つわものどもが夢の跡
江戸時代を通して譜代大名の居城だった小田原城跡を訪ねました。
<小田原城天守>
小田原城と言えば、まず戦国大名・北条氏を思い浮かべますよね。しかし北条五代よりも長い江戸時代の歴史がこの城には刻まれています。
■近世城郭小田原城■
北条早雲の関東進出以降、小田原城は北条氏の関東支配のための拠点として機能し、戦国時代末期には日本で最大級の中世城郭にまで発展しました。しかし豊臣秀吉の北条征伐により小田原城は開城。以降は関東に入った徳川氏の支配下となりました。
最初に城を任されたのは、古くからの家臣で、徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世でした。小田原がいかに重要か伝わってきますね。その嫡男で、2代藩主となった忠隣の時代を含め、小田原城は新たな城郭として改修されました。それ以前の小田原城はいわゆる土の城です。本格的に石垣が用いられたのはこの時からです。
<小田原城址碑>
中世小田原城は、八幡山を含む広大な城でしたが、大久保氏時代に大幅に縮小されました。規模は三の丸の範囲内だったと伝わります。山の上より麓付近を中心に再整備したようです。ただ、諸事情で大久保忠隣は改易となり、築かれた石垣や城門は一旦破却されてしました。
その後、小田原城は幕府直轄で城主不在の時期、阿部氏の時代を経て、1632年には、将軍家光の乳母である春日局の実子・稲葉正勝が8万5千石で城主となります。その跡を継いだ正則により大規模な改修工事が施され、小田原城は近世城郭へと生まれ変わりました。
■大久保氏の城■
その後稲葉氏は越後高田に転封となり、大久保氏が再び城主となります。小田原城は関東防御の要衝であり、譜代大名である大久保氏が代々城主を務め、幕末まで重要な役割を担いました。多くの城がそうであるように、小田原城も明治になって廃城となります。最後の城主は第10代藩主の大久保忠良でした。
小田原城は一度解体されているため、以下にご紹介する城門などの施設は復元です。ただし、昔の手法で再建したり、かつての外観を極力真似て造り上げるなど工夫を凝らしたものばかりです。
<二の丸東堀>
二の丸東堀と隅櫓です。隅櫓の位置はむかしのままですが、実物はもっと大きかったようです
<馬出門と土橋>うまだしもん
堀を渡って二の丸へ進む前に、まずこの枡形門型式の馬出門と馬屋曲輪を通過する必要があります
<枡形の内部>
ここを通過すると馬屋曲輪
<馬屋曲輪>うまやくるわ
手前が馬屋曲輪です。奥の建物の向こう側が二の丸になります
<住吉橋と二の丸虎口>すみよしばし
また橋を渡る必要があります。途中までは土橋、門の手前はいわゆる橋。両方セットで住吉橋です。
<枡形門>ますがたもん
先ほどの橋を渡って門を通過すると、壁に囲まれた区画に出ます。ここもいわゆる枡形門の構造になっていて、奥には2つ目の門が待っています。威風堂々の渡櫓門は銅門(あかがねもん)と呼ばれています。
銅門を通過すれば二の丸です。少し省略して、本丸までのルートをご紹介します。
<本丸東堀>
本丸下の堀跡です。もともとは水堀でしたが今は空堀となっています
<常盤木門>ときわぎもん
斜面を登るとまた城門。ここが本丸虎口となります。本来は手前の石垣のところにも門があり、奥の渡櫓門とセットで枡形門になっていました。
そして
<復興天守>
市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守で、内部は歴史資料の展示施設となっています。小田原城には何度か天守が造られていますが、江戸時代中期に建てられ、明治まで存在していた最後の天守の外観を真似て復元されました。現在の城址公園のシンボルとなっています。
時代の流れのなかで、名城・小田原城の姿は一旦失われてしまいました。しかし、深くて長い歴史の刻まれた小田原城を後世に伝えるべく、調査や復元が繰り返されています。
日本100名城のひとつです
---------■ 小田原城 ■---------
築城者:大森頼春
築城年:1417年頃
改修者:北条早雲 大久保忠世
稲葉正勝 他
城 主:大森氏 北条氏
阿部氏 稲葉氏 大久保氏
現 況:小田原城址公園
[ 神奈川県小田原市城内 ]
■参考
・Wikipedia:2023/1/21
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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-----------( 追 記 )-----------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
2023年01月21日
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