前回は日本橋川沿いの一ツ橋門跡をご紹介させて頂きました。その数百メートル上流の橋で、こんな説明板を見つけました。
<雉子橋>きじばし
<説明板>
橋の説明かと思いきや見附?
一ツ橋門のすぐそばですが、どうやらこちらにも雉子橋門と呼ばれる城門があったようです。江戸城に近いだけあって、随分厳重に守りを固めていたのですね。城門が設けられたのは『1629年(寛永6年)』とありますから、江戸初期には既に城門があったわけですね。
名前のキジですが、これは『家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したこと』に由来するのこと。なるほど。キジがご馳走だったわけですね。当時の人が肉を食するイメージがなかったので意外ですが、鳥は比較的よく食べられていたようで、その中でもキジは上等な食材だったようです。そのキジで朝鮮の使節(朝鮮通信使)をもてなす。秀吉の朝鮮出兵を機に日本と朝鮮の関係は悪化していましたが、徳川家康が関係改善に力を注いでいた様子がうかがえる興味深い呼び名ですね。
江戸時代の雉子橋は、いまよりもうちょっと西側にあったそうです(ようするに日本橋川の流路がいまとは違うという意味です)。明治になると城門は撤去され、橋は鉄橋となりました。現在の橋は関東大震災後の大正14年(1925年)日に架けられたものとのこと。
一ツ橋門跡のように城門の石垣が残されている訳ではありませんが、説明板のお陰で足を止めることになり、いろんな想像をさせてもらいました。
<日本橋川の石垣>
見附そのものの痕跡はありませんが、この付近の日本橋川の護岸には、いまでも沢山の石垣が残されています。
■訪問:
雉子橋(雉子橋見附跡)
[東京都千代田区一ツ橋]
■参考資料:現地説明板
お城巡りランキング
----------(追 記)----------
実は雉子橋のすぐ近くでこんな光景と出会いました。
<街のなかの石垣>
枡形の石垣か?
かなり立派な石ばかりです。もしかしたら、雉子橋見附を取り壊した時の石を積み直したのかもしれません。本文に入れなかったのは、どうもそうらしいというだけで、はっきりしなかったからです(一応調べたのですが確証なく断念)。若干積み方に違和感もありましたが、迫力満点の石垣です。もし雉子橋見附のものなら、残してもらったことに感謝です。
2020年09月13日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10194321
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック