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2019年02月11日

豊島一族の館跡 豊島清光館

つわものどもが夢の跡
豊島氏発祥の地とされる東京都北区豊島。館跡と推定されているお寺に足を運びました。

<清光寺>
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隅田川沿いにある真言宗豊山派寺院。豊島清光の館跡と伝わります。清光が娘(息子という説もあり)の冥福を祈るために、館の一角に建立した時から清光寺の歴史が始まります。

<本堂>
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本堂には豊島清光の坐像があります。

<説明板>
shirononagori312 (4).JPG
木造豊島清光坐像は江戸時代になってから製作されたものとのこと

<豊島清光供養塔>
shirononagori312 (5).JPG

<手水舎>
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豊島氏は秩父氏の庶流。この地を開発し、豊島氏を名乗りました。代々源氏に従い、豊島氏四代目とされる清光は、源頼朝の関東平定に貢献したことで知られています。また、清光の息子である清重は、やがて陸奥で勢力を拡大する葛西氏の祖となりました。


<参道>
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<周辺>
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多少の高低差。清光寺はかつての館の一部に過ぎませんが、せっかく来たので、敷地の周辺も散策しました。


鎌倉幕府の有力御家人となった豊島氏の拠点は、長らく平塚城(現在の平塚神社付近:同じく北区)であったと考えられています。今回訪問の豊島から徒歩圏内です。清光亡き後、平塚城から近い清光の館が機能し続けたのか、あるいは寺だけが残ったのか、詳細は分かっていません。

<参考:平塚城跡>
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北区上中里にある平塚神社です。源義家・源義綱・源義光が祀られています。

豊島氏はやがて本拠を石神井城(現在の石神井公園:練馬区)へ移し、南武蔵において一定の勢力を保ち続けます。しかし泰経が当主の時に太田道灌に敗れ、実質滅ぼされてしまいました(1478年)。これにより、今回訪問の清光寺は一旦衰退します。

<説明板>
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説明文によれば、豊島泰経が太田道灌と戦った際、清光寺の僧も共に戦ったようですね。それ以前にも、山賊悪徒等による略奪で寺が荒廃した時期があったとのこと。豊島氏支配下でも、決して気の抜けない時代だったことが伝わってきます。

つわものどもが夢の跡
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戦国時代末期、名族豊島氏の子孫を称した豊島明重により、清光寺は再興しました。

-----■豊島清光館■-----
築城年:詳細不明(鎌倉時代)
築城者:豊島清光
城 主:豊島氏
廃 城:不明
現 状:清光寺
[東京都北区豊島] 7丁目


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----- 追記-----
豊島氏の平塚城跡については、以前投稿させてもらっています。良かったら覗いてみて下さい。
→『記事にすすむ
タグ:豊島一族
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2019年01月22日

中曽根城のなごり

つわものどもが夢の跡
千葉氏築城と伝わる足立区の城跡を訪ねました。

<中曽根城跡>
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■武蔵千葉氏の城跡■
中曽根城は千葉氏により築かれたと考えられています。

千葉氏といえば、関東八屋形の一つに数えられる名族です(他は宇都宮氏・小田氏・小山氏・佐竹氏・長沼氏・那須氏・結城氏)。しかし室町中期に内紛が起きてしまい分裂。下総の千葉氏と、武蔵へ逃れた千葉氏の双方が「宗家」を名乗る状態が続きました。武蔵国の千葉氏(武蔵千葉氏)は、赤塚城(板橋区)や石浜城(荒川区)を拠点としたことが分かっています。これらのことから、ここ中曽根城は武蔵千葉氏の支配下で、支城的な役割を担っていたのではないかと考えられます。

戦国末期になると、武蔵千葉氏は小田原北条氏の傘下に組み込まれていました(第5代当主が戦で討ち死にしたのち、北条氏からの婿養子が武蔵千葉氏の家督を継承しています)。豊臣秀吉による小田原征伐後、関東では多くの城が廃城となりますが、中曽根城の廃城もこの頃ではないかと考えられています。

中世で幕を引いた城
そういうことですね。

<中曽根神社>
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城跡は現在中曽根神社となっています。千葉氏が、崇敬する妙見社を勧請したことがこの神社の始まりとされています。昭和になって興野の雷神社を合祀し、中曽根神社となりました。境内はそんなに広いわけではありませんので、この付近一帯が城跡だったのでしょう。

<石碑>
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遺構はなく、かつてこの地に城があったことを石碑が伝えてくれています。

専門家の調査により、主郭の外側には複数の堀があったことが確認されています。今はもうその面影はなく、私のような人間がフラっと訪問して、堀の位置を見極めることはできません。暗渠とか地味な路地に、それらしい雰囲気を感じて勝手に満足する。そんな探索となりました。

<周辺散策>
shirononagori308 (1).JPG

shirononagori308 (2).JPG


■築城者の疑問■
石に刻まれた文字を確認すると『千葉次郎勝胤公によって築城された』とありました。一般的にも、この人物が中曽根城の築城者として紹介されています。ただ、千葉勝胤(かつたね)は下総の千葉氏です。そうすると、城がこの地に築かれる意味が随分と変わってきてしまいます。同姓同名で別の人なのか?真相はわかりません。

とりあえず私は「築城者は謎の人物」で「武蔵千葉氏の城」と受け止めることにしました。下総を追われた千葉実胤・自胤の兄弟から始まる武蔵千葉氏の城跡。そう記憶しておきます。

武蔵千葉氏の夢の跡
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-------■中曽根城■-------
別 名:千葉城 淵江城
築城年:室町時代
築城者:千葉氏(武蔵千葉氏)
城 主:千葉氏(武蔵千葉氏)
廃 城:不明(1590年以降)
[東京都足立区本木]


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2019年01月20日

石浜城のなごり 千葉実胤・自胤の夢の跡

つわものどもが夢の跡
隅田川沿いにある中世の城跡を訪ねました。

<石浜城址公園>
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かつて城があったとされる場所です。

■古い歴史■
築城時期は不明ながら、江戸氏一族の石浜氏がこの地に館を構えたことが始まりではないかと考えられています。場所は隅田川(=古利根川)の西側。武蔵国の東の隅であり、下総国が目と鼻の先ですので、存在する意義がなんとなく伝わってきます。
ウィキペディアさんによれば『文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。』[出典:Wikipedia]とあります。
あの足利尊氏ゆかりの地でもあるのですね。逃げ込んで形勢を変えられるのですから、それなりの拠点が当時からあったと考える方が自然ですね。

■千葉実胤の居城■さねたね
下総国を追われた千葉実胤に、太田道灌がここ石浜城を与えたという話があります。

追われる?かなり複雑な話なのですが、簡単に言えば名門・千葉氏の内紛により祖国を追われたということです。実胤の祖父は千葉氏15代当主。しかしその長男・次男は重臣の裏切りで亡くなりました。次男の子であった実胤は弟ととも武蔵国へ逃れ、扇谷上杉家の保護を受けることになりました。
つまり、実胤は千葉宗家の生き残りということですね。これに扇谷上杉家の家宰たる太田道灌が手を差し伸べた。大筋はそんな感じです。道灌には道灌の思惑あってのことと思われますが、実胤本人も下総奪回を目論んでいたはず。石浜城を与えられることは、願ったり叶ったりの条件だったのではないでしょうか。

<公園内>
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南千住三丁目公園

<現在位置>
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隅田川沿いです。

<説明板>
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ここより北側に石浜神社があり、中世においては千葉氏などの崇敬を集めたとのこと。また、この辺りは古くから交通の要衝の地だったと記されています。

<石浜神社の鳥居>
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公園の北の石浜神社です。荒川区内最古の神社です。

<石浜城に関する説明板>
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石浜神社付近の説明板です。城の場所については諸説あるものの、この神社付近が有力である旨が書かれています。

<東側の鳥居>
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鳥居の向こうにガスタンクが見えていますね。石浜神社はあちら側から現在の場所へ移されたそうです。ということは、あのタンクの付近も城跡だったと思って良いですね。

<手洗舎>
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<境内社>
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この画像で見えているのは左から稲荷神社・白狐祠・富士遙拝所。背後に溶岩を積み上げて築かれた富士塚が見えます。江戸時代、この付近は富士山が良く見える名所だったとのこと。

<拝殿>
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■弟の自胤■ よりたね
実胤の弟・自胤は、現在の板橋区に位置する赤塚城の城主となっています。兄・実胤が隠遁すると、今度は自胤が石浜城主となりました。つまり、石浜城は下総国を追われた兄弟の城ということですね。

<高台>
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到着と同時に、周辺より高台となっていることを意識して撮影しました。しかしこの見事な段差は、神社が西側から移転した時に造成されたものとのこと。それでも、石浜神社はむかし景勝地として知られていたようなので、やはり川沿いの低地と比べて高い位置にあったのでしょう。

■廃城時期■
扇谷上杉家の没落後、武蔵千葉氏は小田原北条氏配下となっていました。これにより、秀吉の小田原征伐後、石浜城は廃城となります。最後の城主は、北条一族の出で千葉氏の家督を継いだ直胤(なおたね)でした。


■千葉兄弟が夢の跡■
千葉実胤・自胤にとっては、自分達こそが千葉氏。しかし下総の千葉氏と区別する便宜上の理由から、武蔵千葉氏と呼ばれています。石浜城を拠点とし、下総を奪回することを目指したものの、千葉兄弟の夢が叶うことはありませんでした。

つわものどもが夢の跡
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------■ 石浜城 ■------
築城年:(詳細不明)
築城者:(詳細不明)
城 主: 千葉氏(武蔵千葉氏)
廃城年:1590年
[荒川区南千住]


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2019年01月19日

駅で味わえる江戸城外堀のなごり (虎ノ門駅)

今回は地下鉄の駅で気軽に江戸城の石垣に触れられる展示室のお話です。
<地下展示室から見る石垣>
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■江戸城外堀跡地下展示室■
<虎ノ門駅>
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地下鉄の出口はたくさんありますが、展示室は11番出口付近。エスカレーター手前の左側の壁に、こんな表示がしてありますのですぐに分かります。

<江戸城外堀跡 地下展示室>
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短い階段を上った半地下のような位置に、個室状の展示室があります。あまり人がいないので「ここ入っていいのかな」などと思う方もいるのでは?いいんです。是非立ち寄って下さい。もちろん無料です。展示室奥の正面には石垣が見えています。

<石垣の説明>
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説明パネルが充実しています。こちらは石垣の断面の説明です。

説明の冒頭だけご紹介します
『正面の石垣は虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。この石垣は寛永3年(1636)に築かれたものですが部分的に不揃いな積み方があることから数度改修されたと考えられています。』なるほどです。

<室内から見た石垣>
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更に説明文によれば、ここからの眺めは水堀の水面の高さからの眺めのようです。展示室を半地下に設けたのはこれが狙いだったのでしょうか。面白い設定です。

<矢穴と刻印の説明>
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説明文をまた抜粋すると『石垣表面には石を割った矢穴や大名を示す刻印が見られます。』とのこと。矢穴は石を割る時に彫る穴のこと。くさびを打ち込んで石を割って加工します。刻印の目的は、作業の過程で石の所有者を明らかにしておくためという説が有力ですが、あまりはっきりとはしていません。ただ結果として、刻印が工事を請け負った大名によって違うという楽しみ方ができますね。

<刻印の実物>
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あれですね。矢筈(やはず)の刻印

<他パネルいろいろ>
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ちょっと言い訳ですが、光の関係で携帯カメラだと上手く撮れませんでした。雰囲気だけでも

<江戸城外堀普請と虎ノ門>
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現在の虎の門交差点付近がいわゆる虎ノ門見附(虎御門)だったのですね。

<普請分担>
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展示室付近の石垣の工事は毛利高直(豊後国佐伯藩)ということですね。先ほどの『矢筈』の刻印も佐伯藩毛利家のものとされています。ただ、工事の分担の厳密な境がわからないので、その下の池田長常(備中松山藩)による工事が混じっていても私にはわかりません。

