにお邪魔しました。いまでこそ低い位置にありますが、むかしは丘の上の神社で、江戸湾を行き来する船の目標となったそうです。
<柘榴坂>ざくろざか
では台地を登ります。高輪三丁目と四丁目の境になっている坂道です。今でこそ真っ直ぐですが、むかしは曲がりくねった坂だったようです。方角で言うと、品川駅から西に向かっています。
<武蔵野台地の隅>
コンクリの街で土の斜面。向かっている先が台地の隅であること、少しは伝わるかと思います。某施設の駐車場の奥でしたが、警備の方のお許しを得て、一枚だけ撮らせて頂きました。ありがとうございました。
<高輪カトリック教会>
柘榴坂を登りきりました。
<台地上>
あとは平らな地形が続きます。
<路地>
歩き回りましたが、いかにも都会の街で、古戦場を連想させるものは何もありません。
<高野山東京別院>
江戸時代に高野山江戸在番所高野寺として建立された立派な寺院です。
<広い境内>
高輪としてはかなり広い空間が確保されていました。
<国道1号線>
あと広々とした空間といえば国道1号線くらいでしょうか
ということで、予想通りではありますが、ぎっしりと建物が立ち並び、いかにも古戦場という景色には出会えませんでした。まぁ北条軍と扇谷上杉軍は何度も激突したというのですから、特定の場所というより、この高輪の台地上のあちらこちらで戦ったのでしょう。そういえば、渋谷城を訪問した時に、高輪原の戦いの余波で渋谷城が焼き払われたという情報を得ました。両軍の争いは高輪に限らず、江戸城からみて南側の広範囲で起こっていたのだと思うことにします。
<港区旧町名由来板>
こんな説明板を見つけたのでのぞいてみました。
<説明文>
高輪の名の由来?こちらの説明によれば、高台の縄手道(=あぜ道)から高縄と呼ばれ、のちに高輪に書き改めてられたとのこと。なるほど。地形や道の様子が伝わってくる感じがしました。北条軍も扇谷上杉軍も、高台のあぜ道、まぁ一本道のようなものでしょう、そこを通って兵を進め、ある程度まとまった平地でで激突した。勝手な想像ですが、そう思うことにしました。
■高輪原の戦い■たかなわはら
高輪原の戦いとは、小田原城を拠点に武蔵方面への勢力拡大を画策する北条氏綱と、そうはさせじと立ちはだかる扇谷上杉家が、現在の高輪付近で激突した戦いです(1524年)。
武力だけではなく、調略にも長けていた氏綱は、扇谷上杉家の有力家臣だった太田資高(すけたか)を既に寝返らせていました。資高の祖父はあの太田道灌です。扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献しながら、主に暗殺されてしまった悲劇の名将です。資高は扇谷上杉家に従ってはいましたが、そのことを決して忘れることはなかったことでしょう。江戸城を任されていた資高の内応を受け、北条氏綱は一気に軍を進めました。
扇谷上杉家は大軍を動かしてこれを迎え撃ち、高輪原で激しい戦闘となりました。両軍は一進一退を繰り返しながら何度も戦ったようです。北条軍の圧勝という情報もありますが、互角の勝負だったのでしょうか。ただ、最後の最後はやはり北条軍が勝り、扇谷上杉軍は撤退することになりました。
高輪原の戦い
北条氏綱の勝利
ということです。
ただこれでは終わらず、北条軍は扇谷上杉軍が逃げ帰った江戸城にまで押し寄せました。その結果、扇谷上杉家の当主である朝興は河越城まで逃走します。居城である江戸城を放棄せざるを得なかった背景には、太田資高の内通があったと考えられます。
江戸城はもともと資高の祖父・太田道灌が築いた城です。
じっちゃんの仇だ!
そんな思いもあったかもしれませんね。
早雲の意志を継ぐ北条氏綱の戦いはまだまだ続きますが、今回は高輪がテーマなのでここまでにします。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:高輪付近
[東京都港区高輪]
■参考
港区旧町名由来板
Wikipedia:2022/12/17
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