新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。
<久米川古戦場碑>くめがわ
■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。
■現地訪問■
最寄り駅は西武鉄道の東村山。駅を出てまずは伝説となったヒーローにご挨拶
<志村けん銅像>
新型コロナウイルスのため急逝した志村けんさん。背後のコメントの通りです。ありがとうございました。
続いて現地へ向かう途中に通った道
<旧鎌倉古道>
この何気ない道は古道だったようです。鎌倉街道に沿って南下した新田義貞も通った道かもしれません
<勝陣場橋>かつじんばばし
いい名前の橋ですね
<将陣場橋>しょうじんばばし
こんな橋も
<諏訪神社>
地名の由来となった神社です
<丘陵地帯>
ここまで平らな道を歩いてきましたが、低層の山が見えてきました。古戦場跡の石碑まであと少しです。
<久米川古戦場跡>
目的地に到着です。公園の隅に石碑と説明板が設置されています。
<説明板>
一部を抜粋させて頂きます(『』内は原文転記)。
まず『北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた』とのこと。そして『上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった』と記されていいます。群馬で挙兵し、鎌倉を目指す新田軍にとって、この地は通るべくして通った場所ということですね。
新田義貞率いる軍が利根川を越えたところで、足利尊氏の嫡子である千寿王が合流します。こういう言い方もなんですが、足利家は当時の新田家より明らかに格上です。有力者の加勢によりますます兵が集まり、新田軍は数万規模になったとされています。
これを迎撃したい幕府軍は、現在の所沢市北野(手指ヶ原)で新田軍と激突しますが敗退。
今回訪問の東村山市諏訪で、再び新田軍に襲い掛かりました。新田軍は奇襲に失敗して苦戦となりましたが、高台に陣を構えて態勢を整えます。
<八国山>
八国山は狭山丘陵の東端に位置し、東村山市と所沢市にまたがる山です。説明板の表現をそのまま引用させて頂くと『駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山』が見渡せたことが名の由来となっています。
新田軍は高低差を味方につけたわけですね。地理的優位を背景に、新田軍の反撃が始まりました。鎌倉幕府軍の激しい抵抗にあいましたが、最後は新田軍が攻めきり、ここでの勝負を決めました。
久米川の戦い
反幕府軍である新田軍の勝利です
これにより、反鎌倉幕府の機運はますます高まりました。次の戦いの場となる分倍河原(府中市)で、鎌倉幕府は実質滅亡しています。
<八国山登山道>
登ってみました
<低層の山中>
森の道を更に奥へ
<将軍塚>
新田義貞ゆかりの将軍塚です。元々ここにあった塚に義貞が旗を立てたことから、将軍塚と呼ばれるようになったといわれています。
鎌倉幕府を倒すことを目標に掲げた新田義貞にとって、久米川の戦いはまだまだ夢の途上での出来事です。最終的には幕府の本隊を滅ぼすことになりますが、この地で勝利を得た夜、どんな思いで次に備えていたのでしょうね。
<将軍塚の石碑>
つわものどもが夢の跡
■訪問:
久米川古戦場碑
[東京都東村山市諏訪町]
将軍塚
[埼玉県所沢市松が丘]
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■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2024/2/10
タグ:東京