<江戸城外堀りと現代の東京>
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内側の堀が目立ちますがここは外堀です。外側の水色の線です。

<明治の写真>
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虎ノ門見附は「江戸城三十六見附」の一つ。赤坂見附や四谷見附などと同様、江戸城の重要な出入り口です。それらは見張り番が配置された門であることから、見附と呼ばれていました。右側が虎ノ門見附の写真です。構造は高麗門と 渡櫓門からなるいわゆる桝形だったようです。明治7年取り壊されました。そして堀も埋められました。


他に石垣の技術に関する説明もあり、なるほどと感心させられました。具体的には『高石垣を安定させるため上へ行くほど急勾配になるよう反りを入れた』といったことなど。そして心に染みたのは『こうした技術は経験則から培われた』ということですかね。


<石垣(外から撮影)>
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先ほどの石垣は、地下鉄の出口から地上に出たところからも見学できます。下のスペースの左手が展示室の設けられている場所ですね。そしてあの付近が水面ということです。納得しました。

ということで
地下鉄の駅で味わえる『江戸城外堀のなごり』でした。現地のパネルによる説明はとても丁寧です。私がご紹介したのはほんの一部。虎ノ門駅をご利用の際は、是非立ち寄ってご自身の目で確認してみて下さい。11番出口です。

<展示室入口付近の石>
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■訪問
銀座線:虎ノ門駅
『江戸城外堀跡地下展示室』
[千代田区霞が関]3丁目



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posted by Isuke at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2019年01月15日

袋の殿山 北区赤羽北の丘

今回は「城跡ではないか?」と思わせる丘の訪問です。遺構はありません。そういう雰囲気の場所に、ただの城好きが足を運んだという内容です。そんなのでも良かったお付き合い下さい。

<殿山の坂>
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地図で見つけた東京都北区の殿山の坂。殿山?その名は台地上の旧字(あざ)に由来します。地形と名前。それだけで今回の訪問を決めました。

殿山の坂は目印にした袋小学校のすぐ近く。この付近は現在の住所表示だと赤羽北になりますが、かつては「」と呼ばれていました(袋村)。池袋や沼袋がそうであるように、袋という文字は低湿地の地名でよく使われます。水に縁のある場所だったのでしょう。訪問した場所は、そんな低地に突き出た台地です。

<地形>
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地形好き・高低差好きにはたまらない地形です。ここは荒川南岸、武蔵野台地の端っこの崖です。コンクリで覆われても、地形は残ります。いいですね。

<台地上からの眺め>
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赤羽の低地を一望できます。高度に都市化されていますが、かつては湿地が広がっていました。

<丘の上の団地>
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坂を登った先は落ち着いた雰囲気の団地。都営赤羽北三丁目アパートです。私も団地で育ったので、何となく懐かしい感じがします。

<丘の上の公園付近>
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団地を通り過ぎると左手に公園。袋町公園です。団地に住んで公園で友達と遊ぶ。やっぱり懐かしい空間です。

<公園付近の階段>
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ここからも下へ降りられるようですね。でも、もうちょっと進んでみます。

<下り坂>
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また坂が現れました。台地の上もある程度味わったので、ここから降りますかね。

<念仏坂>
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下から撮影。坂の名の由来ははっきりしませんが、丘の上の墓地が関係しているのかも知れません。

<下から見た台地>
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城を築くのに適した条件が揃っています。念のためですが、石垣は城とは無関係です。先ほどの「念仏坂」を下りた地点から、再びもといた「殿山の坂」の方へ。方角でいうと北東へ向かっています。

<公園入口>
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先ほどの袋町公園へ繋がる階段です。

このあと「殿山の坂」を通り過ぎて、更に台地に沿ってすすみました。すると・・・

<台地の隅>
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台地の先端に立派な建物が見えました。右手の道がいま歩いてきた低地です。

<諏訪神社>
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袋諏訪神社です。

<社殿>
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旧袋村の鎮守。室町時代に、別当寺の真頂院の秀善和尚が信州の諏訪大社から勧請して創建したと伝えられています。

<諏訪神社周辺>
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殿山そのものが城を築くのに相応しい環境ですが、その中でもここが最適なのではないでしょうか。

<複雑な地形>
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境内から外を撮影。通りを挟んだ向こう側も高くなっています。

<台地に切り目>
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あの道は堀切の跡なのではないか?などと想像してしまいますが、なにぶんにも証拠がありません。

ということで
城跡だと言われれば信じてしまうような丘のご紹介でした。遺構もなく、専門の方が認める歴史的根拠もありません。ただ「殿山」と呼ばれたこの丘が、同じく北区で、太田道灌築城と伝わる稲付城跡に比較的近いことが興味深いですね。稲付城が街道上の主要地点であったのと同じく、この地も街道に目を配るための砦が築かれ、これにより「殿山」と呼ばれるようになった。そんな思い込みに酔いしれたのち、神前で手を合わせてから駅へ向かいました。

最寄駅はJR埼京線の北赤羽駅です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

■訪問
殿山の坂
[北区赤羽北]2丁目
諏訪神社
[北区赤羽北]3丁目


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2019年01月02日

静勝寺の太田道灌堂 (稲付城跡)

つわものどもが夢の跡
太田道灌が築城したと伝わる東京都北区の稲付城。現在は静勝寺となっています。今回はその境内にある太田道灌堂の話です。

<太田道灌堂>
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太田道灌の坐像が納められています。


■稲付城■いねつけじょう
<稲付城跡>
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この城跡については、当ブログでも何度かご紹介させて頂いております。赤羽駅から近いため、埼玉県民の私にとっては気軽に訪問しやすい城跡。山城です。

<説明板>
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道灌築城と伝わります。同じく道灌築城の江戸城、そして岩槻城の中継基地として機能したと考えられています。昭和62年の発掘調査で、寺の南側に空堀が確認されたと記されています。


■静勝寺■じょうしょうじ
かつての城の本丸部分は現在静勝寺となっています。

<山門>
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階段を登りきった所。東側の山門です(山門はもう一か所あります)。

<本堂>
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他に弁天堂や観音堂などなど。立派なお寺ですが、話を道灌堂に絞らせて頂きます。


■太田道灌堂■

<太田道灌堂>
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ここへは何度も来ています。しかし、扉が開いているのは初めて。道灌の命日にちなみ、毎月26日に扉開されるという話は聞いていたのですが、なかなかそういう日に訪問できず。今回は三が日ということで特別なようです。

<太田道灌の坐像>
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初めて見る道灌像。良く見ると、道灌は頭を丸めた上に仏具を手にしています。私が勝手に思っている武将・道灌とは、ちょっとイメージが違いますね。まぁそもそも、道灌は太田資長(すけなが)の法名。厳密に言えば出家したあとの呼び名です。これが「道灌」らしいのかもしれません。いずれにしても貴重な木造。お目にかかれて嬉しかったですね。

<説明板>
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一部だけ抜粋します。
『像は、道灌が没してから二百年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年 1月に北区の指定有形文化財に指定されました。』


■道灌ゆかりの静勝寺■
道灌の死後、孫の資高とその子である康資がこの地に館を築いていたと伝わります。廃城後、城跡に道灌を弔う堂が建立されて道灌寺となったことが、静勝寺のはじまりとされています。正式名は自得山(じとくざん)静勝寺。太田道灌とその父・道真(資清)の戒名によりそう改められました。

道真:自得院殿実慶道真庵主
道灌:香月院殿春苑静勝道灌大居士

『自得』は父、『静勝』は道灌です。

<静勝寺>
shirononagori296 (7).JPG
道灌寺という意味ですね

■訪問
自得山静勝寺
[東京都北区赤羽西]1-21-17


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-------追 記-------
本文はお正月の訪問でしたが、新緑がまぶしい5月に訪問できたので画像を貼っておきます。26日ということで、太田道灌堂の扉が開いているの日。道灌が没したのは文明18年7月26日(1486年8月25日)です。

石段と途中の稲荷社
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山門・参道・太田道灌堂
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本堂・辯天堂から六角堂へ
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以上です

-------追 記-------
追記の追記になりますが、桜の季節に訪問した画像も貼っておきます。

2021年4月の訪問です。
Joshoji-Akabane.JPG
Spring-2021-Otadokando.JPG
Joshoji.JPG
Joshoji-Spring.JPG
タグ:太田道灌
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2018年09月16日

和田堀 館跡の伝承がある杉並区の公園

つわものどもが夢の跡
中世武士の館があったと伝わる公園を訪ねました。東京の杉並区です。

<和田堀公園>
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自然豊かな公園です。地元のみなさんの憩いの場ですね。

杉並区というと、深い歴史が刻まれたエリアでありながら、いわゆる城跡とか館跡には縁がなさそうなイメージですね。今回も遺構の類は無いと知りつつ、「和田堀の内」というキーワードと語り継がれるお話を頼りに、念のため足を運んでみました。

<和田堀>
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この地には、鎌倉幕府の御家人だった和田義盛の館があったと伝わります。場所は善福寺川沿い。この川は台地との兼ね合いからあちらことらで蛇行しているので、どこに砦が築かれていても不思議ではありません。ここから北西に向かって1.5qくらい遡ったところ(杉並区成田西)の高台も、かつての城跡と考えられています(成宗城)。和田義盛は三浦半島を本拠にした御家人ですので、この地に館を築く必要性がちょっと分かりません。ただ、源頼朝に従ってあちらこちらの戦に参加していますので、本拠ではないものの、出先の拠点としたということなら分からなくもありません。

<善福寺川>
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荒川水系神田川支流の一級河川。今でこそコンクリで固められていますが、杉並区内の善福寺池に源を発する自然の川です。

この川沿いの高台が館の推定地。地形的な説得力は充分です。問題は、確たる証拠が見つからないことです。和田氏の館に関する石碑とか、説明板もありません。伝承されているものの、しかるべき方々のお墨付きはないということですかね。

<散策中>
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土塁のようにも映りますが、ちょっと違うようです。

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起伏はあるものの、遺構とは無縁のものばかり。


<大宮八幡宮>
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こちらは和田堀公園に隣接する大宮八幡宮です。充分すぎるほど高台になっており、川を堀に見立てて館を築くには最適の場所です。館はもともとはここにあったのでは?などと期待してしまいましたが、ちょっと違うようです。

<大宮遺跡の石碑>
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発掘調査がなされ、ここ一帯が遺跡だということが分っています。

<周溝墓>しゅうこうぼ
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都内で初めて方形周溝墓が発掘されたとのこと。読んで字の如く、埋葬する敷地の周囲に溝をめぐらした墓ということですね。

<三基>
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この図、城好きの人には本丸・二の丸・三の丸の連郭式縄張りのように映りますよね。でもそんな説明は一切ありません。方形の周溝墓が三基あった。そういうことです。

それにしても弥生時代末期ですか。そうとう古くから人の営みがあった場所ということですね。緑豊かな川沿いの高台。専門家ではありませんが、なんとなく納得です。

<鳥居>
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神社の歴史も古く、建立したのは源頼義。八幡太郎・義家の父といった方が伝わりやすいでしょうか。

<門>
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京都の岩清水八幡宮から分祀され創建されました。それが1063年ということなので、既に950年以上もたつわけですね。

<拝殿>
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立派です。武蔵国の三大宮の一つ。他は大宮区の氷川神社と秩父神社です。

城跡や館跡が神社になっている例はたくさんありますね。しかし、どうもここは違うようです。ということで、館跡に関する発見は何らございません。ただ、和田堀公園一帯の地形には納得。そして23区内とは思えない豊かな自然と、深い歴史の八幡宮を感じられただけで満足です。

<大宮八幡宮の竹林>
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風に揺らぐ竹を見上げる

まだ暑さが残る9月上旬の訪問でしたが、風と木陰のおかげで気持ちの良い散策となりました。

訪 問
和田堀公園大宮八幡宮
[東京都杉並区大宮]


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2018年07月01日

奥沢の城跡 湿地に咲く鷺草の悲話

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は世田谷区の奥沢城です。最寄り駅でいうと「自由が丘」のお隣の九品仏駅。凄い所にある城跡ですね。吉良氏の居城・世田谷城の支城です。そして、その名門家も巻き込んだ悲しい姫様の伝説が語り継がれる城跡です。

<城跡北側>
sn Okusawa Ankyo (1).JPG
右側は城が築かれた微高地。手前の道ですが、これは川。暗渠化された九品仏川です。奥沢城は水の豊富な低湿地に守られた城でした。


■奥沢の城■おくさわ
戦国時代、この付近は吉良氏が領していました。奥沢城は世田谷城主の吉良頼康が、支城として築いた城です。高級住宅地となった今ではとても想像できませんが、当時は湿地が多かったようです。奥沢城は、そんな低湿地に向かって突き出した舌状台地の上に築かれました。台地といっても劇的な高低差があるわけではなく、微高地といったところでしょうか。分類すると平城(ひらじろ)で良いかと思います。

やがて戦国末期になると、吉良氏は小田原北条氏の配下となっていました。配下といっても名門家故に、他とはちょっと違う待遇だったようですが、どの勢力下にあったかといえば、やはり北条氏ということになります。その北条氏が秀吉によって滅ぼされるのが1590年。この頃に奥沢城も廃城となったようです。

<石碑>
sn Okusawajo (15).JPG
石碑の背後も土塁となっています。

<土塁>
sn Okusawajo (10).JPG
方形の城を囲むように土塁が設けられました。その全てが残っているわけではありませんが、場所によっては良好な状態です。

■九品仏浄真寺■ くほんぶつじょうしんじ
奥沢城跡は現在寺院となっています。

<総門>
sn Okusawajo (20).JPG
[世田谷区奥沢]7- 41-3
廃城からそうとう後の話になります。1678年(延宝六年)、かつての城跡に珂碩(かせき)上人が九品山浄真寺を開山しました。境内の3つの阿弥陀堂それぞれに、3体の阿弥陀如来像が安置されています。つまり計9体ですね。九品仏の名の由来です。

<東門>
sn Okusawajo (5).JPG

<鐘楼>
sn Okusawajo (6).JPG

<仁王門>
sn Okusawajo (17).JPG
東京23区内とは思えない静けさ。そしてこの緑の多さ。とても贅沢な空間です。

寺院としての見どころはもっと沢山あります。城跡ブログなのでこのへんで。再び遺構と思われる画像を。

<境内と遺構>
sn Okusawajo (18).JPG
仁王門付近です。奥沢城の石碑があったところを横から撮影しました。だいぶ形は崩れていますが、鐘楼との間が土塁となっています。これは城全体を囲む土塁とは別ものなので、内部がいくつかの区画に分けられていたのかもしれませんね。

<北側の土塁>
sn Okusawajo (9).JPG
ここも土塁跡です。

<南側の土塁>
sn Okusawajo (13).JPG
奥の方が土塁なんですが、伝わりますでしょうか。
sn Okusawajo (14).jpg
加筆するとこんな感じになります。城跡と外を隔てる土塁です。ちょっと大げさに筆を入れてしまいました。位置の確認ということでお許し下さい。


■九品仏川と奥沢城■

---舌状台地の東側---
<九品仏川>
sn Okusawa Ankyo (5).JPG
これはお隣の自由が丘駅近くの九品仏川。まぁ普通はただの歩道としか思わないでしょうが、暗渠化された川です。川が行政区の境目になっているので、歩道の両サイドで区が異なります。目黒区と世田谷区の区境です。

<暗渠>
sn Okusawa Ankyo (6).JPG
高台と低地が混在するこのエリア。低地を流れ、かつて湿地帯を造り出していたのがこの九品仏川ということになります。

では上流に向かいますかね。
方角でいうと西です。行った先には、奥沢城が築かれた舌状台地があります。

<橋の跡>
sn Okusawa Ankyo (9).JPG
上流で橋の跡と出会いました。

<城向橋>しろむかいばし
sn Okusawa Ankyo (8).JPG
かつてここには「しろむかいばし」という名の橋があったのですね。ここは奥沢城の東側。城の向かいにある橋といった意味でしょうか。今では橋もなく、川の姿も見えません。向かいの城も失われました。それでも残る「城向橋」の文字。いいですね。そして上部には白鷺のマークが記されています。これはこの地に伝わる姫様の悲話を暗示しています。

---舌状台地の北側---
<低湿地のなごり>
sn Okusawa Ankyo (2).JPG
sn Okusawa Ankyo (4).JPG
更に上流へ進むとこんな感じになります。冒頭の画像と同様、城の北側に回り込んだ場所です。開発により湿地は姿を消しましたが、暗渠により川の流路は確認できます。

地図だと、この九品仏川は城が築かれた舌状台地の付近から始まっています。あるいは、この付近に水源があったのかもしれませんね。

---舌状台地の西側---
城の東側も低地、そして北側も低地でした。西側ですが、やはり低地です。これを実感すべく探索を続けました。

<坂道>
sn Okusawajo (3).JPG
暗渠のように水を感じられるものが見つけられなかったので、ごく単純に坂道を撮影しました。西側の低地へ続きます。その低地を更に西へと進み、再びゆるやかな台地へ登った先に、こんな石碑がありました。

<中丸跡>
sn Okusawajo (1).JPG
整然とした住宅地にポツンと・・・

住所だと等々力5丁目です。中丸とは?奥沢城の出丸でも設けられていたのでしょうか。興味津々でしたが、結論を言うと、はっきりしたことは分りませんでした。

<中丸跡付近より撮影>
sn Okusawajo (2).JPG
ただこの付近も高台となっていることは明らか。奥沢城と同じく、水の豊富な低地に面した微高地です。城の付属施設として砦などが設けられるのに相応しい場所かもしれません。推定の域を出ませんので、今回は「現地でそういうことを妄想した」というところで留めておきます。

城跡とその周辺はだいたいこんな感じです。最後に、この城にまつわる姫様の悲話をご紹介します。


■常盤姫の悲話■
『奥沢城主の大平出羽守には、常盤という美しい娘がいました。吉良氏に側室として迎えられますが、これが悲劇の始まり。他の側室たちに妬まれ、無実の罪を背負わされ、最後は自害に追い込まれます。その直前、常盤姫は父への文を白鷺の足に付け託していました。しかし雨に打たれた白鷺は、奥沢城の近くで力尽き、助けを求める思いは届きませんでした。
村人に発見された白鷺の亡きがらは丁寧に葬られ、やがてその場所には美しい花が咲きました。花はあたかも白鷺が舞い立つ姿にそっくりでした。常盤姫の悲しい運命を偲んで、この花は鷺草と名付けられました。』

常盤姫の悲話は、ざっとこんなお話です。もっと細かい説明がついているものや、背景や設定が若干違うお話もあります。つまりいくつか種類があります。ただ「姫様は吉良家で幸せに過ごしましたとさ、ちゃんちゃん」という類のお話は見当たりません。

<鷺草>
sn Okusawajo (7).JPG
本堂脇の一画で鷺草を見ることができます。かつては境内にもっと広いサギソウ園があったようですが、説明板もあるし、こうして残してもらえるだけ有難いです。

鷺草は湿地帯に繁殖するそうです。鷺草伝説が語り継がれるこの付近の、当時の風景が思い浮かびますね。

私の訪問は6月下旬。残念ながら、まだ鷺草は咲いていませんでした。咲き誇るのは8月頃とのことです。ちょっと暑い時期ですが、境内は緑豊かで木陰もありますので、開花に合わせて訪問してみては如何でしょうか。

以上です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

<九品仏浄真寺の手水舎>
sn Okusawajo (19).JPG
鷺草は世田谷区の花となっています。

-------■奥沢城■-------
築城年:不明
築城者:吉良頼康
城 主:大平氏(吉良氏家臣)
廃城年:1590年
現 状 :九品仏浄真寺
[東京都世田谷区奥沢]



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タグ:暗渠
posted by Isuke at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]
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